17、「私を、殺してくださいますか?」
青、白、黄色、赤、そこに最初の彩りを加えて、数は五つ。
今日の色は何にすべきだろう。神座のサリアは、そんなことを考えていた。
おそらく今日は紫、そして最後に飾る色は。
「……最後か」
不思議と、その日を迎えるのが惜しいと感じていた。
いや、不思議でも何でもない、彼の心映えが心地よく、かつてないほどに寛げているのは確かだった。
彼の考えは奇妙だったが、命を惜しみ、互いを分かり合う事への熱情は、本物だ。
それは自分の考えにも符合し、だからこそ話していても楽しい。
「それでも彼は、私の敵、となるのか」
なぜ自分が"闘神"と逢瀬を重ねるのか、それは結局、シェートと自分の勝利のためだ。
どれほど親しくなろうと、それだけは変えられない定めだ。
本当に――そうだろうか。
「メーレ殿」
「何か?」
「"闘神"殿と同盟を結び、魔王と"英傑神"に勝つ見込みは、いかほどでしょうか?」
傍らに侍っていた青い竜は、よどみなく回答を口にした。
「"英傑神"に関しては十分可能。ただし、フィアクゥルの利用法、懸念材料。魔王城に対しては、現状、不利と判断」
「"闘神"殿の勇者にしろ、シェートにしろ、魔王に適さないということですね」
「ゆえに、『"闘神"による"英傑神"の排除』推奨。ただし――」
その道を選べば、さらに力を増した"闘神"の勇者が、敵となって立ちふさがることになるだろう。
だが、
「それは問題ではありません。むしろ彼になら――」
口から漏れ出た言葉に、サリア自身が戸惑っていた。
彼になら、負けてもいい。そう思っていた。
そも、自分は遊戯の勝利に意味を見出してこなかった。
この戦いに身を投じた時から、私という存在は常に『仕方なく』勝利を選んできたのではなかったか。
シェートの復讐を助け、過ぎた所領を奪おうとする欲望を退け、自らの身に起きた不公平の理由を探ろうと願った。
その動機も、すでに完遂されている。
残された願いがあるとすれば、それは。
「フィアクゥルの身柄さえ無事であれば、竜洞は遊戯の勝利を求めない。そうですね?」
「肯定。ただ、私の欲望、別。貴方の快癒、欲している」
「それも、遊戯とは関係ないこと、そうでしょう?」
「あなたがそう感じるなら」
水盆に自らの姿を映し、髪を結い上げて衣装を整える。今日の装いはいつもの薄絹ではなく、"神去"で身に着けた服を参考にしていた。
その時ふと、今日の趣向を思いつく。
「"神去"へ行くことを、彼は受け入れるでしょうか?」
「……尋ねてみればいい。それさえ、あの方、喜ぶはず」
「そうですね」
この複雑な気持ちを、言い表す術はない。ただ、落としどころはには気づいていた。
今日はそれを、伝えてみよう。
庭にやってきた女神は、こんな申し出を告げてきた。
「今日は、"神去"へ参りませぬか?」
「……忌地、禁足地、神を喰らう、呪われた地か」
「お嫌ですか?」
「俺は気にせんが……」
別段、嫌ということもない。
そもそも勇者として呼びつけている連中は皆、"神去"の出身者だ。単純に、あそこが面倒な土地である、というだけで。
「だが、そなたとあの星が結びつかぬ」
「それは道すがら。では、参りましょう」
星の者どもが『地球』と呼びならわす星は、南の星海のさらに南にある。あらゆる命ある星から突き放され、その関りを拒絶されていた。
この星に神はいない。星を支える精霊や大地の精髄が凝った霊肉の存在も、ほとんど存在しない。
降り立った時に感じるのは、身を切るような寒さだ。
「この星が、元はあらゆる星海の中央に座していたのは、知っているか?」
「はい。と言っても、つい先ごろ、"愛乱の君"との戦いで、偶然にですが」
たどり着いたのは、勇者たちの住む国の、高楼がそびえる都市だった。
サリアは何度か足を踏み入れているらしく、人々の中を苦もなく歩き続ける。外見だけをいじった自分は、体の大きさを持て余し気味だ。
「神を喰らう神、傲慢なるもの、劫略するもの、嫉妬せしもの」
「"忌神"あるいは"邪神"、あらゆる人と神を、ほしいままにせんとした悪神」
「神王バラル……我が義父、バルフィクードが一度は仕えた、大神です」
知っている。その話は直接聞いていたからだ。
そして、バラルが治めた主星こそが、この地球と呼ばれる『神無き星』だった。
「竜神殿は言っておられました。この星は間もなく滅びると」
「俺の見立てもそうだ。あと数百年、といったところか。この地に生きる人共も、二百年は持つまい」
実際、神も持たない星に、命が長らえることはない。その星の精髄がよほど潤沢であるなら、ある程度の猶予はあり、人々の願いから新たな神が再誕することもあった。
だが、この星にその見込みは、絶対にない。
「不思議だったのです。この星にも神に祈る者たちがいる。別段、一つ柱に信仰が集約せずとも、祈りと崇敬が積み重ねれば、無数の神が顕現するはずと」
「『抗神の呪詛』だな」
「……はい」
それは、バラルと神々の戦の、末期に生み出された。
バラルの強力な精神支配に対抗するため、魂の領域から『超越者に抗する呪詛』を種族の根源に打ち込んだ。この世界の人々は、その呪詛を今も引き継いでいる。
「彼らは生まれながら『神秘』を拒絶し、それを殺す性質を持つ。バラルの強力すぎた力を払う能力は、神も、魔のものも、等しく打ち滅ぼす」
「たとえ信仰が神を生んでも、魂の呪詛が神を拒絶し、憎悪の内に殺してしまう。この地で神殺しの勲が、数多く語られる理由だ」
むごい話だ。
この星の者どもは、神を望んで手を伸ばしながら、毒塗れの手で自らの神を殺す。
しかも、バラルの行状は、汎世界の者共さえ忘却に封じた忌まわしい歴史。その事実を伝えに来る酔狂な者など、一柱もないだろう。
あまつさえ、そんな連中を勇者とおだて上げ、使い捨ての駒として扱っている。
「この星は、私の反転した像のように、思うのです」
「神無き星の民と、民無き星の主か? それは自虐が過ぎよう」
「そも、堕落したとはいえ、神王が治めた星、私とは釣り合いませんか」
想い人の物言いに、大げさにため息をついてやる。鳴りを潜めていた自責が、またぞろ顔を出してきたようだ。
こういう時は、何か気晴らしでもするに限る。
「そういえば、こちらの遊興は知っているか?」
「私も不調法ですので。ただ、出がけに竜洞から頂いた指南書が」
竜洞の者共も、たまには気が利くようだ。
渡された書付には一日の行程表と、そこで行うべき行楽の子細が指示されていた。
そして連れ立ち、それを丁寧に、遊びまわる。
景色や文物、乗り物に、他愛のない遊び、食事の類、そのどれもが五感を楽しませるに十分だった。
それは破滅を予感した、無意識のから騒ぎでもあった。
おそらく女神も承知していただろうが、こちらがそうするように、礼儀正しく、胸の奥に封じているようだった。
「それで、サリア―シェよ。俺に何を問いたい?」
深更の頃、人気のない海浜に座りながら、傍らの女神に問う。この街の空は地上の灯火に汚され、瞬く光もわずかだ。
それは自分たちを見捨てた数多の星を、帳で覆い隠したいという、願いにも見えた。
「明日で、約束の期日となります」
「それを待たずに、結論を出したいと?」
「いいえ。それでも、今問うておきたいことがあります」
女神はこちらを見つめ、優しげに笑いながら、問いかけた。
「お願いしましたら――私を、殺してくださいますか?」
言葉は、すぐには出なかった。張りつめ、こちらの真意を問うてくる、切望があった。
おためごかしは、許されない。
「自裁の手伝いならば、真っ平ごめんだ。闘い、その結果死するのであれば、その命と心を、この身が擦り切れ果てるまで、懐いていこう」
「そうでしょうね。貴方ならば、そう言うはず」
「――っ」
死の手触りが、そこにあった。目の前の女神が、生きながらに死んでいる姿を見た。
なぜサリアがこんなことを告げたのか、その根底にあるものを、凝視していく。
「後悔か。民と共に死ねたらという」
「いっそ、そうであったらと、何度願ったことか」
「自裁せぬのは死の忘我が、民を真に殺すと、分かっているからか」
「私が消えれば、誰があの者らの死を悼むのでしょう。それだけは出来なかった」
「その上で! 俺に、お前の墓を引き継げと言うのだな!」
「貴方が覚えていてくださるなら、そう思えたのです」
その時、ルシャーバは理解した。
女神の星で墓を掘った者が、最初に弔いを始めた者が、誰なのかを知っていると。
星の最期を看取り、それを悼んだ者になら、後を任せられると。
「俺は! 俺は、そのようなつもりで、憐憫を垂れたわけではない! そなたと、そなたの心を踏みにじった者を、許せなかっただけだ!」
「ありがとう、優しい貴方」
「やめろ! 俺を、俺をそんな風に呼ぶな!」
立ち上がり、身を引きはがす。
それは美しく、甘美で、おぞましい味だった。
目の前で打ち解け、真意を明かす愛しい女の、甘くかぐわしい毒だった。
今ならば、我が手にかき抱き、愛を囁くことさえできるだろう。
その先に彼女の求めるものが、何であるかを無視すれば。
「生きて、永らえ、その先に新たな希望を、求めることはないのか!」
「……消えないのです。どれほど、どれほど、そうであろうと努めても、私の愛は、過去にしかない!」
立ち上がったサリアは、面を凍らせたままだった。
「誰かを乞うことが恋であるなら、私の恋は、民にあった。彼らを見、彼女らを愛し、その営みが続くことを、切に願っていた。それはもう決して、二度と、叶うことはない」
「サリア―シェ……っ!」
「お判りでしょう。私の恋は、とうに壊れていたのです」
ルシャーバは両手を差し上げ、彼女の肩を抱こうとした。
抱き留め、何物からも守ろうと。
その中途ですべてが止まる。何を守ればいい、何を癒せばいい。どうすれば、彼女は砕けずに済む。
無駄なことだ。あの時、砕け散った女神像と同じく、サリア―シェという女神は壊れ果てていた。
復讐は終わった。憐憫を掛けたコボルトは生存し、己の栄達などに興味はなく、新たな命の芽吹きさえ、結局は彼女を癒さなかった。
繋ぎ止めるものがない。自分の恋情など、彼女には何の意味もない。
「貴方が私を愛してくださるなら、ひとつだけ、我侭をお聞き届けくださいませんか」
「……何?」
「"闘神"殿、私と盟を結んでください」
晴れやかに笑い、女神サリア―シェは、希った。
「遊戯の間、私は貴方の助勢を誓います。勝利の暁には、私へ死を、お与えください」