2、抗うもの
背負っていた獲物を肩から外すと、シェートは粗末な小屋の中に声を掛けた。
「母ちゃ、いま帰った」
「ああ、おかえり」
病のせいで二年ぐらい前から臥せりがちだった母親。陰になって表情は見えないが、今日は体調が良いらしい。木の皮をほぐして作った布で、繕い物をしていた。
「寝てなくていいのか」
「ああ。それより、ほれ」
そう言いながら、こしらえていたものを差し出してくる。
草や葡萄の汁で染めた晴れ着は、まだ青臭さがかすかに残っている。受け取ると、着てみるように促してきた。
すっぽりと被るようにしてきたそれ。少し大きいが、着心地は悪くない。
「おお、よう似合う」
「……無理、したんじゃねえか?」
目を細める老いた犬顔に苦笑すると、深々と息をついて母親は横たわった。
「お前のためだ、無茶もしようさ」
「わああっ! 兄ぃ! 新しいの着てるー!」
「おらも新しいのほしいー!」
「だめだよー、これ兄ぃのとくべつなんだから!」
戸口から次々と駆け込んでくる小さな兄弟達。裾や尻尾に纏わり付いて、嬉しそうに飛び跳ねてては歓声をあげた。
「ほれ、母ちゃが寝るから、外行くぞ」
「うん!」
騒がしい一群れを伴いながら、シェートは村を歩いた。
日差しは穏やかで、めいめいが忙しそうに立ち働いていた。虫除けの薬草を干している家がある。新しい矢に使う水鳥の羽を吟味する職人、遠くから新しい山刀を作る槌音が響いてくる。
「狩り、どうだった?」
通りを行くと、家の前で座り込むカイを見かけた。
水に浸したどんぐりの皮を剥き、渋皮を取っていく。水にさらしてあくを取った後、粉にしたものを焼き固めて食べるのだ。
「うん。大物取れた」
「そうか。もう一つの獲物もか?」
「……うん」
袋の中の石を手渡すと、カイは頷き、腰に引っ掛けていた組紐を石に結び付け始める。
狩りはてんでダメだが、細工物や弓弦を撚ることに掛けては、この幼馴染に敵うものはいない。あっという間に輝石は首飾りに変わっていた。
「早く行け。ルー、待ってるぞ」
「うん」
いつの間にか、村中の者が自分の周りに集まっていた。
体の弱かった母親に代わって、いろいろ世話をしてくれたおばさん。弓を教えてくれた村一番の狩人のおじさん。カイを初めとする幼馴染達、弟や妹。
広場には、どこかしなびた感じのする村長と、その孫娘が待っていた。
自分と同じように、草木で染めた晴れ着をつけたルー。
「おかえり、シェート」
「……ただいま」
シェートはゆっくりとルーに歩み寄り、右手を差し出した。
ずくっと、手が痛んだ。
「あ…………」
差し出した手が、虚空で止まる。
輝石が日の光を浴びて、輝いている。
いつの間にか、全ての人々が、シェートを見つめていた。
「どうしたの?」
「ルー……」
手が痛い。
この石をルーに渡せば、自分は幸せになれる。
ずっと夢だったんだ、ルーと一緒になるのが、自分の。
「……ルー……」
「なに?」
受け入れてしまえばいい、何をためらう必要があるんだ。
この石を彼女の首に掛け、幸せに生きればいい。
「あ……」
両目から涙がこぼれた。
とめどなく流れ落ちていく水が止まらない。
「そんなにうれしい? あたしと番うの」
そうだ、ルーと一緒になる、ひとつになる。
それが現実のことだったら、どんなにか良かったか。
「違う……」
ごまかしていた、必死に。
あんなことは夢で、悪い夢で、これが現実だと。
「何が違うの」
「違うんだ……」
涙で視界がにじむ、どんなに信じ込もうとしても、シェートには分っていた。
「ルー……お前は……」
右手が、だらりと下がった。
「もう、死んだんだ……」
その途端、世界は灼熱した。
気が付くと、周囲を赤が荒れ狂っていた。
村人達もルーも、みんな陽炎のように消えた。残されたのは、ちっぽけな自分。
「う……」
体がひどく冷たい、あんなに近くに炎が燃え盛っているのに。四肢が重く、首すら動かせない。
「ぐ……」
喉が錆びた鉄を詰め込まれたようで、嫌に生臭い。それが自分の血の臭いだと気が付いた時、シェートの頭の中に最後の一瞬が火花のように飛び散った。
勇者を名乗る男、異国の不思議な名前、恐ろしいほどに美しい刃が、切っ先が自分を刺し貫く光景。
「あ……」
震えながら上がった手が、真っ赤に濡れている。火傷を負い、傷だらけになった右手。
その手の中に、確かにさっきまで、幸せがあったはずだ。
だが、自分は戻ってきてしまった。
ルーが殺されたという事実、そのことが忘れられなかったために。
「ああ……」
夢の涙が、現実に溢れかえった。
「……ああ……ルー」
もう炎以外は見えない。ルーの物言わぬ体も、道に倒れ伏した仲間の骸も、身動きできずに火と煙に巻かれて死んだであろう母親や、幼い兄弟達も。
「ああ……うあああ……」
痛みと後悔が、こみ上げる。
死の忘我が見せた優しい幻を振り切って、自分は何のために、今わの際のむなしい現実に立ち戻ったのか。
コボルト、呪わしいその生に。
戯れに魔王が創り、他のあらゆる魔物の隷下、食料、無聊の慰み者としてのみ永らえることを許されたもの。
人の世においても、組し易く、知性の低い野卑な雑魚と言われ、戦士や騎士、あるいは魔法使いの術の的として用いられる存在。
魔物の最下層民、哀れな犬っころ。
「あぐ……うう……ああ、ああああああああ」
誰も悲しまない命、死という役割を担わされた出来損ないの道化だ。
そのことを思い、悲しみだけが心を支配する。
悲しみだけ?
――否。
「いやだ……」
シェートは、萎えかけた腕を伸ばした。
例えそうだったとして、なぜ自分が、自分達が手折られなければならないのか。
「こんなの……いやだ……」
魔からも人からも遠ざかり、世界の片隅で身を寄せ合い、日々の命を永らえることだけを願って暮らしてきた自分達が。
それでも、世界は受け入れろというのか。
弱きものとして搾取される宿業を。魔物として追われ、処理されていく日々を。
自分達は黙って頭を垂れ、ひたすらすりつぶされていけば良いというのか。
「いやだ……っ」
枯れかけた命を燃え立たせるように、体を起こす。
ふらつき、胸からあふれ出す血が増えようとも、小さな魔物は両足で立った。
こんなことをしても、死ぬのが少し早まるだけだ。
すでに周囲は劫火に阻まれた。遅かれ早かれ、あそこで焼けている仲間達と、同じ運命を辿るだろう。
世界にとって、何の意味もない自分。何かを揺るがせるだけの重さなど持たない。
死に掛けの、最弱の魔物、そんな一匹に何ができるのか。
それでも、何かせずにはいられなかった。
甘い死の夢に逃れられないなら、生の尽きる一瞬まで、何かに抗っていたい。
悔しさを両目から溢れさせ、それでも小さな吻から牙をむき出して、叫んだ。
「お前を殺してやるぞ、勇者あっ!」
思っていたほど声は張れなかった。
勇者が目の前にいたとしても、気づかれないくらいの声量だったろう。
だが、応えはあった。
『復讐を望むのか、小さな魔物よ』
頭の中に声がこだまする。
透き通った声、世の中の美しいものを全て集めて、練り固めたような。
「おまえ……だれだ」
『復讐を望むか、と聞いたのだ』
声は容赦がない。こちらの疑問などお構いなしに言葉が続く。
『早く応えよ。さもなくば汝の魂は闇に転げ落ち、怨讐の刃を振るうことも叶わぬぞ?』
相手は決して魔物ではない。魔王は強さを存在の秤としたのだ、弱さゆえに朽ち行くものに差し伸べる手など持っていない。
それでも、
「……のぞむ」
シェートは構わなかった。
声は、言外に示しているのだ。望みを叶えてやろうと。
「俺は勇者を殺したい……仲間を、母ちゃを、弟達を……」
消えかけそうになる意識を繋ぎとめ、シェートは絶叫した。
「ルーを殺したあいつを、必ず殺してやる!」
『よかろう』
その瞬間、シェートの全てを白い光の柱が包みこんだ。
『それでは、お前はこれより私のものだ。その代わり、お前に勇者を殺す力をやろう』
「……おまえは……いったい……なんだ?」
『私はサリアーシェ』
光のはるか先、想像も付かないところから降る声は、宣言した。
『天に侍る、女神の一つ柱だ』