11、『恋のようなものだな』
珍しく、その日の空は晴れ渡っていた。
木々の間からこぼれる光は、秋の気まぐれな温みがあって、シェートの体を優しくほぐしてくれている。霧と曇りばかりの土地の、中休みと言ったところだろう。
頭一つとびぬけた大木の下、その前にできた空き地が野営地になった。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
「気を付けてな」
弁当と水筒を鞄に詰めたフィーは、片手を振って麓に下りていく。これから例の勇者を偵察しに行くと聞いていた。危険は少ないが、油断もできない仕事だ。
こちらと言えば、昨日みんなで取ってきた食材の整理に掛るつもりだった。木の枝と草のむしろで造った天幕から、目の前の空き地に品物を持ち出す。
今日はまず、燻製肉から作ることにしていた。
モラニアでは、燃料の問題で手を出しにくかったが、こちらは泥炭がふんだんにある。くせのある匂いになるが、塩漬けよりも持ちがいいだろう。
「……ん?」
違和感は、燻製窯をくみ上げたあたりで、強くなっていた。
周囲から鳥の声が消えている。風はかすかで、どこから吹いてくるのかも、わからないほどだ。
日が中天に差し掛かろうとしている。
見られている。刺すような感覚がある。
それでも相手は、何かをしてくるつもりはない、らしい。こちらの隙をうかがい、何かを待っている。
隠れるべきか、それとも走り出すか。
どちらを選ぶにせよ、ここは広場の中心近く。森から来るなら十分対処可能だ。
「あ……」
鳥が、飛び立った。喧騒がかすかに感じられる。山に向かって連なる斜面の辺りで、何かが鋭く動くのが見えた。
明らかな戦いの気配に、シェートは素早く天幕へ駆け込む。矢筒を腰に、木の弓を片手に、防具に手を伸ばしかけ、あえて身に着けずに外へ出る。
先ほどの喧騒が消え、再び静寂が周囲に広がっていた。
そして、違和感という表現など生ぬるい、殺気が充溢している。
「――そうか。では、こちらも始めるとしよう。武運を」
声には聞き覚えがあった。片耳に充てていた四角い板を投げ捨てると、そいつは茂みから姿を現した。
「"平和の女神"サリア―シェが勇者、コボルトのシェートよ」
軽い革鎧に金属の手甲と脚甲、そして闘志と殺意を身に纏い、コモスは構えを取る。
そして、宣言した。
「我が"魔将"の仇、討たせてもらう」
木々の間を縫うように、フィアクゥルは低空飛行で目的地を目指していた。
偵察で守らなければならない基礎は三つ。
一つ、自分の本拠地を悟られないこと。
二つ、行動の痕跡を残さないこと。
三つ、観察対象から気づかれないこと。
今は姿を消し、滑空に近い状態で足跡も残さず、スマホの望遠カメラで撮影できる場所を目指して移動中だ。
スカウトとしては、これ以上望むべくもない資質だろう。
『世間の者は、ドラゴンを脳筋のパワータイプと勘違いするが、やる気になればネズミの慎重さと蛇の狡猾さで、奇襲をかけることが可能です』
『汎世界の平均的な成竜は体長十メートル前後、体重は三トン超。時速六十キロのダッシュが可能だ。そんなもんが音と姿を隠して襲ってくんだぜ? ちょっと使える程度の人間なんざ、敵じゃねーんだよ』
ただ、そこまでの面倒を掛けて人間と相対する気もないから、油断であっさり負けるのだと、二竜は笑っていた。
だからこそ、生き延びたドラゴンは尋常ではなく厄介だと、付け加えて。
生粋の捕食者にして、万物の生殺与奪を握る暴君。
今の自分は、そんな最終形態には遠く及ばない。だが、力の一部を使いこなすだけで、そこらの人間を出し抜くことは十分可能だった。
「周囲に敵影ナシ、関知範囲の動植物、把握完了っと。えーっと、司令部、"ブルーシーカー"、位置についたぜ」
『了解。偵察を開始しなさい』
フィーは拾い集めておいた枝葉で体を包み、スマホ越しにターゲットを見つめた。
今いるのは勇者の住む杣小屋の西側、傾斜のきつい山腹の崖。姿消しを使わずに、原始的なカモフラージュを選択したのは、敵勇者の隠し玉を警戒したためだ。
勇者は日課の鍛錬を終えて、薪割を始めていた。
「でも、こんな昼から偵察する意味あるか? 朝一で張り付いたほうがいいんじゃ」
『ツーマンセルや、スリーマンセルが組めるなら、そうしている。露見を避けるなら、このやり方が現状に最適です』
『時々いるんだよ。観察した瞬間に、こっちを見破る奴が。そうでなくても、定点監視ってのは、結構バレるもんだぜー。だから、時間や場所をずらすんだ』
竜洞側の警戒は徹底していた。
偵察にあたっては、魔力検知や特殊な警戒能力を持つ可能性を加味し、超望遠からの観察に留める。
対象の偵察は早朝、日中、夕刻、深夜のいずれかを選択。一日二回を三時間づつで終了させていた。
「それでも、納得いかねえよ。見てない間に、見落としがあるかもしれないじゃん」
『オマエ、日本の常識感覚で測ってんだろ。ファンタジー世界の可処分時間って、意外と少ねーんだぞ?』
『早朝四時から六時の間に、勇者の要点が詰まっている。気功に塘路、敵を想定しての訓練、あれが全てでしょう。欲しい情報は取得済みです』
「じゃあ、今のこれは?」
『可能性の検証』
ソールは冷たく、目の前の勇者を品定めするように、告げる。
『夕刻や深夜に、門外不出の技を扱うのは武術ではよくあること。日中の活動は、勇者の平均的な体調を推し量るデータとして利用します』
『丸一日の観察は一回で十分なのさ。あとは、そのバラツキを調べるんだ。雑に思えっかもしんねーけど、味方が少ない時は、こういう便法もアリなんだよ』
『偵察のスケジューリングも、その辺りを加味している。余計な心配を交えず、監視に専念しなさい』
頷き、任務に戻る。
いくらドラゴンの感覚があるからといって、ただの仔竜が偵察のやり方など知っているわけもない。シェート教わったのは、あくまで狩りの延長線だ。
ソールたちのサポートに従い、遥か彼方の勇者を睨む。
「こうやって見ると、格闘技って面白いな。てか、真剣に観察したのも初めてだけど」
『あの勇者、日本が武術ブームだった頃に、多感なお年頃を過ごしたってタイプか?」
『の、ようだな。使っている流儀が小説や漫画、あるいは格闘ゲームで扱われたものに偏っている。現地で習い覚えたなら、ああはならないだろう』
「頭の中身は、他の勇者と変わらないってこと?」
フィーのツッコミに、上の二竜はくすくすと笑った。
レンズの向こう側では、仕事を終えて一服する代わりに、腕を振り回したり、しゃがみつつ地面をこするような蹴りの動きをしている。
『しかもアイツは九十年代中盤以降の世代、って感じかー。3D格闘、リアルファイトってヤツだな』
『その頃、日本の格闘興行も本格、真剣を売りにしたものに変遷しつつあった。どちらがけん引したというより、世情が流行になびいた、という感じだろう』
「格ゲーって、興味が湧かないんだよな。コマンドとかコンボもめんどくさいし」
『今は一部のマニアか、おっさんの遊びだしな―。お前らぐらいの世代なら、ボタン連打が中心の奴だろ?』
どうだっけ、自分がやるゲームはMMOが中心だから、格ゲーで遊んだ覚えはない。
いや、そうだったか?
昔はもう少し、色々とやっていた、気がする。
だって――には決まって――と――を。
『おいフィー。ボーっとすんな、目線がズレてんぞ』
慌ててスマホを構えなおし、向こうの景色に注意を戻す。緊張をほぐすための雑談だからといって、気を抜いていいわけはない。
眠気覚ましに水筒から水を飲み、炒ったドングリをかじる。
その時、視界の端になにか、妙なものがちらついた。
「ソール、今から三秒前、俺の右目の端方向だ。なんか撮れてないか?」
『いい指摘です。一応、映像解析しますが、人型の生物。おそらく亜人が、杣小屋方面に向かったようですね』
『マジかよ。この辺りにいるデミっつったら、ゴブリンかオークぐらいじゃね? それにしちゃ影がデケえ』
改めて勇者がいる小屋辺りを観察してみる。そういえば、先ほどから鳥たちの動きが不自然だ。何かの気配に当てられて、落ち着かなくなっていた。
その異変に気付いたのか、中年の勇者も練習の動きを止めて、辺りを警戒している。
『解析完了。これは――』
「こっちでも見えた。あれは――」
日に輝く青い鱗をざらめかせ、警戒も構えも取らずに勇者の前に進み出る姿。
背中には身長を超えるほどに長い剣。尾を軽く地面から上げて、敵を睨み据えている。
その左目はつぶれていたが、右目には殺気と闘志が溢れていた。
「『蜥蜴人だ』」
気配は感じていた。麓からこちらへ、まっすぐに登ってくるのを。
こちらの世界に来て、隆健自身が強く感じている。周囲を把握する感覚が、尋常じゃなく上がっていることに。
站椿功をやっているときも、意識が常に世界へ拡散し続けたし、塘路を行う時の一挙手一投足にさえ、何かが宿る気がしていた。
そのせいか、目の前の異種族を見ても、驚くほど自然に受け入れられた。
「その様子なら、問答無用に殺す……ってわけでもなさそうだし、名乗り合っても?」
「ああ。俺もその心算で来た。では礼に倣い、こちらから」
胸の前で両手を握り合わせ、長い口吻が落ち着いた渋い声を吐き出した。
「北モラニアは碧水海が畔、クナ郷の剣士、"真金断ち"のクナ・ナクラ。"闘神"の勇者よ、尋常の勝負を願う」
思いもよらないほどの丁寧な名乗り。
少し考えて、隆健は返礼した。
「――日ノ本国、武州春日部出身、"無手勝流"、辻隆健。お相手仕る」
そして、わずかに口元を緩めてしまった。
「なにか?」
「いや、別にあんたを笑ったわけじゃないんだ。その、少し、嬉しいというか、恥ずかしいというか」
目の前の剣士が、わずかに闘志を収める。気勢はそのままだが、こちらの言葉に興味を示したように思えた。
「憧れてたんだよ、こういうやり取りに。そもそも地球で武術なんて、暇人か変わり者の道楽って位置づけだったしな」
「……成程。貴殿も、世に要らずと言われた身か」
思いもよらない指摘に、心に痺れが走る。動揺を押しとどめようとしたこちらに、蜥蜴人は明らかな笑いを浮かべた。
「まあ、侮るよな。故郷からはみ出した分際で、異世界の勇者役でドヤ顔してんだから」
「そうではない。俺も同じく棄てられたのだ。以後、魔王の傍らに武芸者は不要と」
「……そうか」
潰れた片目のせいか、それとも別の理由があるのか。
それでも、クナという男から感じるのは、口惜しさと寂寥だった。居場所を無くした者の相を持つ漢。
「なんかあったな、こういうの。主も使命も失った浪人同士、最後に残った意地を掛けて果たしあうって話」
「魔王から、貴殿の手の内を晒させて死ね、と下放された身だが。とどのつまりは、そういうことだ」
互いに笑い、構えを取った。
表情が消えて、意志が充溢する。
(とは言え、どうしたもんかな、こりゃ)
最初に弱音を吐いたのは、隆健だった。
鞘のない大剣は、すでに抜き放たれている。左足を前に、右足を後ろに、両腕で構えた剣の切っ先は、右の腰の背中側に向けて、隠すように。
こちらに見えるのは柄頭だけ、呼吸はゆったりとして、驚くほど自然だった。
(刀身の長さからして太刀……いやさ野太刀クラスか? 太郎太刀まではいかねえだろうけど、マジでヤベエな)
相手の身長は、こちらよりも十センチは高い。二メートル弱、体格は意外に痩せ型だ。
鎧はない、腰布とズボンのようなものだけを身に付けている。
刀身は、長く鋭く、金属ではない質感だった。
象牙、あるいは何かの牙か。
だとすれば、尋常じゃないデカさの生き物から、もぎ取ったに違いない。
(いやいや、なに冷静に分析してんだよ俺。ここは逃げの一手だろ)
うっかり雰囲気にのまれて立ち合いを了承したが、手の内が分からない武器相手なんて正気の沙汰じゃない。
確かに、自分も徒手対武器の訓練も、実戦経験もあった。
とはいえ、それは現代地球における常識の範囲内だ。
地上に来る前、"闘神"に稽古(という名の地獄)をつけてもらったが、やはり殺し合いとは勝手が違う。
「なるほど。これは失礼した」
蜥蜴人は相好を崩し、笑みに近い顔になると、たたずまいを変えた。
背中に隠していた剣を、右肩に引き付け、切っ先を空の方向に向けて構える。
地球では、八双と呼ぶ形に近い。
その構えが、異様な剣の長さを一層、際立たせた。
「こちらは挑む側、手の内を隠して仕掛けるなど、無作法の極みだ。しかも、貴殿の技前は見せていただいている」
「……このところ感じてた視線は、アンタだったか」
「そうではない。魔王の目は、はるか以前より貴殿を捉えていた」
ハッタリ半分の発言だったが、状況は思った以上に悪いらしい。今の自分は『見られている』ことは察知できても、位置や人数までは分からない。
"闘神"から修行が足りないと笑われたが、今後は笑い事では済まないだろう。
こちらの動揺を礼儀正しく無視して、蜥蜴人は言葉をつづけた。
「クナの剣は怒涛と化すを奥義とする。岩を砕き、砂を飲み込み、海浜のあまたを内懐に招き入れる、津波が如く」
「分かりやすいな。その調子なら、指南用の道歌でも伝わってそうだ」
「剣の道を示す詩句などは、確かにあるが……そちらでもか」
「やっぱり。こういう事をやる連中ってのは、通ずるモンがあるんだろうねえ」
ああ、やっぱり駄目だ。
逃げるなんて、男が廃る。
コイツを目の前にして逃げたら、俺はもう、武術なんてやる意味がない。
短く息を吞み、下す。
体を右前に構え、右腕を恐れもなく、伸ばして据える。
「――死ぬなよ」
闘志、願い、挑発。
その全てを載せた刃が、降ってくる。
軌跡は、右ひじの内側よりさらに深く、胸と腹を断つ袈裟の一撃。
隆健の両足が、体を背後へ押し出す。
弧を描いた切っ先が、服と胸を浅く裂き、相手の左腰の方へ消えていく。
蜥蜴人の右肩は目前、拳を伸ばせば当たる距離。
(見えすい、てんだよ!)
さらに大きく、飛び下がる。
目の前を斬り上げの一撃が通り過ぎ、鼻の先がわずかに切れた。
会心の見切り。だが、クナの体がさらに近づく。追いすがっても絶妙に、逃げる距離を含めて踏み込んでくる。
がら空きの胴体、だが、それでも。
(やるかっつの!)
半回転しながら、右前方向へ、避ける。
最前まで自分のいた空間を、頭上からの白刃が、鋭く裂いた。
三歩の逃げ足、こちらの移動距離と反射速度を絶妙に測った一撃。カウンターも間に合わず、四歩目の後退も許さないタイミングだった。
蜥蜴人はわずかに下がり、剣先をこちらに向け、中空に構えて『置いた』。
「我が『高潮』を凌ぐか。良いぞ」
「ヒントを与えすぎだぜ。その言葉だけで、アンタの手の内、十は予想できる」
「ならば、十一の手で貴殿を凌ごう」
ヤバかった、そしてありがたかった。
相手の技は練り上げた至高だ。それ故に『綺麗』だ。
素人が繰り出す攻撃は読みにくい。武術という理合いを無視して動くために、変則でブレ幅が大きいからだ。
武術をやっている相手は、上達すればするほど軌道が単純かつ正確になる。それだけにかみ合えば、読みやすい。
もちろん武術をやらない者が強い、という意味では絶対にない。
技の正確さは、素人に反応させない速度と動きを生む。不可避の一撃で、抜く手も見せずに殺せば事足りるからだ。
ゆえに、闘争で最も重要なことは、相手の実力を見切れるか。
少なくとも、クナ・ナクラという武人は俺以上の使い手で、読みが効く嚙み合わせだ。
「では、死合おうか」
剣が、静かに動いた。
満ちていく。
心が落ち着き、凪いでいく感覚を、クナは十全に味わっていた。
闘志はある、殺意もある。だが、そこにたぎるような激情はない。己の中にある技前をすべて、目の前の男に叩きつけたいという、欲だけがあった。
『今後の我が軍に、貴様が座すべき席はない』
鈍くひらめく魔王の言葉さえ、今は遠い。
ベルガンダの"狂奔"に晒された後の記憶は、長い空白だった。冷徹を以て善しとするクナの剣とは真逆の、穢れた暴力に振り回されて、己の左目を奪った。
いつ誰に付けられたかもわからない、不名誉の傷。
戦場から離れた水場で意識を取り戻し、手近な迷宮で戦場の顛末を知った。
『以後は郷に戻り、つつがなく余生を過ごせ』
そして、魔王に対面を許され、得た言葉がそれだった。
(さて)
呟いて、余計な物思いを塗りつぶす。
(貴殿の腕前、もう少し確かめさせてもらおう)
海竜の角より削り出した一刀を、真正面に構える。切っ先は敵の眉間に合わせ、有るか無きかの力で、保持する。
『釣魚』、クナの技において基本の構え。
最初に見せた『漁火』が攻めの構えなら、こちらはあらゆる動きに応ずる自在の一手。
穏やかに心を保ちつつ、釣り竿を挙げるように剣を使うのを極意とする。
(一糸、清澄たる水面に垂らせば、魚影、詳らかなり)
この構えを前にした者は、まず思い乱れる。
目前に剣を突きつけられて、それを無視できる者はいない。いるとすれば命無き動死体か、蛮勇に目がくらんだ愚者だ。
剣を払い飛ばし、踏み込む。
無手取りで抑え込み、拮抗に持ち込む。
当たる寸前で交わしつつ、横から殴りつける。
その全てを想定し、それでも目の前の男は、こちらを伺うばかりだ。
(怖気もなく、場数も踏んでいる。なにより目がいい。なるほど、これは厄介だ)
こういう手合いは、手順を踏んで討つしかない。
では、『漁り』と行こう。
クナは、ずい、と前進した。
同時に左手を押し出すようにして、突きを放った。
「っ!?」
勇者の右頬が引き裂かれ、それでも構えを取ったまま下がる。
追いすがるように進み、右手で作った『輪』の中に、柄を押し通す。
今度は左脇腹が、赤い血をまき散らして裂ける。
男が瞠目し、こちらの切っ先に釘付けとなる。
クナの刀の柄は長い。
それこそ『槍』のようにしごき、突き技を繰り出せるほどに。
今度は一息に三度突き、下がり交わした相手の腕に、鮮血の花が咲く。
さらにもう一撃。
同じ呼吸と姿勢を取り、
(水際に竿起て――)
まるで釣竿を引き上げるように、剣を頭上に引き寄せ立てると、
(――沖に、投げ放つが如く)
押し出すようにして、斬る。
「っぐああああっ!」
異様な手ごたえが伝わり、素早く剣を引きつつ下がる。
血が飛び散り、男の左腕は奇妙な形にへし曲がっていた。振り下ろしの一撃を払いにいき、間に合わなかったのだ。
いや、鎖骨を砕かれる代わりに腕を犠牲にした、というべきか。
「んぐっ、ぬぐううううううっ」
右手で無理矢理、割けた腕を圧搾する男。こちらから大きく間合いを外し、片袖を噛みちぎって取り、荒く腕を巻き固めていく。
「クソがっ、クソッ、ああ、クソッ」
怒っている。怒っているが、俺への怒りではない。
痛みと己の不甲斐なさに、憤っているのだ。
粗雑な治療を終えると、脂汗も拭わずに、勇者はこちらを睨む。
「やっ……ぱ、痛え、わ。なんで……終わらせるぜ」
「――そうだな。終わろう」
相手の体は激痛で震えている。吐く息は荒く、足はおぼつかない。
それでも目には殺意がある。
男はおもむろに、両腕を脇に垂らして、その場に立ち尽くした。
荒い呼吸を押し詰め、深くよどみなく吐息し、吸気を繰りかえす。
意思を繋ぎ、痛みを和らげる整息術。クナにも似たような修法があるが、それを使いつつ、こちらへの意識は途切れさせない。
(左手が壊れた以上、思うさまの技は出せまい)
そう考えたクナは、己の愚かさを笑った。
相手が俺の左目を『狙わなかった』以上、俺もあの左手には『騙されない』。
片目片腕を失う程度で、弱点が生まれるほど、武術というものは浅くない。もし勇者が俺の左を伺えば、動きは単純化し、その隙を突いて殺しただろう。
読まれれば死ぬ、それが武術の本質。
(ならば、もう一手)
再び『漁火』の構えを取る。
右肩に引き付け、差し上げた剣は、血濡れて赤く染まっている。
相手の手傷は深い。この一合が最後となろう。
わずかに姿勢を前にのめらせ、クナは、三本目の足を使い、飛んだ。
(クナに三足の利あり。地を噛む二足、縛られぬ尾。その合力、竜の威勢に似たり)
蜥蜴人にとって尾は三本目の足であり、二本足以上の安定を約束し、更なる加速の助けとなる。
最前までは、足のみを使った速さ。
この一刀は三つの足を使う、迅速の一撃だ。
尋常の相手なら、唐突な加速に調子を外され、為す術もなく両断される。
だが、そうはなるまい。
飛鳥ように襲い掛かるクナの目前に。
勇者の体が、密着していた。
息がかかるほどの近間。
間に合った。ほんの僅か、こちらの反応が。
厚い胸板の下、鳩尾の辺りに、振り上げた右の肘か突き刺さる。あばらと胸骨が、砕けて破裂する感触。
それでも、相手の勢いは止まらない。剣が打ち込まれ、激痛と共に肩関節と筋肉と腱がちぎれていく。
それでも、まだ左腕は動く。
「ぬああああああああっ!」
肩に力を入れ、食い込んだ筋肉で剣を固める。
そのまま左腕を振り上げ、相手の右肘を突き上げた。
さすがに折るまではいかない。それでもほとばしった自分の血と一緒に、相手の剣が手を離れて、背後へと跳ね飛ぶ。
視界が相手の胸板でいっぱいになり、隆健は振りかぶった右拳を打ち下ろした。
拳の下で、あばらが砕ける。
肉の中から、蜥蜴人の肺が痛みに痙攣し、心臓が乱れて脈打つのが伝わる。
もう一撃、それさえ入れれば――。
「――水底黒々、岸離れの波」
その時、視界から青い体が消えた。
逃げた、かわした、退いた、どれも違う。
深くしゃがみ、顔を上げてこちらを射る視線。その口元が、歓喜の笑いに割けた。
「『足摺』」
回転し、背を向ける蜥蜴人。腰の太い尾が、こちらの足を刈るため、唸りを上げた。
それは読んでいた。
相手はずっと隠し続け、使う機会をうかがっていると分かっていた。
だが、それだけじゃない。
(尻尾で、剣を――!)
尾を下がってかわせば、重たい質量の塊が膝を砕き、更に距離をとれば、切っ先が体を両断するだろう。
跳ね飛ばしたと思っていた剣は、しっかりと相手が確保していたのだ。
こいつらにとって、尾は足であり、もう一本の腕。
もちろん棒立ちなら、そのまま足が砕かれる。
(やるしか、ねぇっ)
隆健は跳ぶ。腰に両足を引き付けるようにして、その場で尻尾を飛び越える。
だが、そんなもので相手は止まらない。
尻尾が体に巻き付き、その勢いを殺さぬまま、右手に剣を受け渡す。
跳んで避けた相手を確実に斬り殺す、白刃の追撃。
「『渦潮』」
こちらに指南を刻み込むように、呟かれる言葉。
胴を両断する速度で迫る刃。浮いた体では、いかなる抵抗も不可能。
そう、このままの姿勢なら。
「――っ!」
腰をわずかに右へ傾ける、足を伸ばす。その数センチの動きで、右足が大地を噛む。
傾けた分だけ可動域が広がり、迫る刃に合わせて左膝を突き上げる。
かすめた刃で膝頭が裂け、それでも死の刃は、頭上へはじけ飛んだ。
「回転技、ならなあっ」
上げた左膝を降ろすと同時に、相手のつま先を踏み抜く。そのまま体重をかけ、その場にくぎ付けにする。
避けた時とは逆の動きで右足を抱えるように上げ、相手の鳩尾へ膝を叩きこむ。
「こっちだって、あるんだよっ!」
蜥蜴人の上半身が、勢いよく弾ける。
それに追いすがるように腰を再反転、天を突くように左足を振り、顎を蹴り上げる。
敵の体が浮き、けいれんし、たたらを踏んで後ろによろめく。
そのまま相手の首を掴み、体重をかけて――。
『その結果が、それか』
笑いを含んだ"闘神"の言葉に、隆健は頷いた。
少し離れた場所に、死体が転がっている。
叩きつけられた後頭部から血を流し、身動き一つしなくなっていた。
痛みは消えているが、傷自体はまだ治っていない。血の出過ぎでめまいがして、戦いが終わった時には一度吐いていた。
『蜥蜴人の剣士は武人肌が多くてな。魔族なら、連中を相手にしたいと常々思っていた』
「俺は、もうごめんですけどね。"闘神"様に尻尾で稽古つけてもらってなかったら、ヤバかったっすよ」
『しかし、尾を腕の如く使うとは、相当な手練れだったようだな』
戦いの話をする"闘神"は、いつになく上機嫌だった。
だが、こちらの気分を察したのか、穏やかに問いかけてきた。
『なにか、遺恨でも含んだか』
「……逆です。殺しあっておいて、なんですけど……爽やかっつーか」
叩きつけた頭蓋の感触は、右手に残っている。
勢いあまって、相手の牙で少し掌を切った。
それから、死に顔を見て、なんとも言えない気持ちになった。
「笑ってたんですよ、アイツ」
『そうか』
「戦ってる最中も手の内を見せて、それでもこっちを凌ごうって、そういう感じで」
『なにか、話したか』
「死に際には無理でした。ただ、死合う前に、少し」
魔王に棄てられた、という剣士の話を、"闘神"は黙って聞いていた。
それから、うなるように告げた。
『満足はしただろうな。その様子なら』
「……そうっすかね」
『そして今、貴様はこう思っているわけだ――寂しいと』
いやいや。そう思いながら隆健は、それを受け入れた。
確かにこの気持ちは、寂しい、に近い物だ。
「マジでいるんすね。使命より命より、己の武術が重いって奴」
『その当惑には共感してやれんぞ。こちらでは、それが常識だ』
「魔法や神様より、そっちの方が俺にはファンタジーっすよ」
この世界に来てから、様々な敵を殺してきた。
吸血鬼の時は、無我夢中だった。
ゾンビやスケルトンは不気味なだけだったし、ゴブリンやオークに関しては、倒すべき相手と割り切っていた。
それがまさか、あんな奴と、死合えるなんて。
『武術とは、恋のようなものだな』
「――えぇ?」
『いや、つくづくと、そう思ったのよ』
笑ってはいるが、どうやら冗談でもないらしい。
厳つい闘いの神は、詩でも吟じるように、つぶやいた。
『一人では成せず、二人でも容易に通じ合わず、思い募るほどに互いを傷つけ、どちらかが果てるまで続く……片恋のようなものだと』
「思いが通じたところで、結末がこれじゃ……悲しすぎませんか」
『そうとも限るまい』
分かっている。悲しいことは悲しいが、それだけではない。
あいつの剣は、叫んでいた。
俺を、理解できるかと。
殺すために練り上げた技を、その修練の日々を、その果てにある高みを。受け止めてくれる相手を望んでいた。
そして俺は、全力で答えた、つもりだ。
「分かってましたけど」
『何がだ』
「バカですね、オレら」
笑って、"闘神"は答えなかった。
その代わり、尋ねてきた。
『傷は癒してしまうぞ。貴様の戦いは、まだ終わっておらぬゆえな』
「障りにならない程度に、残せますかね」
『感傷的な奴め』
その傷痕は、地球に戻っても消えることはなかった。
誰に話すつもりもない、時代小説のような決闘の証として、今も左肩にある。