エピローグ、「それが、私の願いです」
ケデナ大陸の、中心から少し南方に位置するジェデイロ市。
そこは、この地が『暗黒大陸』と呼び習わされるようになった契機の場所である。
南西方向に広がる大森林と、南東に広がる大山脈連峰、そして、それらのはるか南に高くそびえる『竜の頂』。
それらに隣接するように建設された商業都市は、エルフ、ドワーフ、そしてドラゴンという、この世界における原住異民族たちとの、交流の玄関口だった。
ジェデイロ市を築いた初代市長、ジェデイロ辺境伯は、この大陸を『人界の果て』と評し、人知の及ばぬ『闇の世界』と述懐した。
だが、魔王軍の魔将"繰魔将"エメユギルの侵攻によって、その言葉は意味を変えた。
あらゆる場所に跋扈する、魔物たち。
すべてを操り疑心を蒔くと言われた知将、エメユギルによる離間、背信、内部分裂により、あらゆる団体、コミュニティが壊滅的な被害を負った。
おそらく、最も魔王軍の中で『効果』を上げた侵略地。
それはもはや、過去の話となった。
『見えたぞ! 勇者だ! 勇者たちが帰って来たぞ!』
街を囲む胸壁に、鈴なりになった市民たち。
老若男女の別を問わず、それどころか争いいがみ合っていたはずの森の民と巌の民でさえ、肩を並べて南へ続く街道を見つめている。
ひるがえる無数の戦旗は、"繰魔将"討伐に結成された義勇兵たちのものだ。
騎士団の旗やエルフたちの吹き流し、ドワーフの織物など、特色あるものに混じって、目立つ意匠の旗がある。
白地の布に黒々と、円の内側に六枚の葉を思わせる図柄が描かれた紋章。
それこそが"英傑神"の勇者、岩倉悠里を示す『家紋』だった。
「見ろよユーリ! あの連中をよ!」
無骨な鉄鎧を身に付けた大男が、頭一つ背の低い青年を抱き寄せる。
左肩に担いだ斧には無数の刃こぼれと、うっすら血脂の痕跡が残り、鎧にも焦げ跡や擦過痕が無数についていた。
「まったく現金な奴らだぜ。俺らが"繰魔将"の所へカチ込みに行くって聞いた時には、しかめっ面で反対しやがったくせに」
「そう言うな。いくらユーリが古今無双の勇者とはいえ、私たちだけで本陣を急襲するともなれば、不安になるなという方がおかしい」
そう言ってたしなめるのは、栗色の髪をなびかせた鎧姿の女性。勇者とほとんど背丈は変わらず、男のものよりも細身の鎧で身を固めている。
遠征の際には盾を所持していたのだが、最後の戦闘で砕けてしまい、左腕の籠手にベルトの擦れた跡が残るのみだ。
「だが、これでワシらの、いやユーリの実力証明は成った。都市連合の石頭も、頑固な鉄喰らいも、そして……森の大母様たちも、勇者に帰順するじゃろうな」
着けていたフードを下ろし、金色の髪を流す少女。その耳は鋭く長く、色濃いエルフの血を雄弁に語っていた。
そして、壁の上で騒ぎ立てる同族たちの姿に、柔らかく微笑んだ。
「ああ、ああ、人共とは、全く面倒なものよ」
少し離れてついてきていた、大柄な姿が仲間たちを押しのけ、黒髪の青年を背後から抱きすくめる。
赤い長髪を揺らし、顔に残虐な笑みを浮かべた妙齢の女性。
その胸は、豊満だった。
「吾が背の武勇など、一目して瞭然であろうに。このような稀なる貴石を、あたら疎かにするとは……やはりそちは、人の世には過ぎたる至宝。このような芥共の巷など忘れ、吾が一竜と永遠に番おうではないか。のう?」
「ダメ、です。行かせ、ない」
真っ黒なローブに身を包んだ姿が、豊満な美女の袖を引く。顔どころか手足さえ見えないように着込み、正体も分からない。
ただ、その声だけは、女性を思わせるものがあった。
「ユーリさんは、わたしの、いのち、ですから。この身を、かけても」
「……」
いら立ちと呆れがまじりあった吐息が、巨大な美女から漏れる。炎と硫黄を思わせる、きな臭さが周囲に漂った時。
「ごめんシャーナ、頭が重いんで、ちょっとどけて」
頬を染めた青年は優しく抱擁を解いて、それからローブ姿に向き直った。
「前も言ったけど、君の命は君のものだから。その」
「ユーリさんは、わたしに、イフという名を、くれました。なまえ、それは、いのち」
「虚仮なる混ざり者めが! 吾を差し置いて、背より賜った名を誇るなど、全くもってうらやま度し難い!」
二互いの視線がぶつかり合い、緊張が走る。
青年が助けを求めるように投げた視線を、他の仲間たちはやんわりと、あるいは露骨にやり過ごす。
意を決すると表情を引き締め、この場を取りまとめるために声を掛けようとした。
「勇者殿、並びに従者の方々、無事の御帰還をお喜び申し上げます」
礼服を身に付けた壮年の男性が、空気をあえて読まずに割って入る。
ジェデイロの市長、ツブヤの『心遣い』に、青年は安堵した顔で片手を差し出した。
「ありがとうございます。義勇兵の皆さんのおかげで、助かりました」
「百名足らずの小勢でしたが、お役に立てたようで何よりです」
「重傷を負った人もいますけど、全員無事です」
実のところ、"繰魔将"を討伐した段階で、義勇兵の中から伝達を飛ばしており、戦果の報告は終わっている。
仲間内のいさかいを、うやむやにしてくれたのはありがたいが、本来はこんな風に直接出向くべき人ではないはずだ。
肩越しに市長の背後を見ると、微妙な距離を保ちながら立つ人影がある。
こちらの視線を察したのか、市長は声を潜め、忠告した。
「勇者殿に目通りを願う者です。数日前より街に逗留しております」
「どういう人、なんでしょうか?」
「遠国よりいらした貴族の令嬢、とのことですが……あの風体ですから。勇者殿もお疲れでしょうし、面倒であれば追い払いますが」
実際、彼の言葉はかなり言葉を控えたものだ。
短く切りそろえた髪は、長旅と疲労のせいであせてパサつき、身に着けた皮の鎧も、闘争の痕跡で擦り切れている。
顔に目立った傷はないが、荒れてこわばった両手は、見ていて痛々しい。
令嬢というより、駆け出しの傭兵と言った方がふさわしい姿だ。
もしかすると、剣を握って日が浅いのかもしれない。
「いいですよ、俺なら大丈夫です」
「……厄介事であれば、すぐにお声がけを」
「いらぬ心配ぞ、背には吾がついておる」
市長が女性を呼びに行く間、仲間たちはその女性を、それぞれの言葉で評した。
「なんか、きったねえ格好だな。貴族の娘とかフカしだろ、ぜったい」
「斯様なみすぼらしさで、吾が背に近づこうとは。身の程知らずめ。不埒を働かば、即座に燃え散らして進ぜよう」
「大方、ユーリの評判にあやかろうという傭兵じゃろうて。適当にあしらって、魔王との戦いで使い倒してやればよかろうよ」
「旅装も兼ねているのだろうが、何やら鬼気迫るものを感じるな……くれぐれも、油断はしないでくれ」
「だいじょうぶ、です。ユーリさんは、わたしが、まもります」
市長に導かれ、やってきた彼女は、青年を無遠慮に睨みつけた。
色めき立つ仲間たちを片手で制すると、真正面から向き合う。
値踏みされている、こちらの何かを確かめるように、上から下までをじっくりと眺めまわしていた。
「……無礼を、お許しください。"英傑神"の勇者、岩倉悠里殿」
思ったよりも声が若かった。目の下に疲労の影が浮かび、日焼けと土ぼこりで薄汚れてはいたが、その下に気品と物軟らかさの残り香を感じる。
だが、語る言葉は冷たく、厳しかった。
「神の使徒、世に平和をもたらす勇者、とは名ばかりの験を、余りに多く見すぎて参りましたので」
「無礼者! 汝が如き薄汚れた下女風情が! 吾が背を値踏みなど、恥じ入ってその場で燃え散れ!」
「シャーナ、駄目だよ。この人にも事情があるんだから」
「吾が背よ……そちは甘すぎる。そんなところがまた、愛いのだが」
何を思ったのか、目の前の女性は腰に吊っていた剣を引き抜き、掲げて見せた。
それは、彼女と同じぐらい、薄汚れたみすぼらしい代物だった。
血溝の部分に彫金と象眼の飾りがあったが、その大半がはげ落ちて、元の意匠さえ分からないほど、無惨なありさま。
刃こぼれもひどく、このまま鋳つぶして打ち直したほうがましなレベルだ。
それでも繰り返し補修し、ここまで扱ってきたのが分かる。
「お願いがございます」
「……俺で、聞けることなら」
「ユーリ! お前またかよ!」
「軽率じゃぞ、馬鹿者!」
その場でひざまずき、手にした剣を青年に捧げると、腹の底から振り絞るような声で、叫んだ。
「我が名はリィル・ユル・フリグリッド! リミリス王家に仕えし、フルグリッド伯爵家の第三王女にございます! どうか、この剣をお受けください!」
「今、リミリスと言ったか? フルグリッド家と?」
女騎士が進み出て、ひざまずいた側に寄り添う。それから、抱き上げるようにして、その場に立たせた。
「フランバール・ミルザーヌと申します。当家は元々リミリス王家に所縁ある者、フルグリッド家も存じ上げている。そんな貴種である御身が、なぜこのような」
「……では、なおのこと。フランバール様、勇者殿に口添えをいただけないでしょうか」
「僭越ながら、承服いたしかねます。御身に戦働きは、荷が勝ちすぎていると見受けられますゆえ」
「悪いんだけど、そこを曲げて、何とか聞き入れちゃくれないかね」
いつの間にか、新たに二人近づいてくるものがある。大柄な鎧姿の男と、赤毛で革鎧にマントを付けた女性。
その姿を見たとき、意外な声が上がった。
「お……おぬしはエルカ!? エルカ・モーレッドか!」
「んー? なんだいなんだい、久しぶりだねぇ。元気してたかい、コスズ」
金髪のエルフと親しく挨拶を交わした女性は、改めて青年に向き直った。
「別に、アンタのお仲間に入れてくれ、ってわけじゃないんだ。そういうのは、まにあってるんでね」
「我らが本懐に御助成いただきたく、その対価として、我らを存分にお使いいただければと、御願いに参上した次第」
言い添えた偉丈夫の騎士、その片目は潰れている。痛々しい痕跡を隠しもせず、楚々とした風情で頭を下げた。
「話が見えねえぜ、おっさん。その本懐とやらの中味次第じゃ、うちのユーリは絶対に首を縦にゃふらねえよ」
「吾が背の心映えにそぐわぬ、不埒外道な頼みなら、誰に諮ることもなく、吾が燃え散らしてくれようぞ」
仲間たちの疑問に答えるために、リィルという名の少女は、決意を口にする。
「我ら、"審美の断剣"の勇者、逸見浩二が遺臣。志半ばで倒れた彼の無念を晴らし、世に平穏をもたらす一助を成すべく、剣を取る者」
「平たく言えば、仇討ちさ」
「その仇、というのは」
倦み疲れていたはずの彼女の瞳が、燃え上がった。
「コボルトのシェート」
仲間たちは驚き、拍子抜けた顔をし、あるいは笑おうとした。
その全ての言葉を、態度を、押しとどめる、強烈な憎悪。
積み重ね、積み上げてきた意志を薪にして燃え上がるそれは、物理的な圧力さえともなって、小柄な少女からほとばしる。
「兄神殺しの邪神、女神サリア―シェの使役。モラニアにて百人の勇者を屠り、神の軍勢十万を滅ぼせし怪物を、この手で、殺すこと」
語る彼女の姿に青年、"英傑神"の勇者、岩倉悠里は悟った。
このみすぼらしい姿は、結果なのだと。
汲めども尽きず、止まるところを知らない、強烈な怒りを灯す燈心と、成り果てたがゆえに。
「それが、私の願いです」
恩讐が、楔のように、打ち込まれた。
人界の果て、先も見通せぬ闇の大地に、陰々と。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。お待たせした七章も、何とか完結できました。
次はいよいよ最終章。すべての運命の綾に、決着がつきます。
公開はなるべく早めに、できれば今年中か、来年ぐらいにはと宣言しておきますね。
どうか、次回もお付き合いください。
ところで、まったく関係のない話なんですが「進撃の巨人」のライナー・ブラウンって、いいキャラですよね。