1、BRAND NEW DAYS
あったかいなぁ。
まどろみから覚めたフィアクゥルの意識に、最初に上ったのが、その言葉だった。
カーペット代わりに敷き詰められた山菜は使い込むごとになじんで、今ではちょっとした毛布と比べても良いぐらいに肌触りがいい。
こうして尻尾に顎を乗っけて、翼の下に顔を突っ込んでいると、体全体が程よく温められ、布団に潜り込んでいるような錯覚を覚える。
ドラゴンといえば、たけり狂う猛獣のイメージがあるが、反面、日がな一日洞窟で眠っているという側面もあったはず。
「そりゃ、こんだけ……気持ち、よければなぁ……」
うとうとと、眠りの忘我に還っていこうとする意識。
その心地よさを、呼び声が破った。
「フィー、そろそろ起きろ、飯だぞ」
「ん…………あと、五分……」
「もう二回、五分待った。起きろ、でないと水、掛ける」
割と本気の声音に、フィーは観念した。
体を起こすと、薄暗い掛け小屋からのろのろと這い出す。背の高い木が生い茂る林は意外と明るかった。
ようやく山の端から差した光が世界を輝かせ、青い肌を持つドラゴンの子供を、空と同じ色合いに変えていく。
「ふぁあああ……おはよう」
「早くない。もう、大分朝、過ぎた」
声の主は木漏れ日の差す林の中、アッシュグレーの毛皮を朝の風になびかせた犬型の獣人は、こちらを見て苦笑いしていた。
「俺、朝の仕事やったぞ、お前、起きる遅すぎ」
「お前が早すぎるんだって……あふぅううあ」
「ドラゴン、寝ぼすけなの知ってる。でも、もう少し、早く起きろ」
「分ってんなら、もう少し寝かせろよ。狩人時間なんて……とても付き合えないって」
言葉の終わりに盛大なあくびを漏らすと、コボルトの狩人、シェートは軽い笑い声を上げた。
「腹減ったろ、飯あるぞ」
「んー。ありがとな」
石囲いの焚き火の前には、串打たれた焼き魚と緑の葉に乗せた木苺、そして楕円形の白っぽい植物が置かれている。
「なにこれ?」
「にが菜。今朝、生えてるところ見つけた。この辺り、いろいろあっていい」
シェートの解説を聞きつつ、首から下がったスマートフォンを摘み上げた。
カメラ機能を起動させ、にが菜を大写しで撮影すると、映し出された映像を指で押さえつつ、声を上げる。
「えっと、『名前、にが菜、山菜』……味は…………」
にが菜の名の通り、口に入れるとほろ苦いそれは、火に通してあったせいか、ホクホクとして滋味のある汁を染み渡らせてきた。
「『苦い。歯ざわりはいいけど』」
『登録されました。龍サイクロペディアにて確認可能です』
画面に表示されたメッセージに、フィーの指がメニューから『龍』と書かれたアイコンをタップする。
「また、それやってるか?」
かまどの面倒を見終わったらしいシェートがこちらにやってくる。手にした木の皮の束から、もうもうと湯気が立っていた。
「めんどくさいけど、こうしないと実績開放できないから……お、これは普通に全データ見られるみたいだな」
画面に映し出されたのは、さっき撮影したにが菜の映像と、この植物についての細かな紹介文。
「にが菜、汎世界において繁茂する山野草の一種。薬用、食用であり、サラダなどに使われる……根っこは代用コーヒーにもなるのか、へぇ~」
「こひ?」
「あー、うん、そういう飲み物があるんだよ、苦いやつ」
「そうか」
分ったような分からないような顔で、コボルトは小屋の近くに立てた物干し台に木の皮を掛けていく。
「それ、後何回やるんだ?」
「今日で終わり。これ、明日乾く、フィー、その時頼むぞ」
「それはいいけど、あの作業ってどんな意味があるんだ?」
「材料作りだ。糸撚る、服作る材料」
自然とカメラが木の皮に向けられ、撮影され、登録される。
そして分ったのは、木の皮は服の素材として珍しいものではなく、草や動物の毛の代用品として、使うところもあるということだった。
「フィー、早く飯食え。お前にも仕事ある」
「うん」
とりあえずスマホから意識を戻すと、川魚を手にコボルトに尋ねた。
「ところで、今日の仕事って?」
「色々ある。保存食、材料取り。山葡萄、木苺、かご一杯。魚、キノコ、草の根、なんでも欲しい。燻製する薪、そういうの、全部あつめる。あと、薬草摘み。虫除け、毒消し、元気出る薬湯、そういうの。あと、矢羽集め。毛皮、もう少し欲しい。それから……」
ちょっとどころではない作業量に、フィーは骨だけになった魚に弱音を吐いた。
「……それ、今日中にやるのか?」
「まさか。みんな、手分けして、何日もかける。フィー、グートと一緒、山入る。かご一杯、木の実集めてくれ」
その呼びかけに答えるように、白い狼の体がシェートの背後に立つ。
「おはようグート、お前も仕事、手伝ってくれ」
「んふぅっ」
短く吼え、星狼がその広い背をコボルトに晒す。胴の両脇に、つる草で編み上げた袋を括りつけると、シェートはその頭を撫でた。
「いい子だ。フィーのこと頼むぞ」
「……ううっ」
不満そうに唸る狼は、それでもこちらを催促するように鼻面を押し付けた。
「分ったよ。じゃあ、行ってくる」
「これ、水とおやつ。途中で食え」
草で編まれた袋を受け取り、首から下げる。背中に回ったシェートが具合を確かめ、体に合うように調整してくれた。
「昼なったら、戻れ。飯作っとく」
「分った」
「それじゃ、気をつけてな」
シェートは肩から小さな袋を背負い、弓矢を手に森に歩き出していく。
「さて、俺らも行……って、まてって! 置いてくなよ!」
こっちのことなどお構い無しに先に立って走り出す狼。その勝手さに呆れながらも、青い仔竜はその後を追った。
キャンプ地から歩き出してすぐに、植生は広葉樹中心の雑木林へと変わった。
朝を大分過ぎた今の時刻でも、大地に直接日は差さず、木漏れ日だけが世界をぼんやりと照らし出すばかりだ。
「おーい、クソイヌー、どこいったー」
棒で地面を叩きながら、フィーは気の無い声で姿の見えない狼を呼ばわった。
行きがけに拾った棒きれは、言われた通り、先端が二股に分かれた形に折ってある。
『林、この時期入る、時々、毒蛇いる』
『マジかよ! そんなもん、会ったらどうするんだ?』
『適当な棒、拾って地面叩いて歩け。蛇、音嫌って逃げる。あと先っぽ二股にして、出くわしたら、首押さえろ』
教えられたとおりに行動しているせいか、未だにこの棒をもう一つの用途で使ったことは無い。もちろん、出来れば一生使わないに越したことは無いが。
時々、棒の音に驚いた小鳥が藪から飛び去り、地面にこぼれた木の実を探す小さな獣が木の上へ駆け上っていく。
最初はその一つ一つに驚いていたが、今ではのんびりとその姿を眺められるようになっていた。梢の上で、こちらを興味深そうに銀色の鳥が見つめている。シャッターを切ろうとすると、小さな鳴き声を上げて飛び去っていった。
「ほんと……のどかだよなぁ」
ふと、喉の渇きを覚えたフィーは、適当な根方に腰を下ろし、袋から皮袋と葉包みを取り出した。
『疲れた思ったらすぐ休め。あと、喉渇いたら、すぐ水飲む。でも、一度にたくさん、ダメ。ちょっとずつ、口湿らす』
葉包みの中には干しブドウと、名も知らない木の実の干したものが入っている。一粒ずつつまんで味を確かめ、水を舐めるように飲む。
野外活動のスペシャリストは、活動する時に必要な知識をそのつど授けてくれた。
最初は二人一緒に行動していたが、ある程度の知識を授けたと判断したのか、キャンプ地周辺のなだらかな林であれば、自由に動き回っても良いと言われている。
考えてみれば、こうした野外活動の知識を教えてもらうのは、生まれて初めてだ。
日本ではもちろんのこと、勇者として活動していた時も、基本的に野外活動は避ける形で旅程を組んでいた。野宿をする時も仲間が率先して仕事をしてくれたから、身に着けようという考えさえ起こらなかった。
「さて……と」
短い休憩を終えると、棒を手に立ち上がる。
『腰落ち着けすぎる、よくない。気持ち切れる、怪我の元』
狩人の言葉を思い出し、再びフィーは歩き出した。
「おーい、グートー、どこだー」
一応、呼びかけてはいるが、あの狼がどこにいるかは察しが付いている。こうして声を上げるのも、蛇以外の動物を避けるために出すよう言われているからだ。
やがて、行く手に低木樹と草原でできた空き地が見えてきた。鳥や小動物達が餌場にした結果、さまざまな実の生る木が集まった、天然の果樹園。
すっぱくて硬いスグリや、青く染まる前のブルーベリー、破れやすく収穫に向かないグミを横目に木苺のある茂みに行くと、狼は退屈そうな顔でその前に寝そべっていた。
「お前なぁ、一緒に行けって頼まれたんだろ?」
グートは片耳をぴくりと動かしただけで、こちらに見向きもしない。
「ったく、かごに入れるから、じっとしてろよ」
自分よりも背の高い枝に手を伸ばし木苺を摘んでいく。
ドラゴンの爪は以外に器用なもので、小さな粒でも茎の部分をねじ切り、壊れやすい木の実を楽々と収穫できた。
「そういや、この体もすっかりなじんだなぁ」
他人事のように呟いたことに、思わず苦笑いがこぼれる。
以前、自分は異世界の勇者としてこの世界に来ていた。魔物を、それを率いる魔王を倒すために。
しかし、自分は敗北し、一度はありきたりの日常に戻ったはずだった。
それが今やドラゴンの姿となり、緑の森の中で木の実採りをしている。
「ほんと、どうしてこうなった、って感じだよ」
朝起きてから眠りに就くまで、食料集めや雑用品作りに駆りだされる日々。山の幸を中心にした質素な食事、粗末な掛け小屋での寝泊り。
勇者という身分で、上にも置かない歓待を受けていたときとは全く逆の事態だ。
とはいえ、ドラゴンの体は頑丈に出来ているらしく、未だに病気らしいものをした覚えが無い。せいぜい、あまりに早い時間に起きて仕事を始めるコボルトに、安眠を妨害されて寝不足気味になる程度だ。
「……こんなもんか。そろそろ次に……ってはえーよ! 先行くなってんだろ!?」
出会いが最悪だったせいか、自分に対するグートの態度は、万事こんな調子だ。
一応、シェートの指示に従う気はあるらしいが、こっちの言うことなどお構いなしで勝手に動き回る。
「しょーがねーなぁ」
スマホを手に取ると、示されたアイコンの一つをタップする。
画面に周囲の地図が表示され、白い狼のアイコンが自分を示す青いドラゴンのアイコンから遠ざかっていった。
「次は山葡萄のところかよ……ったくもー」
一応、仕事を手伝う気はある狼に愚痴をこぼし、スマホを片手にのんびり歩き出す。
その途端、画面に"通話着信"の表示が割り込んだ。
「はい、もしもし」
『うむ。今日も繋がったな。どうだ、生きておるか』
電話口の声は、いかにも楽しそうな声で語りかけてくる。
自分をここに送り出した張本人、いや張本竜からの直接通話。
「死んだら電話なんて出らんねーだろ。ってか仕事は大丈夫なのか?」
『大丈夫だ、問題ない』
「この前、小竜たちから文句のメールが来たぞ。俺の方にかまけて仕事してないって」
『そういえば、儂の作ったアプリの調子はどうだ?』
流れるように話題のすり替えをする相手――天界では最高神の一つ柱らしい竜神――に思わずため息が漏れる。
「ああ、役に立ってるよ。今は、勝手に先行く狼の追跡に使ってる」
『龍サイクロペディアの方も、大分使い込んでいるようだな。関心関心』
「あのさぁ、いろいろサポートしてくれんのはありがたいんだけど、いちいちゲーム風味にするのはどうなんだよ?」
こちらにやってきてから、フィーのスマホにはさまざまな機能が、アップデートという形で送りつけられていた。
自分の見聞や体験を元に、さまざまな事柄を百科事典化して検索できる『龍サイクロペディア』。
スマホに内蔵された観測機器により、自分の位置を正確に測定、歩いた範囲を自動測量して地図化する『ただたかくん』。
登録した仲間のステータスを確認できる『ステータスチェッカー』。
そのどれもが竜神のお手製であり、そこはかとなくゲーム的な機能を持っていた。
『しかたあるまい。地図一つにしたところで、完璧な情報を送るのでは審判殿のチェックに引っかかる。しかし、そなたが自らマッピングするのであれば、ノーコストで機能追加が出来るというわけだ』
「……助かってるのは事実だけどさ、こんなもん作ってるから怒られるんだぞ?」
『せっかく身に着けたプログラムの技能、生かさぬ手はあるまい。洋ゲーのMOD制作に費やすより、はるかに有意義であろうが』
「どっちにしたって道楽みたいなもんだろうが!」
オタク趣味丸出しの竜神は、こちらの突っ込みに喉を鳴らして笑った。
『そういえば、そろそろ新しいアプリが出来るから楽しみに待って……あ……いや、これは……フィーの様子をだな……送り出した手前、儂にも責任というものが……そ、それはいかんっ! そんなことをしたら今までの苦労が……わ、儂が悪かったっ! 悪かったからっ、それだけはやめてええ!』
唐突に途切れる通話。
画面に表示された通話時間は、十分を越えている。こちらからの通話は三分で終わりだが、向こうからの連絡はこの調子で無制限に伸びることもしばしばだ。
しょっぱい笑みを浮かべて、フィーはため息をついた。
「ホント、どうしようもねーな、あのオッサンは」
収穫物で一杯になったかごと共に戻ると、シェートは金床に向かって鏃を削っていた。
「おかえり、昼飯あるぞ」
「ああ」
石組みのかまどの近くに葉で包まれた塊が一つ。中を開くと、山芋と山鳥の蒸し焼きが入っていた。グートの背籠を取り除けながら、収穫を確認するコボルトを見つつ、まだ暖かいもも肉にかぶりつく。
塩味は薄いが、脂の乗った山鳥は舌と歯に心地良い。夢中で食べるこちらを見て、シェートは笑った。
「一杯採れたな。大変だったろ」
「……案内が良かったからな。そんなでもなかったよ」
こちらの嫌味を気にすることもなく、身軽になった狼が再び姿を消す。釜場の近くに荷物をまとめると、シェートは再び金床の作業に没頭し始めた。
両足が青い輝きを宿し、支えている金床に防御の力を与えると、手にした金属片をあてがい、やすっていく。
その金床も鏃も、どちらもただの金属ではない。魔法に感応しその性質を自在に変えるといわれるミスリル銀だ。
「ホント器用だよなぁ。足でエンチャントとか」
「触れたもの、強く出来る。なら、足もできる、そう思った」
こともなげに言い放つ狩人は、削り終えた物を確かめ、別の金属片に手を伸ばす。
シェートが残骸となったミスリルゴーレムから、鏃を削りだすようになったのは、この山に野営地を作ってすぐのことだ。
『これ、壊れた奴、何か使えないか?』
『使うって、何に?』
『削る、形整える、鏃にする』
『調べてみないと分からんけど、お前、金属加工なんてできるのか?』
『できるぞ』
『……え?』
ミスリルは『銀』と呼ばれているが、実際には銀とは異なる物質だ。魔力による鍛造によって性質が変化し、その結果、銀のような光沢を持つためそう呼ばれる。
ゴーレムには性質の違う二種類のミスリル――柔軟性を持ち、稼動部と魔力回路形成用に使用される軟銀と、装甲や武器に使われる硬銀――が使われていた。
一度、魔力による呪鍛を受けたミスリルは、その力を除去しない限り、別の用途を持つものに変成することは出来ない。
こうした知識を、龍サイクロペディアやサリアが懇意にした神から仕入れ、シェートはゴーレムの装甲である、硬銀の部分を削り出すという作業を始めた。
最初はかなり苦労していたものの、エンチャントによって金床の硬度を高める方法を編み出した結果、軽くて丈夫なミスリル製鏃を作り出せるようになっていた。
「すまん、フィー。飯食ったら、砧頼む」
「え? ああ、うん」
作業に見とれていたこちらに声を掛けると、シェートは出来上がった鏃をまとめ、袋に詰めた。
「鏃って、そうやって作るんだな」
「いろいろだ。石の奴、砕いて作る。鉄の奴、剣とか壊して削りだしする。本当時々、溶かして地金作る、こともある」
話を聞きつつ、寝泊りしている掛け小屋の奥から、丸太で作った台と乾燥した木の皮、パンをこねる時に使う麺棒のようなものを引っ張り出す。
ずっしりと重いそれを手に取ると、フィーは台に数枚の木の皮を乗せて、叩き始めた。
木の皮を叩いて繊維にするこの作業が、最近の日課になっていた。
「なぁ、思ってたんだけどさ」
「なんだ?」
木の皮は砧を打ちつけるごとに細かな繊維へとほぐれていく。それを一塊の綿のようにしてくしゃくしゃに丸めると、脇にのけて新しい皮を叩いた。
「これってどういう意味があるんだ?」
「砧、使うことか?」
「普通に細く裂いた皮を、糸にするんじゃダメなのか?」
かまどに鍋代わりの兜をすえつけつつ、シェートは考えながら答えを口にした。
「木の皮、そのまま裂いて使う。切れやすい。鈍して煮る、その後、乾かして叩く。ほぐれて細かくなったの、撚る。切れにくい、良い糸できる」
「鈍す?」
「温泉の湯、なければ灰入れた水、漬ける、ほぐして糸、しやすくなる」
「へぇ……」
新しい繊維の塊が出来上がったところで、再び新しい皮を叩く。その間にシェートは、汚れたボロクズの塊のようなものを取りだし、割り始めた。
「なんだそれ?」
「蜂の巣」
めりめりと音を立てて割られたそれには、六角形の小部屋がいくつも見え、ぽろぽろと白い塊が飛び出してきた。
「うぇっ!」
「どうした? 蜂の子珍しいか?」
「いや、その……」
話には聞いていたが、その蛆虫のようなフォルムに、ちょっと腰が引ける。
コボルトの方は気にする様子もなく、器用に巣の中から白い幼虫や、成虫になりかけのさなぎをほじくりかえしていった。
「フィー、ちょっとこっち持て」
広げた麻布に巣を包むと、両端に棒に結わえ、片方をこちらに渡してくる。
「ねじるから、そのまましっかり持ってろ」
「わかった……って、おおっ、ちょっ、強いってっ!」
思う以上に強い力が布をひねり上げ、巣の入った膨らみから、とろりとした蜜が置かれた兜へと滴り始めた。
「おおー、蜂蜜ってこうやって取るのかぁ」
「たまった蜜、あらかた出した。今絞ってるの、残りだ。巣、もう少し大きい時、輪切りして、分ける。ちょっとづつ絞る」
小さな兜にたまった蜜はくすんだ琥珀色で、巣の欠片やゴミなどが浮いている。
「なんか、微妙に汚いなぁ」
「あと何度か漉す。ちゃんときれいする、半年くらい食べられる」
「これって、今舐めても甘いのか?」
シェートは口元を緩めると、細枝の先に蜜を着けて差し出した。
「なめてみろ」
絞りたての蜂蜜、とても衛生的とはいえないそれに、フィーは恐る恐る口をつけた。
「……甘っ! 甘いぞこれっ!」
「ははは、そうか。甘いか」
「うわぁ……天然の蜂蜜とか、初めて食ったよ!」
口の中に感じる濃厚な蜜は、久しぶりに感じた甘味。こっちの喜びようにシェートは笑い、燃えているかまどから灰を掻き出し、こちらに差し出した。
「ほら、これも食うか?」
「いきなり何……ってほわああああっ!」
灰の中にぽつぽつと見えるそれは、さっきまで地面でうねっていた蜂の幼虫達。
「熱い灰に入れて蒸す、とろとろで美味いぞ」
「や、やめろおおっ! 俺がそういうのダメだって知ってんだろ!」
「だらしない。ドラゴン、何でも食う、違うか?」
「そういうもんだけどっ、虫だけは勘弁してくれええええっ!」
悲鳴を上げてあとずさるこちらに、おかしそうにシェートが笑う。
手にした蜂の子をあっという間に平らげると、布から巣の残骸を取り出し、かまどに掛けた兜の中へ放り入れた。
「今度は何してるんだ?」
「巣から蜜蝋取る。後で蝋、獣の脂肪、松脂、一緒に煮る。良い弓弦、作るのに使う」
煮られた巣から甘い香が立つのを確認すると、シェートは火の番をしながら、山刀で木の棒のようなものを削り始めた。
こっちの視線に気がついたのか、手にした円筒形の棒を削りながらシェートが尋ねる。
「……これ、何かわかるか?」
「矢……にしちゃ太すぎるな。鍋をかき混ぜるのに使うとか?」
「はずれだ」
「組み立てて棚でも作るとか」
「それも違う」
一本目を削り終えたシェートは、同じような棒を削り、口元に面白がるような笑みを浮かべている。
「……ダメだ。分からん。降参」
「機だ」
「はた……って?」
「布織る道具。今、フィー叩いてる、撚って糸、作る。出来たら、これ使って織る」
「そんな棒切れで……布が?」
「面白いぞ、あとで教えてやる」
木を削り終えると、コボルトは煮ていた蝋をザルで漉してゴミを取り、火に掛けた。
「蝋、何度か、水足して煮る。ゴミとって、煮て、繰り返す。最後、きれいな蝋できる」
「蝋作るのって、手間掛かるんだなぁ。ろうそくが貴重品なわけだよ」
「人間、ろうそく作る時、獣脂使う。蜜蝋、すごく上物、聞いた」
「お前……ホント、何でも知ってるんだな」
こちらの言葉に照れくさそうな笑いを浮かべると、火から兜を下ろし、代わりに別の兜を置いた。
「知ってるの、教えられたことだけ。お前下げてるそれ、俺より何でも知ってる」
「これだって、俺が見たり体験したことじゃないと調べられないし、検索も手間だしな。そもそも、俺が知ってるわけじゃないから」
「でも、色々役立つ。便利」
気がつくと、かまどに掛けた兜からさっきとは別の匂いが漂っていた。香草と鳥の骨が煮える美味そうな香り。そこに、茶色い岩塩の塊を削り入れながら、シェートは背中越しに指示を飛ばした。
「そろそろ日、暮れる。仕事終わりだ。綿、濡れないよう、小屋入れてくれ」
気がつくと、日差しが翳り始めていた。あと一時間もすれば太陽は山向こうへ沈み、夜がやってくるだろう。
「今日の晩飯は?」
「昼の残り。鳥と山菜の鍋」
「おー、結構豪勢だな」
こちらの喜ぶ声に、コボルトはまた笑った。
その笑顔に険はなく、どこまでも穏やかに凪いでいて。
「どうした?」
「い……いや……なんでも、ない」
その視線から逃れるように、そそくさと小屋に入ったフィーに声が掛かる。
「そうだ。フィー、明日、早起きしろ」
「なんでだよ?」
「山のこと、新しいこと、教える。寝坊するな」
厳しく、それでいて優しく響くコボルトの声。
振り返り、鍋を前に料理をする背中を見る。
思えばあいつは、ずっと笑っていた。
こちらに対しての気遣いもあるのだろう。それでも、その笑顔に屈託はなかった。
自分を殺す時に見せた激情など、一度も見せたことが無い。
「だから……こんなに馴染んじまったのかな……」
面倒見が良くて、気のいい生き物に。
「フィー! 飯出来たぞ!」
「……今行くよ!」
物思いを荷物と一緒に置くと、フィーは小屋の外に出て行った。