14、「俺を、愛することができるか?」
四日目。
その日の女神は、これまでにない機嫌の良さだった。髪を飾る赤い花に目を留め、ルシャーバは口元に深い笑みを刻む。
「今日の花籠は、そなたの御櫛ということか?」
「まさか。とはいえ、これを身に着けたいと思ったのは、確かです」
思いつめる様子はあるが、内側から崩れていく切迫はない。
こちらに向ける目も、敵意ではなく挑むような、それでいて親しみやすい、柔らかな輝きがある。
その顔を見つめた途端、"闘神"は深々と、吐息をもらした。
「その顔だ。星降りの夜、俺がそなたに見とれた時と同じ」
「……そうなの、でしょうか。私にはなんとも」
「透き通り、何物も見逃さずにはおれぬ、若い猛禽のような瞳だ」
「それほど私は、険を含んでおりましたか?」
「であれば、これほどに惹かれたりはすまい」
世に対し、好奇と親和でもって向き合う姿。なにもかもを見て、触れて、そのことに喜びを感じたいと願う心がある。
そのまま、じっと、目の前の女神を見つめた。
「やはり、無理だ」
「無理とは?」
「そなたを好いた理由、そんなものは、説明できぬ」
それは、狩りの目利きに似ていた。
草むらの中、あるいは茂みの向こう、何とはなしに投げた視線の先、探しもしていなかった獲物を見出すように。
狩られる者も狩る者も、狙い狙われるためにいるわけではない。ただ、己の運命のすり合わせが、たまたま合致しただけだ。
「そこにそなたがいた。それが、理由だ」
「まるで、子供のような物言いですね」
「そうだな。俺は粗野で、物を知らぬ、子供のような蛮夷の神だ」
だが、口にしてしまえば、これほど心地のいいこともなかった。無能であること、無知であることを、あるがままさらけ出す。
目の前の想い人は、ただ静かにそれを聞く。
ああ、そうか。
俺が欲しかったのは、こういうものか。
「私は、一つ気づきを得ました」
「それは驚くべきことだ。で、なんと?」
「恋情というものは、酒と等しいと」
揶揄というには穏やかな笑いを浮かべ、女神は先に立って歩く。神の庭に咲き乱れる花々、その間から赤い一輪を、探し求めながら。
その口から、歌が漏れた。
簡素な韻律と、繰り返される呼び声。
それは恋の歌だった。
日の出と共に働きに出る恋人に向けて、日の入りと共に自分の元へ帰って来いと、道行の平穏と幸いを願う歌だった。
「そなたの星の歌か」
「もはや、歌い継ぐ者もありません。私の中だけに、残された歌です」
「そうか」
すでに、サリア―シェの星は息吹を取り戻していると聞く。であれば、新たに生まれた者たちへ歌を伝え、思い出の接ぎ穂とすることもできるだろう。
だが、それでも失われた事実は覆らない。あり得なかった未来を、女神は歌と共に嘆いていた。
「私は長らくこれを歌ってきました。皆と共に、あるいは独り口ずさむ。にも関わらず、歌詞に出てくる娘のように、誰という一人を、思い定めなかった」
「今は、どうなのだ」
「……今は、この歌詞さえ及ばぬほどの、寂寥だけです」
赤い花は、サリア―シェの胸元で束となっていた。
それはあたかも、緋色に脈打ち、血を流す心の臓を思わせた。そんなこちらの物思いも知らぬまま、いつもの東屋へ歩いていこうとする。
その背中に、思いもよらない言葉が出た。
「そなたの星に、行かぬか」
「……今からですか?」
「その様子では、足しげく通っているわけでもあるまい」
「申し訳ございません。遊戯の終わりまで、星には立ち寄れぬ約定を結んでおります」
それは、"知見者"の策略によって結ばされた約定だと聞いた。遊戯の終わりまで、自らの星に立ち入らず、その代わりにコボルトを使うことを譴責するな、という。
よし。"審美の断剣"を殴り倒した後、"知見者"にも一撃、見舞ってやるか。
胸の内に刻み込むと、"闘神"は虚空に呼ばわった。
「"刻の女神"よ。あるか?」
「はい、御前に」
長大な杖を掲げ、黒い女神が姿を現す。軽く心算をした後、為すべきことを述べた。
「これより一時、サリア―シェの主星に足を踏み入れる。無論、女神も伴ってだ」
「では、対価をお支払いください」
「好きなように持っていけ」
時計が回り、対価が記録されると、イェスタの姿は虚空に溶けた。
もの言いたげなサリア―シェの肩を抱き寄せ、門へと歩んでいく。女神は眉間にしわを寄せたが、やがておとなしく、こちらの導きに任せた。
境界の門を超えると、荒涼とした大地が、目の前に開けた。
ここに来るのは数百年ぶりだ。
死と凍結の気配はすでになく、日の光で温められた大気に、生命の香りがある。
「すでに、緑が蘇っているようだな」
「まだ幼子同然です。地の霊脈もすっかり細ってしまいましたので」
往時をしのばせるものは、どこにもない。道も町も、田畑もなく、木々さえまばらで、川や湖も姿を消している。
地に生えているのは苔や草ばかりで、生き物といえば小さな虫の類が、ちらりと見える程度だった。
それでもサリア―シェは、自らのたどるべき土地を心得て、歩いていく。
「あれが、墓所です」
知っている。
すでに神殿の石積みは風に崩れ、刻まれていた石畳の道も土に埋もれていた。
それでも、盛られた土と墓標代わりの岩は、何とか原型をとどめている。
「私が、星に戻ったのは、遊戯が終わってより百年以上経ってからでした」
「……悲嘆のあまり、足を踏み入れることもできなんだか」
「それもありますが……兄に、止められておりました」
サリア―シェの嘆きは、狂気の域に入っていた。叫びは神の庭に満ち、聞く者の心かき乱していく。この女神が厭われたのは、そういういきさつもあった。
そんな醜態をさらすまいと、ゼーファレスは彼女を閉じ込めたのだ。
「死に絶えた星の上で嘆きながら、私の中に一つの疑問が生まれました」
「それは?」
「この墓所を丹精した方のことです」
ルシャーバは笑い、並んだ墓石を見回す。
「そなたの嫌疑も晴れぬうちから、この地の者を弔った神があった、ということか」
「"闘神"殿は、何かご存じありませぬか?」
「戦勝の宴に出ていた者たちが、伴神を手伝いに出したとは聞いている。それを指揮したのが、かの"英傑神"だそうだ」
返答を聞くと、女神はこちらを見つめ、何も言わずに墓に向かった。
それから手にした花を、一輪ずつ備えていく。
墓の数はそれほど多くはない。百は越えるが、千には届かない。比較的無事な躯を横たえ、どうしようもない『残骸』は、深く掘った地に埋めるほかなかった。
「こうして、弔意を示すこと自体、初めてのことかもしれません」
手の中の花がなくなると、サリア―シェはひときわ大きな岩の前に立ち、髪に差した一輪を手向けた。
「嘆きで目がくらんだ百年、怒りと憤りで神々の間を渡り歩いた百年、疲れ果て神座に閉じこもって幾星霜……それらを経てやっと、でした」
「きっとみな、待ちわびていただろうな。主の帰還を」
「そうでしょうか」
「そうに決まっている」
でなければ、あんな風に神殿を埋め尽くすように、人が死ぬものか。
裏切られ、見限られた神の末路は、そのようにはならない。神殿は破却され、神像は民の手で引き倒され、粉々となる。
だが、この星の者たちは、最後まで神の帰還を待っていた。
そんな民草に、残酷な幕引きをしたのは、俺たちだ。
「申し訳ありません、墓前に花を供えました故、今一度集め直して参ります」
「いや」
ルシャーバは首を振ると、墓所の片隅に生えた、小さな黄色の花に歩み寄った。
慎重に土ごと掘り返し、掌に収める。
「これを、貰っていってもよいか」
「…………」
「どうした、何かおかしなことを言ったか?」
女神の顔は、ほころんでいた。こちらに歩み寄り、神威で生み出した草の籠の中へ、花を活けてしまう。
葉も花弁も貧相だ。香りも立たず、飾りとして用いる者も、おそらくないだろう。
そんな、どんな世界にもありそうな草花を、女神は愛おしんだ。
「花はお好きですか」
「別段、そういうわけでもない。傷を癒し痛みを止める薬草の類なら、いくらか知ってはいるがな」
「私は好きです。この花は、雪が解けて、温かな風が吹く頃、道端に咲きます」
その言葉に、ルシャーバは真実を見た。
この女神はすべてを愛おしんでいるのだ。その愛深きゆえに、一つの者を愛するということができない。
誰に対しても、愛を向けてしまう者。
それは、つまり。
「サリア―シェ」
「……はい」
「そなたは、俺を、愛することができるか?」
目を見開き、女神はこちらの言葉を推し量ろうとしていた。それから、わずかな時を置いて、答えた。
「恋情に関しては、なんとも。ですが……」
「…………」
「ですが、好もしい方ではあると、思っております」
それで十分だった。
掌中の花に目を落とし、"闘神"は安堵した。
「そろそろ、戻ろうか」
「はい」
もしかすれば、ただのおためごかし、であったかもしれない。
話の流れで粗略にもできず、当たりの良い言葉で濁しただけかもしれない。
それでも、女神の愛の範疇に入ったのなら、それでいい。
帰途につきながら、"闘神"はそっと、花籠を抱き留めた。