8、「虚しくはないか、分かり切った答えを問うのは」
転送の魔法陣を出ると、白い仮面の視界に、改築中の魔王城が入ってきた。
本来であれば、城址の中心にそそり立つ尖塔があったはずだが、闖入者たちの破壊工作によって、根元から消失していた。
だが、それを幸いと、魔王は『本来の姿』への改修を命じた。
これまで自分たちが見てきた建築は、見せかけだけの飾り物でしかない。改修工事自体も『ガワ』をはがす作業が中心だ。
『どうやら、間に合ったようだな』
それはどう見ても、城ではなかった。
高楼を削り取った後の本城は、さらに低く均され、大きめな貴族の邸宅程度になっていた。中庭として使っていた部分は土をむき出しに、無骨な建屋が幾棟も立ち並ぶ。
それぞれの建築は、黒い舗装道路でつながり、衛士たちが歩哨に立っていた。
『魔王様はいずこにおられる?』
杖槍を担いだゴブリンは姿勢を正すと、スマートフォンで同僚に確認を取り始めた。
「作戦指令室でお待ちです。"影以"様」
『分かった』
相手の敬礼を目の端に留め、そのまま一番大きな館に入っていく。内装は、以前の城内と同じだが、職員たちの姿が増えていた。
身に付けているのは革鎧に布の服ではない、厚手の布で作られた『軍服』だ。
それぞれに徽章や階級章が宛がわれており、黒灰色のローブに白仮面の自分は、完全に浮いた存在だった。
『"影以"、帰還いたしました。お目通りを願います』
「入れ」
長い廊下の先、元は会食の間であった場所は、今や様相を変えていた。
部屋の中央に置かれているのは、円形のテーブル。その上に、この星の大陸全土が記された立体地形図が据え付けられていた。
その周囲に、タブレット端末を手にした職員たちが情報を交わし合い、地形図に新たな模型や旗などを置いていく。
壁面に掛けられた巨大モニターでは、様々なチャートや数表が掲示され、刻一刻と変わる情勢を追いかけている。
そして部屋の奥、窓を背にした執務卓に、魔王が座していた。
「見違えたろう。貴様がいない間に、地下の機能を完全に移行させておいた」
『刷新、いえ、構想通りに計画が進みましたことを、お喜び申し上げます』
「そうだな。では報告を頼む」
頷くと、"影以"はローブの下からタブレットを取り出し、記録させておいたデータを、手近な画面へと転送する。
『ヘデギアスにおける、魔王軍の残存兵力は壊滅しました。全土に展開した十一基の大迷宮、および二十八基の迷宮は完全に沈黙。非不死者の組織だった軍勢、約九百名が北端のルーリック大迷宮で抵抗を続けています』
「不死者による大気汚染度はどうなっている」
『"不死魔将"の討伐と共に、浄化範囲の拡大が確認されています。二か月以内に、通常の瘴気濃度へと減衰する見込みです』
「不死の軍団もこれで終わりか。順調だな」
上機嫌に、魔王は手駒の逸失を評した。それから、別のデータを画面に表示する。
そちらは画像や音声のデータは一切なく、送られてきた羊皮紙のスキャンデータや、伝令へのインタビューのみに制限されていた。
「"繰魔将"から、ケデナの報告が入った。大迷宮十七基、迷宮三十一基、全て壊滅。残存兵力を自身の居城に移し、"英傑神"の勇者と抗戦中とのことだ」
『"影以"による監視は?』
「勇者の一行に地竜が一匹入ったと報告があった。以後、本隊による干渉は禁じている」
地竜とは、その世界に元々生息しているドラゴンのことだ。
星の精髄が濃い世界なら、ドラゴンはどこにでも『湧く』。ケデナの南方にはドラゴンの営巣地があったと記憶している。
「"英傑神"の勇者、岩倉悠里を筆頭に、傭兵の男、女騎士、ハーフエルフの女、身元不明の女魔術師と地竜の雌。これが『メインパーティ』だそうだ」
『なるほど。いかにもといった風情ですね』
こちらの一言に、魔王は声をあげて笑った。
狙ったものか偶然か、岩倉悠里の仲間たちは『ライトノベル』のお約束に則していた。
つまり、パーティの大半が、女性か雌で構成されるというやつを。
「エファレアの動きは、特にいうべきこともない。"闘魔将"が倒れて後、魔王軍の影響は完全に払拭された。あらゆる迷宮は機能を停止、自由都市連合の流通は最盛期の七十八パーセントまで回復した」
『モラニアも同様、ということでしょうか』
「それどころか、"知見者"の残した街道によって流通が活性化し、空前の好景気らしい」
それは、この星が緩やかに回復しているという証明だった。
世界を覆った魔王の勢力は衰退の一途、人間たちの生活に光が差し始めている。
「普通に考えれば、これは負けの盤面だ。俺は居城に引きこもり、空の上を逃げ回る他はない。地に平和をもたらした勇者が、ここにやってくるのに怯えながらな」
『おそらくは、そうなるでしょう』
「勇者というものは実に恐ろしいな。神の力とは、本当に驚くべきものだ」
それは虚ろで、実感のこもらない賞賛だった。冷たく見下ろす視線の先に、魔王は二つの駒を捉えていた。
北方のヘデギアスで、"闘神"と"平和の女神"の勇者がにらみ合う。
『"闘神"の勇者の所在は補足済みです。山中の杣小屋で寝起きし、時折、山を越えた先にある村へ買い出しに出ることを確認しています』
「対するシェートは、十キロほど離れた場所で野営か。おそらく、互いの実力を測るための探り合いを実行中、と言ったところだな」
『"闘神"は天界でも指折りの武断派です。女神との交渉など、考えもしないかと』
「だろうな。交渉しようにも、女神の側に『交渉材料』が存在しない」
女神サリア―シェは、天界で孤立状態にある。シェートからの情報とカードゲーム大会でのリサーチから出た結論だ。
残った二柱の神は、いずれも遊戯で勇名を馳せた存在で、今回の勇者も十分に精強だ。
対抗するどころか女神側が平身低頭し、どちらかに同盟を打診するべき局面だが、その可能性は限りなく低いと見ていた。
『こちらから援助を送るおつもりですか?』
「奴は敵だぞ。そもそも、我が勇者なら、ただの武辺者など打ち破るだろうさ」
魔王は愛しい勇者を称揚し、モニターに動画を映す。
それは雷の降り注ぐ荒野を、狼に騎乗して駆け抜けるコボルトの姿。
「また一段と、強くなった」
陶然とした口調は、濃厚な美酒を味わうかのよう。厳しい政務の顔ではなく、愛しい恋人を眺めるような、そんな雰囲気を漂わせていた。
『この戦いで、地上における正規軍は完全に消滅しました。仔竜の"竜の聲"は、練度を増しています』
「それはそうだろう。現代日本で流通する科学知識は、地の仔竜が百年を掛けて学ぶ理合いに等しい。チート勇者の次はチートドラゴンか、節操のない奴だ」
仔竜の出自を考えれば、その能力はすべてがチートだ。もちろん、竜の感覚を扱いきれず、途中で死ぬ可能性はあった。
その全てを、黄金神竜とその配下の導きでクリアした結果、生まれて間もない仔竜では扱う事の出来ない聲を使いこなしている。
「とはいえ、その能力にも穴はある。未熟な体では、聲を十全には扱えない」
映像の末尾には、仔竜の手元が暴発する姿があった。撤退を開始した直後のことで、こちらの攻撃ではない。
解析班からは、金属片のようなものに電気を通した結果ではないか、という推論が上がっている。
その姿を見て、魔王は表情を引き締めていた。
『お笑いにはならないのですね』
「笑えるものかよ。俺の想像通りであれば、やはりフィアクゥルは危険だ」
『では、討伐をお命じください』
竜眼を細め、主がこちらを見つめる。品定めする、という意図が強く匂った。
そのまま手元の資料を検め、もう一度、コボルトの模型を眺めた。
「クナ・ナクラは?」
『離隊して後、観測班の追跡も振り切りました。それと、彼から伝言が』
「言ってみろ」
『貴方の鈍らは、あれを折るために命を賭す、とのこと』
伝えた言葉に、魔王は感慨を示さなかった。
給仕されたコーヒーを口にして、何事もなかったように卓上のモニタへ向き直る。
「現地へ飛び、命を伝えろ。貴様が折るべきは、"闘神"の勇者、辻隆健だと」
『…………』
「疲労が濃いようだな。体調がすぐれぬなら、別の者を遣わせるが」
『最後の本懐を、遂げさせてやることは、できぬのでしょうか』
魔王の視線が冷える。
値踏みの天秤が、目に見えて片側に傾いたのが感じられた。周囲の職員たちがこちらの様子をうかがい、業務がきしみを上げて止まる。
「シェートの定期評価は済んだ。今更、個人の武勇で測る意味がない」
『であれば、"闘神"側も同じく、武芸の者との試しは済んでおります』
「吸血コウモリの大道芸と、クナ族の剣技では、赤子と大人の差がある。評価はまだ、完全ではない」
「それは、愛しい勇者への手心でしょうか」
仮面を外し、ローブを解くと、言葉と共に一歩踏み込む。
憤りを露わにして、コモスは主に問いた。
「かの剣士が己の死地を選ぶこと、今や、御身にはなんの関わりもないはず。以後の魔王軍に、旧弊な武人の誇りなど無駄である。そう仰ったのはあなたご自身です」
「見解の相違だな。奴は俺の佩刀となると宣言したはずだ。道具に意志などない、どう扱おうが、俺の勝手だろう」
「シェートが、クナの剣に破れるのが、恐ろしいのですか?」
無粋を承知で、主の酔狂を重ねて当てこする。
なりゆきを見守っていた職員たちは、これから起こる粛清を想像し、身をすくませた。
「そう来るか」
青年の口元が、鋭利な刃を当てたかのように、裂けた。
執務の手を止め、魔王が立ち上がる。机を回り込み、こちらを見下ろす形を取る。繊細な手が肩に乗せられた。
「珍しいな、コモス。貴様がそこまで激するのは」
「臣の掌握は、欲望の充足にあり。我が主が、その理を無視されていると見えたが故、諫め事を申し上げたまでです」
「そうか。ならばコモスよ、貴様の欲望を満たそう」
顔をこちらの耳元に近づけ、魔王は甘く囁いた。
「貴様の本当の主、"魔将"ベルガンダの仇、シェートを討ってこい」
コモスの中で、押しとどめていた何かが、溢れた。
『ミノタウロス、ですか』
手渡された資料にあったのは、魔界ではそれほど注目されることもない、暴力が取り柄の凡庸な魔物についてだった。
『次世代魔王軍の構想に、必要な試金石だ。とはいえ、そいつが使えるかは、お前の指導に掛っているがな』
『称号は"魔将"とありますが、それだけでよろしいので?』
『ああ』
青年と言うにはわずかに幼い姿の、魔王たるべき存在は笑った。
『"魔王"である俺の配下に、ふさわしい呼び方だろう?』
やがて星への侵攻が始まり、自分は参謀役として、"魔将"に付き従った。
魔力は貧弱で、種族に備わった『狂奔』の聲があるばかり。しかも本人は、それを使うことにためらいがあった。
『先ほどの戦、聲をお使いになればよかったのでは?』
『あれは部下を使い潰すやり方だ。そういうのは、どうにも好かなくてな』
『将とは、時に非情を求められます。柔弱な考えはお改めください』
いかにも困ったように笑う顔。彼の逡巡を甘いと責めることに、ためらいを感じるようになったのは、いつからだったろう。
『全く、この数字という奴ときたら! こんなことなら、魔界に引っ込んで、師匠の世話をしていた方が楽だったぞ!』
『この一桁を間違うだけで、我が軍はたちまち壊滅です。腹を括って、知恵を働かせてください』
『分かっている。こんなろくでなしを取り立ててくださった"魔王"様に、恥をかかせるわけにはいかんからな』
苦労はあったが、苦痛とは思わなかった。覚えは悪かったが、実直だった。
目の前で、少しずつ将器が磨かれ、ただの粗野な魔物が"魔将"に仕上がっていく。
『では、献策せよ。シェートを抜きで、知見者の勇者を討ち、我らに勝利をもたらす手管をな』
確かに、"魔将"は仕上がった。
智謀と武勇が、精緻に組み上がったのを見た。
その結果、自分は何も出来なくなった。あの場で、彼の器と運命を超える策を出すことができなかった。
『成果を確認した。"魔将"参謀としての任を解く。シェートとの一騎打ちを確認後、城へ帰還せよ』
最初から分かっていたことだ。
自分の任務は『雑兵を軍制と訓練によって教化する』実験と観察だ。
ベルガンダは試験の材料に過ぎず、掛けた言葉も、信頼関係も、全てが嘘偽りだった。
そう、思い込もうと、した。
「私の主は"魔王"様、ただ一人です」
「そうだな」
「あれは、あくまで仮初の主従関係。士気を上げるために必要だっただけで」
「その通りだ」
「任務を遂行した私にとって、あのコボルトなど、ただの――」
だが、夢を見たのだ。
あの戦を超えて、ベルガンダが生き残ったならば。
円卓に座した、有象無象の『見せかけ』どもを払い散らし、天を頂く魔の王を支える、ただ一人の"魔将"の傍らに、あり続けた未来を。
「貴様を、"影以"の任より解く」
執務卓に戻り、"魔王"は宣言した。
ただのコモスとなったホブゴブリンは、茫洋と立ち尽くす。心の中には痛みと、なぜか心地よさがあった。
「以後、城に帰還するには及ばぬ。我が命を仕遂げたのち、何をするも貴様の自由だ」
それが何を意味するのかは、分かっている。
事実上、自分は魔王から不要とされた。今後は"影以"でも、"魔王"の側近でもない、ただ一匹の魔物として生き、そして死ぬのだ。
「拝命、仕りました」
一礼し、その場を辞する。
驚いた顔、恐怖を浮かべた顔、かすかな嘲笑、あるいは優越、いくつもの顔を通り抜けた先に、白仮面をつけた制服姿が一人、立っていた。
『お世話になりました。後はお任せください』
「俺の代わりに、よく尽くしてくれ"秘書官"殿よ」
扉をくぐり、振り返ることもなくコモスは歩み去った。
残されたものに、未練はなかった。
魔王城の通常業務は、五時に終わる。
状況によって勤務時間は変動するが、朝の九時から夕方の五時で、一日を区切ることが慣例とされていた。
作戦指令室もその日程で動いており、すでに職員の姿はない。
"魔王"と、その側近となった"秘書官"を除いては。
『よろしかったのですか?』
主の手つきはよどみない。
まとめられているのは、去っていったホブゴブリンの観察結果だ。その全てが、自分が学ぶべき"魔王"の手法でもある。
「虚しくはないか、分かり切った答えを問うのは」
『……申し訳ありません。私は凡庸で、こんな言葉しかひねり出せませんので』
「一軍を率いる大将が、最も重用しなければならぬ人材とは、なんだ?」
いつもの抜き打ち試験だ。
自分に対する"魔王"の教育は、変わらず続いている。おそらく、あの図書館で声を掛けられた時から、ずっと。
『孫氏の『兵法』用間篇に曰く。敵情を知ることが勝つために肝要であり、魔術や奇跡、過去の情報ではなく、今を生きる敵の中から求めよと。つまり間者です』
「正解だ。かわいげのない答えだが、引っ掛け問題を止めると言った手前、意地悪をするわけにもいかんしな」
『しかし、用間篇にはこうもあります。間者は好待遇で報い、信頼関係に心を砕けと』
おや、と言うように片眉を上げた"魔王"は、まとめ上げた資料を保存し、席を立った。
素早くマントを着せ掛け、先導を勤めるために先を歩く。
「さっきのあれは、お前の言う報酬だ。餞別でもあるがな」
『コボルトの討伐指令が、ですか?』
「モラニアでの実験、その対象はベルガンダだけではない、コモスもだ」
敵情を探るために送られる間諜は、相手の味方を装って生活することも多い。
だが、敵と通じ合った結果、その心を乱して、裏切りを働くことも知られていた。
「どれほど頭で律していても、親しいふりをすれば、相手に親しみを覚えてしまう。それでも敵として裏切り、元の主人に忠を尽くすことは果たして可能か?」
『……勇者相手に試す前に、自陣で同じような状況を創り出したと』
「実際、コモスは俺を恨んでいた。密かに行わせた心理テストでも、俺に対する叛意が、無視できない程度には表れていたぞ」
主は作戦司令部を出て、士官用の食堂へと向かう。元々の内装で言えば、例のコボルトが食事をした中庭の辺りだ。
門衛たちが恭しく大扉を開け、食堂の士官たちが立ち上がり礼を送る。
そのまま奥の席へ案内されると、"魔王"に席を勧め、向かい合わせに座った。
「間諜運用の課題は、裏切りを前提にした任務が、心理にもたらす悪影響の対処だ。コモスはその実例の一つ。間者の選定や、発生するストレスへの対処を模索するために」
『……そして、結果は収集され、実験動物は処分されると』
「俺は奴を解任しただけだ。そして、戻る気があれば当然、召し抱える」
『そうですね。きわめて額面通りの公正さです』
どうも自分は、"影以"になってから皮肉がちになった気がする。
主に対する畏れは消えないが、それでも青年の苛烈なほどに効率主義な面に、つい一言を加えてしまっていた。
「安心しろ。貴様だから告げたことだ。他の者には一切、コモスのことも、ベルガンダについても真意を明かしたことはない」
『……"魔王"様の遺産、受け取るにはあまりにも重たいと感じます』
「今後も積み増ししてやろう。必死に喰らい付いてこい」
前菜が並べられ、"魔王"は食事を始める。
自分も面を取って、それに倣った。
「明日、貴様を"影以"部門の長官に任ずる。コモスに代わり、"参謀"と共に俺を支えろ」
「……はい、謹んでお受けします」
"魔王"は淡々と食事をしている。
その手つきは正確で、目の前の栄養を処理している、と言った方がふさわしい。
きっと、コモスの解任も、勇者たちの動静も、ただの作業としてこなしているのだろうと思えた。
だが、そうではないことも、自分は知っていた。
「一つだけ、教えていただけないでしょうか」
「なんだ」
「なぜ、コモス殿をシェートに、けしかけたのですか?」
青年は、処理の手を止めた。それから上機嫌で、透明なグラスを口に宛がった。
「虚しくはないか、分かり切った答えを問うのは」
「これは、答え合わせです。私の浅慮が、"魔王"様の智謀を探り当てられたかと」
「その問いこそが答だ。よく推し量った」
実際の所、クナ・ナクラの剣術と、"不死魔将"の吸血剣技に、さしたる違いはない。
"魔王"は大道芸と評したが、あれも鍛錬の結果であり、生き残れば戦った者の血肉となるのは同様だ。
だが、過去のデータにおいて、コボルトのシェートが徒手格闘の敵と戦ったことは、未だなかった。
「無手を使うコモス殿を当てることで、コボルトは新たな経験を積む。その結果――」
「そこまでだ。そして、クナを"闘神"の勇者に差し向ける意味も、分かるな」
長大な剣と長い尾を特徴とする蜥蜴人の剣技に、格闘者がどこまで食い下がるかを見て、勇者の情報を蓄積する。
どこまでも、なにもかも、"魔王"の興味を満たすための実験場。
「現地に"影以"を送ります。ドローンであれば察知されずに撮影が可能でしょう」
「いや、できれば空撮は行うな。飛行物体は意外に悟られやすい。レンズや機材の反射を抑制して、超望遠の撮影を中心としろ」
そして、自分の初任務もすでに決まっていた。
こちらから言い出すならよし、そうでなければ指摘を交えて命令を下していたろう。
まだまだ、"魔王"の智謀には届かない。
「お先に失礼します。派遣人員の選定に入りますので」
「今回は俺の人事ファイルを使え。それ以後は、職員の個人記録に基づいて、貴様なりにやってみろ」
満足げな主の前を辞して、"秘書官"は食堂を出た。
ただ目の前に積み上げられた仕事に、思いを巡らせながら。