12、「フィー、来ない。よかった」
息を詰めて、フィーはまっしぐらに野営地へ飛んでいた。
歯を食いしばり、不安に高鳴る心臓を抑えて。
最初に、そのことへ思い至ったのはグラウムだった。
『あれ……これ、ヤバくねーか』
凄惨な戦い、蜥蜴人の剣士と格闘家の戦い。わずか数分の攻防に、フィーも竜洞の小竜も釘付けになっていた。
それは恐ろしくも美しいやり取りであり、最後の交錯は脳内に焼き付いている。
だが、決着がついた瞬間、不穏が投げ出された。
『もしかして、シェートの所にも、誰か行ってんじゃね?』
『――念のため、女神を確認してきます』
なぜそう思ったのかは問題じゃない。その指摘は胸をざわめかせた。
そもそも魔王は俺たちを監視している。その目が、今に限って止まっているなんてことがあるだろうか。
万が一、こちらが偵察に出ていることを知って、蜥蜴人との戦いを『囮』に使ったとすれば。
『落ち付けバカ! そんなデカい聲じゃ、敵に悟られんぞ!』
「シェートの安全が先だ!」
最短最速のルートをたどり、フィーは六識を全開にした。
野営地に近づくにつれ、不穏な情報が飛び込んでくる。
何かが焦げる匂い、はるか遠くの森や茂みで血が流されている。へし折れ、砕かれた木々や地面。シェートがいるはずの場所を中心に、破壊と不穏が刻まれていた。
そして、大木のある広場にたどり着く。
「シェート!?」
コボルトは、こちらを見て安堵の表情を浮かべた。だが、声もなく片手を挙げたきり、ぐったりと木の根方に寄りかかってしまう。
匂いから感じるのは、軽くはない傷と打撲。おそらく戦い終えて間もないのだろう、吐き出される息に疲れが漂っていた。
「大丈夫か! 何があった! 誰に襲われた!?」
「いや……もう、終わった」
周りを見回せば、壊れた燻製窯や天幕、放たれた木矢が散らばっている。戦闘の痕跡はそのまま森の中へ向かっていた。
その方向は、いざという時のための罠を施しておいたエリアだ。
「グートは?」
「見回り、行った。でも、魔王の見張り、もういない、言った」
「誰が?」
それには答えず、ただシェートは森の奥を指さしただけだった。その態度に不審なものを覚えながら、森の方へ向かった。
「……なんだ、これ」
そこにあったのは、死闘の痕跡。いくつかの大木が折れて、打撃痕が刻まれている。
罠は大半が壊されるか解除されて、機能した様子はない。シェートの光弾が焦げ跡を残し、いたるところで血が飛び散っていた。
ほど近い場所に、胸を酷く裂かれ、あばらどころか肺さえはみ出た、一匹のホブゴブリンの死体がある。
『コモス、つったっけ。"魔将"の元部下』
「魔王城でも見たよ。格闘タイプ、だったみたいだな」
その目は見開かれ、生気なくこちらを睨んでいた。背中を木に預け、半ば飛び掛かろうという姿勢で、口や胸から漏れ出た赤い液体が、膝頭と地面を濡らしている。
『交差法がうまく決まってら。相手の拳を避けながら、斜めの斬り下ろし。そのままコモスが後ろへよろめいて、そこでちょっと間があって、死んだって感じか』
「分かるのか?」
『まーな。大体の流れくらいは』
先ほどの蜥蜴人との戦いと違い、こちらはひたすら激しいやり取りだったらしい。
それでも、シェートが生きていて良かった。
大体を理解し終えて、フィーは問いかけた。
「ゴブリンの墓って、どんなだ?」
『奴らに弔いなんて高尚な概念はねーよ。同族食いをやらかさない貞淑はあるけど』
「……そっか」
フィーは聲を編み、地面を掘ると、その中に死体を横たえる。目を閉じさせようとしたが勝手がわからず、諦めて土をかぶせた。
かなり深めに掘ったから、動物に荒らされることもないだろう。
気が付くと、背後にシェートが立っていた。
「勝手に埋めちゃったけど、良かったか?」
「……ああ。俺、やるつもりだった。すまん」
「いいって。こっちも間に合わなくて――」
「――いや」
驚くほど冷たい声で、シェートは首を振った。
「フィー、来ない。よかった」
「……は?」
それきり口を閉じると、コボルトは天幕に戻って後片付けを始めた。その背中にあるのは、質問を許さない堅い沈黙だけだった。
『そっとしとけ』
「でも」
『なるほど、そういう状況か』
割り込んできたソールは、いかにも面倒といった感じで吐き捨てた。
『女神に対しても、似たような反応だった。おそらく、敵と余計なやり取りをしてしまったのだろう』
「……恨みでも、言われたのかな」
『詮索すんなって。オマエだって、言えないことくらいあるだろ』
結局、フィーも同じように黙ったまま、戦いの後始末に集中した。
収穫した食料は無事で、言葉を交わさなくても、夕食はいつも通りに出来上がる。
そうしてようやく、シェートは煮込みの椀と一緒に、声を掛けてきた。
「すまん。調子、良くない。話、できない」
「……分かった。話したくなったらでいいから」
「ありがとな」
気が付くと、シェートの背後にはクッションのようにグートが寄り添っていた。
普段なら、火のそばか森の影に近い所でくつろいでいる。白い鼻づらが、時々ぴすぴすと音を立てていた。
あとは、あいつに任せておこう。
「寝とけよ。今日は俺が番するから」
「……すまん」
食事の始末もそこそこに、シェートはグートを伴って寝床に入ってしまい、フィーは何をするでもなく火の前の座っていた。
改めて意識を伸ばせば、戦闘があった範囲の外で、肉食の獣がなにかの残渣を漁っているのが感じられる。
シェートは『もう監視はない』と言っていた。現状はともかく、昨日までは確実に、しかもこちらに気づかれない位置で、索敵が続けられていたことになる。
「あいつら、俺の識の範囲も把握してたのか?」
『今頃気づいたのかよ。おせーぞ』
『そういう意味でも、今回の一件は収穫だったな。こちらの指摘だけでは、危機感が足りなかっただろう』
「な……!?」
なぜと言いかけて、思い直す。
こいつらは竜神の代役で、簡単に答えを教えてくれる連中でもない。今回のことがなければ、気づくまで黙っているつもりだったわけだ。
それなら、今後のためにも、索敵範囲を伸ばす方法を考えないと。
「野営地の巡回したほうがいいか。グートにも手伝って貰って」
『言ったろ、見張りはバレない位置で交代制がデフォだって。探すだけ労力のムダ』
「だからって、何もしないわけにはいかないだろ?」
『コウモリが夜でも飛べる理由を、知っていますか』
「……なんか超音波とか出して、それで地形とかが分かる……って」
つまり、自分もそうしろという事だろうか。
超音波なんて出したことはない。でも、聲自体がそういうものの一種なわけで。
フィーはそろそろと、喉の奥で調子を整え――
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオ……ゥ」
「うわぁっ!?」
――いきなり遠吠えをあげたグートと、飛び起きるシェート。
驚いてこちらを見るコボルトと、咎めるような顔で睨む星狼。
『バーカ。早合点すっからそうなるんだよ』
何でもないと二人を寝床に戻すと、早速グラウムがあざ笑うように声を掛けた。その隣で、半笑いにソールが相槌を打つ。
『確かに、ドラゴンならエコロケーションもお手の物です。が、そんな捻りもない方法での索敵など、愚の骨頂』
『音に敏感な魔族も多いぜ。探るつもりで敵に気づかれたら、意味ねーだろ』
「つまり、超音波そのものじゃなくて、やり方を真似ろってことか……ったく」
考えてみれば、特殊な波長を使わなくても、自分は遠くの音を聞き、裸眼でも超望遠を見ることができる。
それでも、コウモリのやり方を真似る理由はなにか。
今度は、口を押し開くようにして、静かに風の聲を放つ。それは自分が起こしたものであり、空気の塊が木の幹や枝にぶつかっていくのが分かる。
同じように、強度を変えて風を起こし、その距離と範囲を広げていく。
そして、自分の識のわずかな外側に、死体を貪るイヌ科生物の輪郭が『視えた』。
「こっから東、木と岩で囲われた場所。そこにゴブリンぽい死体がある。狼じゃないけど犬みたいなのが食ってるな」
『おー、そこまで分かったか。ひとまずは合格だ』
『それが六識のもう一つの使い方。というより、それを合わせてようやく六識です』
外界から伝わってくる刺激だけでなく、自分から世界を刺激して、その反応を理解する方法。むしろ、今まで思いつかなかった方が不思議な気がする。
『ところがどっこい。オレらはとにかく感度が高いからさ、こっちから世界へ干渉する意味がねーんだわ。普通は』
「仔竜だからこそ、って奴か」
『それを覚えたなら、索敵の精度と範囲は格段に上がる。心得て、磨きなさい』
それからフィーは、様々な聲を放って、その『反響』を聞き続けた。
風は視覚の代わりになるし、地面を広がる波を起こせば、起伏や材質、その上を通過する生物の重さや種類まで感覚できる。
おぼろげだった世界の形が、より一層、正確に脳裏に浮かんでいた。
『陸上生物で"ピンガーを打つ"のは、一部のワームか歳食ったドラゴンくらいだ。勘のいい奴には怪しまれるかもだが、慎重にやれば、まずバレねーよ』
『今後の偵察は、それを含めて行いなさい。視覚情報だけではない、色々なものが理解できるはずです』
「シェート達の安否も、すぐに察知できるしな」
とはいえ、フィーは疑問と不満を空に投げた。
「サリアの方はどうしてんだよ。シェートが死んだら、"闘神"をどうにかしたって意味ないだろ?」
『そちらは、少々複雑です。おそらく今回、女神はまともに運用できません』
『襲撃の一件で、ちょっとは正気を取り戻してくれるだろーけどな。期待はすんな』
「そっちの内輪揉めで死ぬとか、二度とごめんだからな。頼むぜ」
意外なことに、二竜は短く承諾を返しただけだった。
小竜の気配が離れていき、再びフィーは満天の星空の下で、静かに世界を聴き始めた。
それから、本当にわずかずつ、聲で世界を『磨く』。
自我を溶かさないように、謳い続ける。
まるで、この世の全てを味わい尽くそうとするように。