24、『勝ちましょうよ。折角だし』
朝日が昇りかけていた。コボルトの背で、空が紫に染まっていく。
引き絞られた弓に、冴え冴えと光る金属の鏃。その先端が、わずかに震えていた。
「無茶すんなよ。死にかけてたんだろ」
「いや、俺、死んだ。生き返り、二度目」
それでも、凄惨な笑みを浮かべて、犬顔の魔物は意思を叩きつけてきた。
「最初の勇者、殺し返した。お前、同じ、なるか?」
「そいつは、ご遠慮願いたいな」
相手の呼吸は浅い。ああして弓を構えているだけでも、体力は削れていく。
時間を稼げば、こちらに。
『気を抜くな隆健!』
素早く身をかわし、コボルトを視界の左に収める。
右側には、牙をむきだしてうなる狼。
冗談だろ、こいつだって毒喰らって、くたばったんじゃないのか。
すでに仔竜からは、引き離されてしまっている。あれを殺しておかなければ、こいつらはまた復活しかねない。
とはいえ、不意を打つには距離が遠すぎる。たとえコボルトに迫れても、狼に背中から食い付かれれば、後に待つのは悲惨な死だ。
「…………」
お互いににらみ合い、状況が動かない。
さっきの攻勢も、自分の神規『幻想闘技』の効果で、成立していたようなものだ。
体力が削られ、劣勢になった時、特定のゲージ技を無償で使えるというルールで、いわゆる『超必殺技』が連発できただけだ。
裏を返せば、こっちも限界ギリギリ。毒の不調は体の芯を弱らせ、火傷に右腕切断、右目を潰された時の衝撃が、疲労感としてのしかかっていた。
だが、もっと逼迫した事実が、脳裏にひらめく。
(……これじゃ、逆光喰らうじゃねえか!)
コボルトの背から、朝日が昇ってくる。体感であと二分、奴のほうから、強烈な光が来ることになる。
はめられた、時間がないのはこっちの方だ。
一瞬でも視線を逸らせば、連中が襲い掛かってくる。
さすがは手練れの狩人、歴戦の勇者狩り。痛み分けなんて考えていない、この場でこっちを狩り込める気だ。
(感心してる場合かよ! こうなったら)
足元に転がっている仔竜は、まだ本調子じゃない。朝日が俺の目を奪う寸前、あいつに駆けよって拘束、状況を膠着させる。
問題は、暴れる仔竜を殺さず、制圧できるか。もみ合って、万が一殺してしまったら。
(やるしか、ねえ)
こちらの気配を察して、コボルトが半歩、こちらに近づく。読み切られている、あるいは、仔竜を押さえるという思考も敵の罠か。
誰だこいつを最弱とか言った奴、全員ボコボコにしてやりてえ。
日が昇る、あと少しで、こちらが閃光を浴びてしまう。
ままよと息を呑み、姿勢を傾けた時。
『双方、構えを解かれよ』
知らない誰かの声が、緊迫に割り込みを掛けていた。
神座の扉を開け、入ってくるものがあった。
案内も請わず、その神威だけでここまで押し入ってきたのは、女神だった。
「逃げ隠れした上、無様に負けた分際で、怖めもせず、俺の前に顔を出せたな」
絞り出した罵声に臆することもなく、サリア―シェは透徹した瞳で、こちらをじっと見つめている。
「御身の計らいにより、恥ずかしながら、盤上に戻らせていただきました」
「貴様などはどうでもいい。敵を殺しそこなって勝つなど、"闘神"の名折れゆえだ」
「では、次こそ、その刃を存分に奮っていただければと」
気配が違っている。
闘志とは違うが、自棄になっているのでもない。思うところがあるのか、女神は自分の胸に手を当てて、思いを口にした。
「"闘神"殿、私は、御身に懸想を致しました」
「――――は?」
「わずか七日、星々の生涯と比せば、取るに足らぬほどの間に、育んだものですが」
何を言っている、こいつは。
それはつまり、俺を。
「貴方に、恋をしたのです。貴方であれば、私を、私の全てを捧げてもいいと」
「たわけが! 恋情をガキの戯言と罵倒したのは貴様だろうが! 今更!」
「はい。今更です。挙句、貴方の心を、踏みにじりました」
いったい、これはどういう事態だ。
これではあべこべだ。
最初の立場と、逆転してしまっている。
「愚かなことです。貴方を、その慈しみを、恣にしようとした。最も唾棄すべき、恥ずかしき行いでした」
「だからなんだ! 貴様など、俺は!」
「はい。ですから、これはけじめなのです。始めたものは、終わらせねばならない」
サリア―シェは手にしていた、二つの花籠を足元に置いた。
そして、悲し気に微笑み、一礼する。
「もっと早く、貴方とお会いしたかった。貴方を、知りたかった」
「やめろ……」
「ありがとう。私の星の民を、看取ってくださった、優しい方」
「やめろ!」
なぜだ、どうしてこうなってしまう。
どうして今になって、こんな不器用な形でしか、お前を生かそうと思えなかった俺に、お前はそんな。
「決闘の約定は、結ばれた。たとえ愚かであれ、過ちであれ、互いの尊厳と願いを、俎上に載せたのです」
「……サリア―シェ」
「決着を、つけましょう。如何なる結果になろうとも、私はそれを受け入れます」
口が開かない、何も答えられない。
そんなこちらから、柔らかく視線を逸らすと、水鏡の向こうに語り掛ける。
「双方、構えを解かれよ」
水鏡の向こうで、拮抗していた者たちが、声を見上げる。
女神はその姿を彼の地に投影し、戦人たちを見かわした。
「私はサリア―シェと申します。お初にお目にかかる、"闘神"の勇者、辻隆健殿」
『……あんたか。うちの神様を盛大に振ってくれたのは』
「その節は、御身にも不本意を味わわせてしまい、申し訳ない」
毒気を抜かれた隆健が構えを解き、コボルトも弓を降ろす。
狼が仔竜を拾い上げて下がり、状況は完全に、仕切り直しとなった。
『で、アンタが出てきたってことは、状況が変わったってことか?』
「いいえ。決闘は行います。"闘神"殿は私を求め、私は……私の愚かな願いを掛けてしまった。今ここで、すべての遺恨を水になどと言っても、虚言にしかならぬでしょう」
『どうあれ、オレはアンタらに一回勝ってる。リベンジマッチがしたけりゃ、それなりの掛け金を積み増しするのが、挑戦者の筋だぜ?』
隆健の言葉に、ルシャーバは眉をひそめた。どういう意図かは分からないが、向こうにも考えがあるらしい。
「今の私には、なにひとつ差し出せるものはありません。此度の決闘、負ければ身も心も"闘神"殿に差し上げますので」
『そういうことなら、よそから借金でもしてくるんだな。こちとら、勇者仕事とは関係ない、惚れた腫れたに巻き込まれて、迷惑してんだよ』
「それは、勇者殿個人の益になることでも構いませぬか?」
『買い叩くのはやめてくれ。俺は誠意を見せろって言ってんだ』
物言いは、ごろつきの因縁そのもの。結論も落としどころも見えない『要求』を突きつけることで、女神の判断を狂わそうというわけだ。
こんな腹芸が出来る男とは思わなかったが、おそらく半分は本音だろう。
つまり、痴話喧嘩に巻き込まれた意趣返し。
不敵な笑みを浮かべながら、隆健は相手を煽り立てた。
『そもそも、俺は一人。そっちは三人だ。どう考えても不公平だろ』
「つまり、フィーやグートを抜きで、戦えと?」
『そこまでは言ってないさ。とはいえ、アンタから被った迷惑を考えれば、どっちかを使わないくらいは、譲歩してくれてもいいんじゃないか?』
無理筋の提案だが、悪くない。サリアの性格は実直で、仔竜も狼もひどく傷ついてるのを知っている。
仔竜は無理でも、狼ぐらいは下げられるかもしれない。
『飲めないってんなら、この交渉は――』
『――アンタが勝ったら、竜洞の四竜、ソール、グラウム、メーレ、ヴィトを、"闘神"の部下にする。さらに竜神、エルム・オゥドの財産を全掛けだ』
その場にいた誰もが、発言者に振り返った。
狼の背中に寄りかかったまま、悪辣な笑みを浮かべ、仔竜が勇者の目論見を食い破る。
『あとは、俺も掛けとくか。アンタが勝って、万が一俺が生き残ってたら、奴隷にでも何でもなってやるよ。俺の力は、良く知ってんだろ?』
『子供は黙ってろ。これは大人同士の交渉だ』
『俺は"青天の霹靂"フィアクゥル。"斯界の彷徨者"にして"万涯の瞥見者"、竜神エルム・オゥドの仔だ。そっちこそ、雇われ勇者の分際で、デカイ面すんなよ』
饒舌だった隆健も、その言葉にいったん舌鋒を引かせる。
そんな勇者の肩越しから、仔竜はこちらを睨み据えた。
『それと"闘神"さんよ。アンタの勇者、ずいぶん色々、やらかしてくれたな』
「夜討ち朝駆けは戦の常道。そも、貴様らが言えた義理でもあるまい」
『確かにね。ただ、一戦交える前に、言っときたくてさ』
それは、青く燃え上がる劫火の怒り。
たとえ如何なるものであろうとも、決して許すことはないという、意志と殺意をあふれさせていた。
『死ぬほど後悔させてやる。こんなことなら、まともにやっときゃ良かったってな』
「よかろう。やれるものなら、やってみせよ」
交渉が終わり、沈黙が訪れる。
にらみ合いを続けている勇者たちの顔を見回し、女神は静かに告げた。
「決闘は、明後日の正午。互いが顔を見合わせた時点としましょう。当方は、シェート、フィアクゥル、グートの三名」
「こちらは辻隆健一名、異存はない」
「神規、神器の使用も無制限。その他、起用できるものも、すべて可ということで」
「承知」
そして、地上の勇者たちは振り返りもせずに去っていく。
状況をまとめ終えた女神も、こちらに礼をし、無言のまま神座を出て行った。
残されたのは、紫と桃色の花籠。
『すんません、やっぱダメでした。慣れないことするもんじゃないな』
「いいや。むしろ、貴様を後押しできなかった、俺の不明を笑え」
『失恋した傷口に塩塗るほど、薄情じゃないっすよ、俺』
「抜かせ、青二才が」
花籠を拾い上げ、卓上に並べる。
七つ揃ったそれを、つくづくと眺めた。
それから、何気ない調子で語る。
「あの女神は、不幸な者でな。ろくでなしの兄に懸想され、神々の陰謀に巻き込まれ、あげく己の星の民を、皆殺しにされている」
『……さらっと、クッソ重い話が出ましたね。それで、何とかしてやりたかったって?』
「やることなすこと、的外れの当てずっぽうだったがな。だが、まぐれの一撃が、入ってしまった」
破れかぶれの行為が、かっちりとはまってしまった。
女神の悲しみをすくい上げ、その願いを吐き出させてしまった。
「死にたいと言った。死んで、民たちの沈んだ忘我に浸りたいと」
『ああ、そういうことか。だからアンタは、あの女神を』
「この願いさえ、的外れの当てずっぽうだ」
本当に望むものを与えるのが愛なら、これは明らかに己の自己満足、ガキの戯言だ。
だからといって、
「だからといって、あんな願い、誰が飲めるものか」
『……そっすか』
その場に寝転がり、陽光を浴びる勇者。頷きながら静かに笑う顔は、何の憂いも感じなかった。
それから、こちらに見せつけるように拳を向ける。
『んじゃ、勝ちましょうよ。折角だし』
「折角だからか」
『ただ、俺も死ぬ気でやるんで。今度こそ、殺すことになりますけど』
「元より、恨まれるのを承知でやったことだ。しがらみなく、戦うがいい」
しがらみなくか。
考えてみれば、俺の方はしがらみばかりだ。たった一つの願いのために己を縛り、律し、不自由に甘んじてきた。
神としてあるという事、願い続けるということは、なんとままならぬものか。
「ともあれ、今日はゆっくり休め」
『寝る場所も、無くなっちまいましたけどね』
互いに笑い、続く沈黙に浸る。
今しばらくは、憂いも忘れて憩う事だけを、望みながら。