4、平和の女神
その世界は、全てが光に満ち溢れていた。
もちろん輝くばかりではなく、陰影も存在する。とはいえそれは衣服のようなものだ。光を飾り、その輝きをより際立たせるための装いにすぎない。
そんな光溢れる世界を、歩いていくものがいる。
大理石のような石材で舗装された一本の白い道を歩くのは、一人の少女。人で言えば十代を半ばにするぐらい。ゆったりとした布を体に纏い、静かに進んでいく。
道の左右には何もなく、ただ空色だけが満ちている。天空を貫く遊歩道とでもいえばいいのか、少し離れた場所に緑に覆われた浮島が漂っている。
薄絹一枚で装い、装具といえば長い金髪を束ねる髪留めとサンダル程度で、いかにも質素だった。
とはいえ、それは存在の貧しさを示さない。
意思と緊張に溢れているが卵形のふっくらとした愛らしい顔、無駄な動きを極力抑えた歩みは、貴族然とした優雅さが組み合わさることで、完成された美を作り出していた。
やがて、行く手に黄金に輝く門が現れた。
その脇に生える緑の木に顔を向けると、彼女は名乗りを上げた。
「サリアーシェ・シュス・スーイーラの名に於いて、合議の間への道を開け」
『美しき"平和なる女神"よ。その御名、御声を承らんことに、我は大いなる寿ぎを以って応えん』
森の乙女の口上にわずかに眉間の皺を深めながら、サリアは開け放たれた扉の向こうへと進み出た。
『美しき御方、御名を寿ぎ言上奉ります。"新緑の美姫""調停者""平和なる女神"、サリアーシェ・シュス・スーイーラ、御奉臨!』
迎えの乙女の言葉に、合議の間は静まり返った。
サリアのいる場所は『御出座の階』と呼ばれる、四方に作られた階段の前で、目の前には下り階段とその果てに作られた広場が見えた。
景観のために植えられた木々や、見事な色羽を広げて飛び交う鳴鳥たち。そして芝生や東屋、石造りの座椅子でくつろぐ男女。
男女とはいっても、全てがサリアのような姿をしているわけではない。剛毛に覆われた偉丈夫や四足で寝そべる竜、全身が奇怪な金属で覆われ不気味な蒸気を吐き出すもの、あるいは不定形の肉塊のごとき存在もあった。とはいえ、人型がかなりの数を占めており、誰もがサリアを見つめている。
その全てが、サリアと同じ神だった。
「これはこれは美しき姫よ、ご機嫌麗しゅう」
ちょうど階段のすぐ側で談笑していた、長い耳を持つ青年が語りかけてくる。その身は美しい織物の長衣や見事な細工帯、細身の剣が飾り、甘い恋の調べを歌うための弦楽器が足に寄り添っている。
気さくそうな笑顔を浮かべたが、その表情には尊崇とは逆のものが浮かんでいた。
「あなたがこの場に現れるとは珍しい。この場は」
「『遊戯』のために開放されているというのだろう? 言われなくとも分っている」
「おお、これは失礼。ただ、長き間『神座』に籠もられておられるようでしたからな、世知を損なわれておられるかと愚考いたした次第で」
「ご配慮痛み入る。ではお返しに申し上げておこう」
サリアは、輝くような笑みを浮かべた。
「我は幾千を越える齢を重ねる者。その我に、高々数百生きた程度のエルフの成り上がりが垂れられる教示など、何一つないと知れ」
「……それは、失礼を」
侮蔑は青年の顔の上をわずかに撫ただけだった。肩を竦め、同族のものらしい女神に顔を向けてしまう。
ただ、歩みを進める背中に、小さなとげを投げつけることだけは忘れなかった。
「『廃神』風情が、大層な口を」
それでもサリアは顔を昂然と上げ、階段を進んだ。緩やかに作られた石段のそここに、下の間まで降りられない、位の低い神々が座っており、そっと囁きを交わした。
「……サリアーシュ様とはお珍しい」
「また非戦を奏上されるおつもりか……」
「愚かなことを……ここにいる誰一人、あのお方の言葉など聞きますまい」
階段を降り、柔らかな草原に敷かれた石畳を進む。本来、この広場は全ての神に開放されているが、位や力の強い神々が集まるために、自然とその顔ぶれも固まっていた。
「また来おったか、小娘が。あれの小言はうるさくてかなわん」
「面倒な。力づくでねじ伏せてしまおうか」
「やめておけ。一昔前ならいざ知らず、今のあ奴は廃神。相手にするも愚かしい」
有象無象の林を抜けると、中央に建てられた大きな東屋にたどり着く。
そこには、きらびやかな一団が、和やかに語らいあっている。
姿も性別も全く違うが、彼らは一様にある特徴を備えていた。
威圧感、見たものをひれ伏させずにはおかない気配。
物理的な圧倒力すら持つ自らの威光を隠しもしない彼らは、あらゆる次元における最高の力を持つ神々だった。
「おお! サリアではないか! 久しいな!」
華やかな一団の中から、一人の神がサリアに振り返る。短くそろえられた金髪はサリアに良く似ていたが、それ以外は正反対だった。
若々しい青年の姿で定められた肉体は、みずみずしさと快活さを放散し、見たものをひきつけずにはいられない整った顔には優しげな微笑が湛えられている。
バランスよく鍛えられた体を見せ付けるようにわずかな薄物だけを纏い、装飾具の代わりなのか、手甲や金細工の施された軍靴を身につけている。そこに施された意匠は、地上で見た勇者の鎧に酷似していた。
屈託のない笑顔を浮かべると、彼は立ち上がり、自分の座っていた場所を示した。
「さぁ、こちらへ! 遠慮はいらぬぞ、口さがない者はそなたを廃神などと言うが、我らの間にそのような」
「兄上」
歓待の気配を一言で打ち切ると、こちらの態度に顔を曇らせた兄に言い放つ。
「真に申し訳ありませぬが、私はここに歓談に来たのではないのです」
「……サリアーシェ。またその話か」
わずかに膝を折り、聞き分けのない妹のわがままをたしなめるように、言葉を継ぐ。
「そなたも知っていよう。『神々の遊戯』の意味を。神と魔の間に交わされた約定を」
「存じております」
「そして、この戦いはまた、我ら神々の優劣を決める重要な場でもある。魔が侵攻した世界に、勇者を遣わす。そして誰の勇者が先に魔を倒すかで、その世界を統べる神が決まるのだ」
「ええ。そうして神々もお互いに争わず、新たな世界と信者を得、自らの力を真に平和的に伸ばすことが出来るのですから」
サリアはきつく口を結び、こみ上げる怒りを堪えた。
同時に、先ほどまで言葉を交わしていた魔物を思い出し、胸に迫る痛みに耐える。
こんなこと、とても言えるはずがなかった。
魔を滅ぼし世界を平和に、などというのは単なる口実で、魔王すら神々の権力争いに使われていることなど。
「そなたは、このやり方に文句があるようだがな、これで全てうまくいっておるのだ。もし不満があるのであればサリアーシェ、そなたも遊戯に参加すればよいではないか」
その瞬間、会衆が湧いた。
笑ったのだ、小さき神も、大いなる神も、皆一様に。
「ゼーファレス殿! それはひどい!」
「そんなことをすればサリアーシュ様は消し飛んでしまいますぞ!」
「治める世界もなく、崇める民とてない方が、遊戯に参加などできようはずがない!」
「ああ。すまぬ、そのことを忘れていた」
自分の過失に苦い笑みを浮かべると、兄神ゼーファレスはそれを謝るように、そっとサリアに向けて手を差し伸べた。
「だが案ずるな。此度の遊戯はすでに参加できぬとはいえ、まだまだ分つべき世界は無数にある。次の遊戯では、我が幾らか力を貸し与え」
「ご安心ください、兄上」
サリアはやんわりと、だが決然と兄の手を振り払った。
「私は、此度の遊戯に参加いたします」
「……何を、言っておるのだ?」
「審判の女神よ、我の宣誓を受け給え」
こちらの宣言に驚きうろたえる周囲を尻目に、サリアは大神の中心にいた一人の女神を呼ばわった。
それは一種異様な存在だった。薄絹を纏った集団の中で、恐ろしく浮いて見える衣服――スーツと呼ばれる体にフィットした衣類――と、長大な一振りの杖を持っている。
ただ長く、武器ではない形状であるがゆえに『杖』としか呼べないものを。
巨大な砂時計を中心に、柱時計、置時計、デジタル時計、人間程度の知覚では理解できない、超次元を計るために作られた『溶けた時計』など。
あらゆる『時を計るもの』が、鈴なりになったものを、軽々と手にした女。
長い黒髪と細面、糸のように細い眼はまなじりが垂れていて、優しげに笑っている風に見えた。
「審判の女神イェスタ、ここに」
「宣言を受けてくれぬか、イェスタ」
「何を言っておるのだサリア!? すでに神々の参加は打ち切られている! 今更それをねじ込むなど、できるわけがない!」
「そうだ! そもそも今のサリアーシェ殿に、異界より勇者を呼ぶ力など、残ってはおられぬはず!」
兄神の絶叫に周囲の神々がざわめきだす。その何柱かは、今回の遊戯の参加をあきらめたものも含まれていた。
「万が一できたとて我らの保護を与えなければ、勇者とてひとたまりもあるまい!」
「崇めるものもなく治める世界もないのでは……とても……」
「世界一つを捧げて、ようやく魔法を使う力を勇者に与えられるのだぞ? 無一物の神にいったい何が……」
「皆様、お静まりを」
口を開いたイェスタは、優しげな笑顔で周囲を沈黙させた。全ての遊戯をつかさどる審判者の言葉は、何をおいても優先する。
「以前からサリアーシュ様より、如何にすれば遊戯に参加できるものかと、ご相談を頂いておりました。皆様の仰るとおり彼の女神はお力を失っております。それゆえ……差し出せるものは、御身を置いて他にないと申し上げた由」
「まさか……サリアーシェ!?」
「はい」
再び空間がどよめく。色を失った兄は、かぶりを振ると死にかけの小動物でも見るような目で妹を見た。
「なんと愚かな……それでは、今まで姿を見せなんだは、異世界の勇者を呼び遣わし、必死に声援でも送っていたと申すか」
確かに、自分の存在を担保にすれば、異世界の勇者を呼ぶことは出来た。だが、それ以上の助力、例えばその世界の一国に天啓を授けて協力者に仕立てることや、魔法や神具の類を与えることなど不可能だったろう。
『異世界の勇者』を呼ぶなど、サリアには最初から選ぶことのできない選択肢だった。
「いいえ。今まで参加の宣言を行わずにあったは、此度の遊戯に参加する『駒』を探すのに手間取りましただけのこと」
「な……ならば、そなたは一体何を、選んだというのだ」
「魔物です」
辺りは、しんと静まり返った。それから、サリアの発言を飲み込んだものから、うめき声のようなものが漏れていく。
「なんと、愚かな」
「そんなこと許されるのか?」
「馬鹿馬鹿しい、魔に力を貸すなど」
強烈な拒絶ではなく、選択の愚かさをそしる声が辺りを埋める。
不満が辺りに充満したのを見計らうように、審判の女神が言葉を繋いだ。
「お若い方々はご存じないかも知れませぬが、魔の者を自らの手ごまとし、勇者を亡き者にし、さらには魔王を討ち果たさせることで勝者となることも、許されております」
「確かに勇者を呼びつけるよりは掛ける力も少なくて済む。魔を以って魔を制す、例がなかったわけではないがな……だが、その方法はほとんど取られてこなかった」
「はい。魔のものを支配するにはそれなりの力が必要。ならばと従順かつ協力的な異世界の者を勇者と選ぶようになったわけで御座います」
審判の神の言葉に、年嵩の竜神が重々しく頷く。その声で神々は納得の気配を見せたものの、未だに不満げな表情を浮かべている。
「それで、サリアーシュ殿は、いかなる魔を配下におさめたのですかな」
いつの間にかやってきたエルフの問いかけに、ざわめきが引いていった。
当然の疑問、この力を失った女神はどんな魔物を配下としたのか。気が付けば、この間にいた全ての神が、取り囲むように集まってくる。
その光景に、サリアはかすかな不安を覚えていた。
自分の発言は、必ず波紋を巻き起こすだろう。そのことが自分の不参加に繋がるかもしえない。
だが、ここでどう取り繕おうといずれは分かる。イェスタもすでに承知していること。
後には、退けない。
「我ここに宣する、審判の女神よ、我が言霊を受け、そのものに権利と力を与えよ」
「では、そのものの名と、族名を」
「……そのものの名は、シェート」
一呼吸置き、女神サリアーシェは静かに告げた。
「コボルト族の若者、シェートを、我が配下とする!」
言葉は、広間に広がった。
大気を震わせたサリアの言葉が、天地開闢以前の眠れる世界を呼び寄せたかのような、重苦しい沈黙を作り上げていく。
「は」
死に絶えたかのような世界をやぶったのは、誰の吐息だったか。
「は、はは……」
それが、卵を割るようにしじまに亀裂を入れていく。
「は、ははは……」
「ふ……はっ、はははっ」
「はははは」
「ひっひひひひひっ!」
「ぐはっふあっふあっふあっ」
「は、はははははははっ」
「ぐぶっ、ぶぶふふふふっぶほほほほっ」
「はあっはひゃ、ひゃひゃひゃ」
笑いは、流行病のように伝わっていった。誰もが口を開き、牙をむき出し、あるいは本人しか分からない異形の喜色を浮かべて。
「コ、コボルトだとっ!? はははははっ、ははははは!」
「き、気でも狂われたか、ぐはははははは」」
「やるに事欠いて、よもや、そんなくふふふふふふふ」
「な、なにを言い出すのかと思えば、あははは、なんとこれは!」
「いくらなんでも、うおっほほほほほほ、座興が、過ぎるわ、あはははは」
誰もが笑い、あざけり、あるいは呆れる中で、サリアはただ黙って立ち尽くしていた。
「んっ、んんっ、いや、これは笑い事ではないぞ、サリアーシュよ」
などと言いつつ、いかつい口に笑みを浮かべたまま、竜神が問いかける。
「今からでも遅くはない、参加を取りやめるが良い。対価が必要なら、儂がいくらか工面してやらんでも」
「サリアーシェ!」
笑いを、怒気が引き裂いた。さざめいていた神々は一様に沈黙し、鬼面と化した兄神に戦くしかなかった。
「お前は、自分が何をしたのかわかっているのか!?」
「無論です」
「この……この…………痴れ者がぁっ!」
罵声と共に引き抜かれた細剣が、高々と差し上げられた。
「この私の顔に泥を塗りおって! こんな一堂が集う場所で! 落ちぶれた無様な姿をさらし、自らを貶めるような真似までっ、この愚妹めがっ!」
「剣をお納めください……いと貴き方、"美々しき軍神""審美の断剣"ゼーファレス様」
異形の法杖が二人の神を別つようにかざされ、怒りと共に細剣を封じた。
「これはきわめて、正当な契約でございます。サリアーシュ様は自らの存在を対価とし、かの地に住まうコボルトと盟を結ばれました。すでに力は与えられ、他の勇者とも争う資格を持っております」
「下らぬ! そんな詭弁が飲めるものか! ええい、忌々しい!」
騒ぎが収まったと見たのか、審判の女神が杖をのける。その向こうから現れたのは、侮蔑を含んだ兄神の冷たい視線だった。
「許しを請うても、もはや聞かぬぞ。せいぜいそなたの飼い犬が、我が勇者に当たらぬことを祈っておるのだな!」
荒々しい靴音を立て、兄神は階の向こうに消える。遠巻きにしていた神々も、気まずそうに広間から消えてゆく。東屋にいた神々はちらりとサリアを見たようだったが、何も言わずに語らいを続ける様子だった。
「これは私の意志で決めたことです。それでもお心遣い、感謝します」
案ずるような顔をしていた竜神も、こちらの言葉を受けて黙って退いていく。残された審判の女神は、変わらない笑みでサリアを見ていた。
「兄上への諫言、痛み入る」
「礼には及びません。私は裁定者、お申し出が正当であればこその判断に過ぎませぬ故」
形ばかりの礼を終えると、サリアも広間に背を向け階を昇った。
来た時と同じく、きつく口を結んだまま。