8、宿命の重さ
夜明け少し前、空がようやく濃い藍色に変わり始めた頃、シェートは自然と目を覚ましていた。
地面につけていた耳に、遠くからの地鳴りが響いている。大きなものではないが、荒々しく地面を踏みつける馬蹄の振動。
「サリア?」
声を掛けるが、反応は無い。おそらく神座という場所から離れているのだろう、暗い森の中で周囲の匂いをかぎ、直接自分への脅威が無いことを確かめる。
弓を手に隠れ場所から抜け出す。街道から少し離れたこの場所に届くほどの蹄の音、その事実が胸を不安にさせる。
そして、森の梢を透かして西の方に、ちらりと立ち上る火明かりが見えた。
「あれ……」
それに気を取られた瞬間、いななきが大気を震わせた。
蹄と車輪が街道を削り、今にもバラバラになりそうな振動を撒き散らして馬車が走っていくのを感じる。
そして、もう一つ。
「ひゃあっ! にげろにげろおおっ!」
「おおおおおっ! いけいけいけー!」
はやし立てる下卑ただみ声。荒々しくなる車輪と、それを引く駄獣の叫びが馬車に追いすがっていく。
「た、助けてくれっ! だれかぁっ!」
明け方の森に悲鳴が木霊する。明らかに魔物に誰かが、人間が追われている。
どうする、弓を握り締めたまま、シェートは自問した。
自分にとって、人間など特に思い入れの無い存在。むしろ自分達を狩ってきた、因縁浅からぬ相手だ。
助ける義理など、ない。
矢のたくわえも少ないし、相手が多勢であれば自分の身を危険にさらすことになるだけだろう。
「うわあああっ!」
「ぎゃはははは! おれのゆみ、めいちゅうっ!」
「にんげんはいっぴきもにがすな、まおうさまのめいれいだ!」
だが、勘に障る。
あの独特の、しわがれた、嗜虐心に満ちた声と、追い詰められた悲鳴が。
気がつけばシェートは矢を番え、音も無く森を走り始めていた。
粉々に砕けた荷台の残骸が、自分の命を救ってくれた。だが、自分の傍らに身を投げ出している馬は、耳の裏を射抜かれ、ひどい形相のまま泡を吹いて息絶えている。
しかも、肩口がひどく痛んでいる。多分、投げ出された時に傷ついたのだろう、暖かい流れと疼きが、次第に大きくなる気がした。
「けけけ、おにごっこ、たのしいなぁ」
「ひひ、ほら、はやくにげろ」
無毛の顔にいやらしい笑みを浮かべ、意外にきれいに磨かれた小剣を手に、小鬼達が迫ってくる。昔、村の老人に聞いたことがある、ゴブリンは鎧の手入れは苦手だが、武器は大層ぴかぴかに磨き上げることができると。
「く、くるなっ!」
腰のベルトにつけた小刀を抜き、必死に構える。それでも連中は歪んだ笑みのまま、じりじりと距離を詰めた。
「ほら、もっとにげろ」
「にげたらおまえのせなか、これでさす」
「おれもさす」
「おれも」
「おれはゆみだ」
武器は相手を痛めつける道具。
だからゴブリンは、武器の手入れだけは心を込めて行うと。
「や、やめろっ!」
以前、魔王の侵攻があった土地を通り抜ける時、街道脇の木に吊るされていた死体を思い出す。
皮をむかれ、内臓をむき出しにされ、残酷に痛めつけられた死体。その作り手たちが、満面の笑みを浮かべて、武器を振りかざした。
どっ。
重く、鈍い音が、突然耳朶を打った。
「が……ぁ?」
一番後ろに控えていた弓持ちのゴブリンが、膝を突いて地面に伏す。
ひうっ、という風鳴りが響き、
「あがっ!」
次いでもう一匹が、
「ごっ!」
さらにもう一匹、
「だ、だれぐっ」
振り向いた一匹の眉間に、一本の矢が深々と刺さる。
あっという間に五匹の追っ手は一匹を残し、物言わぬ死体になって転がった。
薄暗い街道の先に、誰かが立っている。
背がひどく小さいが、弓の腕から子供ではないことは分かる。村の傭兵はみんな死んだはずだ、それならこうして自分を救うために現れた、この影は?
答えは、ひどくあっけなく顔を出した。
薄紫に染まっていく薄明の世界の中、犬そっくりの面立ちをした魔物が、影の中から浮かび上がってきた。
「な、なにをする! おまえ!」
一匹のコボルトは再び矢を番え、無言でゴブリンに敵意を示す。
「おまえ、こいつひとりじめするきか!?」
苦々しげに言い放ち、それでもゴブリンは、下卑た笑いを浮かべた。
「へ、へ、わかったよ。こいつ、おまえにやる。にげたにんげん、まだまだいっぱい、むらにもいっぱい、こいつぐらい、おまえにやる!」
相手が強いと分かれば即座に下手に出る、話に聞いていたゴブリンの本性に胸がむかつく思いだが、痛みと恐怖で動くこともままならない。
だが、コボルトのほうは奇妙な顔でこちらを見て、それからゴブリンを見た。
「……そいつ、俺、くれるのか」
「そ、そうだ! にんげんいたつめるけるの、たのしいからなぁ。おまえに、こいつをやるよ」
「そいつ、お前のものか?」
「そ、そうだ! こいつはおれのもの!」
コボルトの問いかけに、ゴブリンは嬉しげに叫んだ。
「こいつはにんげん、しかものうみん! とってもよわい! つよいおれたち、こいつらをてにいれる! こいつらよわい、だからおれのもの!」
「……そうか」
それは、深い、腹の奥底から搾り出された言葉だった。
「「ひっ」」
期せずして、自分とゴブリンの喉が、同じ悲鳴を搾り出す。
コボルトの顔は、怒形に変じていた。
歯を食いしばり、犬歯をむき出しにし、目に殺意を漲らせて。
番えた弓の先、目が痛くなりそうな白光が結集する。
「なら、弱いお前、命、俺のものか!」
「や、やめろ! おれたちはなかま」
ばぢゅんっ。
そんな風に聞こえる鈍い音が、厭らしい魔物の顔を完全に吹き飛ばす。
何も言わなくなったゴブリンの体ががっくりと膝をつき、地面へと汚らしい体液をぶちまけた。
コボルトがこちらに近づいてくる。弓を収め、魔物の死体を蹴り退けて。
その顔は未だに険しく、自分を値踏みするように見つめている。
「大丈夫か」
かけられた言葉に、自分の喉は、正しい言葉を放った。
「よ……よるな! 化物!」
伸ばそうとしたシェートの手が、途中で止まる。目の前の人間は怯え、震えていた。
「ま、まて、俺」
「ちくしょう! どいつもこいつも、俺らをバカにしやがって! な、なにがよわっちいだ!? だから俺のものだって!? ふざけるな!」
手にした短刀を付きつけ、罠にかかって死に掛けたキツネのように、男は涙を流しながら叫んでいた。
「この化物め! クソッタレの魔物め! 誰がお前のものなんかになるか!」
「あ……」
分っていたことだ。人間にしてみれば、結局自分も魔物に過ぎない。この一幕も、目の前の獲物を勝手に取り合っただけの、仲間割れとしか映らないだろう。
『何があったのだ! シェート!』
かけられた女神の声に、ふと顔を上げる。男はそんな動作にすら驚き、こちらを見つめていた。
「なんでもない」
『なんでもないではない! 一体その男はどうしたのだ! それに、その魔物の死体は』
問いかけに答えず、男に背を向ける。
歩み去って数歩、男が刀を取り落とし、すすり泣くのが聞こえた。
『……この付近にある村が、侵攻を受けたようだな。彼はそこの住民だろう』
「そうか」
『彼を、助けたのか』
「違う」
言い知れない憤りが、胸を疼かせる。
続けた言葉は、泥沼のシチューのように、黒く煮えたものになった。
「俺、ゴブリンの声、聞いた。それ、気に入らなかった。だから、ゴブリン殺した。それだけ」
『……そうでは、ないのだろう?』
「違う。それだけ」
本当にそれだけだ。それ以上の意味も価値も無い行為。
『だが、それでも、結果的にお前は彼を救っている。それは、良いことだと思う』
「……そうか」
辺りに、寂しげないたわりの薫りが漂う。透き通った花のようなそれを嗅ぎ、シェートは少しだけ顔を緩めた。
『それで、逃げたものは彼だけか?』
「ゴブリン、言ってた。村に捕まった人間、まだいる」
『……シェートよ。少々酷なことを願うが、よいか?』
「村、救え、か?」
サリアは深々とため息を付き、言葉を続けた。
『さすがに、そなただけではそれは無理だ。だが、情勢を見て、魔物の軍を混乱させるくらいはできるかもしれん。せめて様子だけでも確認したい』
「そうか。分った」
『すまない』
気は重かったが、足を無理矢理に早め、森に入って村のほうを目指す。その間も、さっきの男の顔が、頭から離れない。
それでも進むことだけを考え、シェートは森の端にたどり着き、瞠目した。
「う……っ」
朝凪が終わり、風が渡るこの時間。
さわやかな冷たさに混じるように、物の焼ける臭いが交じり合って吹き付けてくる。
元は小さな集落だったその場所は、破壊の限りを尽くされていた。
村を囲う、石造りの胸壁は粉々に砕かれ、手近な家が巨大な質量に押しつぶされ、半壊していた。木造の家には例外なく火が放たれ、黒く焼けた残骸となって朝日に照らされている。
そして、その惨状を飾るように、いや、飾るためだけに人間達の死体がデコレートされていた。
焼け残った木々に吊るされた死体。
井戸のつるべに桶の代わりとして掛けられた生首。
壁に貼り付けられ、射的の的になった傭兵。
食いちぎられ、踏み荒らされた子供の群れ。
真っ先に火を放たれたらしい畑には、消し炭になった麦の穂の上に、案山子として貼り付けになった農夫たちがいる。
自分の立つ場所のすぐ近く、村を貫く通りにも、無数の人間が転がされていた。
「あ……あ……」
それまでの苦い気持ちが、ずるりとシェートの中で剥がれ落ちる。
この惨状は、まるで。
「俺の……村、同じ」
『魔王の軍は、容赦などしない』
サリアの声は平板で、だからこそ周囲に爆ぜるきな臭い怒りの匂いが際立っていた。
『彼らは、殺し、壊し、飲み込んでいくだけだ。そうすることに何の抵抗も無い。それが役割なのだから』
「……役割……」
化物の役割。それは、人を殺し、恐れられること。
「俺も、そうか?」
『う……』
サリアは、何も言わないまま、ただ悲しげな香りで語った。それでも、その慰めもむなしく感じてしまう。
シェートの視線の先、人間の死体に混じって転がる、コボルトの死体。
追い立てられたか、あるいは自分の意思か。
片手に錆びた剣を握ったまま、鍬や鍬などの農具で頭を割られた者がいる。
それでも背中を斬られた死体が圧倒的に多い、あるいは無造作に断たれたものも。
「俺達の、役割、あれか」
『シェート……』
再び風が吹き、肉のこげる不快な臭気が漂う。
それは、弱者の臭い。
追いやられ、押しつぶされ、楽しみのために絞られたものの放つ臭い。
『……シェート! 気をつけろ!』
「どうした」
鋭い叱責に、腰を低く落とす。目の前の光景に囚われていた心が、村はずれの喧騒を捉えた。剣戟と、魔法の解き放たれる脈動が大気を震わせた。
「だれか、戦ってる!?」
『勇者だ』
サリアの緊張がこちらに伝染する。とはいえ、自分以外のものと戦っているなら、こちらには気がついていないのだろう。
音は次第に激しくなり、その片鱗が突如として小屋の一つを吹き飛ばした。
「っ!?」
それは、巨大な剣。その切っ先に吹き飛ばされて、鎧を身に着けたオーガがなすすべも無く崩れ折れた。
ありえないほどの長大な刃渡りを持つそれを、軽々と振り回すのは、黒を基調にした鎧をつけた青年。
『彼は見たことがある。"覇者の威風"ガルデキエ殿の勇者だ』
「強いのか?」
その問いかけが白々しく感じるほどの光景が展開されていく。巨躯を誇るオーガとトロールを数体向こうに回しても、まったく威力の衰えない一振り。
他の仲間も精強で、魔術師が二人と神聖騎士を一人という、攻撃を重視した布陣になっていた。
周囲の被害を一切省みず、爆炎がはじけ、大剣が一切をなぎ倒していく。
それでも、こんな崩壊した世界の上で繰り広げられる闘争の図絵は、悪逆の限りを尽くした魔が討ち滅ぼされていく英雄譚の一ページのようだった。
あっという間に敵が駆逐され、囚われていた人々が解放されていく。
「……勇者様」
「ありがとうございます、勇者様」
「勇者様ぁっ!」
「我らの救い主! 勇者に栄光あれ!」
仲間を従え、生き残った人々を前に賞賛を浴びる青年は、どこか誇らしげで。
シェートはそれを、ただ物陰から見つめ続けるしかなかった。
足下に累々と横たわる、魔物と人間の死体を。
それを隠すように生み出された人垣を。
そして、朝の光を浴び、青空を背景に立つ勇者たちを。
気がつけば、シェートは森の中を歩いていた。
頭の中には今朝見た光景の全てが、ぐるぐるとめぐっている。
魔物の侵攻につぶされていく人間達の世界と、生み出されていく憎悪。
その一切を打ち払う勇者の存在。
「サリア」
ふと立ち止まり、シェートは空を見上げた。
『どうした』
「俺、一体、なんだ?」
唐突な問いかけに、返す言葉も無い女神に、コボルトは続けた。
「俺、魔物。でも、女神の力、持ってる」
『そなたは、そなただシェート』
「でも俺、化物!」
言葉が響き渡り、静かな森に吸い込まれていく。鳥が僅かに騒ぎ、小さな獣達が散り去っていく。
「人間、俺のこと魔物言う。勇者、俺のことレアモンスター言う。おまえの力あっても、それ変わらない!」
言葉にするたびに、事実が食い込んでいく。
自分のした行動など、世界にとっては何の意味も無いと。それは死に掛けで村に転がっていたときと、少しも変わらない事実。
コボルトという、世界にとって取るに足らない、弱い魔物であるという事実。
「それに俺、魔物殺しても、仲間割れ、それだけ」
ただの殺害、野の獣が争う程度の意味しか持たない。
だが、勇者は讃えられ、崇められる。
その一方で、自分はレアモンスターとして狙われ、追い詰められて擦り切れていく。
「勇者、魔物殺す、人間喜ぶ。魔物、コボルト、殺されて喜ばれる」
『シェート……』
「サリア」
食いしばった歯の間から、シェートは苦鳴をしぼり出した。
「俺……死ぬほうが、いいのか」
『そんなことある訳がなかろう! そなたはあの時』
「そうだ! 俺、生きたい思った! でもそれ、間違い!」
その叫びに、心の中がぱくりと裂け、声があふれ出す。
『慈悲をかける必要はありません。あれは魔物です』
『殺し殺されはこの世の理さ。アンタだって魔物だろう?』
『そなたもその苦界の一員、願いがどうあれ、魔物で在る以上看過はできぬのだ』
『今ここでこいつを殺したい。殺せないまでも、シュウトのために一矢報いたい』
『どうしてお前は、勇者を殺したんだ』
『決まってるだろ! そいつが魔物だからだよっ!』
『よるな、化物!』
「みんな、俺に、死ね、言ってる」
ただのコボルトでいたときには感じなかった、世界の声。必死に、追い払おうとしたそれが、あふれ出していく。
『だからなんだ! 私はそなたを生かしたい思ったのだ! シェートというお前に、生きるななどと誰にも言わせるものか!』
「それ、サリアだけ! 俺、もう誰も居ない! 母ちゃ! 弟達! 仲間! ルー! 誰も! 誰も居ない!」
死者への弔いは、勇者の死で幕を閉じた。その先に待っていたのは、誰も共に居ない世界だけ。
仲間は皆死んだ、そして今日も仲間になれたかもしれないものが、騒乱の中で何の意味も無く死んでいった。
「どうして、俺、生かした」
うずくまり、コボルトはしぼり出した。
「どうして俺、生きてる」
しぼり出しながら、心のどこかで自分をあざ笑う。
『それは、お前がひどい魔物だからだ』
体を丸め、心に浮かぶ言葉に押さえつけられながら、それでもシェートは自問した。
どうして、自分は生きるのかと。