20、『取捨選択の時間だ』
痛みが、サリアの胸を貫いた。
水鏡の向こうで、力なく倒れ伏すコボルトの体。開いた口から血が溢れ、川岸を鮮血が染める。
びくり、と痙攣する姿に、喉が締め付けられた。
助けなければ、何か自分にできることが。
「いいえ、サリア―シェ様」
いつの間にか、傍らに黒い女神が立っていた。
その手にした巨大な杖を掲げ、うっすらと笑いを浮かべている。
「かの勇者の命は、これまでです」
そんなことはない、そう言いたかった。
だが、冷たい感覚が、足先から急速に立ち昇ってくる。黒い石の戒めが、自らの神格を拘束していく。
「寿ぎましょう、貴方たちの勇戦を。悲しみましょう、武勲の結末を」
嫣然と微笑みながら、"刻の女神"は告げた。
「此度の決闘。"闘神"ルシャーバ様の、勝利です」
それが、サリアの最後に聞いた言葉になった。
黄金の目を見開き、メーレは驚愕した。
シェートの神規は破られていなかった、転移の兆候もなく、魔力の励起も、聲の干渉も一切感じなかった。
残された可能性は、
「事実の置換。結果を『確定』させる神規」
「さて、私からはなんとも」
「ありえない! 掛かる対価、膨大に過ぎる!」
時間と空間を超えて、そこにいることを確立させる神規。シェートの神規は奇跡の発動を封じるものであり、範囲外で行われた事象は防げない。
理屈は分かるが、神々の遊戯は加護を掛けるコストが要求される。
だが、"闘神"の勇者はそれを、平然と踏み倒した。
「それでは、"平和の女神"は、こちらでお預かりいたします」
「させない」
サリアの石像を氷の柱に封じ、黒い女神の前に立ちふさがる。
だが、
「それでは、"平和の女神"は、こちらでお預かりいたします」
すでにサリアの像は、相手のかたわらにあった。
時間遡行による事象への介入。審判としての"刻の女神"が使う権能は、神々の遊戯中では強力に働く。
「まだ、終わっていない!」
「いいえ、これで終わりです。イレギュラーは、充分に楽しませていただきましたので」
「何?」
こちらの問いに答えることもなく、黒い姿が虚空に消える。
意を決すると、メーレは水鏡を竜洞に繋げ、叫んだ。
「グラウム、ソール、猶予時間、五分! 急いで!」
肺が潰れるほどの聲で、フィーは空を駆ける。
こちらが帰還を告げた数分の間に、事態が最悪に落ちていた。
帰りがけ、勇者が雑用をしていたのは確認している。たとえ、こちらが去っていく気配を察知したとしても、ほんの数分の間に移動できる距離じゃない。
魔法、聲、神規。そのいずれであっても、想像を絶する能力のはずだ。
『儀式ナシ準備ナシで、即時発動の転移だとぉ!? ざけんな!』
『ありえない! たとえ奴の権能全てを捧げたところで、贖える能力ではないぞ!?』
今はそんなことを考えている場合じゃない。
メーレは言った、制限時間は五分。つまり、その時間内に何とかしなければ。
(いやだ、やめろ、やめてくれ、そんなのいやだ!)
だが、どれほど聲を振り絞っても、速度が足りない。
風だけでは足りない、それなら。
『あ、おい! やめ――』
背中に火焔を背負い、聲の力で炎を固く絞り、背後に向けて一気に放射する。
歯を食いしばり、首を増強させた筋肉で支え、金属音を響かせて加速。
鼻の奥で血管が爆ぜる音、血の筋が背中に流れて消えていく。
『バカヤロウ! 生身でジェット加速とか死ぬぞ!』
『鼻を起点に磁気シールド展開! 風の聲で気流を制御しろ!』
考えている暇はない。言われたことを竜の脳が直感的に解析し、体にかかる負担と痛みが急激に低減される。
『無茶すんなバカ! 会敵まで十秒!』
川岸が見える、立っているのは間違いなく敵の勇者。
その足元に倒れているのは。
「シ――」
『緊急制動!』
ありったけの聲を振り絞り、進行方向に風と炎を解き放つ。
ほぼ同時に、勇者のつま先が、神規を展開させた。
「あ――!?」
落ちたのが川の中で助かった。岸だったら、落ちた衝撃で深手を負っただろう。
だが、状況は最悪だ。
まるで耳を消音ヘッドホンで覆われたような、不自然な沈黙がある。聲が伝わらず、掛けられていた加護の感触さえ喪失している。
神秘を封じる神規のために、今の自分は何の力もない子供だった。
「来ちまったか」
男は残念そうに、それでも憐れみ一つない目でこちらを見た。
その足元で血反吐を漏らし、ピクリとも動かないコボルトの体。
「どけ」
「無駄だぞ。今のお前じゃ」
「どけってんだよ! シェートが」
「もう死んだよ。俺が殺した」
腰に下げていた山刀を引き抜き、構える。
『やめろフィー! 下がれ!』
『このままでは犬死です! お前だけでも』
「うるせえ! 俺がシェートを助け」
体が浮いていた。
岸が遠ざかっている。遅れて胸に激痛が、脳を揺らす衝撃が、蹴り上げた勇者の右足の裏が、やけにくっきり見える。
「ぐぁ……」
体が重力に引かれて落ちる。胸と背中がめちゃくちゃに痛み、片方の翼が、衝撃でへし折れている感覚が伝わる。
こちらを見上げる男の左拳が、ぐっと握りしめられた。
「……ちく、しょう」
ドラゴンの脳が正確に計測してしまう。
落下地点と男の腕の軌道、それはある点で交わり、こちらの体を粉々に砕くだろう。
こんなことで、こんなにあっけなく。
また自分は、死ぬのか。
(また……?)
その疑問が解析される寸前。
フィアクゥルの体は、ぐしゃりと、潰れた。
拳は、振り抜かれなかった。
いや振り抜けなかった。
おぞましいぐらいの見事な奇襲。こちらの隙を食いちぎる白い顎が、最前まで立っていた場所に殺到していた。
落ちてきた青い仔竜を背中で受け止め、地面に投げ転がす、四つ足の獣。
額に輝く星と、激怒の視線。星狼がこちらを睨み据えていた。
「そうだよな。まだお前がいたっけ」
服の脇側が裂け、そこに赤い筋が出来ていた。敵の牙のどこかが、一瞬かすめたのだろう。じわじわと血が垂れている。
低く唸り、狼は間合い計っていた。
「動物とやるのは、骨なんだよな」
どれほど武術を極めようが、野生生物との戦いは、常に人間が不利だ。
瞬発力、回避、全身力を利用した攻撃、すべて四足歩行の生物の方が上。最低でも武器を持ち、できれば銃で武装して数で押すほうがいい。
「悪いが、借りるぜ」
転がっていた山刀をつま先ではじき、前にした左手で構える。柄の部分が筒状に加工されていて、日本で言うところの『フクロナガサ』に似ていることに気づく。
こいつに棒を差し、槍として使いたいが、刃一枚分の距離が取れるだけでも上等だ。
「勝つ必要はない」
構えを縮め、自らに言い聞かせる。
蹴り飛ばした仔竜は虫の息だ。コボルトは、もう身動き一つしない。
五分、いや三分も持ちこたえれば、諦めていなくなる。あるいは、仔竜の飼い主が音を上げて狼を引かせるに違いない。
狼は口元を引き締め、牙さえむき出さず、静かにうなり続けている。
異様な緊張感に、めまいがする。
胃がむかむかとして、吐き気が――。
「ぐ、げぇ……っ!」
引き締めていたはずの腹筋が緩んで、不快感と痛みに、口から吐しゃ物が漏れ出す。
鼓動が脈打つごとに、血管に激痛が走る。
その隙を、狼は見逃さなかった。
「な……に!?」
目の前が暗くなるのをこらえ、必死にナイフを振り回す。その軌道をかいくぐり、狼の牙が足首に突き立った。
「うがあああああっ!?」
だが、その痛みは一瞬で引く。噛まれはした、牙は皮膚を貫いて、血があふれ出すのを感じる。
しりもちをついた隆健の目の前で、狼の顔が苦痛に歪み、頭がふらふらと揺れる。
その口元から、血ではない真っ黒な液体が、どろりとあふれ出した。
「ど……毒……っ!」
異様な激痛が、足からせり上がってきた。
牙も見せずにうなり続けた狼の奇妙な姿。それは、コボルトがどこかに隠し持っていた毒を含んで、こちらに浴びせるため。
息が苦しい、肺が締め付けられる、自分の意志と関係なく、全身がでたらめに跳ねる。
『隆健、引け! 今すぐ!』
こんなところで死んでたまるか。
とにかく、神規を解除して、神威による回復を可能にしなくては。
「神規……解除」
『いかん! まだ早――』
その瞬間、鎌首をもたげた青い仔竜の憎悪の炎が、隆健を吹き飛ばした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、くそっ、くそがぁあっ!」
背中の激痛をこらえ、フィーが叫ぶ。
燃え上がった森の向こうに、吹き飛んでいった人影は、もう見えない。
怒りと憎しみで目がくらむ。
あいつを殺す、あいつを殺す、殺す、殺す、殺す、絶対に殺――。
『フィアクゥル!』
その聲が、心に冷や水を浴びせた。
周囲の光景に音が戻り、意識が全てを理解する。
自分のすぐそばで、グートが倒れている。白目をむき、浅い呼吸を繰り返す口元から、肉の腐った臭いが立ち昇る。
ワイバーンの毒。神経を侵し、肉を溶解させる、最悪の複合毒。
「あ……あ、グ、ート?」
瀕死の狼の向こうに、血を流したまま身動き一つしない体がある。
呼吸がない。横隔膜の動きがない。拍動がない。
よろめいて近づき、見下ろした体は、物言わぬ躯になっていた。
「おい……なんだよ、これ」
『フィアクゥル』
「しっかりしろ、おい、シェート」
『惚けてる場合か! しゃんとしろフィー!』
そうだ。この場で動けるのは自分だけ、今すぐに処置をすれば、まだ。
『時間がない! 聲で思考加速を行え!』
「そ、そんなもん、俺」
『カードゲームの時のコイン当てを思い出せ! あの時の動きだ!』
飲み込むようにして、聲を頭蓋の奥深くに打ち込む。
その途端、視界が意味を消失し、体感する時間が極端に遅くなっていく。
圧縮された時間の中で、ソールの聲が、重々しく響いた。
『心しろフィアクゥル。ここからは取捨選択の時間だ』