0、幕が開く
窓は、遮光カーテンで閉じられていた。
それは効果的に機能し、足下に針のような薄い光線だけを残し、陽光を封じていた。
結果、室内は夜のように暗く、部屋中央に映し出された幻影に、完璧な視認性を与えていた。
それは一つの惑星全土を示す立体図、ほんの僅かではあるが自転を行っていた。
自転に同期して、大小さまざまな雲が流れ、目を凝らせば河川の蛇行も、大海のうねりさえ再現されている。
「万端に始まる戦はない、というのが、兵家軍師の常套句だ」
窓際に置かれた重厚なデスクから、影が進み出た。
肩幅は狭く、歩みは軽く、青年というより少年に近い体格の彼は、それでも声に威厳と威圧を込めて言葉を継ぐ。
「天候、地理、兵数、輜重、開戦時期、士気、そして対戦相手。そのいずれも、思う通りになることはない。十の条件があれば、満たせるのは二か、三がせいぜいだ」
その眼窩に竜の如き異眸を宿した"魔王"は、居並ぶ将校の間を歩きつつ、それぞれの顔を見分していく。
その大半がゴブリンだったが、表情には磨き上げられた知性が宿っている。
ゴブリンは粗暴にして無知であり、教導や抑制などとは無縁というのが、魔界にさえ信じられている、根強い『迷信』だ。
「だが、今回ばかりはそうではない。我々が臨む"神々の遊戯"という、戦場ではな」
ゴブリンの生物的な特性は『自己保存』にある。
それは知性を持つ種族の中で特出している。とりわけ『中枢神経の可塑性』という面において、群を抜いていた。
ゴブリン種族の大脳部分は、栄養条件によってその質量を増減させる。
飢餓に見舞われ、粗食を余儀なくされると、ゴブリンたちの大脳質量は最大で十五%まで減少する。
彼らが基本的に禿頭であるのも、そうした『伸縮自在の大脳』に適応した結果だ。
「敵は己の権勢に胡坐をかき、備えを忘れ、足元を掬われる恐怖を無視した。では、その恩恵を受けた我らの成果を、確かめてみるとしよう」
一人の将官を前にすると、"魔王"は問いかけた。
「モラニアの状況を報告せよ」
「――報告いたします! モラニア北部、中央山岳部、東方、西方、南部森林地帯、全域の掌握、完了しました!」
敬礼し、告げる声は凛としている。
この個体はたった一年前まで、鹿の肉を生で食い、言葉も単語を二十、動詞を六種類しか扱えず、方位の概念を持たなかった。
だが、栄養状況を改善し、専用の教育プログラムを施すことによって、今では頑健かつ有能な将官へと変貌していた。
「廃棄迷宮に隠蔽された転送機構、九十二パーセントが正常稼働しており、"影以"による情報収集も、通常稼働で三時間毎の詳報更新が収集可能であります!」
「ご苦労。作戦終了まで機能の安定化に勤めよ」
「了解しました!」
応答を終えたこちらに、部屋のあちこちから期待のまなざしが届いてくる。
旺盛な忠誠心と、ゴブリン本来の『競争原理』が、"魔王"に重用されるという『報酬』を求めて、飢え渇いていた。
「続けて報告を頼む。エファレア、ヘデギアス、南方諸島域の順だ。ケデナは――しばし待て」
報告書がめくられ、挙手する士官に発言を認め、続々と集まる情報が、中央の惑星図に追加されていく。
それは付箋を貼られた書籍のように、積層して球形を歪ませていく。
緑と青と、陸の茶色で彩られていた世界が、白と黒の情報で埋め尽くされた。
「さて、後回しにして済まなかったな。ケデナの情報を聞こう」
「了解いたしました! まず、"英傑神"の勇者について、近況をご報告したします!」
惑星の南西方向、なんの情報も貼られていない大陸がある。
それこそがケデナ。魔王軍が『攻めあぐねていた』支配領域だった。
「"英傑神"の勇者、岩倉悠里は二十八時間前、予定通りジェデイロ市を進発。現在はケデナ最北の貿易港、グルグインに移動中です」
「他の仲間の動向は」
「作戦司令部による、重要度評価順にご報告します!」
惑星はケデナにフォーカスし、球形の画像が平面に変わる。
最初に表示されたのは、黒髪に平板な顔立ちの青年。それを示すアイコンが、大陸南方の商業都市から伸びる街道を北上していく。
「ヴィルメロザ騎士団、総括代理となったフランバール・ミルザーヌですが、岩倉悠里と同行して北上、現在は単独で騎士団領へ移動中です」
「騎士団領は?」
「現在、蒼と赤の両騎士団から兵員を招集、最終的には騎馬四万二千が、動員されると予想されています」
新たに表示された栗毛の女騎士。そのアイコンが騎士の集う城塞都市へ移動していく。
「次にエルフの大森林へ向かった、モルフェイル・コスズ・イフィリアについてです」
「連中の『除草作業』は、どの程度進んでいる?」
「大森林に投下した『葛』並びに『孟宗竹』ですが、七十パーセントは除去されました」
長い金髪のエルフ娘は、いち早く森に戻っていた。その報告と前後して、大森林のエルフたちが、首都代わりの『大木』に集っているのも掌握済みだった。
「存外、手が早いな」
「しかし、『祖先の木々』を荒らされたことにより、戦線に参加する予定だった者たちが森を堅守する姿勢を取り、エルフの動員数は五千人を割る見込みです」
「次に、例の『実験体』ですが」
次はフードを被った人相不明の存在。それが『こちらのデータ』で上書きされる。
ネコ科の顔立ちに耳、だが、体の方はドラゴンを思わせる鱗が生え、手足を毛が覆うというパッチワークのような姿だった。
「各都市の魔術師と連携し、術士の部隊を創設する模様です。現在、ジェデイロ市の市庁舎で練兵を行っています」
「急ごしらえだが、"知見者"の軍と同じ構想だな。岩倉悠里の献策か」
「その通りです」
ジェデイロ市には続々とローブ姿や傭兵魔術師たちが集まり、姿を偽ったキメラの娘を囲うように集まっていく。娘の表情に汗が書き加えられているのは、この実験体が極度の対人恐怖症であることを含んだ表現だ。
「最後に、傭兵のグリフですが……いつも通りです」
「おいおい、そんな報告の仕方を許したことはないはずだぞ、情報将校殿?」
将兵の指導に厳しい"魔王"の指摘。だが、回答した士官だけでなく、周囲の同僚たちも薄ら笑いを浮かべていた。
「失礼いたしました! 現在、自称『岩倉悠里の一番の仲間』である傭兵グリフは、練兵を固辞し、地域経済の活性化、並びに人間種族維持のため、奮励努力中でありますっ!」
「つまり、軍務にもつかず、酒場と娼館通いを続けている、ということだな」
「有体に言えば、そのような事であります、"魔王"様!」
粗雑なアイコンがジェデイロ市の歓楽街に貼り付けられ、将官たちの嘲笑が浴びせられる。本人が知ったら、怒りで脳の血管が切れるところだろう。
「……そういえば一つ、尋ね忘れていたことがあったな」
無論、そんなことはない。
自分にとっての関心事、いや最大優先の関心事だ、忘れるなど絶対にありえない。
そもそも"英傑神"攻略は、すでに『終了』しており、これまでの報告も結果の調査に過ぎなかった。
「仲間たちが、我らとの最終決戦に向けて準備に追われている中、なぜ勇者ただ一人が出歩いている?」
「一人ではありません。護衛に地竜の女王、アマトシャーナが同行しています」
「なんだと? そんな重大事を報告し忘れるとは。罰として、俺との昼食会を命ずる」
「はっ、謹んでお受けいたします!」
勇者のアイコンの隣に、豊満な胸を持つ巨女が付けられる。それが、この世界最大の魔力と破壊力を有する『最終兵器』であるのは、周知の事実だ。
「それで、竜種に守られた"英傑神"の勇者は、北の港で何をするつもりだ」
「三日後、ヘデギアスより到着する『客』を迎賓する予定です」
北のヘデギアス。
泥炭の湿地と山岳、鉱山労働を産業経済の基盤とする、この星で最も貧しい大地。
そこからやってくる客。
「すでに、岩倉悠里が飛ばした急使により、港の安全は確保されており、来客の準備は」
「焦らすな。その客の名前を、告げよ」
それまでの砕けた空気が消えて、報告する士官の顔に緊張の笑みが張り付く。
熱烈な"魔王"の偏執を浴びながら、それでも報告を繰り出した。
「"平和の女神"が使役せしコボルトの勇者、シェート。並びに、竜洞の協力者、"青天の霹靂"フィアクゥル、星狼グート、以上三名です」
それは、随喜を呼び起こすのに十分な言葉だった。
魔王は大陸図に近づき、自らの手で、ケデナ北洋にアイコンを灯す。
愛しき者、我が好敵手、最も弱き叛逆者。
コボルトの表情を精緻に写し撮ったアイコンを、"魔王"の指が愛しさを含んでたどる。
「よろしい。舞台は整った、いよいよ開幕の時だ」
指さした先、遮光カーテンが取り除けられ、投影された幻像が日の光の中でかすみ消えていく。
デスクの前に立った"魔王"は、光を背景に影の内に表情を沈め、嗤った。
「これより最終作戦【Wの悲嘆】を、発動する!」
一糸乱れぬ敬礼が、告げる。
茶番劇の終焉と、惨劇の幕開けを。
窓の方を振り返り、"魔王"は両腕を開いた。
まるで、この世界すべての人々、観客たちに挨拶を送るように。
いよいよ、かみがみ最終章です。全五十七節、1.13メガバイトの渾身の一撃。喰らっていってください。それでは、開幕です。