17、森の中で
「やめろ! やめてくれええええっ!」
神の遊ぶ庭に、悲嘆が響き渡っていた。
すでに四阿は地に降り、黒き裁定者が静かに笑う。
その目の前で、イヴーカスの威容が急速に萎えしぼんでいく。
「行くな! 行くんじゃない! 私の信仰! 私のもの! 私の、私のおおおお!」
玉座が消え、王冠が消え、法衣が消え、みすぼらしいネズミの姿に還って行く。
「サ、サリアーシェ様! 我らには盟があったはずです! お互いの勝利に貢献し、助け合うという盟が!」
すっかり以前の姿に戻ったイヴーカスは、その瞳にただ憐憫を引きたいという感情だけをのぼせて叫んでいた。
「イヴーカス殿……」
「せめて、せめて私の所領だけでも! 奪わずにお返しください! どうか、どうか!」
そっと胸を押さえ、サリアは無駄と知りつつ、黒き女神に顔を向ける。
「……イェスタ」
「なりませぬ」
笑顔、まったき笑顔がそこにはあった。
「この際はっきりと申し上げましょう。この遊戯において、敗者の戯言など、裁定者として一切聞くことはありませぬ」
よく通る声が、イヴーカスだけでなく、この場ですべてを見ていた神々の心に、深く深く突き刺さっていく。
「敗者に情けを掛ければ裁定が緩み、勝負が湿りましょう。そのような茶番は誰も望みませぬ故」
神々が、姿を消していく。
大簒奪を行い、専横し、一瞬にして破産していった、愚かな神の姿に満足して。
「敗者は自らの定めを受け、粛々と消え行けば宜しい。それが私の裁定で御座います」
「この……この売女! ただ見ることしか出来ぬ傍観者め! 永遠に呪われろ!」
イヴーカスの足元が固まっていく、その感覚を愕然と感じ取り、サリアに顔を向ける。
「私とて廃神同然の身でありながら、それでも地をはいずりながらやってきた! そして貴方は奇跡を勝ち得て大神に成り上がった! 私もそれを望んで何が悪い! 貴方と私のどこが違うというんだ!」
「……全く、実に見るに耐えぬ茶番であります事」
本当に視線を外し、時の女神は侮言を吐いた。
「志、振る舞い、全てが違っておるではありませぬか。何より、この期に及んで自らの敗北を勝者に誰何し、自らの正当性を求める、ねじくれた卑俗な心根」
「やめよ、イェスタ」
サリアは彼の前に腰を下ろし、強い感情を込めて、彼女を叱責した。
「このお方を愚弄することは断じて許さん。たとえ、遊戯の裁定者であってもだ」
「サ、サリアーシェ……様?」
ネズミは呆然と顔を上げて、サリアを見た。
「私が勝てたのは、貴方が本当の言葉を知らなかったからです。いいえ、お忘れになっていたから、でしょう」
「本当の、言葉?」
「"狡猾は武の技に勝る力なり"、それが貴方の信条でしたな」
「そうですとも……だから、私は……」
「その後、こう続くのではありませんか? "ゆえに無道に謀ること無かれ"、と」
イヴーカスは、穴の開くほどこちらを見つめ、その瞳から一筋の流れを生み出した。
「あ」
「今はもう居られない、古き神の言葉です。遊戯の始まりし頃、その御方も消えられたと聞く」
「あ、ああ……」
「"黄金の蔵守"、その銘は、その御方から頂いた物なのでしょう?」
「うあ……あ、あああ、ああああああああああああああああああああ!」
滂沱の涙滴が両目から溢れ、イヴーカスが泣く。
頭を抱え、溜め込んでいた全てを吐き出すように。
「ああああああああああああああああああああああ!」
体が固まり、腕が固まり、声をしぼり出す喉さえ固まって。
大神に成る事を夢見た、小さな疫神は、そうして慟哭の相を成したまま、物言わぬ石像と成り果てていった。
茶番を見終えると、赤髪の大神は卓上のネズミ像を、塵も残さず消し去る。
代わりに、犬の像を手の中に納め、仔細に観察した後、それをモラニア大陸の中央部に置いた。
「久しぶりに大神が生まれ、我らが集いに参入しようとするものが現れた、ということですな」
「の、ようだな」
「それにしても、この仔、かわいいね~」
"闘神"は犬の像を興味深そうに見つめ、"愛乱の君"は指でその耳を辿ってご満悦の顔をしている。
「しかし、最後にあのコボルトが見せた動き……」
"英傑神"は犬の顔を見つめ、何かを思案するように黙り、首を降った。
「どうかされましたか、シアルカ殿」
「いえ。もし私が彼の主であれば、などと、他愛のないことを考えたのですよ」
「……穏やかではないな。アレは魔性の者だぞ」
「でも、シー君好きそうだもんね、ああいう仔」
「いずれにせよ、サリアーシェの進撃も、ここまでです」
"知見者"フルカムトは物憂げに言い、それから大陸の東岸に兵士の駒を置いていく。それは瞬く間に増殖し、中央の犬を圧殺するほどの量となって大陸を覆いつくす。
「せいぜい楽しませてもらいましょうか、女神よ」
再び、山は夜を迎えた。
三匹は黙ったまま座り、とろとろと燃える焚き火がその影を揺らす。
「ありがとな」
沈黙を破り、シェートは感謝を述べる。グートはぴくりと耳を動かし、フィアクゥルはうつむいたまま胸に下がった板をいじっている。
「……たいしたこと、して無いから。礼なんて言うなよ」
仔竜は手元を見たまま応えを返し、それから問いかけた。
「これから、お前、どうするんだ」
「これから?」
その問いかけに、答えるのは難しかった。
もちろん目的はある、こうして勇者との戦いを終え、冷静になっても、消えない思い。
「全ての勇者と、魔王、殺す」
「……そうか」
「でも、もうちょっと、考えたい」
あの時、自分の何かが変わった気がする。ワイバーンを貫き、ゴーレムを切り伏した瞬間に。
上手くは言えないが、自分の決定的な何かが。
それが分かるまで、何かをするのは難しいと思った。
「フィー、お前、どうする?」
「……わかんねぇ。俺も、ちょっと考えたい」
「グートは?」
星狼は目を細め、僅かな吐息を漏らすだけで答えに代えた。
『シェートよ』
「……終わったか」
『ああ、終わった。終わってしまった』
大気に香るのは、どこまでも悲しげな彼女の気持ちだった。
「協力者、か?」
『こんなことを思うのは、おかしいかもしれんがな。私はあのお方を……』
「……そいつを?」
『師だと思っていたよ。大恩ある方だと』
サリアの言葉もどこか迷子になっている、そんな気がした。
自分の中にある、本当の心のありかを探しあぐねて。
「好きだった、か?」
『そう、かもしれん。交誼を結ぶことも、できたやもしれん。それが、悔しいのだ』
考えることが多すぎる、自分のことも、これからのことも、この戦いの意味も。
だからシェートは、言った。
「……もう、寝よう」
『そうだな。私は眠らぬゆえ、見張りを勤めよう。よく休むがいい』
「お前も寝ろ、サリア」
その場に丸くなると、シェートは囁く。
「俺達、みんな、休み、いる」
囁きながら、ゆるゆると、眠りに落ちていく。
火明かりは相変わらずとろとろと燃え、闇の帳を深くしていった。
全てが寝静まり、焚き火が燠火に変わるころ、フィアクゥルは歩き出した。
そして、野営をした場所から程遠くないところで、未だに黒々とした残骸をさらすミスリルの塊の前で立ち止まった。
たった一匹の、コボルトの狩人がしとめた、巨大な獲物。
爪の生えた指がスマートフォンをつまみ上げ、メーラーを立ち上げる。
彼は黙って、一通のメールを仕上げ、送信する。
件名:どうしたらいいと思う
本文:俺、これからどうしたらいいかな。
どうしようも無く端的で、自分の心情を言い表したメール。
返信は程なく着いた。
件名:RE:どうしたらいいと思う
本文:何をするのもそなたの自由だ。
成したいことを、成せばいい。
全てを見て、よく考えて、答えを出すがいい。
良き旅を、勇者殿。
つくづくとため息をつき、彼はゴーレムの残骸を見上げ、そっと自分の喉をさする。
胸元で、メール画面が煌々と光を放っている。
その受信者アドレスは、こういう文字列で始まっていた。
『kouji_itumi』と。
<了>
ということで、二部が終了しました。
この後二本の短編を挟み、第三部が開幕します。
新たな仲間をくわえて繰り広げられる、勇者と魔王を討とうとするコボルトの話、よろしければ今後もお付き合いください。