13、「欲に曇った拳が届くほど、僕も勇者も甘くはないので」
神の庭についた時、女神は東屋で花籠を編んでいた。
水と風の竜はすぐ側にたたずみ、行儀よく供周りを勤めている。
周囲は静かで、梢の鳴る音だけがある。今までの遊戯において、これほどの寂寥を覚える光景が顕れたことは、ついぞなかった。
そんな物思いをもてあそびつつ、"闘神"は東屋に近づいた。
「今日は青の花か」
「そうですね。青は、旅人の安全を願う、餞の色です」
サリアの声は落ち着いていて、昨日ほどの動揺はなかった。
こちらが逢瀬を重ねていた時、地上では血で血を洗う争いが起こっていた。
その事実に、生真面目な女神はひどくうろたえ、言葉もおぼつかないありさまだった。
「勇者の加減はどうだった」
「体は、どうにか無事です……気持ちの整理は、まだ付かぬようですが」
「そのようなことは、往々にしてある。急かさず、相手が物語る時を待つことだ」
女神は黙って頷き、籠を編み上げた。
これで今日も終わりだ。
小さな成果に手を伸ばし、掌に乗せて眺める。
そんなこちらをちらりと眺めやり、女神は新しく籠を編み始めていた。
「なるほど。手すきの時にすべて仕上げてしまえば、いちいち顔を突き合わせる必要もない、ということか?」
「……いいえ。これは、逢瀬の最初の日の分です」
白の花が編みこまれ、雲海のような柔らかな塊が生み出されていく。
確かに、花籠を編むように頼んだのは二日目のことだが、過去にまでさかのぼって約定を結んだ覚えはない。
そんな疑問を察したのか、サリアは少し、はにかんだ。
「考えてみれば、こちらは我を通すばかりで、御身の心を図る気持ちも持ち合わせておりませんでした。そのお詫びと考えていただければ」
「それに、こうして数を揃えておけば、足りない日の分をねだられることもないわけだ」
こちらとしては冗談のつもりだったが、女神は手を止め、返事をのどに詰まらせた。
「いや、すまん。やはり焦らされるというのは、思いのほか堪えるものらしい」
「嫌味を言われるだけのことをしたのは、私の方です。責められて、当然かと」
なにか思うところがあったのだろうか。
以前とは違う気配を感じ、"闘神"は黙ってその場に座り込んだ。
編み上がっていく籠へ織り込むように、彼女はつぶやき、ささやきかける。
「恋情は我執から離れることが肝要と告げながら、私は貴方を嫌悪と偏見でしか見なかった。お心を受け入れるかは別として、それは、卑劣な事でした」
「構わんさ。俺とて卑劣であることに変わりはない。事態に窮したそなたの立場に、これ幸いと付け込んだのだからな」
「――そういうことでは、ないのですが。いいえ、よしましょう」
白い籠を取ると、サリアは自らの手でこちらに渡してきた。
「これで三日。約定はあと四日ですね」
「明日は赤の花を頼めるか。戦場と王と、情熱の色だ」
「はい」
お辞儀をして、女神は去っていく。
二つの籠を手の中に収めて、その色と香りを楽しむ。甘く、香辛料のような匂い、それは今の自分にしっくりとくるものだ。
そうだ、自分は何をやればいいだろう。
自然とそんな思いが浮かぶ。
財貨や宝飾は、受け取りはしても喜ばないだろう。武具などは持てあますだろうし、獣の躯を捧げて、無粋を極めるのはこりごりだ。
「なぁ色男よ。貴様なら、こういう時、何を贈る?」
近づいてくる影に語り掛ける。
祝福された白金の髪も鮮やかな大神、"英傑神"シアルカは、困ったように笑った。
「もしわけありません。僕も色恋には奥手な方でして」
「あまたの善男善女に目引き袖引きされる、"英傑神"殿とは思えん答えだ」
「僕が愛したのは、ただ一人の妻だけです。それ以外は、懇意にさせていただいているだけですよ」
実際、この細面の美形は、天にあって浮名一つも流れてこない。礼儀正しく、互いの仲を深めながらも、誰かを娶ることはなかった。
それが、人であったときに番い、戦乱の中で失った妻に操を立てた結果だと、誰もが知るところだ。
「その妻を問う時には、何を?」
「言葉と時を掛けました。語り合い、睦み合い、折々に小さな贈り物をしたくらいで」
「まったく、参考にならんな。これなら小竜どもから知恵を借りたほうが、まだましだ」
「はい。面目次第もありません」
笑う青年神は、すこし表情を引き締めて、女神の去った方を見た。
それから、こちらを見ずに、問いかける。
「僕たちの盟は、未だに健在と信じていいのですか?」
「どうだろうな」
振り返ったとき、相手の目にあったのは、意志だけだった。
敵意はなく、当惑もない。こちらを確かめるために、言葉を重ねてきた。
「かの女神を想う心は存じ上げていました。そして、貴方が奔放な方であるとも」
「色には惚けたが、志までは捨てておらん。かの女神を傷つけた一つ柱として、あの誓いはより強く、俺の胸に宿った」
「貴方も、それを知るに至ったのですね」
そこでようやく、ルシャーバは納得した。
あの時、あの星で、あの誓いを口にできるということは。
この神は、神々の遊戯における『欺瞞』を、全て知っていたということだ。
「なるほど。あの宴席に来る直前に、貴様は己の勇者、いやさ裏切りの小神から、すべてを聞いていたわけだ」
「僕も罠にはめられた、愚かな神だった。だからこそ遊戯に乗るしかなかった」
「そして、誓いを果たすときは今と、思い定めたのだな」
不思議なものだ。
事ここに至り、"神々の遊戯"はいよいよ、究極の終わりに近づこうとしている。
だが、その最後に集ったどの神も、遊戯の破却を望んでいた。
まるで――あつらえたかのように。
「よもや、遊戯に関わるすべてが貴様の謀、ということはあるまいな」
「貴方の目から見れば、そう思えるのも致し方ないかと」
「だとすれば、これほど迂遠なこともないだろうよ」
確かに、これまでの天界の動きだけをみれば、英傑神が全ての黒幕、ということも考えらえただろう。
だが、もしもそうならば、サリア―シェという異物を認める意味がない。
そして唐突に、ルシャーバは閃いた。
「決めたぞ」
「決まりましたか」
「貴様の首を取り、それを以て、女神への贈り物とする」
驚きに目を見張り、青年は笑った。
「やはり、そうなりますか」
「貴様を討ち、魔王を討ち、俺の首を差し出す。女神は遊戯を破却し、丸く収まろう」
「その後の天界は、どうなりましょうか」
「サリア―シェがどうにかするだろう。出来なければ、貴様がなんとかせよ」
「まさしく、恋は盲目、ですね」
笑みは崩れない。その代わり、温度が下がる。
冴え冴えとした敵意が、大気を支配する。"闘神"の肌目がざわつき、目に険が宿った。
この優男もまた、天にその者ありと謳われた戦の神だ。
なにより、その神威は――。
「僕の勇者は、最後の魔将を討ち果たす目前です。おそらく、十日の内には鎮定が成るでしょう」
「殺し合いはその後で、ということか」
「それまでに、話をまとめておいてください」
爽やかに笑いながら、"英傑神"は滾る声を放った。
「欲に曇った拳が届くほど、僕も勇者も甘くはないので」
水鏡の向こうで、シェートは呆然と空を見ていた。
いつもの忙しく立ち働く姿ではない、村を焼け出された時と同じ、悄然とした顔だ。
相手から物語る時を待て、と助言された以上、こちらかも話しかける気はない。呼べば必ず反応できるよう、神威を掛けたとは言ってある。
そんなサリアに向けて、助言が告げられた。
「過労の兆候を確認。健康状態に問題あり」
「本来、こんな戦いができる者ではないのです。これ以上の無理は、させたくはない」
「であれば、作戦変更を進言」
神座の中には、自分とメーレの二人しかいない。
ヴィトは姿を消したまま、こまごまとした差配をしているようだ。行き届いた伴神振りを発揮する水の竜は、ためらいもなく進言を告げた。
「"闘神"と盟約し、"英傑神"討伐ならびに、魔王の排除に尽力するべき」
「偽りのまま恋人の契りを交わせと?」
「現状、"闘神"への好感度、高水準を維持。推察に異議は?」
サリアは苦く笑った。
彼女の言葉は、怜悧そのものだ。見たままを受け入れ、分析し、正しく順路をたどろうとする。
きわめて正しい分析。だが、それでも。
「それを成せば、私もまた恋の愚かさに取り付かれた者となりましょう。もし、本当に恋する者となったなら、私から想いを告げます」
「了解。ただし、契約関係の締結、一考の余地あり」
「そうだとしても」
それもまた正しい。おそらく彼は、一時的な休戦協定を結び、"英傑神"と魔王をともに滅ぼすことを善しとするだろう。
でも、その後は。
「もしあの方が、私への恋情に誓って、自らの首を差し出した時」
体が震えた。
そんなことは、考えてもみなかったことだ。
これまで自分に言い寄ってきた誰もが、そこまでを支払おうとはしなかった。
だって、神だとて、わが身は大事だから。
死んでしまえば、掛けた恋情など砂漠の水滴のように消えてなくなる。
結ばれることを望みながら、それを果たすことなく、死ぬことを選べるなんて。
「きっと私は、正気ではいられない」
「あれは物の例え。遊戯での敗北、真実の死では――」
聡い竜の娘は、言葉の無意味さに気が付き、押し黙った。
戦人には、ある種の狂気がある。
何かを得る為なら、何もかもを犠牲にしてもいい、そういう信念が。
彼の信念を確かめるのは簡単だ。
ただ、ねだればいい。わが愛がほしければ、即刻死ねと。
そして彼は、笑って首を差し出すだろう。そういう確信がある。
「あの方の願いに応えるのは、なまなかな事ではありません。なぜなら、すべてにおいて真剣であるから。それほどに思い、定めているのです」
己の死をも厭わない誠実さと、飽く事なき欲と生存の追求。
そのすべてを掛けて、彼は私を願っている。
恋という戦場で。
まさしく彼は、戦の神だった。
ならばそれに応ずるべく、自分も全力で戦うしかない。
「あと四日、私はあの方と向き合おうと思います」
盟を結ぶか、戦いを選ぶか、全てはその後だ。
なにより今は、時を稼ぎたい。
「フィアクゥルに伝言を願えますか。あと四日、勇者とは戦わないと」
「了解した。勇者索敵、解除を提案。シェートの警護と慰安に注力させる」
「どうかお願いいたします。こればかりは、現地の者が頼りです」
その時、サリアは自らの神座を見回した。
自生するに任せた草木の中に、赤い花が咲いている。
血のような深紅。輪郭のしっかりした、厚みのある花弁へと歩み寄り、指でたどった。
そっと摘み取り、髪に差す。
「シェート、一つ、伝えておくことがある」
女神は、水鏡の向こうへと、語りかけた。
「ただいま」
フィーが帰って来た時、シェートはいつもの調子で仕事をしていた。無理をさせたくはないが、何もしないでいろというのも、酷な話だろう。
「おかえり。聞いたか?」
「うん。四日はお休み、って話な」
「ああ」
見るからに、ほっとした様子で頷く。やはり、敵に備えるという考え自体、コボルトにとっては負担になるのだろう。
自分はと言えば、敵という言葉自体に、高揚感を覚えていた。
「保存食、どのぐらい進んだ?」
「どんぐり、選り分け、済んだ。肉、魚、いぶした。少しずつ、作り足す」
冬の保存食は、一度に作ろうとすると手間も人手もいる。
何より、乾燥や燻製は時間をかけて行うものだ。本来なら薪集めや防寒着、冬狩の道具や小屋の断熱処理などもするのだが、今回はそこまで大がかりではないと聞いた。
「明日からは窯の番もするよ。そっちは気晴らしに、狩りにでも行ってくればいいから」
「……そうか」
「ずっと頑張りっぱなしだったもんな。ちょっとぐらい休んでも、大丈夫さ」
シェートは撚り終わった弓弦を片付け、鍋代わりの兜を炉に掛けた。そのまま食事の支度を始めるのを、フィーはやんわりと遠ざける。
「おい?」
「今日から四日、家事禁止。全部俺がやる」
「俺、病人違う。そういうの、なんか嫌だ」
「旅の最初は、任せっきりだったろ。そのお返しだよ」
シェートは目を丸くして、驚きと笑いの半々の顔になる。
ぽすっと、手が頭に乗せられ、ゆっくりとこちらを撫でた。
「分かった。ちゃんと休む」
もう少し揉めるかと思ったが、それ以上なにも言わず、木切れを積んだ場所から太い枝を選びだし、小刀で削り始める。
おそらく匙か何かだろう。
こちらは鍋に水を入れ、山菜や干し肉の余りを切り入れていく。
「フィー、そこの水袋、中身使え」
「ん? これか?」
見慣れない袋を開けてみると、中身は殻をむかれたどんぐりが入っている。一つ口に入れてかみしめると、青臭さと、栗ともナッツとも言えない味を感じた。
「軽く砕く。鍋、入れる。味しみて、うまい」
「そっか。んじゃ、やってみるか」
「冬、最後の方、どんぐりだけ、なる」
懐かし気に口元を緩め、告げた。
おそらく、美味さだけではなく、見た目の量を増すためにも使うんだろう。シェートの笑いには、厳しい山の生活と思い出の匂いがした。
「そういや、冬の小屋支度って、どうやるんだ?」
「泥、土、そういうの、隙間詰める。あと、屋根、煙突、空ける」
「普段の小屋にはついてないのか?」
「コボルトの家、すきまだらけ。煙、外出る。寝る時、地面転がる。冬以外、過ごせる」
「で、春になったら、自然と泥も土も落ちるのか」
シェートは頷くと、削り終わった木切れが差し出した。どうやら、鍋をかき混ぜるおたまだったらしい。
「これ、仕事違う。木切れ削る、ただの遊び」
「分かってるよ」
笑いながら言い訳を受け取ると、鍋の加減に振り返る。
その時、枝を揺らしながら風が通り抜けた。
染み入るような冷たさを含んだそれは、秋がもうじき終わり、冬が訪れることを明確に示す先ぶれだった。
「こりゃ、いよいよ備えないとだな」
「この辺り、冬早い、思う。薪、蓄えたい」
「いざとなったら、グートと一緒に泥炭、山ほど引っぺがしてくるよ。きっと冬の間、ずっとあったかいぜ」
嫌そうにグートが唸り、二人して笑う。
何か暖かいものを用意してやったら、喜ぶかもしれないな。
暖かいものといえば、昨日の夜に面白いものを見つけていたっけ。鍋の味見をしながら提案する。
「風呂、入りたくないか」
「……準備、お前、やるか?」
「任せとけ。たぶんビックリするぞ」
そうと決まれば、ソールたちに相談したほうがいいだろう。
温泉なんて造るの、生まれて初めてだし。
せっかくだから、何かご馳走を作ってもいいな。いつものコボルト料理でもいいけど、――産のなにかができないだろうか。
思いつくままにアイデアを検討しながら、フィーは鍋をかき混ぜる。
ぬくい湯気を浴びる顔は、自然にほころんでいた。