10、『その清廉が、最後まで続くことを願おう』
来ないと思っていたが、女神は昨日と同じように、庭に出てきていた。
ルシャーバは安堵し、同時に瞠目した。
彼女の顔は憔悴し、消え入りそうな気配を漂わせる。緑の草原の上に立ってはいるが、その足元がおぼついていない。
「……供の竜たちはどうした」
「今日は――今日は、席を外して、もらっております」
神には人間のような不調はない。
その代わり、心の在り様が全てに直結し、わずかな物思いでも消滅の遠因となる。"闘神"は可能な限り、己の落胆を押し込め、サリアに労わりを掛けた。
「今日も帰るがよかろう。そのような顔では、こちらが気が気ではない」
「いえ。七日との、約定ですので」
「やはり無理だ。貴様にそんな顔をさせてまで、楽しみを求めたくはない」
その時だった。
女神の顔が苦痛にまみれたのは。まるでこちらの言葉が、呪詛で煮詰めた灼熱の鉛であったかのように、顔を背けて声のない悲鳴を上げた。
走り去ると思っていたが、サリア―シェは凝固したままだ。恐怖に震えながら、逃げることを忘れた、狩りの獲物じみて。
どうやら、俺は思う以上に厄介なものに囚われたようだ。
武ではどうにもならない、心というモノを扱おうとしているという実感。
「分かった。ではこうしよう」
女神が自分の、はす向かいに位置するように、ルシャーバは腰を下ろした。
それから、腰に差していた小刀――と言っても、自分の手に収まるものだから、女神の二の腕くらいはあるが――を取り出し、その辺りの立木から幹を一本、拝借する。
女神は、いくらか警戒したものの、初めの日と同じように、長椅子に座った。
余計な枝葉を落とし、思うがままに削っていく。
「……なにを、なさっているのですか」
「手慰みだ」
そう、本当に、何をするでもない。
まだ己が、神となる前のこと。こんな風にして、気持ちの通わなくなった女と、時を過ごしたことを思い出した。
こちらが何を言おうが怒って、泣いて、それでいて、どこかに行こうともしない。
あれがどういう意味だったのか、神になった今でもわからない。
ただ、このまじないを終えるころには、互いの心が自然とほぐれていたものだ。
「刃物というのは、俺にとって、手足のようなもの。今はこんなことをする意味さえないが、使い慣れた道具を無心に使うのは、やはり落ち着く」
「何かを作っている、わけでもないのですか?」
「魚取の銛として、しなりが良ければガキどものおもちゃの弓、太ければ年寄りの杖、という場合もあった。だが、大抵はその場に捨てていったな」
薄く皮を剥ぎ、その太さを均一にしていく。
こぶが消え、木の肌目から青臭さが漂う。このままでは道具には向かない、乾燥させる一手間がいるだろう。
そんなちまちまとした作業を、隣にしゃがみ込んだ女神は、興味深そうに見つめ続けていた。
「いるか?」
「え」
「なんの意味もない棒きれだが、綺麗に仕上がった。この形だけでも、中々趣があると思うのだが、どうだ?」
受け取った女神は、木目に指をはわせて感触を確かめ、見事に真っ直ぐになったそれを様々な角度から眺めていた。
それから、少しだけ頬を緩めて、言った。
「子供が」
「うむ?」
「神殿に遊びに来た、子供らが。こんな棒を、振り回しておりました」
「そうか」
ぽつり、ぽつりと話す言葉。
女神は思い出を手繰り、自らの星が健在であった時を語り始めた。
神殿の手伝いに来た女たち、それについてきた子供ら、その生活と笑いを。
「晩夏の収穫には皆で竿を振るい、社に集まった麦を脱穀しておりました。そんな時、退屈した子供らが、農具を剣に見立てて」
「よくある話だ。その坊主ども、額でも割ったか」
「毎年のように。時折、大きく瞼を切る者も出て、そういう時は、声を荒げて叱り飛ばしたことを覚えています」
「うちも似たようなものだ。子供という奴は、元気が有り余っておるからな」
サリア―シェは顔を上げ、何かの期待を込めて、尋ねてきた。
「"闘神"殿は、星にはお帰りになるのですか?」
「折々にな。祭事に主神がおらぬなど、間の抜けた話となろう」
「……皆と語らうことも、なされるのですか」
「万民等しく、とは言い切れん。だが戦人だけ、というような隔てをしたことはない」
ため息があった。
女神のそれは、こちらに行動に感じ入ったというだけではなく、もっと大きく深い、哀惜のような憂いも含んでいた。
寂し気に、小さく付け加える。
「我が兄も、そうであったなら、良かったのに」
ルシャーバは、肯定も否定もしなかった。外の世界を知った神は、大抵自らの生まれた星を省みなくなるものだ。
大きな星々の間で生まれ育った者はともかく、辺境を出身とする者は、親代わりの大神と共に『巣立って』行ってしまう。
自分とて、長きにわたって主星を留守にしてしまった経験があった。
そんな物思いの合間に、思いつきを口にした。
「――花籠を、編んだことはあるか」
「はい。季節の花を使い、宴席を飾っておりました。土地柄のせいか、窯業も育ちませんでしたので」
「一つ所望してもいいか?」
頷いて立つと、女神は草原を歩き、花や蔓を手ずから選び取っていく。自分は音と気配をひそめ、その後を追った。
手際のいいことに、集めた草花は籠のための蔓で束ね、色と形をより分けていた。
思うさま集めてしまうと、女神は東屋に戻り、籠を編んでいく。
「しかし、なぜ花籠などを?」
「俺が小刀で心をほぐすなら、そなたであれば、なんであろうと思っただけだ」
「……私へ思いを致した、というわけですね」
物憂げな言葉ではあったが、苦しみはいくらか消えてるように思えた。白い手はよどみなく、いくつかの花を編み込みながら、仕上がっていく。
ほどなくして、ひとつの花籠が卓上を彩った。
「見事なものだ」
「……恐れ入ります」
鄙びた田舎の趣だ。
汎世界の神が宴席を飾るなら、宝玉を煮固めたような磁器や、金銀を材に器を造る。花であれば香木の花林を自在に生やして事が足りた。
それでも、この女神は宴席に己が造り出した物を飾り、そうすることで皆と過ごすことを望んだのだろう。
その心映えに、ルシャーバは微笑んだ。
「俺は、生来無作法でな」
「……はい」
「敵を如何に屠るか、その手管の方ばかり極めてしまった。故に、こういう時はまこと、つまらぬ事しか言えぬ」
「はい」
こんな言い訳じみた前置きをする自体、野暮の極みだ。とはいえ、自分などはしょせん雑兵、当たるを幸いに振舞うしかない。
「明日もまた、これを編んでくれ」
「花籠を?」
「編み上げて、それをその日の締めとしよう」
一日よりも、もっと短い予定の区切りだ。
それでも。
「そんなことで、よろしいのですか」
「ああ」
それでもいいのだ、そう思う。
男は花籠を抱え、会釈をすると歩み去った。
そうしながら、思い出していた。
地獄の光景を。
死体だ。
累々と、延々と、どこまでも広がる、死体の群れだ。
焼かれて潰され、呪いで汚辱され、裂かれ、貫かれ、泥にまみれていた。
草木は枯れて落ちていた。獣はただ屠られていた。
最後まで残っていた人々は、絶望と苦痛を浮かべて、横臥していた。
女神サリア―シェの星、そこに降り立ったルシャーバが見せられたのが、それだった。
『我が主、大勝利です。魔族は打ち倒され、神方の損害は少なくして』
報告に上がった伴神を、俺はただ睨んだだけだった。遣わした勇者は、俺の神威を操って、思うさま敵を鏖殺せしめたと聞いた。
神々は湧いた。
大神バルフィクードの無念は雪がれ、敵は散々に敗れ去ったと。
どこかの草原に宴席が張られ、勝利に酔った神々が、自らの勇者を伴い、駄法螺と見栄を張り合っているのも知っていた。
だが、俺はそこに近づく気はなかった。
『生き残った者は、あるのか』
『ございません』
『一人もか』
『草木の一本さえも』
そうだ。
神の喧騒を一歩外に出れば、吐く息さえ凍るほどの、冷厳な死の静寂があった。
この一刹那にも、星は冷えていく。生の温みを失った世界は、死と静止に冷えて固まっていく。
それこそがまさに、神去だった。
歯を食いしばり、目を見開き、一切を心に刻んでいく。
歩み進んだ先、半ば潰れかけた社が見えた。
『ああ……』
その周囲に、これまでにないほどの、死が積み上げられていた。
抵抗した者も、逃げ出そうとした者も、うろたえてすくんだ者も、分け隔てなく。
皆、死んでいた。
目の前の神殿へ、救いを求めて逃げ込む途中で。
そしてルシャーバは見た。
彼らが、彼女らが進み、求めた先にあるもの。
砕けて容姿も分からなくなった、女神の像を。
『馬鹿野郎』
激怒を、絞り出す。
『馬鹿野郎が』
膝を突き、捨てられた躯を、抱きかかえる。
無惨にされた子供を、母親を、それを護ろうとした者たちを。
ここに至れなかった女神の代わりに。
『馬鹿野郎共が!』
吼えながら、素手で大地を掘る。
その中に、ひとりひとり、なきがらを横たえ、埋めることを繰り返す。
『おやめください! かの女神は魔族と通じたとの嫌疑が! みだりに憐憫を垂れられては、貴方様の銘にも障りがありましょう!』
『障りなど知ったことか! 文句があるなら面前でこい! 全てぶちのめしてくれる!』
俺の狂態に恐れをなしたのか、伴神はみな沈黙した。そして、宴席の神々のいくたりかは、取り繕うように手伝いをよこしてきた。
ただ一つ柱だけは、自らの手を汚すことを厭わなかったが。
『此度の戦、誉れを受けるべきは誰か。皆が存じ上げております』
『知らん』
その優男は、弔いの終わった墓所の前に立ち、困ったように笑った。
そして、驚くほどに無の顔で、宴席の方へと振り返る。
『お受けいただけなければ、僕がその栄誉を被る羽目になる』
『被る、か。だがすまん、此度ばかりは、そんなものを受けたくはないのだ』
『……承りました。あとは、お任せください』
涼やかに頷く青年の姿、"英傑神"は彼方を見晴るかす視線で、問いかけてきた。
『今後、天はこの戦を定法とするでしょう。すなわち"神々の遊戯"を』
『忌々しいがな』
『でしたら、壊してしまいませんか?』
不意打ちを喰らい、俺は目の前の男へ釘付けになった。
まだ始まってもいないものを、その先にあるはずの栄達と利益を、そこに蠢くであろう権謀術数を、壊すと言ってのけた。
『俺と貴様で、天を敵に回すか?』
『そうなれば、最も傷つくのは民草と星です。そんなものを見たいとは、もう思わない』
『では、如何にする?』
常若と挑戦の体現者たる"英傑神"は、笑顔と共に言い放つ。
それは死と業苦にまみれた昏い世界に差す、一条の光だった。
『僕は、"神々の遊戯"を統べます。そして、全て終わらせる』
『貴様と俺で談合でもするか』
『いいえ。貴方はこの茶番に、怒りを以て否と言った。ならば、僕が提案するのは、一つの山を別の麓から登ることです』
『つまり』
互いに競いあい、天を獲ったいずれかが、遊戯を潰すという盟。
この男がサリア―シェの星に何を見出したのかは知らない。だが、その申し出は、この胸糞の悪い顛末で、唯一胸のすくような快事だった。
『その清廉が、最後まで続くことを願おう』
『はい、お互いに』
自らの神座に戻ると、"闘神"は物思いから覚めた。
手の中の花籠は、幻ではなかった。竜たちが造りつけていった東屋の座卓に、そっと据え置いてみる。
あの"英傑神"との盟はまだ続いている。他の二神に本心を明かさないまま、今回の遊戯を最後と宣言したのは、あいつだ。
今回の遊戯に勝利すれば、俺もようやくサリア―シェに何かをしてやれる、そう思っていた。
だが、女神は俺の前に立ちふさがった。思いもよらぬ形で。
「なあ……愛しの女神殿よ。俺はまたもや、間に合わなかったな」
若かりし頃は言葉をかけそびれ、武名が轟いたころには守ることもできず、せめて世界を糾そうとすれば、無駄なことだと本人から拒絶された。
ひどい負け戦もあったものだ。
つぶやき、笑う背中に伴神の声がかかった。
「我が主よ、勇者殿より伝言が」
「何かあったか」
「魔王の刺客と交戦、これを討ち果たしたと」
目を閉じ、見開いた時には、"闘神"の顔に憂いはなかった。
水鏡を生み出し、向こう側に語り掛ける。
「手ひどくやられたようだな、何があった?」