10、再誕
『"知見者"の侵攻は、一月後のことと決まりました』
イヴーカスの報告は淡々としたものだった。
『それにあわせ、おおよそ現地の日時で一週間ほど後、神々はサリアーシェ様の勇者を討ち果たす心積もりです』
その時自分が何を答えたのかは覚えていない。多分彼は、他の神々に自分の憔悴しきった様子を嬉々として伝えたろう。
とはいえ、それにあまり意味があるとは思えない。
『どうして、俺、生かした』
血の滲むような言葉達を、シェートは吐き出した。それは積もりに積もった自分という存在への疑念。
走り続け、目的を果たすためには見えなくてもいい事実。
復讐者として刃を振っている間には、気がつかない現実。
コボルトは魔物であるという、そのことを。
「なぁ、シェートよ」
階の中段に腰掛けながら、サリアは呟いた。
「私は、お前から何もかも、奪ってしまったのだなぁ」
確かにあの時、命を救いはしただろう。
だが、そのことは彼をコボルトという役割から、引き剥がしてしまった。
弱者であるという役割、弱いままで生きて、死んでいける世界から。そしてその弱さのままに、強者の世界へと放り込んでしまった。
仲間も無く、力も無く、それでも必死に抗い続ける、その辛さの中に。
あの時、炎の中に没すれば、死の忘我の中で仲間たちの腕に抱かれたかもしれない。
あの時、勇者の刃にかかって死ねば、勇者と魔物の無慈悲な闘争の渦にもまれずに済んだだろう。
「それでも、そなたは願っていた、私にはそう見えたのだ」
生きたいと、そう願っていると。
だが、それは自分の勝手な思い込みだったのかもしれない。炎の中に朽ちていく際に、草木が身を捻りながら天へと身を伸ばす動きを、生の躍動と思い違えるような。
「イェスタ」
「はい」
すっと傍らに差した影に、サリアは生気を失った声で問いかける。
「遊戯の辞退をすることは、出来なかろうか」
「それは禁じられております。一度他者を喰らえば、その身が滅ぼされるか、たった一つ柱になるまで、遊戯に興じていただきます故。決闘中であれば、不戦敗という形で処理させていただきますが」
「登録した勇者を変えることは」
「それも禁じられております。それを許せば加増された加護を以って、強き者を自在に呼びつけられます故」
光差す庭の光景を、サリアは眺めた。
そこに群れ集う神々は、先ほどからこちらに視線を向けこそすれ、それ以上の関心を向けようとはしない。
そのことに、サリアは意地の悪い喜びを感じていた。
自分もシェートと同じになっていると。
「今、持てる全ての加護を使い、シェートに人間の味方を作ることは、出来るだろうか」
「考え違いをなさっておいでですので、修正を。神々の布告は天啓という形で降らせなくてはなりません。それが人々にたやすく受け入れられるものであれば、実現も可能でありましょうが」
語っていく時の女神の声は、とてもとても、優しかった。
「コボルトを勇者として認め、それに群れ参じよ。と命ずることがいかなる困難か、御身は考えたことがありましょう哉?」
「信頼は、あらゆる攻撃を凌ぐ防御の鎧よりも、高くつくという訳か」
「むしろ、同族に布告を与え、かのコボルトに力を貸せと述べる方が、まだしも」
同族、その言葉にかすかに心が揺れ動く。
「今ある星の加護を使い、それを成すことは? そして、シェートについてゆける力を身に着けさせることは?」
「呼びつけることは可能でありましょう。力に関しては、どうにも」
「どうにも、とは?」
「コボルトは心根の弱い生き物。それに強力な武器を持たせたところで、どこまであの過酷な旅程に耐えられましょう哉?」
そうだ、たとえ一時の熱情とはいえ、シェートは自ら過酷を選んだ。それを何も知らない一介の弱い魔物に、同じような心を期待することはできない。
考えれば考えるほど、加護の力が頼りなく思えてくる。
結局、コボルトというのは穴の開いた木桶のようなものだ。必死に補修したところで、それよりも良いものと比べれば、最初から選ぶ価値の無い代物に過ぎない。
「心身をいじる付与も、禁じられているのだったな」
「恐怖心を払い、勇気を与える程度は認められておりますが、記憶の操作や感情・行動の完全な制御は、結局のところ神の操り人形を作り出してしまうだけですので」
「思う以上に融通がきかぬのだな」
「ですから遊戯なのです。ルールの隙を突き、自らを有利に進めることで勝利を得る」
そなたには分かるまい、口に出さずにサリアは毒を吐く。
その楽しいゲームのコマにされ、身を切るような痛みに耐え、それでも自分を否定されるものがいることなど。
「よく分かった。もう行って良いぞ」
「それでは」
辞して消えていくゲームマスターを省みもせず、サリアは立ち上がる。そのまま西面の扉へと向かい、案内を乞う。
「"万涯の瞥見者"にお目通りを」
『……あー、もうしわけありません、サリアーシェ様』
声はドライアドではなく、小竜のものだった。どこかすまなさそうというか、困り果てているといった風情で返事が来る。
『我が主はただいま現界中ですので、お入れすることができかねます』
「……いつごろ戻りに?」
『あの調子ですと、それなりに掛かるかと。なんでも新しいパーツを購入されるとか……最近神々との折衝も多かったので……ストレス溜まってるみたいです』
竜神の放浪癖は有名で、最近では人の身に混じって世界を彷徨しているらしい。それでなくてもサリアの関係者と目され、やらなくてもいい交渉をする羽目になっているのだ。
「ありがとう。お帰りなられたらまた参じることにしよう。竜神殿には、ご迷惑をおかけしたと伝えてくれ」
『いえいえ。あれはもう、サリアーシェ様とは関係ないっていうか、ちょっとは最高神の一つ柱であるという自覚を持っていただきたいというか……』
愚痴り始めた小竜に暇を告げ、苦笑しながら自らの神座を目指す。
神座へ繋ぐよう声を掛けようとして、サリアはふと、思い直す。
今、シェートに何かを言おうとしても無駄だろう。それに、自分も気の利いたことを言える自信も無い。
「幾星霜、神域を守る美しき緑の乙女よ、我が意を聞き届け、愛しき地への門を開け」
開いていく扉の向こう、赤錆びた自らの星が見えていく。
皮肉な話だ、以前は絶望を象徴するはずだったその赤さを、今では自分の配下となったコボルトの苦しみを分かち合うためのよすがにしようとしている。
心根の身勝手さにあきれながらも、サリアはその光景の中へと進んでいった。
いつの間にか、朝が来ていた。
シェートはそっと手を顔に当て、それからごしごしと擦る。
毛皮には濡れた跡は無い、泣いているかと思った一瞬もあったが、そんなものはあの日に枯れ果ててしまったのだろう。
胸の痛みは一晩たって、鈍いものに変わっている。
それでも、やはり変わらないものはあった。
「どうして、俺、生きてる」
起き上がり、背を幹の持たせかけ、ふっとため息をついた。
森は今日も穏やかで、風がこずえを揺らしていく。ことさら耳や鼻を使わなくても、周囲の様子がわかっていく。
枝に掛かった巣の小鳥達は、もうそろそろ巣立ちだろう。鳴き交わす声は親鳥とそれほど変わらない。こちらに興味があるのか、リスたちが巣穴を行ったり来たり、頭の上にある枝を何匹かが駆け抜けていく。
風に乗ってやってくるのは、そろそろ盛りの時期を迎えた鹿の体臭。それと、ウサギが地面をぱたぱたと叩いて掛けていく振動が腰に伝わっていた。
このまま弓を手に歩き出せば、狩りは始まり、日の落ちるまで山野を駆けるだろう。
ただ、そうしているだけで、良かったのに。
何の悩みもなく、穏やかに日々を暮らせたら。
「どうして、生きられない?」
それは自分が、コボルトだからだ。
魔物であり、人類の敵対者であり、そして最弱の存在だから。
結局、答えはそこに戻ってきてしまう。
「どうして俺、コボルト、なんだ」
そのように作られたから、そう作ったものがいるから、もちろんそんなことはわかっている。
でも、なぜ、自分は自分なのか。そんな定めに誰が乗せたのか。
望んでもいないものに、そんな役割をつけるものは誰なのか。
『お前、むつかしいこと、考えたな?』
忘れかけていた、遠い声が蘇る。腰に手をやり、引き抜いた山刀を目の前にかざした。
「父っちゃ」
鋼は木漏れ日を跳ね返し、表面に浮き立った粗い粒子が鈍く耀いている。
この刀を貰うほんの少し前、父親は狩りの負傷がもとで床に伏せっていた。その時に同じことを聞いたことを思い出す。
『どうして、俺達、弱い。魔王、そんな俺達作った』
『そうだな。俺もそれ、思ってた』
口数は多くなかった。昔のこともあまり語ろうとせず、元々群れにいたわけではなく、どこか別の土地からさすらってきて、母親と出会ったと聞いた。
『俺達、食い物か、みんなの』
『……そうだろう。俺、確かにそう思った。魔王の軍、いたとき』
自分以外、誰も入らないよう言い渡された天幕の中、語られた言葉。
力も弱く、魔法もつかえないコボルトの父が、それでも軍の中で生きられた理由。
山野草の知識、山の動物の知識を使い、ゴブリンの魔術師に仕え、さまざまな所業に加担してきたことを。
『毒、作った。拷問道具、作った。どうすれば、生き物、長く苦しむか、あっけなく殺せるか、知った。そして、分った』
実験の末に殺されていく同族たち、人間達。そんな自分達の弱さ、命の脆さを。
その果てに、父親は逃げた。ゴブリンの魔術師を、毒で殺して。
『俺達、そうあるよう、作られた。弱いもの作って、それ、いじめる。そのことで、軍の乱れ、少なくなる』
『じゃあ、俺達、殺されるため、生きてるか』
その時の父親は、その言葉の重さから逃れるように、天を仰いでいた。
『でもな、シェート。俺、生きたかった』
山刀を収め、シェートは立ち上がる。
記憶の中の父親は、どうしようもない感情を抑えられないまま、涙を浮かべて笑っていた。
生きたい、生きていたい、お前達と一緒に。
そう語りながら、結局父親は、あっけなく死んだ。
狩人よりは薬師として名を知られていた父親のことを、誰もが悼んでくれた。
『生きてくれ、シェート』
自らの一振りを手渡し、今わの際に父親はそう言った。
『俺、生きたい、思う、それより強く、お前達、生きていて欲しい、思う。イルシャ、弟達、頼んだぞ』
その約束は果たせなかった。母親も弟達も、恋人も守れなかった。
それでも、自分は、生きている。
「父っちゃ……俺、どうして、生きてる?」
どこへというわけもなく、歩き出す。
その一歩ごとに湧き上がる、昔の記憶と共に。
赤く色づいた星に降り立ち、サリアは天を仰いだ。
照り輝く太陽は白く、世界を暖かく包み込んでいる。止むことのなかった風は、すっかりと凪いでしまっていた。
「な、なんだ……これは……?」
苛烈な大気はすっかりと和らぎ、潤いすら漂っている。
そして、サリアは感じていた。
「水の匂い……だと」
気がつけば、むき出しの岩肌にも、錆びて崩れた大地にも、赤以外の色合いが混じりこみ始めていた。
呆然と歩き出したサリアの前に、それは姿を現した。
満々と水を湛えた、大海原。
門による転移に間違いは無い、それに、世界は確かに自分の神威に満ちていて――。
「まさか……」
遊戯の勝利者が獲得するのは、世界を統括する権利と、信者の信仰心。
その二つこそが神に力を与え、治める世界へ、神威となって世界に放たれる。
それは神の、消すことの出来ない、切っても切れない本性。
「兄上の所領から流れ込んだ信仰心が……私の世界を、潤したというのか!?」
呆然と呟いたサリアの心に浮かび上がる一言。
『無一物』
あの時、イェスタは笑っていた。
『そう思われるなら、そのような事でありましょう哉』
このことを知っていたからこそ、笑っていたのだ。
「は……」
サリアは両手を、知覚を大きく広げた。まるで世界を抱きとめるように。
その感覚が伝えてくる、死に絶えたはずの世界が蘇る、無垢の産声を。
「はは……」
まだ生命と呼ぶにはか弱く、頼りない者達が、少しずつ芽生えていくのが分かる。暖かな海の中に抱かれ、繰り返す波の中にたゆたいながら。
「はは、はははは、ははははははははは!」
それら全てが鳴動し、自分に伝えてくる。
生まれたと。
私達は今、生まれたと。
「……まったく、なんてひどい女神だ、私は!」
ひざまずき、空を仰ぎながら、サリアは泣き笑った。
「無辜の命を使いたくないと嘯きながら、こうして自らの世界を潤しているとは!」
その声を聞いた世界が、主の帰還を寿ぎ、ふつふつと沸き立った。
私達は生まれた、主よ、と。
「ああ、そうだとも。お前達は、生まれたのだな」
自分の浅ましさを嘆きながら、それでもサリアは喜びを押さえられなかった。
死と無意味が拭われ、生と意味とが生まれ始めた星の上で。
「どうしてくれような、シェート。こんな罪深い私を」
気がつけば、何一つ失いたくないと思っていた。こうして新生した世界も、それをもたらしてくれた小さな魔物も。
潤った地面に大の字に寝そべり、女神はさらに大きく知覚を伸ばした。
その意識ははるか彼方、兄神が治めていた星々にまで届いていく。
人々が、祈っていた。
朝に、夕づつに、昼のさなかに。
聖堂で、社で、街中で、野原で、家々で。
あるものは敬虔に、あるものは邪に、またあるものは有るか無きかの希望を求めて。
兄神の神性によって、長く戦の絶えない世界であったかの地が、自らの神性によって平和と平穏を取り戻し、緩やかに傷を癒していこうとしている。
日々の暮らしと、安らかな生を求める人々が、祈りを上げていく。
女神よ祝福を、と。
「ああ……皆に、祝福を」
それは久しく忘れていた感覚だ。
世界を想い、世界に想われる事。そのつながりこそが、神を神たらしめる要素。
崇め、祈る者の無い神など、存続する価値は無い。同時に、その祈りを掛けられるだけの神威を、世界への愛を与え続けることが神の存在意義。
「イェスタ」
「ここに」
黒の女神は、いつの間にか傍らに座っていた。その姿に目をやり、そっと笑う。
「一言あっても良さそうなものだと思うがな」
「御身は自ら気が付かれました。差し出がましい諫言など不要でしたでしょう」
笑顔を崩さない女神に、サリアは空を見上げ、言葉を継いだ。
「そなたに仕事を頼もう」
「ありがとうございます。して、それは如何なる?」
「簡単なことだ」
サリアは立ち上がり、笑った。
「私の存在を買い戻してくれ」
涼しい木陰を歩きながら、シェートは思い出していた。ただの立ち木一本からも思い出せる、父親の声を。
『木、良く見ろ。それでその森、何が取れる、分かる』
差し掛かる梢達には、幅の広い葉が生い茂っている。こういう木々で出来た森は、動物も多い。尖った葉を持つ木々ばかりの森は、命の数も少ない。
その代わり尖った葉の木は、加工すれば家を建てる資材や、丈夫な道具を使う材料に使うことができる。
森を歩きながら、父親は色々と教えてくれた。実のところ、村のガナリよりも森のことを良く知っているくらいで、何度かガナリに推挙されたこともある。
『森、良く知る。それ、生きるコツ』
そう言って、父親の幻が幹を指差す。そこにあったのは、木の皮が何かに擦られて出来た擦過だ。
『この時期、鹿、気立ってる。雌と番うのに、縄張り、広くする』
狩るべき獲物であっても、気を抜けばこちらが狩られる。そのことを教えてくれたのも父親だった。経験の浅い若い狩人をかばい、鹿の角に掛けられたのが、死の原因だった。
繰り返し繰り返し、教え込まれた生きるための力。
考えてみれば、自分が勇者を倒せたのも、父親が仕込んでくれたからだ。
『シェート、狩人、必要なこと、なんだかわかるか』
初めて弓でウサギをしとめたとき、そんなことを問いかけられた。
『いい弓か?』
『いや、道具より大事』
『仲間か?』
『もちろん、仲間大事。でも、同じくらい、大事』
『……分からない。一体、なんだ?』
『ここだ』
笑いながら、父親はシェートの頭を突付いた。
『考えること。どうやったら狩れる、どうやったら生きられる、そうやって考える』
言葉が蘇って、シェートは呟いた。
「分った」
どうして自分がずっと考えていたのか。自分の生きる意味を。
「俺、生きたい。だから、考えてた」
自分に死ねという世界に、抗うために。
「俺、生きたいんだ」
考えてみれば、いや、難しく考える必要など、無かったのかもしれない。
狩られるウサギですら、最後の一瞬まで駆け抜けるのだ。狩られるのを良しとせずに。
理屈ではなく、ただそう在りたいから、そう在る。
弱くても、定めでも、それでもそう在りたいと願って抗うことは、どんなものにも許されている。
罪であろうと、悪であろうと、コボルトであろうと。
「じゃあ、どうする?」
それでも自分がコボルトで、狩人でしかないのも事実。
『シェートよ。狼狩りのコツとはなんだ?』
ふと、サリアの言葉を思い出す。
あの時まで、自分はただの狩人で、弱い生き物だった。
だが、弱い生き物であることが、弱い狩人であることの裏づけにはならない。自分の中にある力を使い、それを生かし続けようと考えたからこそ、あの勝ちが拾えたのだ。
あの時まで、自分は考えるのを止めていたのかも知れない。
でも、自分の技は、生きる力になると、もう分っている。
「父っちゃ」
シェートの心が、思い出よりも深くに秘められた、それに手を伸ばす。
「俺、使うぞ」
それは父親から授けられた、もう一つの知識。
使うことなく朽ち果てていくはずだった、父親の秘伝に。
「シェート」
神座に戻ると、水鏡の向こうでシェートは何事かをやっていた。太い蔓や小石などを集め、それを結んだりしている。
『ああ、サリアか』
「しばらく留守にしてすまなかった……大丈夫か?」
『うん。もう、大丈夫だ』
その姿を見て安堵したものの、抱えてきた二つの報告をどう伝えたものか、さすがに迷ってしまう。
『何かあったか。すごく、不安、匂うぞ』
「まったく、隠し事が出来んというのも厄介だな……。率直に言おう、そなたを狙って勇者達が一気に攻めてくる」
こちらの言葉に、さすがにシェートは色を失った。それでも、その顔はすぐに真剣なものに変わる。
『山狩り。狂い熊、狩るみたいに。俺狩るか』
「だが、安心せよ。何とかそなたを守れる算段はついた」
『加護……使うのか』
その声は不満よりも、意外そうな雰囲気をかもし出している。
「少し考え方を変えてな。そなたを失うよりは、積極的に使うことにした」
『生きるために、みんな、捧げるか』
言葉に非難は無い。どこか達観したような、それでいて諦めよりも意思が先に立つような語気。
「シェート、何かあったのか?」
『ない。でも、お前、そう決めたなら、俺、何も言わない』
「……勘違いするな。私は人など捧げない。世界もな」
そこで初めて、コボルトは空を見上げた。
『俺、レベルアップ、まだだ。それなら』
「案ずるな。空手形など切らん。ただ、少し準備に時間が掛かるから、可能になった時点でそなたにも教えよう。とはいえ、勇者達との対決には間に合うはずだ」
『そうか。ならいい』
黙々とコボルトが作り上げたそれは、蔓に小石や木片をいくつも挟み込んで作った一本の綱。下手に握れば使用者を傷つけかねない代物だ。
とても狩りの道具とは思えない、異様な形状。
「な……何を作っているのだ?」
『サリア、やっぱり、俺、ちょっと何かあった』
どこと無く凄みを増した気がするコボルトは、訥々と思いを漏らし始める。
『俺、考えてた。どうして生きるか、みんな、俺に死ね、言う、そんな世界で』
綱の具合を確かめ、先端に大き目の石を結びこむと、ゆっくりと振り回し始める。
『でも、そういうの、関係ない、わかった。俺、生きたい、だから、生きる』
回転が速く鋭くなり、顔が険しくなる。
『ふっ!』
呼気と共に綱が放たれ、目の前の木の枝に結びつく。小石や木片が枝に食い込み、小さな体が渾身の力を込めて綱を引いた。
耳に痛い擦過音が水鏡越しに伝わり、撒きついた綱がシェートの足元に戻る。
そして、枝にはずたずたに裂けた傷跡が、深々と刻み込まれていた。
『生きるため、俺の全部、使う』
「シェート、それは……」
『父っちゃ、教えてくれた。本当に、使うべき時だけ、使え、言われてたやつ』
「そんなこと、今まで一言も……」
『これ、狩人の技、違う。父っちゃ、絶対、誰も教えるな、言ってた』
考えてみれば、先のゼーファレスの勇者の時、武器や罠の類はほとんど無意味なものになっていた。
しかし、今回の戦いに絶対の障壁は入り込まない。そして、シェートは自らの意思で、どう戦うかを考え始めている。
全てを見て、サリアは思い秘めていたことを口にした。
「シェートよ。そなたに一つ提案がある」
『なんだ?』
「この戦い、勝とう」
一瞬、コボルトの顔が不審に傾けられ、こちらの言葉の意味にぽかんと口を開けた。
「今まで私はどこか自分を捨てていた。廃れ、省みられなくなった神として、いじけておったのかもしれん。だが、私には守るものができた。私の世界と、お前だ」
『サリア……』
「重ねて願う。シェートよ、我と共に全ての勇者と魔王を降し、この戦いに勝利しよう」
『……先、言われたな』
苦笑しながら、コボルトは照れくさそうにマズルを掻いた。
『俺、前も、そんなこと言った。あのとき、勢いだけ。でも……今、違う』
目の前の小さな魔物は、すでに弱さを捨て去っていた。
言い訳なしの自分の力で、立とうとしている。
『俺、この戦い、勝つ。全ての勇者、そして魔王、狩り尽くす』
「そうか。それなら、もう一つ教えておこう」
『もう一つ?』
「勝者の権利についてだ」
以前なら思いもよらなかった、そのことが容易く口に出来る。
「戦いに勝利した勇者は自らの望みを一つ、叶えることができるのだ。世界の王でも、使いきれぬほどの財貨でも、絶世の美女でも……例外は、あるがな」
『死人、生き返らない、か』
「すまん」
『……なら、俺が欲しい、一つだけ』
コボルトはそっと囁くように願いを口にした。
『俺達、仲間達、誰も殺されない森、ひとつ、欲しい』
それは小さな、切なる願い。
胸に刻み込むと、サリアは頷いた。
「分った。それでは行こう、我がガナリよ。全ての敵を狩るために」
『ああ。一緒にやろう、ナガユビ』
こちらに触れるように、小さな手がのばされる。
サリアは水鏡に同じように手を伸ばす。
二つの手は、時と世界の隔てを超えて、誓いを乗せて触れ合った。