2、YOUTHFUL DAYS
朝霧が匂うと、それだけでシェートの体は目覚めた。
小屋の入り口から見える空からは、すでに闇色が剥ぎ取られつつある。フィーを起こさないよう足音を殺して外に出ると、体を伸ばし、深く息をした。
夜明けの森が放つ息吹は、それだけで一日の行動を左右する情報に溢れている。
湿り気から昼までは雨の心配が無いことを嗅ぎ取り、茂みや立ち木の匂いに、危険な動物が近寄った形跡の無いことを読み取る。
一日の仕事を始めようと、石と粘土で作った釜場に近づくと、茂みから白い狼が姿を現した。
「おはようグート」
「わふ……っ」
星狼のふさふさとした毛皮を撫でてやると、お返しに顔を舐め返してくれた。
「見張り、ありがとな。今日も頼む」
「くふんっ」
自分たちの居留地が、残飯や備蓄した食料を狙う小動物、熊の類に脅かされないのは、この頭の良い相棒が居るおかげだ。
狼の匂いの着いた場所に好んで入る動物は居ない。山に慣れないフィーに、一人で食料を集めさせられる理由も、グートの存在があればこそだった。
残った骨をごほうびに手渡すと、火壷に残しておいた炭火を使い、火を起こす。
『おはよう、シェート』
耳に届く声に、口元をほころばせ、シェートは鍋に香草を入れた。
「おはようサリア。そっち、どうだ」
『まあ、ぼちぼちといったところだ。留守にしてすまなかったな』
「いい。こっち、ずっと何も無い。人間、勇者、誰も来ない」
百人の勇者を屠ったエレファス山中に、シェートが住み始めてから一月が経っていた。
あの戦いの後、山の中には勇者はおろか人間や、魔物さえ入った形跡が無い。この場で起こったことが何であるか分からないうちは、誰もやってこないだろう、サリアはそう言っていた。
『天界でもその辺りは確認した。モラニアには、侵攻してくる"知見者"の軍を除き、一人の勇者も居ないそうだ』
どことなく皮肉な口調で語る女神の声に、シェートも鍋の様子を見ながら肩を竦める。
「やっぱり俺、勇者違うか」
『私もそう言ってやったら、言った本人が平謝りでな。宥めるのに苦労したよ』
百人の勇者と、モンスター使いの勇者を倒して以降、サリアの環境はめまぐるしく変わったらしい。それまでの距離を置く付き合い方から一転、外に出れば引きも切らず、神々が集まってくると聞かされていた。
サリアも思うところがあったのか、神々と交流を深めることに重点を置いている。フィーとの付き合いが深まる代わりに、サリアと喋る時間は減りつつあった。
『一応、そちらの様子は竜神殿を通して聞いているが、何か変わったことは無いか?』
「大丈夫だ。フィーとグート、よく働く。すごく助かる」
『……そうか。それは、良かったな』
朝の空気が華やかな香りに彩られ、女神が静かに喜んでいるのを感じる。その匂いを呼吸すると、シェートの気分も自然と安らいだ。
「今日、フィーに山のこと、少し仕込む。それと、準備、色々できた」
『ちょうど良かった。私もそのことで話がある。夜にでも話そう』
「また神様と話か?」
『いや、次は神格の固定化だ。竜神殿の所に入り浸る予定だから、何かあったらフィーを通して連絡をしてくれ』
サリア不在のもう一つの理由、それは新しい神格を『馴染ませる』ための時間だ。
神々の持っていた所領だけでなく、その神格が司っていた神性。海の神や風の神、あるいはさまざまな職能の神の権能を、いまやサリア一人が担っている状態だった。
通常なら時間を掛け、そうした神格を我が物とするそうだが、なるべく早めにそれらを吸収することにしたらしい。
「無理するな、体、壊すぞ」
『心配は要らぬ。神に壊すべき体はないからな。それに、そなたに比べればこのぐらいのこと、苦労のうちに入らぬよ』
「……わかった。ありがとう」
『ではな』
女神の気配が去ると、シェートは煮立ったお湯に野草や干し魚を放り入れ、かき混ぜていく。これに軽く塩で味付けしたものが今朝の食事だ。
「フィー、朝飯、出来たぞ。早く起きろ」
鍋を地面の炉に下ろしつつ声を掛ける。ドラゴンの翼がぴくりと動いたが、それでも起きてくる気配は無い。
「グート、フィー起してやれ」
「わふっ」
とことこと白い毛皮が小屋の中に入り、
「ひやあああああっ!」
「うふううっ」
「バカ、やめろおっ! いきなり舐めるな食いつくな! あっ! やーめーてーぇっ!」
尻尾を咥えられ、背中を擦りながら引っ張り出された仔竜が、涙目で訴える。
「こ、こんなサディスティックな起こし方があるかぁっ! 仔竜虐待だぁっ!」
「今日、朝早い言った。ちゃんと起きろ」
「分ったから! こいつに尻尾離すようにっ――ひぎゃふっ!」
青い体が宙を舞い、シェートの足元に投げ出される。ぞんざいに役目を終えると、白い狼はさっさと茂みに消えていった。
「あいつ、俺に恨みでもあんのか!?」
「狼、気難しい。ちゃんと礼儀、考えて付き合え」
「それはこっちのセリフだぁっ! お前からも言ってくれよ!」
「分った。もう少し、優しくするよう、言う」
とはいえ、グートもそれなりにフィーに気を使っているのは確かだ。
採取作業の時は必ず行く手の安全を確保しているし、さっきの扱いも、群れの長であるシェートに従わないのをとがめたに過ぎない。
狼流の荒っぽいやり方だが、仔竜に群れの作法を教えようとしたわけだ。
顔を引き締めると、グートに習って仔竜に戒めをかけることにした。
「でもお前、起きろ言ったら、ちゃんと起きろ」
「寝坊したのは悪かったけど……何も、あんな風に起さなくたって」
「狩、何起こるか分からない。寝過ごして死ぬ、そういうこと、ある」
「あ…………」
何か思うところがあったのか、仔竜は神妙に頷いた。
「……分ったよ。ガナリの言うことはちゃんと聞く、だよな」
「そうだ……さ、食え」
椀を手渡すと、仔竜は無心で食事を頬張り始めた。最初の頃はおっかなびっくり手を出していたものだが、最近はコボルト式の料理にも慣れてきたらしい。
「味、どうだ」
「まあまあ。もうちょっと塩っ気があるといいんだけど」
「すまん。塩貴重、簡単に使えない」
「分ってるよ……お代わり」
文句を言いながらも食べるフィーを見つつ、自分も食事を始める。
考えてみれば、こうして誰かに料理を振舞うのも久しぶりだ。一人の時は間に合わせの物で済ませるか、保存食が中心だった。
誰かと食卓を囲む、そんな当たり前のことを営むのは、いつ以来だったろうか。
「……なんだよ、その顔」
「顔? 俺、顔どうかしたか?」
「さっきから俺のこと見て、ニヤニヤしてるだろ」
そこで、ようやくシェートは気がついた。
自分の表情の変化に。
「俺、笑ってるか」
「……そうだよ。なんだ、思い出し笑いか?」
「なんでもない」
椀で口元を隠して、シェートは表情を緩ませたままにしておいた。
朝食が終わった後、シェートは仔竜をつれてエレファス山を登っていた。
「山、歩くとき一番大事なこと、なんだか分かるか?」
山頂付近に近づくにつれ、山肌は岩と砂だらけの急な勾配になっていく。フィーは杖にすがりつき、肩で息をしつつ首を振った。
「確かめる、それ一番大事だ」
「……た、確かめるって?」
「なんでも。太陽、天気、森の木、地面の様子、鳥の声、自分の体、そういうの、全部」
荒れ果てた大地のせいで、普段以上にフィーの歩く速度は遅くなっていた。
コボルトの足と違い、ドラゴンのそれは歩くのには向いていないから、こちらが思う以上に大変だろう。シェートは足を止め、小休止をかねつつ説明を始めた。
「こ、この辺りは、あんまり確かめられそうなもの、ないよな」
「そんなこと無い。辺りにある岩、ちゃんと見る。でないと死ぬぞ」
「ぶはっ!? な、何でいきなりそうなるんだよ!?」
口にした水を吐き出しながら驚く仔竜に、コボルトは周囲の荒れた斜面を指し示す。
「岩だらけ、乾いた土地、地面、もろい所ある。狩人に驚いたネズミ、蹴りだした石、時々大岩、動かす時ある」
「……じょ、冗談だろ?」
「本当。石降り、意外によくある。だから、岩場近づく、用事あるときだけ」
「わ、分った」
「自分、蹴り落とした石、山の岩、動かす時ある。下、仲間いるとき、気をつけろ」
それなりに息が戻ったらしい仔竜を促すと、そのまま斜面をゆっくりと歩き出す。
「じゃあ、なんで今日はこんなところに来たんだ?」
「山、危険ある、教えるため。あと、欲しいものあった」
「欲しいもの?」
辺りを見回し、岩場の影に目的の物を見つけると、シェートはそっと歩み寄った。
「これだ」
「この草、薬草か?」
「根っこ、乾かして使う。お湯、煎じて飲む、熱さまし」
「これだけのために、ここに来たのか?」
「まず、これ欲しかった。ほかにも一杯、探すものある」
丁寧に掘り取り、腰の袋に薬草を収める。不思議そうな顔で、仔竜は薬草を自分の道具に"収めた"。
「それ、すごい道具。"しゃしん"、本物そっくり、絵、取っておける」
「カメラか。確かにそうかもな」
フィーはふと笑みを浮かべ、小さな板切れを操作して、手渡してきた。
「それ、覗きながら、ふもとの方を見てみな」
「…………おお……?」
板に映し出されていたのは、山の麓にある林だ。視線をずらすと針葉樹の茂みが見え、そこの奥にある野営地が見えた。
「ここから小屋、すごく遠い! "しゃしん"、こんな見えるか!?」
「写真じゃなくてカメラな。竜のおっさんお話では、一眼レフレベルのズームと、五千万画素で記録が可能なんだとさ」
カメラの中の野営地は、普段自分が目にしているのと同じくらいか、それ以上の鮮明さで全てを映し出している。小屋の近くで眠るグートの腹の動きさえ見て取れた。
「これ、絵、取るだけ違う、地図見れる、話できる」
「っても、これで狩りが出来るわけじゃないしな。便利っちゃ便利だけど」
「ほんとすごい。これ、ドラゴンの宝か」
「……どうなんだろうなぁ……多分……違うと思うぜ」
なぜか虚ろに目をさ迷わせたフィーに板切れを返すと、岩だらけの斜面を進む。
「なー、今日はどこまで行くんだー」
「天辺まで登る。そしたら、帰り道、別のところ通る。それで今日、仕事おしまいだ」
「要するに薬草採りかよ……あんなに早く起きる意味あったのかぁ?」
ものすごく不満そうな仔竜に、コボルトは丁寧に答えを返した。
「山、天気すぐ変わる。夜、暗くて危ない。だから朝、光ある内仕事済ます。あと薬草、朝摘み、一番効き目ある奴多い」
「なるほど。全部早いうちに済ましておくのがいいのか……」
「だからフィー、ちゃんと起きろ。朝起きられない、夜、板いじってるから」
「……分ったよ」
ふくれ面をして、仔竜が歩き出す。その仕草に、シェートはふと、思っていたことを口にした。
「フィー」
「なんだ?」
「ドラゴン、みんな、お前みたいか?」
突然の話題に驚いたのか、フィーが顔をしかめる。
「俺みたいって……どういう意味だよ」
「ドラゴン、見る、初めて。話す、お前が最初。他のドラゴン、どんなだ?」
百人の勇者と戦ったあの時、この仔竜は空から落ちてきた。
竜神の紹介でなし崩し的に仲間になり、こうして一緒に生活しているが、フィーのことは知らないも同然だ。
「えっと……俺、他の仲間とか、ほとんど知らないんだ。でも、人それぞれっつーか、ドラゴンもそれぞれだと思うぜ」
「そうか……」
「……なんでそんなこと……聞くんだよ?」
あまり触れられたくないことなのか、仔竜が顔を曇らせる。その表情に少し後悔を覚えながら、シェートは言い足した。
「昔話のドラゴン、強い、大きい。賢い。お前、全然違う、だから」
「わ、わるかったなぁっ! 俺はまだ生まれたばっかだから、仕方ないだろっ!」
「生まれたばかり? それで、こっち来たか?」
「か……勘違いすんなよ! これでも十七だからな! ドラゴンの中じゃ、生まれたばっかりだってこと!」
「そうか、すまん」
すっかり機嫌を悪くした仔竜は、山道をどんどん先に行ってしまう。その仕草に思わず笑みがこぼれた。
神秘さの欠片もない、本当の子供。妙に大人びているかと思えば、意外なほど常識を知らない仔竜。
まるで、手のかかる――。
「あ…………」
「……なんだよ?」
「い、いや、足元見ろ。怒っても、ちゃんと、気つけろ」
「おう」
バカな想像だ。
歳も背格好も、種族すら違う。
こんなことにならなければ、存在すら知らなかったはずの相手。
それなのに。
「おい、天辺て、あそこじゃないか?」
気がつくと、目の前に丸みを帯びた頂上が見えていた。その向こうに輝く青空には、白く盛り上がった群雲が積みあがっている。
「そうだ。よく頑張った」
「ふあー、きつかったぁ」
ちょうどいい大岩に素早く腰掛けると、仔竜は皮袋をとおやつの包みを取り出した。
「ここ、すげーいい眺めだな」
「……ああ」
その隣に座り、シェートは周囲を見渡した。
この山を頂点とし、いくつも連なる山々は緑に包まれている。どこまでも続く命に溢れた世界。その谷間を川が流れ、自分達の住む居留地の脇を抜けていく。
流れの先に目を向ければ、はるか遠くに霞む岩だらけの荒野。そこを指差しながら、仔竜に話しかける。
「アノシュタット平原」
「そういう名前なのか……それが?」
「俺、あそこ歩いた。すごい岩だらけ。食べ物少ない、岩ネズミ、いっぱい食った」
ネズミという言葉に顔をしかめる仔竜に、コボルトは笑った。
「……絶対食べないからな」
「意外とうまいぞ?」
「だからやめろって! 俺をいじめて楽しんでるだろお前!」
軽く干した木苺を食みながら、山の風を感じる。傍らの仔竜は、板切れを使ってさまざまなものを"しゃしん"にしていた。
何事も無い、穏やかな日。
たゆたうような心地よさに、コボルトが吐息を吐き出した。
その時。
「……なぁ、シェート」
「どうした?」
「あれ、なんだ」
仔竜の青い指が指差す雲の片隅。
そこに、黒々とした影が差していた。
「なんか雲しちゃ……形…………が?」
「フィー、見るの初めてか」
自然と顔が険しくなる。腰に差した山刀に自然と手が伸び、身構える。
そして、雲を掻き分け、姿を現したもの。
「や……山!? いや、あれって、まさか……」
「そうだ」
二人が居る山頂のはるか彼方、雲すら縋りつくことがやっとの高みを、悠々と進んでいく巨大な城。
「魔王の、城だ」
大気の全てが怯えたように聲を上げる。あれほどの高さを飛びながら、まるで身近に感じられるような圧迫感。
「う……くっ……」
「どうした、フィー?」
唐突に、うめきながら仔竜が頭を抱えた。
その全身がおこりのように震え、苦しみの脂汗が流れていく。
「大丈夫か!?」
「あ……頭がっ……なんか、いてぇ……っ」
地面に落ちる影に、森の中の鳥達がざわめき騒ぎ、怯えたように逃げ散る。喧騒に同調するようにフィーが地面にうずくまり、うめき続ける。
「フィー! しっかりしろ!」
「あ……う……あ……たま……が……」
やがて、黒々とした城は飛び去り、辺りに静寂が戻っていく。同時に、仔竜がよろめきつつ顔を上げた。
「っくぅ……いったかったぁ……」
「どうした!? 何あった!?」
「いや、なんか、耳……いや、角鳴りっつうか、角が、はじけそうなぐらいに、パンパンになった感じがして……」
本人の言葉とは裏腹に、フィーの黒い角に異常は見えない。それでも、シェートはその頭にそっと手を置いた。
「帰ろう。魔王の城、良くない力、出してる言われてた」
「それに当てられたってことか?」
「早く帰ろう。お前、体心配」
「あー、いや、大丈夫だって。もうなんとも」
「ダメだ!」
思いもよらない強さで、叫んでいた。
その両肩を掴み、声を絞り出す。
「夜、サリア話できる。その時、ちゃんと話す。お前、体壊す、絶対ダメだ!」
「え、ちょ、シェート……」
「口答えするな! 今すぐ、山降りるぞ!」
「い……いてぇって! 肩がっ!」
悲鳴を上げて身をよじるフィーに、ようやくシェートは自分の行為に気がついた。
「ご……ごめん! 痛かったな…………ごめん」
「お……大げさなんだよ、なんともないってんのに」
「うん。分った。だから……帰ろう」
青い手を引いて歩き出しながら、シェートは実感していた。
驚くほど、この仔竜に思い入れている自分を。
『それはおそらく、精霊の聲に酔ったのだろう』
夜半、夕食を整えている頃に、サリアはふたたび神座からこちらに話掛けてきた。
「精霊に……酔う?」
『竜族は角で周囲の音を聞き、さらには幽冥の聲を聴く。魔王の城が持つ魔力によって大気が引き裂かれ、かき乱された精霊達の聲に感応したのだ』
「それ、体、平気か?」
こちらの狼狽に、サリアは深い豊かな笑いで答えた。
『幼い竜の感応力は強く、ちょっとした聲にも影響されるが、問題はないだろう。あまり調子が悪いようなら、静かな場所で安静にするといい』
「いやぁ、アレはやばかった。目の前くらくらしたよ……」
そんなことを言いつつ、フィーはけろっとした顔で食い物を口にしていた。
「これ、結構うまいな、団子なんて食えるとは思わなかったよ」
手にした白い団子を嬉しそうに食べる仔竜。
今日の料理は魚の山菜汁に鳥の丸焼き、百合根の団子。一応、フィーの体調も悪くなさそうだったので、予定通りのものを出していた。
「それにしても、今日はやけに美味いものばっかりでてくるなぁ。何かお祝いか?」
「フィー、仕事、良く頑張った。だから、ごほうび」
「……お……おう。あ、ありがとうな」
「それと、そろそろ俺達、ここ出る。日持ちしない食い物、始末する」
呆然とした顔でこちらを見る仔竜に、コボルトは苦く笑った。
「準備、大分出来た。出発、もうすぐ」
「そう……か」
『もうよいのか?』
サリアの声に、シェートは少し考え、頷く。
「武器、防具、できる限り作った。身の回りのもの、取り戻した。それに、フィー、山のこと、結構覚えた」
「そ……そんなにはっきり覚えてるわけじゃ……ないんだけど、いいのか?」
「手伝いしてくれる、すごくありがたい。フィー、ほんと、ありがとな」
あまり礼を言われなれていないのか、仔竜は聞こえないふりで料理をむさぼっている。
『ならば、発つ方がいいだろうな。知見者の軍も、本格的に侵攻を開始するようだ』
「勇者、次は軍か」
『ああ。おそらく、前回の百人の勇者など、比べ物にならぬだろう』
サリアの言葉にも、不思議と絶望感は湧かなかった。
というより絶望し疲れた、とでも言えばいいのだろうか。何をどうやっても、不利で勝つ見込みのない戦いを強いられているなら、絶望など時間の無駄だ。
「それで、どうやって、勝つ?」
『ふっ。そうだな……やはり暗殺が早かろう』
「おぅい?」
がっついていた椀から顔を上げ、仔竜が渋い顔をする。
「いきなり暗殺って、どんだけだよ」
『仕方あるまい。今回は本当に孤立無援の戦いを強いられるのだ。そんな我らにできることといえば、敵将を一撃で倒すことのみだ』
「勇者、きっと軍隊、一番奥いる。どうやってたどり着く?」
『妥当なのは、この地に居る魔将と事を構えている時の混乱に乗じて、であろうな。最良のタイミングは、勇者が魔将を倒した瞬間か』
「うわぁ……汚ねぇ」
フィーはつくづくとため息をつき、鳥ももと団子を平らげる。満足したらしい彼は、呆れたように空を見上げた。
「漁夫の利狙って勇者を暗殺とか、女神の提案することか?」
『魔物を使う邪神と呼ばれ、百余名の神の所領をことごとく奪い、汎世界の疫神の銘を継いだ私だぞ? 今更汚名が増えたところで、どうということもない』
「開き直っちゃったよこの女神……天界、もうダメかもわからんね」
二人が笑いあい、その様子を見ていたシェートは、表情を真面目なものに変えた。
「サリア、フィーとグート、加護掛けたか?」
『ああ。そちらの手配は済んだ。そうだ、フィーよ、そなたの"アプリ"で確認してみるといい』
「あいよ。って、あれ? アプデのお知らせが来てる」
仔竜がなにやら板切れをいじると、軽快な音色が鳴り響いた。
「『ステータスチェッカー』のバージョンアップか……敵を撮影することで、ステータスを抜けるようになったのか……って"ロンサイ"と連動かよぉ……」
そんなことを言いつつ、フィーは自分の手に赤い光を宿してみせる。
「おお、これが破術かぁ。なんか不思議な感じだ……」
『グートとフィーに防御と破術の加護を追加しておいた。さすがに自動回復までには手が回らなかったが、いずれ何とかしよう』
「これ、グートのはどっちも常時発動なんだな。俺のも任意エンチャントできるのは破術だけか」
『今のそなたでは戦うことは無理だろうしな。フィーは参謀役に徹してもらうほうがいいだろう』
「……そうだな」
どこか不満そうに言うフィーに笑いかけると、シェートは鍋をどけて焚き火の火を掻き分けた。
「何してんだ?」
「今日、風呂あるぞ。入って寝る、すごく疲れ取れる」
「この辺りに温泉なんてあったっけ?」
素焼きの壷に焼けた石を放り込み、歩き出す。
「今から作る。ついてこい」
川岸の側、水を引き込んだ水溜りに焼き石を放り込むと、湯気が立ち上っていく。
「おおー。こういう風呂かぁ、ってなんか変な匂いがしないか?」
「色々薬草入れた。疲れ取れる、虫除け、打ち身、中気、いろいろ効く」
水底に沈んでいる薬草の束が、お湯に反応して香気を振りまく。風呂の周囲をうろうろしていたグートが、嫌そうに顔をしかめてくしゃみをした。
「中気って?」
『大抵は脳卒中のことを差す俗語だ。とはいえ、若いお前達には関係なかろうな』
「できたぞ。入れ」
ためらいなくお湯に浸かったフィーは、その暖かさに顔を緩め、深々と息をつく。
「っはー……しみるぅ……」
「ん? フィー、傷あるか?」
「そうじゃなくって、お湯が気持ちいいっつったの」
仔竜の不思議な物言いに口元を緩めると、シェートも服を脱ぎ、湯に身を沈める。
「うん。しみるな」
「その言い方じゃ、ホントに傷が痛いみたいに聞こえるぞ?」
「そうか? 別に今、痛いところないぞ。あるの、古傷だけだ」
ゆっくりとお湯を掬い、顔を洗う。温みと香草の匂いが鼻の奥に染み込んで、体のこわばりが溶けていく。
水浴びなどは適当にしていたが、こうして全身を洗うのも久しぶりだ。
「風呂、気持ちいい。フィー、よく浸かれ」
「なぁ……」
「どうした? 変な顔して」
気がつくと、フィーはこちらを凝視していた。その視線の先にあるものを、目を落として確認する。
「気になるの、石か? それとも、傷か?」
「……どっちも」
指先で胸を辿る。
刻まれた傷、再生の力をもってしても元には戻らず、むき出しの醜い痕が残った。
全ての始まりの証。
「これ、俺、勇者、付けられた。それで、一度死んだ」
「……死んだ、のか?」
『正確には、死に掛けたところを救い上げたのだ。その頃は私には加護と呼べるだけの力もなかったのでな。己の存在のほとんどを掛けて、ようやっとだ』
そして、組紐で止まった青い輝石をそっとつまみ上げる。
「形見だ。俺の、好きだった子。やるつもりだった石」
「……形見…………」
「いつか、全部終わったら、供え行く」
短い告白に、仔竜は湯に顔を俯けていた。
「どうした? フィー」
「お……おれ……その……」
「大丈夫だ。俺、気にしてないから」
それでも顔を上げない仔竜の肩をそっと叩く。
「っ!?」
弾かれたように顔を上げたフィーは、どこか怯えたような、すまなさそうな顔でこちらを見つめた。
「……ちょっと待ってろ」
風呂のすぐ側に置いてあった素焼きの瓶と、木のコップを引き寄せ、中身を注ぐ。
「これ、飲むか?」
「……なんだよ、これ」
「酒だ」
甘い木苺の香りのするそれを、自分の分も注いで口に含む。
「うん。ちゃんと出来てる」
「……これ飲んで……忘れろ、っていうのか」
「この傷、昔の奴、もう終わったこと。お前、気にすること、ない」
コップを握り締めたまま、仔竜は奇妙に静かな顔で尋ねてきた。
「お前……それでいいのか?」
「……なにがだ?」
「憎く、ないのか? お前を殺した、勇者の、こと」
フィーの問いかけに、心の中で小さな疼きが走る。
自分の運命を変えたあの勇者のことが、奇妙に遠く感じられた。
「……多分、そういうの、もうない」
「どうして?」
「あいつ……俺が殺した。もう、居ない」
それが事実だ。
自らの手で喉を裂き切った勇者は、光と共に消えた。
「俺……あいつ見て、百人の勇者見て、思った。勇者たち、みんな、子供」
「……子供?」
「あいつら、面白いゲーム、遊び来た子供。あいつら、コボルト殺す、魔物殺す、全部遊びだ」
心の内を明かしながら、シェートは気付く。
思えば、彼を殺した時にはもう、わだかまりは消えていたのだろう。
訳も分からず、ただ楽しむことしか考えない子供の暴虐に、怒りや憎しみを掛けることの虚しさを知って。
「あいつら、コボルト、敵、駒、経験値、そうとしか見ない。憎んでも、同じ、見られない。心ある、思わない」
対等な存在と見たなら、復讐に怯え、あるいは悔悟することもしたかもしれない。
しかし、勇者の見せたのは、理不尽に対する戸惑いでしかなかった。
「そんな相手、どうやって、憎んだらいい?」
「あ…………」
シェートは淡く笑い、言葉を失った仔竜の肩をさする。
「あいつら、俺、経験値、そう見る。なら……憎まない」
「……憎まない?」
「そうだ。俺、勇者、狩る。それだけ」
殺すのではなく、狩る。
それが多分、自分にできる唯一のこと。
「俺、この戦い、勝つ。そして、コボルト、殺されない森、創る」
恨みを晴らすためではなく、悲しみを無くすために。
「だから、俺、なんでもする。卑怯、言われてもいい、全ての勇者、魔王、狩る」
その誓いを飲み干すように、酒を呷る。
いつしか、フィーはこちらを見上げていた。その瞳の中に、うかがい知れない感情を宿して。
「どうした?」
「お前……強いんだな」
「そんなことない、俺、弱い魔物。サリアの加護、無かったら、死んでた」
「違うよ……お前は…………」
それ以上何も言わずに、仔竜はコップの中身を口に含んだ。
「うまいか?」
「…………うん」
「そうか」
弱めに発酵させた木苺の酒は、追加した蜂蜜のおかげで甘めに仕上がっている。
飲みすぎて、足腰が立たなくなることもないだろう。
仔竜のコップに新たに継ぎ足すと、自分の分を満たす。
「飲め、それで、ゆっくり休め」
「……うん」
『では、私はそろそろ行くとしよう。竜種は酒に弱いと聞く、あまり飲ませて酔い潰すなよ?』
あえて口を挟んでこなかった女神に、軽くコップを挙げて無言の感謝を示すと、コボルトは静かに中身を干していく。
しんと更け行く夜の中、傍らの仔竜を気遣いながら。
夜の闇の中、フィーはうずくまったまま、傍らで寝息を立てる存在を見ていた。
シェートの吐露を思い出し、胸が痛む。
『あいつら、コボルト、敵、駒、経験値、そうとしか見ない。憎んでも、同じ、見られない。心ある、思わない』
結局、自分は何も知らなかったのだ。この世界のことも、勇者という立場のことも、その都合で殺されていくもののことも。
『形見だ。俺の、好きだった子。やるつもりだった石』
胸が痛む。
あの時、自分がしたのはなんだったのか。
これはゲームなんだと、世界を救うために必要な行為だと、無邪気に信じて疑わず、尽くした暴力の数々を、思い出す。
そして、この生活で見た、本当の彼の姿。
『一杯採れたな。大変だったろ』
籠一杯の木の実を受け取り微笑む顔。
『でもお前、起きろ言ったら、ちゃんと起きろ』
厳しく山のことを教える指導者の顔。
『口答えするな! 今すぐ、山降りるぞ!』
こちらを気づかい声を荒げる顔。
いくつもの欠片が一つになって現れたのは、自分のコボルトに対するイメージとは遠くかけ離れた実像。
そんなものがあるなど想像もしなかった、生活と思い。
「俺は……」
今まで見ないようにしていた物が、くっきりと浮かび上がっていく。
『俺、この戦い、勝つ。そして、コボルト、殺されない森、創る』
そして、苦しみの果てに見出した、願いを誓う顔。
愛するものを理不尽に殺され、行き場をなくした怒りと憎しみを抱えたシェートが、導き出した結論。
「勇者を……狩る、か」
憎しみを放棄し、目的のためだけに、勇者を狩るということ。
その決心を語る顔に、迷いは無かった。
燃え盛る砦の中で、渾身の力を振り絞った抵抗を思い出す。
自分の一撃を全力で避け、炎の中に消えていった背中。その後に出合ったシェートは、まるで別人だった。
「俺は……何をしたんだよ……」
湧き上がってくる悔悟の痛みに、胸が痛くなる。
その思いから逃れるように、寝床から起き上がり、外に歩き出そうとした。
「どうした、フィー」
「っ!?」
背中越しに掛かる、少し眠そうな、それでもはっきりとした声。
「な、なんでも、ない。ちょっと、目が覚めて」
「……酒、なれない、そうなる。飲ませすぎた、すまん」
「あ……うん」
「気持ち悪い、頭痛い、そういうの、ないか」
その声はどうしようもなく優しく、深い。
「だ、大丈夫だって! ぜんぜん平気だから!」
「そうか……それなら、早く、寝ろ……」
再び眠ってしまったらしいコボルトをそのままに、表に出た。
針葉樹の林は、思ったよりも明るかった。枝の間を通して降り注ぐ月明かりが、世界をほの明るく浮かび上がらせている。
仔竜は空を見上げた。
分ったことがたくさんある、分からないことも、同じぐらい浮かび上がってくる。
自分が何をしたのか。
自分は何をすればいいのか。
ふと、指がスマホに触れ、力なく垂れ下がる。
きっと、問いかけても、竜神はこう言うだけだろう。
"為したい事をなせばいい"と。
「それが分からない時は、どうすればいいんだよ……」
声は誰にも届かず、地に転げ落ちていく。
月明かりにその身を晒しながら、フィーは湧き上がる感情に、ただ立ち尽くしていた。