7、「その七日を得るために、今日までがあったのだ」
『星巡りを見に行かぬか、サリア―シェ』
かの神を思い出す時、真っ先に浮かぶのが、その声だった。
落ち着き、暖かく、決してこちらに押し付けない。神の記憶に忘却はないが、想起は印象の強い事柄から起こる。
そして、それはとても懐かしく、悲しい思い出だった。
『ほら、早く行こう。ぐずぐずしていると、他の神に良い所を取られてしまう』
『は、はい。兄上、ただいま』
晃神して間もない頃、兄は今よりもいっそう稚気が強かった。それも、自らの星以上の広がりがあると知った故に起こった変化だ。
神の齢には二つの意味がある。
誕生から現在までを計上する刻齢と、心の持ちようで変わる装齢だ。
生まれた時から年老いた神、永遠に稚気をそのままに留める神。あるいは、その時々に応じて自らを変える神。その姿こそが神威に直結する神は、装齢こそを尊んでいた。
兄は青年の躍動と、子供の無邪気を体現することを好み、サリアはそんな兄神を受け入れる役を、常に受け持っていた。
『ゼーファレスの面倒は私が見よう。お前もひと時、その役を休むといい』
善神バルフィクード、私たちの親神にして"調停者"の銘を頂く者。
かの忌まわしき"劫略する者"を打ち倒した、誉れ高き大いなる神。
今はもう、身罷られた、亡き神だ。
『これを。お前に合うかと思い、求めておいたものだ』
それは二つの宝石があしらわれた髪飾りだ。おそらくは自分と兄を顕す意匠、束ね結わえておいた辺りに差し、遠慮がちにお披露目をしてみせる。
『よく似合っている。さあ、遊んでおいで』
その言葉で、サリアの姿はほんの小さな子供の姿を取った。神の姿は見る神々の神威を受け入れる事でも変わる。
彼の言葉は心地よかった。己を解き放ち、あるがままに過ごせると思えた。
父神として、養い親として、師として、十全に信じられた存在だった。
『見ろ、サリア! 星々が砕けていく!』
兄が指さす先にあるのは、回転して止まない二つの星雲の輪だ。
渦を巻き、光を放ちながら、互いにぶつかり合い、砕け散っていく星々。
それは世界の交代そのもの。地の塩の知覚では捉えられぬ、大転換だ。
神の時間は伸縮を自在とする、早める気になれば幾星霜を瞬きのうちに終えて、刹那の一刻を、永劫に引き伸ばし続けられた。
だが、
『――サリア、バルフィクード様が、身罷られた』
時は決して、戻ることも取り返すこともできない。
たぶん、あの時にすべては死んだのだ。
サリアの幸せな時も、神々の世界の平穏も。
そして今、私はここにいる。
神の庭に北面する扉を抜けると、"闘神"はこちらを待つようにして立っていた。
相変わらずいかつい顔ではあったが、その表情にあるのは好意と恥じらい。姿かたちも幾らか小さくまとまりつつある。
「お待ちいただかなくとも、こちらから出向きますものを」
「時が惜しい。待ち、こらえるのさえ、ままならぬほどだ」
「注進、"闘神"様、女性を急かす、無粋」
相手の好意をさますように告げるのは、濃紺の鱗をまとった竜人だ。伴神が身に付ける薄衣と、警護役としての身分を示す細剣を腰に吊っている。
蛇と竜の特徴を併せ持つ口吻と切れ長の目は、冷静の化身という印象を見る者に与えた。
こちらの補佐を申し出たあと、青竜メーレはこの姿を取りつつ言った。
『神々の逢瀬、伴神を就ける慣例。サリア―シェ様、伴神の雇用、未だ無し。私、伴神として随行を進言。よろしいか?』
ちなみに、白竜ヴィトは小竜の姿のまま、彼女の肩に乗っている。見かけには、女神とその神使という風情だった。
「分かっている。だからこそ、こうして番犬のように突っ立っていたのではないか。でなければ、直ぐにでもサリアの元へ参じていたところだ」
「では、此度の趣向は"闘神"殿にお任せいたします」
「そうか。では……そうだな」
言い淀み、彼はこちらの髪に目を留めた。それから、懐かし気に嘆息する。
「何やら面映ゆい気がするな。その髪飾り、星巡りの折に着けていたものだろう?」
「……御身の思い出のよすがになればと、持ち出して参りました」
「あの時、貴様はもう少し、若やいだ姿であったな。女童ほどの」
「親神が善導の賜物です。もう、あの容を取ることもありますまい」
さすがに表情を曇らせ、"闘神"は天を仰ぐ。そう言えば、この神もバルフィクード恩顧の一つ柱だったことを思い出した。
そのまま、しばらく無言で"闘神"の神座を歩く。この前の破壊で残ったものは広い練武場だけだったが、小竜たちが小さな東屋と庭を作り、そこで語らうことになっていた。
席が設けられ、めいめいが落ち着くと、サリアは"闘神"に水を向けた。
「我が親神は、どのような方であらせましたか」
「身内では分からぬ様子を聞きたいか? そうは言っても、俺が知るのは、戦神としての荒ぶる姿のみだぞ?」
「構いませぬ。その方が、御身の言葉も滑らかになろうかと」
「敵わんな。その気づかい、おおよそ恋交わす者のそれではないが……まあいい」
それから"闘神"は、バルフィクードの武勲を語った。その幾らかは自分も兄から伝え聞いていたが、未だに知ることのなかった親神の姿を伝え聞くことになった。
「普段は優しげだが、戦場では呵責無き方であった。その気を浴びせられるたび、俺も魂消るのを抑えるのがやっとでな。一合打ち合って後、まともに向かってくる魔の者も終ぞ見なかった」
「私などは、いつも穏やかに笑んでおられる姿しか存じ上げませなんだ。やはり親神も、ただ柔和なだけではなかった、ということですね」
「ゆえに、未だ信じられぬ。あの方が、やすやすと討ち果たされたということが」
バルフィクードが横臥した瞬間を、誰も見なかったという。その頃、名を知られ始めた"刻の女神"も、その現場を見出すことはできぬと告げた。
『神の権能が立ち入れるのは、神の目のある場所のみでございますれば。魔の者による障りを除けることなど、私にはとても』
その頃からだろう、サリアがイェスタに対する鈍い敵愾心を抱いたのは。
神々の間に在りながら、神にも人にも益することなく、己の利を追い求める姿に、不穏を覚えていた。
「あの方が身罷られてより、天には不穏が横溢した。"調停者"の銘は伊達ではなかった、ゆえに神々は迷い、千々に乱れ、誰が敵味方かも分からなくなったものだ」
「それ故に、皆求めたというわけですね、"神々の遊戯"という分かりやすい結論を」
「……俺には何を言うこともできぬ。ただ、その波に乗った、乗ってしまったのだ」
そして"闘神"は語った。
サリアのあずかり知らぬところで、遊戯を形作った者たちのことを。
「"神々の遊戯"、その雛形を創ったのは、竜神だ」
「……そのお話は、漏れ聞いておりました。ですが、あの方は」
「失礼。竜洞より注釈を入れたい。許可を」
「よかろう」
それまで控えていたメーレは二人の前に立ち、当時の様子を再現する。
「本来、我が主の草案、現在の遊戯運営に近い性質。レベルシステム、神威付与の限定、神魔の協定。ただ、相違も存在。魔との不平等条約、構想に無い」
「魔の実力者も、神威と等しい力を与えてもいい。そういう形に持っていく予定だったのですよ」
「しかも構想、盗まれた。ある小神により、暴露公開された」
物静かな二竜が、珍しく柳眉を逆立てて言いつのる。おそらく、竜洞にとっても屈辱の出来事だったろうそれを。
「小神ダアト。この名前、サリア―シェ様、聞き覚えは?」
「……覚えている。兄上の伴神となり、仕えていた者だ」
「彼は消滅しました。"始まりの遊戯"で兄君の先導を勤め、己の勇者を魔に討たれて」
「私の星に"世界喰い"を導いたのも、その神です。内密に、と言い添えて」
場にいる者たちは瞠目し、あるいは頷く。
つくづくと、サリアはため息をついた。
忌まわしい出来事の真相、いかにその舞台が仕上がったか、全容が開かれていく。
「ダアトは"神々の遊戯"を利用して成り上がろうとした。そのために、竜神殿から構想の雛型を盗み、兄をそそのかし、私の星を贄と変え、そして散ったと」
「肯定。ただし、それは真相の片割れ」
「片割れ?」
「ダアトは己の分け身を、遊戯に参加した勇者に憑かせていたのですよ。その勇者を庇護した神とは――"英傑神"シアルカ」
その頃、天界には二つ柱の戦神が台頭していた。
天にも名高き武名を誇る、闘いの申し子。"闘神"ルシャーバ。
己の星を命掛けで護り、バルフィクードによって晃神した人間。"英傑神"シアルカ。
どちらかを"調停者"の後釜と考える者は数多く、"始まりの遊戯"は、その試しの場とも目されていたのだ。
「"闘神"様、戦功評定を辞退。"英傑神"、"調停者"の銘、受けるはず、だった」
「だった……? 確かに、かの神が持つ銘は"英傑神"のみですが」
「ダアトの憑いた勇者、"英傑神"の弑逆を実行、失敗。"英傑神"により誅戮。"英傑神"、戦功の一切を拒否。"始まりの遊戯"、勝者無しと判定」
神の殺害未遂、そんな話は初めて聞いた。
とはいえ、実行された当時、自分は忘我の状況にあったし、事が終わってしまえば醜聞を語ることは控えられただろう。
なにより、今の"英傑神"は世界に名だたる至高神の一つ柱。讒言など行おうものなら、神の庭に居場所を無くすことは必定だ。
「その後、空席になった"調停者"の銘を争うという形で、遊戯は継続されたのだ。今では単なる陣取り合戦の口実でしかないがな」
「中心となった神、"闘神"と"英傑神"を除く、バルフィクードゆかりの神たち。つまり」
「私が仇と思うべき者は、すでに我が手で降したか、もう手の届かない者であると」
兄である"審美の断剣"ゼーファレス、"知見者"フルカムト、"覇者の威風"ガルデキエ、"波濤の織り手"シディア。
バルフィクード恩顧の筆頭格を挙げれば、今や何の意味もない羅列でしかなかった。
そして私の星をもっとも侮辱し、滅ぼす原因となった神は、すでに居ない。
「皆様は、ご存じだったのですね。私の復讐は、果たすことなどできぬことを」
「肯定。ただし、それはただの事実」
寄り添うように進み出ると、メーレはこちらの肩に手を置く。冷たいが、こちらの疲れを癒すような感触があった。
「貴方の真意、怒りの気持ち、表明の場、与えられた。女神サリア―シェ、貴方の神性、相手と和合を旨とする。それに反すること、大変に難しい」
「……そうかもしれませぬ。苛烈に怒り狂う事、私に足りなかったのは、それだったのでしょう」
「心魂の治療、静養のみではない。本心の自覚、表現、共に必要」
その時、ようやくサリアは彼女の性質に気づいた。
世界でも珍しい『癒し』を権能とするドラゴン。荒ぶる力を振るうのではなく、育みと癒しを与える稀少な存在だ。
彼女が自分に寄り添うのも、その性質に従ったからだろう。
だが、それならばなぜ、今頃になって。
「この時を伺うように、皆さまは私のところにおいでになりましたね。すでに崩れていた河の堤に気づき、慌てて繕おうとするかの如く」
「その通りだ。くだらぬこだわりよ、利己の塊よと、存分に罵るといい」
「私、本能充足を優先。機会主義との指摘。正当な批評。問題ない」
「とはいえ、その物言いはいささか、邪推が過ぎると申し上げようか」
するりとメーレの肩から降りたヴィトは、サリアを真正面から見据えた。
「悲しみ苦しむ者に十全な手当てを。悪には報いを、善には祝福を。神でさえ、それが常に至らないことは、貴方もご存じのはずだ」
「……はい」
「そして、あらゆる治療において、最大の障害となるものはなにか、ご存じか?」
うっすらと笑う白い竜。
それは、おおよそ人にも、神にも表現し得ないほどの、悪辣と嘲りの毒が満ちていた。
「無知と我欲で治療者を遮る、親しき者の存在ですよ。しかも、その者たちは善意から癒し手を退け、傷つき病んだ者を、孤独と苦痛の地獄へ突き落とすのです。心当たりは、ございませんか?」
「――あ」
兄神ゼーファレス。
悲嘆にくれ続けた自分が見た、唯一の存在。
気が付けば、花と財宝と贅沢に囲われていた。何の益体もないガラクタで飾り立てることで、妹が癒されると信じての行為だ。
何一つ私を理解しようとせず、恋情という腐った土壌に、愛とは名ばかりの独占欲の大樹を茂らせて。
そして、その間に引き合わされた者は、誰もなかった。
「"闘神"殿に何が出来ましたか。兄君は己の悪を巧妙に隠した。それを暴かねば、いかなる抗議も、野蛮な侮辱と退けられたでしょう。縁もゆかりもない竜の癒し手に、己の消滅や竜洞の迫害を引き換えに、行動しなかったことを、罪と問いますか?」
「ヴィト、言葉が過ぎる。サリア―シェ様、ただの被害者」
「そうだね。そして、病状が快方に向かった途端、わがままを言い出した愚かな患者だ」
赤竜ソールとは質の違う、痛烈な糾弾。
込められた熱以上に、強烈な毒気を覚える口調は、こちらの不明を追求することを旨としていた。
「衰え弱った心が、苦しみを訴えるのは正当です。しかし、傷病が患者に、何を言ってもいい権限を与えるわけではない。弁えていただけますか?」
「……申し訳ありません。私も、言葉が過ぎました」
「とはいえ、こういう諫め事を言えるのも、回復した結果かと。喜ばしいことです」
仕事は終わったとばかりに、白竜は同僚の肩口に戻っていく。赤と黒とは違う組み合わせは、こういう細やかな問題に当たるためなのだろう。
「ともあれ、これで貴様の懸念も一つ消えた、ということか?」
「そうなる……のでしょうね。ある意味、拍子抜けした、とも言えますが」
「であればだ。俺との盟に、再考の余地が出来たのではないか?」
にんまりと笑みを浮かべる"闘神"。彼の言う通り、遺恨なく付き合うことができる存在としては、まずまずだろう。
ただ、その裏にある恋情が厄介だ。そもそも同盟というものは、問題が解決された後に立ち消えると相場が決まっている。
そして、彼はおそらく、この結末を期待するに違いない。
「魔王を討ち果たし、"英傑神"の勇者を討って後、シェートとの戦も望むのですね?」
「……いかんか?」
「彼はあくまで狩人です。猟が終われば弓を降ろし、穏やかに日々を過ごす者。武勲のために戦わせるつもりはありませぬ」
「分かった。それも飲むとしよう」
あっけない返答に、サリアは瞠目した。その答えであれば、条件を出したこちらが譲歩をする形になる。
食い下がってくるかと思ったが、彼は何でもないように首を振った。
「相手が望まぬことをせぬというのも、恋情には必要なのだろう? その道理に倣って、己の要求を引っ込めたまでだ」
「色恋というものは、教条通りには行かぬ……と、聞き及びますが」
「聞き及んでいる、だと? 恋など興味がないと言っておきながら、中々どうして!」
「こ、これはあくまで耳学問! 女神の集いや、人共の悩みを聞くうちに、自然と覚えたまでのことです!」
まるで子供の手習いのように、"闘神"はひたすら実直な姿勢で『恋の教練』を積むつもりらしい。こちらのうろたえ振りを見て、和やかに笑っている。
「からかうのは止めていただきたい。恋の教導など、私にできようはずもないのです」
「別に、そのようなことは求めておらん、最初からな」
「……では、一体何を?」
「貴様がそこにいて、俺と話している。それが嬉しいのだ」
その手練手管は知っていた。
兄からうんざりするほど聞かされたし、"万緑の貴人"や、それ以外の神たちからも告げられていた。
お前を愛している、と告げるくらい陳腐な、使い古された言葉だ。
「私など、そのように執心される価値はありませぬ」
「価値とは、売る側だけでなく、買う側もつけることができるはず」
「私は売り物ではない。値踏みされること自体、不快です」
「自分から価値などと言っておいて、ひどい掌返しだ」
「これ以上、色恋について語るのであれば、対面を打ち切り、戦の相談に移らせていただきますが」
大げさに降参の姿勢を取ると、"闘神"は何かを考えるように腕組みをする。
それから、ちらりとメーレに視線を送った。
「癒し手の竜よ。恋煩いを治す処方など、持ち合わせておらんか?」
「世界の秘薬、万病を制す医師、霊威満ちる湯治場、自然を癒す聲、そのいずれも無力。恋とはそうした病」
「だが、この思いはどうにかせねばならん。なんとか、うまい方法はないか?」
「……でしたら、こういう約定を結ぶのはいかがでしょう」
青い竜の肩で、白い竜はうっすらと毒の匂う笑いを浮かべて提案した。
「ヘデギアスの現地時間を基準に、今日より七日、お二方は逢瀬を続ける。そして、七日目の夜に、改めて"闘神"殿は、女神に思いを告げてください」
「つまり、その七日の間にサリア―シェの心を射止めれば、と言うわけだな」
「それでも心変わりされなければ、諦めていただくということで」
「何を勝手な――」
やんわりとメーレの手が肩に乗せられ、そこから意思が伝わってくる。
『現在、フィーとシェート、"闘神"の勇者、索敵中。七日という時間、有効に使うべき』
なるべく表情に出さないよう、サリアはその言葉を受け入れた。それから、いかにも渋々という風を装い、返答を口にする。
「七日が七万年になろうとも、私が首肯することはないかと。それでもよろしければ」
売り言葉も同然の返答に、それでも"闘神"は満足げに笑った。
「その七日を得るために、今日までがあったのだ。喜んで受け入れよう」
野外に備え付けたかまどの前に座り、話を聞いていた勇者は、ほがらかに断言した。
「罠っすね、確実に」
『やはり、そう思うか』
「だってそうでしょ。七日で告白とか、どこの恋愛ゲームかって話ですよ」
辻隆健、神去より呼び寄せた我が勇者は、世知を悟ったような顔で、かまどに掛けた鍋から夕餉の煮物をすくい取った。
二本の細い棒を器用に使って、中身をひたすら食べる姿を眺め、ルシャーバは真剣に問いかけた。
『貴様は得意か、その恋愛ゲームとやら』
「ぐふっ!? ご、おっ、ふっ、げふ、ごほっ!?」
『なるほど。良く分かった』
「勝手に分からないでもらえませんかねぇ!? いや……まあ、ゲームでもリアルでも、得意だったことなんて、ないけど……」
子は親に似るというが、呼びつけた神と勇者にも同じような理があるものらしい。
とはいえ、武に期待した男にそれ以外を望むのは、お門違いも甚だしかろう。
そもそもこれは、俺の問題だ。
『貴様には要らぬ苦労を掛けるが、しばらくは堪えてくれ』
「いいっすよ。もう腹くくりましたし」
サリア―シェが次の相手と決まった時、勇者には本心を告げていた。
自分がサリアを好いていること。その思いが、つもりに積もって千年を超えてしまったことを。
そして、結果がどうあれ、恋情を伝えるつもりだとも。
「でも、いいんすか。その女神様、脈なんて全然ないみたいですけど」
『だが……ここまで身近にその姿を置き、俺だけを見てくれたことはなかった』
「その考え方、ストーカー一歩手前ってか、アウトの範囲だなぁ」
『なるほど……いよいよもって、色恋というものは難しいようだ』
いざとなれば、伴神役の水竜にでも相談すればよかろう。逢瀬に付き従う従者は、恋の橋渡し役も兼ねているものだ。
正確には『相手の神が、自分の主人にふさわしいか』を見極める者なのだが。
「七日の間に、俺が闇討ちされる可能性は?」
『ない』
「即答っすか。恋は盲目って言いますけど」
『相手の気性と状況込みの判断だ、馬鹿者。惚れた欲目もあるがな』
遊戯に翻弄され、神の談合と悪意を嫌う者が、欲得に駆られることもあるまい。
竜洞の面子なら分からんが、それでも告白の結末が出る瞬間まで、あらゆる可能性を想定して動くだろう。
『隆健』
「はい」
『俺は貴様の腕前を売る。女神の歓心を買うために』
「うっす」
勇者の答えは簡潔で、よどみがなかった。それから、わずかに自嘲をにじませて、片手を差し上げた。
「正直、俺がそんなに高値とも思えないですけどね」
『どうして貴様らは、そう己を安く見積もろうとするのだ。俺にとっては値千金、いかなる財物でも贖えぬ逸品だというのに』
「大げさすぎるんすよ、"闘神"様は。って、貴様ら?」
ともあれ、これで道筋はできた。
今まで壇上に上がることもなかった戦の場に、何とかこぎつけたのだ。あとは思うさまに動き、己を試すのみ。
「まずは俺が先陣を切る。武運拙く敗れたなら、後は頼む」
「こっちは気にしないでください。恋の花咲くことを、祈ってますよ」
勇者の激励を胸に収め、"闘神"は顔を上げる。
さっぱりとしてしまった神座の空には、暮れなずむ紫の中、無数の星々が浮かび上がりつつあった。
あの星巡りの夜に見たものとは違う、光の連なりに目を凝らす。
闇の中でひそやかに光る、想い人の姿を探すように。