29、「終わらせよう、すべてを」
なにもかもが、静寂に包まれていく。
目の前で消えていく隆健の姿を瞬き一つせず収めると、ルシャーバは立ち上がった。
「戦は終わった。貴様の勝ちだ」
これ以上、語ることは何もない。約定の通り、掛けの代として示されたものは、必ず履行することになる。
「……お待ちください」
「待てと言われても、待つよりほかはない」
石になりつつある下半身を示し、肩をすくめる。女神は神妙な顔で近づき、それから深々と頭を下げた。
「此度の決闘で掛けられた約定、こちらの都合で、取り下げることは可能でしょうか」
「……なぜだ」
サリアは水鏡に振り返り、帰り支度を始めていたコボルトを目で示す。それから、はにかんで告げた。
「私は、死ねなくなりました。幾星霜の彼方に続く年月を積み上げようとも」
「――ふ」
その言葉の意味を悟り、ルシャーバは、爆笑した。
結局、自分はただの道化で、恋や愛などとは無縁の、武辺者でしかなかったのだと。
「ふははははははははは。そうとも、我が愛しの姫神は、名も無き小さな花をこそ、愛でるのであったな。であれば、あれを忘れて忘我に沈むなどもってのほかだ」
「……もうしわけ、ございませんでした」
「ああ、全くだ」
とはいえ、これはこれで、そう悪くはないだろう。
俺の口下手は去っていった勇者のお墨付き、無様な道化ではあったが、どうにか格好は付いたようだ。
「息災でな」
「はい。御身もどうか、お心安からかに」
女神は笑い、再び頭を下げる。
まぶたを閉じ、"闘神"はつくづくと、今回の戦いを振り返る。
奇妙で、不可思議で、切なくなるほどの、得難い一戦を。
そして静かに、物言わぬ姿と成り果てた。
夕暮れの中、温泉の湯気がむらむらと立ち昇る。
すべてが終わり、この宿泊所に引き上げてきたとき、意外な客が風呂を浴びていた。
「あー、マジで沁みるわぁ……今回がんばりすぎたもんなぁ」
黒く丸い塊が、頭に手拭いを乗せ、湯船のヘリでどっと息を吐く。
その側には山盛りにされた温泉饅頭。
「湯加減良好。ケデナへの渡航前、ここでの湯治、推奨」
水を得た魚のように、青い姿がすいすいと黒い湯の中を泳ぎ回る。
尻尾の先にとっくりと猪口の乗った盆を、器用に維持している。
「お疲れさまでした。とりあえず荷物はそこに。水分補給の後、ゆっくり入浴しなさい」
『竜洞温泉』と襟元に書かれた半纏を身に付け、調理場で作業していた赤い姿が、包丁片手に告げる。
どうやら今夜の食事を担当する気らしく、すでに煮炊きを始めていた。
「何を呆けているんだい? ほら、一杯どうぞ」
同じ半纏をまとった白い姿が木のカップを差し出し、それを一口飲む。
それから、フィアクゥルは叫んだ。
「なんでお前らが、こっちにいるんだよ!」
「今回の戦い、お前たちの負担を鑑みてのことです。特例中の特例ですが、今日一日かぎりということで、ゴリ押しました」
「……そ、そうなのか」
シェートと顔を見合わせ、それ以上の詮索を脇に置くと、言われた通り飲み物を飲んでから、湯船に入る。
そこでようやく、実感がわいてきた。
「勝ったんだなー」
「うん。フィー、いっぱい、がんばった。ありがとな」
「ギリギリ感あったけど、終わってみれば、なんとかなってよかったよ」
そんなことを話しているところへメーレが近づき、こちらをじっと見つめた。
「ケデナへの渡航、二週間後」
「え……明後日ぐらいでも問題な」
「絶対、駄目」
湯船の中が氷水になったかと思うような、冷厳な宣言。生真面目な癒し手の後ろで、グラウムが腹を抱えて笑っていた。
「メーレもさんざん妥協した結果だ、受け入れてやれよ。最初の案だと、一年はここで過ごす羽目になってたんだぜ?」
「いくら何でも長すぎだろ」
「むしろ、短すぎ。二人の心と体、重度の疲弊」
そう言われて、フィーは隣のシェートに振り返る。元気そうにはしているが、つい数日前に一度死にかけているのだ。
こっちは平気でも、ガナリが万全でなければ意味はない。
「そうだなー。俺も頑張りすぎたし、しばらくのんびりしようぜ」
「……ああ」
「ところで、サリアは?」
その問いに答えるように、お湯の水面に何かが滑り進んでくる。
色とりどりの花を編み込んだ籠が、いい香りと一緒にこちらの目の前に浮かんでいた。
「私だけのけ者、というのは無しに願いたいからな」
「めんどうだ。お前、ずっとこっち、いろ」
「もしかすれば、そうなるかもしれぬ」
意外な一言に、シェートが姿勢を正す。先を続けるように片手を上げると、女神は神妙な顔で頷いた。
「"英傑神"との同盟を前提に、交渉に入ることにした」
「マジかよ。相手の方は?」
「まだ使者さえ送っていないがな。ただ、彼の神の目的と心根を確かめ、問題ないと判断できれば」
サリアの手が、シェートの肩に乗る。
優しくさすり、慈しむ姿に、思わず目が離せなくなった。
ああ、こいつも意外と、女神なんだな。
「同盟を組み、魔王を討伐する。それが成った後で、私は遊戯を辞退するつもりだ」
「そう、か」
「今まで苦労を掛けたが、これでようやく、シェートも戦わなくて済むようになる」
シェートはぼんやりと女神を見つめ、それから胸元の石をそっと握る。少し戸惑っているようだったが、それでも笑顔で頷いた。
「あと、魔王だけ、そうだな?」
「それさえ、こちらの持っている情報を渡すだけでもいいだろう。無理をして、前線に立つ意味もない」
「いやいや、そこはちゃんと名を売っとけって話だよ。コボルトのイメージアップのためにもさー」
山盛りの温泉饅頭をもりもり食べながら、グラウムが笑う。その意見を受けて、こちらにさました白湯を差し出し、ソールも頷いた。
「ここまでの苦労を考えれば、そのぐらいの実利があったほうがいいだろう。お前は気に食わないだろうが、仲間たちのためにもなることだ」
「……そうか。わかった」
「これで、すべてが終わる。いや」
そう言ってから、サリアはゆっくりを首を振り、言い直した。
「終わらせよう、すべてを」
先の見えない戦いが、ようやく終わる。
神々の遊戯も、巻き込まれたシェートの運命にも、決着がつく。
「心配するな、大丈夫だよ」
湯船の中央に及び進むと、笑顔でシェートを見る。
手にしたカップを差し上げて、誓いを新たに告げた。
「なにがあっても、必ず守るから」
「ああ」
シェートはうなづいて、カップの中味を干していく。
その時、視界の端にちらりと、白い欠片が舞い込んだ。
「雪だ……」
音もなく、静かに、降ってくるそれを、片手で受ける。すこし火照った頬を大気に晒しながら、フィアクゥルは耳を澄ませる。
世界は静かに謳い、冷たく閉ざされる季節を呼んでいく。
白い静寂の下で憩い、新たな時を待てと。
誰もが言葉をしまい込み、ただ空を見つめる。
雪は静かに、地の全てを毛布のように、包みこんでいった。
夜半。
誰もが眠りについたはずの湯船に、ふかりと浮かぶものたちがいる。
竜洞の四竜たちは、互いに距離を取りながら、何もない虚空の一点に顔を向けていた。
【で、実物を見てどーよ】
それは言葉ではなく、聲によるもの。だが、それはあえてフィアクゥルに伝えていない出し方。
時と空をまたぐことなく伝達する竜の聲の奥義の一つだ。
【想像以上だ。というよりも、仕上がりすぎている、というべきか】
ソールの言葉は苦い。また自分の判断ミスを自虐しているのだろうが、今はそれどころではない。
【私たちの感想は一致しているみたいだね。実測値はどうなんだい?】
ヴィトに話をふられ、メーレはためらいながら、現実を明らかにした。
【89.2%】
【……マジかよ】
【むしろ、変異想定、予想より、軽度】
【軽度でそれか】
それぞれの脳裏に送信されるのは、フィアクゥルという仔竜の『魂の形状』のイメージモデルだ。
それはすでに、人間ではなくなっていた。
【補整してどうにかなるもんか、これ?】
【現在の形状、一時的変異。ただし】
【魂の不可逆変異領域は?】
治療者であり、観察者でもあるメーレの顔は、驚くほどに饒舌になっていた。サリア―シェの治療が成功裏に終わったのと裏腹に、仔竜の侵蝕は、致命的領域を踏み越えてしまっている。
【57.8%】
【ついにハンブン越えかぁ……やっぱ、フラッシュバックがまずかったな】
【彼も元は"神去"の者だよ。"呪詛"の毒は?】
【問題なし。むしろ不可逆変異、増えるたび、無効化される】
報告を聞き終え、小竜たちは思い思いに黙り込む。
この先に待つものが何であれ、自分たちの使命は変わらない。
【『フィアクゥル』の保全、これが最優先だ】
【言われなくてもって奴だぜ。なおさら"英傑神"との同盟、成立させねーとな】
【女神のフォローは私とメーレで継続するよ】
【了解。状況整理、完了次第。使者として立つ】
合意を形成し、それぞれの聲を閉じる。
この一件で、だいぶそれぞれの立ち位置も変わった。これが竜神の構想通りなのかは分からないが、まんざらでもないだろう。
それぞれが自分好みの嗜好品を引き寄せる姿を眺め、ソールは独り言ちた。
「必ず、期待に沿ってみせます、主様」
みんな眠っている。
それぞれの寝息を聞きながら、シェートは自分の胸元をたどった。
最初の勇者によって貫かれ、友人によって切り開かれた部分を。
『終わらせよう、すべてを』
サリアの言葉は、ずっと自分も願っていたことだ。
最初の勇者を手にかけた時、すべてが終わったと思っていた。
その全ては思い込みで、殺した時から、何もかもが始まっていた。
最も弱い、経験値稼ぎのために殺される雑魚という立場を捨て、自分は今、想像もしなかった海のかなたで眠りにつこうとしていた。
「終わる、か」
胸元の石を手の中に収め、握りしめる。
今はもういない、大好きだった恋人の思い出に、すがるように。
心の底に押しとどめていた、気持ちが溢れそうになる。
「……ダメだ」
気持ちを切らすな。まだ狩りは終わっていない。
猟行に出たら、郷のことは忘れる。そうでなければ、命を落とすから。まして、今の自分はガナリなのだ。
でも、それが終わったら。
「…………」
眠っているフィーの姿を、見つめる。
一緒にいる、そう言ってくれた。
この苦しくて、辛い勇者狩りの旅で手に入れた、大切な友達。
『シェートには、笑ってて欲しいんだ』
ずっと一緒にというのは、さすがに悪いだろう。
でも時々、遊びに来てくれるくらいなら、いいかもしれない。
そうやって、昔あったことを語り合えるぐらいの付き合いになれたら、いいな。
口元に笑みを浮かべて、シェートは眠る。
たぶん、この旅を始めて久しぶりの、何の憂いもない快さに包まれて。