18、「まったく、なんというざまだ」
七日目。
永劫を生きる神にとっては、塵にも等しいひとときだ。
だが、だからこそ鮮烈な記憶は、刻みつけられ、焼き付けられ、消えぬ傷痕となって魂に残り続ける。
己の神座で身じろぎもせず、"闘神"は与えられた事実を、噛みしめていた。
『癒し手の竜よ、俺が間違っていたのか?』
救いを求めるように放たれた問いを、竜の娘は冷たく振り払った。
『なにも間違っていない。当然の帰結』
『貴様はそれでいいのか?』
『癒し手、手を尽す。その結果、受け入れるのみ』
そんなこちらの戸惑いに、それまで黙していた白い竜は言い添えた。
『貴方の奔放さに、彼女は癒された。封じていた望みを、己の心の在り様を、思い出したのです。誰にも言えなかった、死にたいという願いを』
取り繕ってばかりの日々、行く当てのない怒り、本心を知ろうともしない者ども。その中で孤独に叫び続けた女神。
『皮肉なことに、彼女は親友であったカニラ・ファラーダと、同じ結論に達しました。だが、それさえも必死に封じてきた』
『自死の選択、彼女の星、その民の末路、すべて忘却される』
『彼女は兄を信じていなかった。自分の遺骸を託す相手などと、考えもしなかった』
『でも、貴方が来た』
青い竜の顔は、喜んでさえいるように見えた。自分の患者が己の心と向き合い、一つの解決を見出したことを。
『"闘神"ルシャーバ、貴方、彼女を救った。寄り添い、痛み、分かち合った』
『我々には出来なかったことです。主様でさえも』
ひどい賞賛だった。これまでに手にした如何なる勝利の中でも、こちらの魂を根底から侮蔑するごとき代物だ。
『俺は、こんな結末が欲しかったのではない! こんなことなら、最初から軽侮され、唾棄されていた方がましだ!』
『それでも、彼女は貴方に感謝するでしょう。おそらく、愛してさえいるかと』
『ふざけるな!』
求めた先に幸せがあるとは、思っていなかった。激しく争い、あるいは憎悪されることもあるだろうと。
だが、こんなことはあんまりだ。
信用できるから、愛してくれたから、共に歩んでくれたから。そんな俺だから、死を与えて欲しいなどと。
「……馬鹿野郎」
うめきながら、両手に目をやる。
造作もない、あの輝きを手折ることなど、造作もないのだ。苦しみを感じさせることもなく、消し去れる。
愛する者の望みを、叶えてやれるのだ。
忘れない、忘れてなどやらない、俺の記憶に、魂に留めてやる。
そして、新生した星の民に、語るだろう。
愚かだが情の深い、一つ柱の女神がいたことを。
「大馬鹿野郎が!」
だが、そんなことは嫌だ。魂に掛けて、誇りに掛けて、愛する者に掛けて。
絶対にそんなことを、認めてやる気はない。
煮えたぎる憤りに、全身が燃え上がる。
意を決すると、"闘神"は神座を後にした。
ほのかな罪悪感と、別の何かに囚われながら、サリアは茫洋と時を過ごしていた。
最後の日だ。今日で何かが終わる。
罪悪感は、彼を傷つけたことだ。あの優しい戦の神を、あんなに悲しませることになるとは、思わなかった。
いや、思わなかったのではない、無視したのだ。
無視して、甘えてしまいたかった。
「……わがままというのは、これほど度し難いものなのですね、義父様」
神と成って千年以上。ずっと星のために、何かのために、良くあろうと、正しくあろうと努めてきた。
その全ては裏切られ、足蹴にされてきた。
『安心しろ、サリア。誰にもお前を、傷つけなどさせない』
愚かな兄だった。
私を飾り立て、赤子のようにあやし続けた。
金銀で寝床を造り、神殿を綺羅で覆い、気の利いた端女たちを遣わして、気の遠くなるような年月、閉じ込め続けた。
『遺骸は』
『……遺骸?』
『民の遺骸は、きちんと弔われたのでしょうか』
『そなたはなにも、気にすることはない。すべて差配させた』
差配させた、つまりあなたは、何もしなかったのですね。
聞く気も起らなかった。きっと兄は言葉に詰まるか、うるさそうにするか、くだらないガラクタで、こちらをあやすだけだろう。
やがて私は『副葬品』で息が詰まりそうになり、泣く代わりに、兄のご機嫌を取った。
兄が喜ぶような言葉だけを、並べ続けて。
死体から人形へ。
やがて、監視付きで神の庭に戻ると、そこはもう別世界だった。
親しい者は誰もおらず、兄に群がるものか、私を避ける者たちのみ。
『私は裏切りなどしておりません! 神魔の騒乱など思いもよらぬこと! せめて我が民に憐憫を! 彼らの命に謝罪を!』
冷たく分厚い、敵意と沈黙の壁だけがあった。兄の威光でさえ遮ることができない、偏見の念が、足をすくませた。
それでも、氷の刃の上を歩くように、痛みをこらえて叫び続ける。
人形はいつしか、"平和の女神"と蔑称されるようになった。
『我が星のように、幼い星々をも穢し続けるのですか!? あなた方の栄達のために世界があるのではない! 私のような思いをする者が、あって欲しくないだけなのです!』
笑われた、今や天は遊戯なしには考えられぬと。
蔑まれた、魔の者を招き入れ、"調停者"の名を汚した恥さらしと。
妬まれた、兄の栄達で過ごす者に、何も言われたくないと。
やがて、すべてを無視された。
その頃には、サリアの耳に、ひとつの慣用句が届くようになった。
『此度もか。さすがは四柱神だ』
遊戯において様々な栄誉を成し遂げた、天の頂に座す四つ柱の神。
自分には関係のない、むしろ無意識に憤りを投げかけていた、栄光ある者ども。
『貴様を、愛しているのだ』
その中から、思いもよらず伸ばされた手がある。
振り払ったつもりだった。そんなものにへつらうような謂われはないと。
だが、彼は辛抱強く、私を暗い底から引っ張り上げてしまった。
彼の心は、体以上に大きく、立派だった。
今ならばわかる。彼は誰にも告げぬまま、遊戯に勝利し、私の願ったものを叶えようとしていたのだ。
愛する者に誇ることも、当てつけることもないままに。
「ルシャーバ、殿」
どうして私は、今まで彼と出会えなかったのだろう。
彼は言った。私に恋焦がれた理由は、説明できないと。だが、私は今、明確に告げることができる。
貴方に、恋をしていると。
その心映えに、甘えてしまいたいと、思っている。
彼にすべてを任せ、永遠の忘我に沈みたい。
私だけの、小さな我儘を、叶えて欲しい。
「サリア―シェ様、出立を」
青い小竜の顔は、以前のような無関心に返っていた。こちらを見る目は冷たく、観察することだけに留まっている。
「今回の盟が成り次第、戦の主導権を"闘神"殿に譲ろうと思います。そうなれば、ソール殿のご機嫌も、いくらかは安らごうかと」
「その勘案、無意味。ソール、"闘神"、嫌悪している」
「……もしや、怒って、おられるのですか?」
メーレは目を閉じ、それから被りを振った。
「貴方の選択、妥当と判断。治療者、患者の意志、尊重」
「ありがとうございます」
「ただ、私的意見、ひとつだけ」
視線に強い感情を込めて、金の竜眼がこちらを射貫く。
あたかも冷えた水が急速に沸騰するような、唐突で強烈な憤りの放射だった。
「私の命題、使命、果たせないこと。それが、腹立たしい」
「貴方の……?」
「あくまで私的理由。貴方、関わりない事」
それ以上の詮索は取りやめ、神座を出る。
光差す庭には、すでに巌のような体が、佇立していた。
メーレの竜眼には、その立ち姿がひどく、頼りなく見えた。
岩のような体が今にも朽ち崩れ、土に還ると勘違いするほどに。
これまで誰も見たことがない、闘いの神の憔悴が、大気に満ちている。供をした女神もその異様さに気づき、歩み寄るのをやめていた。
「花籠」
意外なことに、ルシャーバは自ら口火を切った。手にしているのは、紫の花の塊。帰還した折に女神が編み上げ、付け届けたものだ。
「花籠は頂戴した。昨日ははかばかしい答えもなく、手を煩わせたな」
「"闘神"殿……?」
「――貴様の願い、良く分かった」
柔和さの欠片もない、魔界の悪鬼さえ怯え死ぬほどの、赫怒が面に浮かんでいた。
周囲の草花が枯れて萎れ、庭の空が灼熱の赤と黒に染まる。吐く息さえ火焔に等しい温度で白煙を上げ、目の前の女神を睨み据えた。
「決闘だ。貴様の勇者と我が勇者、生き残ったほうが、すべてを取る」
「な……なぜです!? 私はそんな!」
「殺してほしくば俺の勇者を殺せ。貴様の勇者を殺した時は、俺に絶対の隷属を誓え」
強烈な威圧に、女神がよろめく。その前を遮って飛び出したメーレが、見えない何かに弾き飛ばされた。
神威、圧倒的な意志の力が、嵐のように荒れ狂っている。虚空に身を潜めていた白い姿が容をあらわし、巨大な竜蛇となって、二人を守った。
「おやめください! 私は貴方と争いたくない! この遊戯を終わらせ、共に歩むことを望んでくれたのでは、なかったのですか!?」
「気が変わった! 所詮、俺は粗野にして蛮夷の神! 貴様とのままごとも、いい加減飽き飽きしたのでな!」
手にした花籠が微塵となり、黒い砂塵になって吹き散れる。
「貴様のような柔弱な女に、なにをとち狂っていたのか。最初からこうして、奪い去ればよかったものを」
「ルシャーバ殿!」
「約定通り、今日までは休戦としてやる。明日の朝、日の昇る時が戦の合図だ。逃げることは許さんぞ。我が神威の全てに掛けて」
それきり、"闘神"は背を向けて去っていく。
取り残された子供のように、女神はその場にうなだれていた。
「……なんだよ、そりゃ」
報告を聞いたグラウムの言葉が、すべてを集約していた。
悪態をつきかけたソールさえ、何も言えないまま、モニターに目をそらしてしまう。
竜洞の全ての竜が、唐突な決闘の宣言に当惑していた。
「私も同じ気持ちだよ。まさかあの御仁が、ここまで分からない方だったとは」
「要するにあれか。手に入らないなら、自分の手で殺す? いや、手に入る、はずだったんだから、それも変か? くそ、わけわかんねぇ!」
「今回、かの神には振り回され続けた。それも、これで終わると思えば気が楽だ」
そう言いつつも、ソールの手は止まっている。決闘が宣言された以上、シェートとフィーに連絡をしなくてはならない。
考察に必要なデータはそろっているはずだ。
だが、彼は動かない。
「いや……これはダメだ。今回ばかりは、俺も先が見通せない」
「なんだよソール、戦闘指揮のテメエがそんなんじゃ」
「分かってる! だが、可能であれば、この戦いは避けるべきだ!」
その一言を断つように、メーレは自らの尾で、ぴしゃりと地面を打った。
全員の視線を集めたところで、改めて指示を飛ばす。
「竜洞各員、地上観測、マニュアルに従い三交代。ソール、即時休憩を厳命、グラウム、食堂で待機。ヴィト、"闘神"の動きを警戒」
そのままモニターに向かうと、今度は地上への連絡を開始する。現状、明確な指示を出すことはできない。それでも、次に起こる予想程度は伝えておかなければ。
「フィー、現状、手短に説明する」
『……交渉決裂、明日には決闘だって?』
「貴方、本当に筋がいい。極めて冷静」
『パーティの軍師だからな。で、かなりまずいのか』
フィアクゥルの素養には目を見張るものがある。こちらがごたついている分、彼のように冷静に現場判断できる者はありがたい。
細かい部分は省き、経緯を解説した。
『つまり、痴情のもつれ、って奴?』
「端的には」
『そりゃソールが荒れるわけだよ。これからどうする』
「野営地、早急に離脱。決闘空間、展開阻止、最優先」
『いっそ"英傑神"のとこまで逃げるか? うまくすれば三つ巴も狙えるぜ』
その発想力は、どことなくグラウムを感じさせた。窮地に可能性を見出す力は、何よりも得難い。
「態勢、立て直し次第、バックアップ再開。交戦、絶対禁止」
『了解。あと、サリアのケアも頼むぜ。オマエら結構、おさなりだからな』
「……分かった、助言、感謝」
連絡を打ち切ると、メーレは背筋を伸ばした。
ドラゴンは、完璧な生き物ではない。強力であるゆえに、雑だ。
凝り性で貪欲で、好きな分野には異常な才覚を発揮するが、興味のない分野に関しては素人以下のでたらめで、いじくりまわす。
フィーの言葉は反射的なものだろうが、鋭い指摘だった。
「わりいな。『心』に関しちゃ、まだまだ『模倣』がたんねーみたいだ」
気が付くと、隣にグラウムが居座っていた。
手にしているのは、透明な液体の入った瓶。
ショットグラスに注ぎ、こちらに差し出す。きついアルコールとエステル香の漂うそれは、熟成された白酒だ。
背後には山盛りの餃子。餡の中に大葉が仕込まれているらしい。
「敵を飲み干すってことで、ゲン担ぎさ」
「……頂く」
焼けつくような感触と、バナナのような香りが、喉を伝わっていく。
このぐらいキツいものを浴びないと、やっていられないというのは、正直なところだ。
「で、お医者センセイの見立ては?」
「サリア―シェ様、この後回診、状況次第」
「そっちもそうだが、オレたちの『初陣』は?」
初陣、という表現は極めて適正だ。
エルム・オゥドという中心を欠いた状況は、これまでにも何度かあった。
ただしそれは『呼べばどこからか来てくれる』という、保護観察扱いでしかなかった。
「主様、フィーと共に、私たち、テスト」
「だよなー。ほんっと、底意地悪いぜ主様はよ。いや、極めて効率的?」
「ゆえに判断、留保」
「どっちにしろ、最後にゃ『うむ、よくやった』ってオチだろうしなー」
結局、主の目線がどこにあるのかは想像もつかない。自分なりに動けたか、そういう自己評価こそを重視するべきだろう。
「現状、私たち、悪手続き」
「ソールは早々にオーバーヒートしやがるし、恋だの愛だのはオレの専門外、ヴィトに至っちゃいつも通り、我関せずだ。見えてるのはお前ぐらいだろ」
「私、サリア―シェ様の扱い、失敗」
長箸で器用に餃子をぱくつきながら、酒をあおる同輩。白酒と大葉餃子の組み合わせがお気に召したらしい。
彼が『食べていない』という事態は、竜洞のストレス値が劣悪になった証拠。どうやら環境の正常化はうまくいったようだ。
「とはいえ、言うほど悪かねーと思うぜ。女神様のあれは、分かってみりゃ当然のドツボだ。バカ兄貴が病気の妹を閉じ込めた結果。マジで死んどけアイツ」
「ソールのケア、私たちでは足りなかった」
「それも同じさ。アイツのバカさ加減は『変わる』前からずっとだろ。後知恵の後悔は腹が悪くなるぜー。疲れてんだよ、お前も」
痛烈な指摘に、青い竜の口が笑いに歪む。周囲を気遣うばかりで、自身の衰微に気づかないとは。医者の不養生、とはまさにこのことだ。
「お代わり。次、アラック所望」
「へいへい。患者の所に行くまで、正気保ってろよ」
山と並んだ蒸留酒の瓶を傍らに、状況を整理していく。とはいえ、整理するべきことはないに等しい。
交渉のテーブルが蹴り飛ばされた以上、戦う以外の道は、ありえなかった。
神の庭は、寂寥としていた。
一部の草木が完全に茶色くしおれたまま、未だに回復していない。大神の怒りと暴威を思うさまに奮えばどうなるかを、示すように。
「まったく、なんというざまだ」
歯ぎしりしつつ、ソールは見分を終え、そのまま扉の方へ向かう。竜洞ではなく"平和の女神"の神座へ向かうために。
「やはり、こんなことだと思ったよ。休憩を厳命、と言われたのを忘れたかい?」
「今度の目付はお前か」
赤い背中に密接するように、白い毛皮の小竜が寄り添う。
その口元に、いつもの薄い笑みはない。
「お前にとっては滑稽な見世物だろうが、俺にとっては屈辱の極みだ」
「主様は君に冷静を期待していない。それを無理矢理、そういう役に就いたあげく、勝手に自己嫌悪している。これを滑稽と言わず、なんというのかな?」
「――ああ、そうとも」
竜洞の頂点に位置する竜たちは、皆、癖のあるものばかりだ。
その四匹のいずれもが『本来はドラゴンでさえない』。
「主様がいなくなった途端、それぞれの化けの皮がはがれている。上手に取り繕えているのは、お前ぐらいのものだ」
「私には『容』なんてなかったからね。こういう『有り方』というだけだよ」
「サリア―シェに、一刻も早く、正気を取り戻させなければならない」
呻くように言葉を絞り出す。先が見えないと言ったのは、この扉の向こうの女神が、どんな振る舞いをするか分からないからだ。
やけを起こして自滅するならば良し、最悪、フィアクゥルを巻き込まれるようなことがあれば、主に顔向けができない。
「本当に煮詰まっているんだね。最初から存在しないモノを、どう取り戻すのかな?」
「仮初だろうがごまかしだろうが、そう振舞っていただろうが! ボロ布でもないよりはましだ!」
「せめて綺麗なドレスにガラスの靴、カボチャの馬車でも整えてやればいいのに」
「俺にできるのは、灰かぶりを労わることじゃない。すべてを灰にすることだ」
そうだ、俺はいつも、こうやってすべてを灰にする。
善かれと願った果てにあったのは、過去も仲間も、愛する人も灰にした末路。
「"闘神"も"平和の女神"も、馬鹿者だ。愛だの恋だの、民への情だの、灰になれば皆同じだというのに」
「やっぱり、君の不機嫌はそれか。それもだいぶ、ひどい焦げ付きだ」
「頼む――少し、黙ってくれ」
「同族嫌悪ここに極まれり。心底無様だよ、今の君は」
その途端、白い体が爆ぜ割れ、燃え散った。
広大な庭が劫火の海に沈み、すべてが灰に変わっていく。一つ柱の神もないことが、唯一の幸いだ。
「八つ当たりをして、満足かい?」
「――っ」
「悪いが、私はこういう性格だ。最も主様に近く、最も遠い、君たちを見るだけの者」
炎が砕け散り、消し飛ばされていく。燃え盛っていた熱量さえ、なかったかのように霧散していた。
そして、空間すべてが『ヴィト』になる。
「なあ、ヴィト。俺は何度間違えればいい。俺という炎を御するのに、幾千年かかる」
「それを知るために、君はドラゴンになり、主様に従ったんだろう?」
「なら、今の俺ではダメだ。女神を憎むしかない。自分から落ちた影を憎むように」
「それが分かっただけでも、進歩はしているさ」
いつの間にか、門の前に青と黒の竜がいた。そこにふわりと白の竜が着地し、それぞれの視線がこちらに向けられる。
「良い感じであったまってんなあ。カロリーのムダだから、次は鳥の丸焼きかローストビーフでも仕込んでくれよ」
「休息厳命の無視、重大なペナルティ。主様に報告」
「お前たち――いや、すまなかった」
扉に歩み寄り、女神の現状を推し量る。
青竜は尾に絡めた酒杯をあおり、黒竜は持ってきた弁当を使い始めた。白い煙を吐き出し、穏やかに笑いを浮かべる白竜。
口元を引き締め、赤竜は扉に案内を乞うた。
「女神サリア―シェに、目通り願いたい」
『女神サリア―シェに、目通り願いたい』
神座に、赤い小竜の声が響いた。
何かを思い煩う前に、サリアは無言で扉を開けさせた。そして、入り込んでくる四匹の姿に、驚いていた。
「まさか、皆様、お揃いとは」
「盟を結んだ相手を気遣ってのこと。何も不思議なことはないのでは?」
相変わらず言葉は冷淡で、それでもわざわざこちらの加減をうかがうくらいには、気にしているのだろうか。
それでも、今ははかばかしい答えが返せそうにない。
「……重ね重ね、皆様にはご迷惑を」
「あー、そういうの良いから。オレらとしては、アンタがどうするかを聞きに来ただけ。それが終わったら引っ込むよ」
「それは――」
最後のやり取りは、明らかに"闘神"からの敵対宣言だった。つまり、決闘は必ず行われることになる。
「嫌も応も、ありません。あの方は確実に、己の勇者を、シェートにぶつけてくる。避けるすべは、ないでしょう」
「よく分かってんじゃん。じゃあ、しなびてる場合じゃねーだろ?」
「私が――私などが、恋情など、抱かなければ、こうはならなかったのでしょうか」
黒い竜が鼻白み、赤い竜の視線が怒りに燃える。
当然の反応を遮って、青と白の竜が進み出た。
「ご自身の言葉を、思い返してみられるといい。恋情とは、かくのごとくあれかし、までしか期待できぬと仰ったでしょう?」
「心、神それぞれ。必ず好意、引き出す言葉。存在せず。"闘神"、彼の理論、従った」
「理屈ではそうでしょう! それではなぜ、あの方はあれほど、私に……!」
まるで、ここで突き落とすために積み上げたような、好意の全て。彼の言葉には何一つ嘘はなかった、そう感じたはずだ。
だとすれば、こちらに飽いたという言葉も、真実ということ。
それとも。
「それとも、私の終わりを委ねられたことで、付き合いきれぬと思われたのでしょうか」
「順当に考えればそうでしょう。彼は貴方を重荷に感じ、恋情を引っ込めてしまった」
「――――」
白竜の言葉に、青竜は視線をわずかに動かしただけだった。
竜たちの反応は、自分がずっと思い悩んでいたことへの答えだ。"闘神"は本当に自分と敵対するのか。
「一つだけ、助言を」
「なにを、でしょう」
「貴方、惑えば、シェートが死ぬ」
決定的な事実を突きつけられ、サリアの中にあったわだかまりが、静かに消えた。
それだけは、絶対に許されることではない。こちらがどれほど苦しもうが、彼は生き残らせねばならない。
「シェートに次第を説明します。その後は、皆様にお任せしても、よろしいか」
「良いでしょう。竜洞に戦闘指揮の一切を委譲してください」
「此度ばかりは、皆様に、おすがりするほか、ありません」
なんと情けない言葉だろう。しょせん、自分の意志など、意地など、ここまでのものに過ぎないのか。
交渉が終了したとみて、小竜たちが去っていく。ただ、青の娘だけは伴神の姿を取って傍らに残っていた。
「メーレ殿も、お帰りください」
「その拒絶、聞けない」
「私の苦痛を、治療としたいからですか」
我ながらひどい口だ。ここまで横柄で、自分本位になれる思っていなかった。
それでも、医師たる竜は、黙って立ち尽くす。
「――シェート、聞こえているか」
心を落ち着け、言葉を平板に。
事実だけを思い浮かべ、彼にするべき指示をひねり出す。
「"闘神"の勇者と、戦いになる。相手は、そなたを殺す気で来る。本気で」
コボルトは黙ったまま聞いていた。その顔を見れば、とてもこちらが平静でないことを悟っていると分かる。
「以後、フィーを通じて竜洞の皆様が、お前に策を授けてくれるだろう。それに従い、生き延びてくれ」
水鏡の向こうで、シェートは笑った。胸に手を当て、こちらに手を伸ばす。
『サリア、だいじょぶだ』
「……え?」
『俺、ちゃんと生きる』
これまで何度も見てきた顔だ。迷い、苦しみながらも、最後にはこちらを導き、進んでいく顔だ。
そうか、私は思い違いをしていた。
「私は、お前に甘えてばかりだ。本当に、済まない」
『知ってる。お前、間抜けな女神』
失えない、彼だけは失ってはいけない。なんでこんなことを、忘れていたのか。
軽々に自分の死などを、願っている場合ではなかったのに。
「メーレ殿、私も戦闘指揮に参加します」
「良い判断。将はかくあるべし」
「それと」
彼女の労わりに、素直に頭を下げた。
「心遣い感謝します」
「不要」
そっけなく、それでも微笑んで、青竜は告げた。
「患者、最後まで見る。医師の仕事」