5、雲の上の合議
敷物のように、雲が敷き詰められていた。文字通りの雲の大地、歩けば足に柔らかく、転べば全てをやさしく包みこんでくれる、真綿のような塊。
天にはさわやかな青がどこまでも伸びているが、本来在るべき太陽というものは存在しなかった。
なぜなら、そこは大神の御座であり、そこに集うものこそが太陽そのものと言うべき者であったから。
だが、そこには誰も居ない。何も存在しない。風もなく、草木もなく、石も建造物の類もありはしなかった。
「……やれやれ、また私が先か」
何の前触れもなくそれは現れる。神々が好むゆったりとしたローブではなく、計算された直線で構成された服と、色付きのめがねを掛けた赤髪の神。片手には書籍らしきものを携えていた。
「無骨者の闘神や、奔放な道化などに場を設えられるのは我慢ならんが、自らが率先して座を設けるという殊勝さを身につけて欲しいものだ」
そんな愚痴をこぼしている間に、彼の周囲で世界が劇的な変化を始めていた。
雲の地面は磨きぬかれた黒曜石と大理石のモザイクで作られた床となり、神々の歴史や偉大な武勲を示すレリーフが刻まれた壁が現れる。
それらが一瞬で緑の蔓や色とりどりの花々で覆われた庭園に囲われ、小高い岩山と流れ落ちる滝、その水際に憩いの東屋などが作り上げられていく。
その間もその神は顔色一つ変えず、神殿の中を歩き回って仔細にモザイクや床のできばえを検分し、いまや雲の地平の彼方まで広がっていく庭園の遠景を測っていた。
「うひゃー! なになに、どーしたのこれー!?」
ぱたぱたと軽い足取りでモザイクの床を走る姿。背は小さく、どう見ても十四、五歳の人間の少女にしか見えない。
「見たよ見たよルカっち! なにこれ宴会場!? みんなで宴会するの!?」
「"万世諸王の美姫""声無く踊る影""掴みえぬ者""愛乱の君"マクマトゥーナよ」
完全に苦りきった表情で、男はめがねを直し、目の前の女神を睨む。
「いくら我らの時が限りなしとはいえ、遅参とは感心しませんな」
「えへへー、ごめんねー。そんなことより、なんで宴会場なんて作ったの?」
「この建築様式を見てそんな発想が出るとは、やはり貴方はどうかしている」
「あれー、怒られちゃった。あはははは」
女神の方はひらひらとした薄桃色のドレス、のようなものを身につけ、笑いながらくるくると回ってみせる。髪の色も同じような色で、神格の威厳などひとかけらも感じない。
「そもそもこの壁のレリーフを見て、これが上古の神魔騒乱の図絵であり、今回の会議に合わせたものであると理解できれば、そのような感想は」
「おお、これは見事な宴会場だ!」
眉間に皺を寄せた神の後ろに、巨大な壁がそそり立つ。
「だが、ちと凝りすぎだな。相も変わらず堅苦しいことだ、なぁフルカムトよ」
「"天地開闢の拳""大乱の嚆矢""絶破の戦鎚""神鳴る黒剣""覇業の体現者""闘神"ルシャーバ殿」
定命のものなら、見ただけで魂が消えるほどの異形。まるで火山岩を彫りぬいて作ったようなごつごつとした顔に、頭からは髪とも角とも見えるものが生えている。
赤黒い肌と分厚い胸板、太い腕、両手両足には引き裂く爪が備わり、竜を思わせる長大な尻尾がゆるゆると揺れていた。
「そのように申されるのであれば、貴方が先に来て、場を設えるがよろしいでしょう」
「とはいえなぁ、俺はこのような場を作るのは苦手ゆえ、全面的にそなたに任せているのだ、なぁ?」
「そうそう! 第一あたしたちが作ったときは、あれがダメだとかこれが気に食わないって、散々文句付けたじゃない! だから、ルカっちに全部お任せしてるんだよ!」
「それならば! 決められた刻限を守り、この場で待っているのが礼というものではありますまいか!?」
「申し訳ありません、"才知を見出す方""青き書の守護者""測りえざる者""万略の主""知見者"フルカムト・ゲウド・ネーリカ」
怒り狂う神に声を掛けたのは、その三柱から比べればほとんど地味と言ってよかった。
白の長衣で身を包んだ、短い黒髪の青年。優しげに細められている栗色の瞳や、整った顔立ちは、確かに衆目を集めるだろうが、人の世にまぎれれば一瞬で消える程度の美だ。
「今後は僕もお手伝いさせていただきますので、収めていただけないでしょうか」
「"英傑神"シアルカ殿」
フルカムトは吐息をつき、肩を竦めた。
「皆が皆、貴方のように礼を失することが無ければ、私とてこのようなことで怒る必要もないのですが」
「でもシー君も遅刻だよね?」
「彼の神はきちんと遅参の報を届けてくださいましたからな。どなたらかと違って」
「ほうほう。それはなんとも礼を失した話だ、なあマクマトゥーナ」
「そうだねーシャー君ー」
むっとした顔のフルカムトは、それでも神殿の中に出来上がった、正方形の卓の一辺についた。他の者もそれに習い、本を手にした知恵の神が口を開く。
「それでは、此度の遊戯における、割譲の会議を始める。おのおの、己の心に腹蔵なく、真実のみを述べるべし」
「誓おう」
「あたしもいいよー」
「宣誓を捧げます」
同時に、卓の上には巨大な地図が広がる。その上に無数の黒い駒が散り、妖しげな気配を漂わせる洞窟や砦、城などが浮き上がる。
さらに、その上を飛ぶ巨大な岩の塊が浮かび上がったところで、知恵の神は満足そうに頷いた。
「では、誰から?」
「俺から行こう」
闘神が声をあげ、地図の上に視線を落とす。世界は北半球に三つの大陸、南にもう一つの大陸、その東に接する群島で構成されていた。
「知っての通り、俺の勇者は西大陸ヘデキアスの、ここから出立している」
小ぶりの白い駒、徒手の青年らしい彫塑が施された駒を、西の大陸のさらに西端にどかっと置いた。
その駒の周囲、すべての地形がどす黒く汚れている。その汚れの向こうに見えるのは現実の世界、荒れ果てた農地や毒で汚染された湖沼、人一人居ない暗黒の世界に見えた。
「現在はここまで到達し、さらに侵攻中だ」
下弦の月を思わせる大陸を、白い駒はじりじりと北東に向けて進んでいく。その前に立ち塞がるダンジョンや砦などが跡形も無く砕かれていく。
「この大陸を支配する吸血王の攻略には、どのくらいかかりますか」
「まぁ、一月は見てくれ。何しろうちの勇者は一人、それなりに時間が掛かる」
「ならば、私の報告をした方がいいでしょうね」
フルカムトは眼鏡を直し、手をテーブルの上に振るう。
途端に無数の白い駒と、その中央で光り輝く大きな駒が、ゆるい円錐型の中央大陸、東側を埋め尽くした。
「うわぁー、すごーい!」
「我が『聖光の兵団 (レイディアント・ミリテース)』は約十万となりました。いささか小規模ですが、この辺りを治めていた諸王との約定も取り付け、勢力も拡大中です」
その辺りにあったあらゆる黒い軍勢は、圧倒的な数の暴力に粉々になり、踏み荒らされて消失した。
「現在は拡大した戦線の収拾と、軍の再編を行っていますが、近々中央大陸を掌握の予定です。無論西大陸への遠征も視野に入れております」
「尻を叩きに来たな。よかろう、遊びはやめて将を射るよう、勇者に伝えるか」
「じゃあ、次はあたしだね」
彼女は手に一枚のカードを取り、中央大陸の南部、いくつもの島々からなる場所に鋭く投げつけた。
深々と紙片が刺さった場所には、海から突き建つ巨大な城があったが、それが崩れ去って残骸と成り果てていく。
「南の海魔将はやっつけといたからねー。今はざんてきそーとー? って感じ」
「それはありがたい。私の軍勢でも海を越えさせるのは一苦労でしたからね。これで移動も侵攻も楽になります」
「いかんなぁ、これではフルカムトに一人勝ちされてしまうぞ」
いかにも嬉しそうにルシャーバが笑う。だが、知恵の神は奢るそぶりすら見せず、黙していた最後に残った神に視線を投げた。
「僕のほうは、いつもと変わらずです」
彼の駒は握り拳のような形をした南大陸、ケデナに置かれた。
そこは北の大陸のいずれよりもどす黒く、彼の置いた小さな白い駒だけが唯一の汚れないものとなった。
その侵攻は闘神のものより遅く、知恵の神の輝きにも劣り、未だに小さな砦一つ落とせないままに居るように見える。
「なるほど。大分難渋しているようだ」
「シアルカ殿のやり方では、今回の遊戯は荷が勝ちすぎたようですね」
「ですが、まだ始まったばかりです。この後どうなるかは分かりませんよ」
「うわー怖い怖い。あたしもヒミちゃんに、もっとがんばれーって言っとかないと」
お互いの実績を交換し合うと、神々は杯を手に地図の様子を追っていく。
「軍勢を指揮する利点は、やはり多方面の戦場から経験点を得られることですね。収穫効率で言えば、我が勇者は他の追随を許さぬものかと」
「だが、薄く広げた加護など、束ねた力の前には紙の楯同然、俺はそう見るが」
「忠言痛み入ります。一匹狼の勇者には気をつけることにしましょう」
「それはいーんだけど、東大陸はどうするの?」
繊細な女神の指が歪んだ三角形の形をした東大陸、モラニアを突付く。
「ああ、しばらく放置してもいいでしょう。そこは空白地です」
「そこは確か、ゼーファレスが平定すると息巻いていたではないか」
「そういえばゼーちゃん、負けちゃったんだって?」
そっけなく放り出された言葉に、ルシャーバは眼を細めて東の大陸に太い指を添える。
「大した敵もおらず、治める魔将も並程度と、鼻息荒く突っこんでそのざまとはな。で、奴の勇者を倒したのは誰だ、嵐の神あたりか」
「女神サリアーシェ」
黒髪の青年神の言葉に、女神と闘神は面食らったように、顔を地図から上げた。
「サリアーシェ……久しく聞かん名だ。まだ存続していたとは」
「へー、サーちゃん、お兄ちゃん倒しちゃったんだ。でも元気でよかったよ」
それなりに思うところがあったのか、二人の神はほんの一瞬、過去の記憶を手繰る。
「しかし、いくら増長が過ぎた見栄坊の神とはいえ、廃神に過ぎぬものに倒されるとは。あの小娘め、どんな魔技を使ったものやら」
「見事な戦いでした。彼の女神が使役したのはコボルトの若者、確かシェートという名であったはずです」
シアルカの言葉は、天界でその話題を聞き及んだものなら、誰でもする反応を生んだ。
当惑、そして、爆笑。
「ふ……は、はははははは、コボルト!? あの小さな魔物がか!?」
「あはははははっ、やだ、そんないくらなんでも、あはははははは!」
「ですから、空白地だと申したのです」
つまらなそうに告げると、フルカムトは申し訳程度の小さな犬の駒を置き、その周囲に別の白い駒を置いていく。
その数は次第に増え、十を越え、五十を過ぎ、そして百に届くほどとなった。
「東大陸の勇者達は、一匹の畜生を狙って群れ集まりつつあります。いずれ、その力を奪い合う醜い争いが始まるは必定。そのころには、サリアーシェなどという女神のいた痕跡など、完璧に消失しているはず」
「ゼーファレスに勝っただけでも金星であろうよ。あれも哀れな身の上、小神くらいには所領を手にできればよいがな」
「……そう、ですね」
「なにか、気になることでも?」
問いかけに英傑神は首を振り、地図から視線を上げた。
「会議はここまでにして、そろそろ宴席に移りませんか」
「提案を容れましょう。これ以上はお互いの目標を完遂して後に、ということで」
英傑神と知恵の神の言葉に、闘神と愛乱の女神は相好を崩した。
「やっぱり宴会じゃない! じゃあ、うちの舞子たち呼んでくるね!」
「フルカムトよ、この前の宴で出た火酒を所望したいのだが」
「そこまで面倒を見るつもりはありません。ご用命なら御身が差配をなされますよう」
「僕は少々席を外します。勇者の動向を確認した後、戻ってまいりますので」
それぞれの理由で三柱の神がその場から消え、フルカムトだけがその場に残る。
「それで」
その眼に冷たい光を宿し、彼はこちらに近づいてきた。
神殿の柱の影、そこでうずくまる手のひらに収まるほどの、小さなネズミのほうへ。
「薄汚い本性を晒し、光為す神々の前にまろび出た罪、承知しているのだろうな」
『重々承知しておりますれば』
分け身越しでも分かる圧倒的な神威に震えながら、それでもイヴーカスは口を開いた。
『お願いしたき儀があり、罷り越しました。"銘すら呼び給い得ぬ方"よ』