5、「今度こそ、正当に、完膚なきまでに、負けるために」
神殿の空気が、張りつめる。
目の前の、小柄な女神はルシャーバを睨みつけ、周囲で給仕を勤めていた配下の者どもが、戸惑いとわずかな敵意をにじませ、事態を静観していた。
「下がれ」
「ですが」
「下がれと言った。皆、外に出ていろ」
身内のものを神殿から追い出すと、改めて目の前の女神に視線を戻す。
昔、聞いたことがある。女性の心は嵐の海よりたやすく激動すると。
だが、この女神のかんしゃくは、そういう謂いの類ではない。叩きつけられる気配は、俺こそが、悪の顕現であるかのように思い定めていると見えた。
「信徒が処女童貞を捧げることを良しとする女神は、世界にも数多い。あるいは一夫一妻の純潔こそが、良き種を継ぐと言う神も知っている。だが、恋情を解さず、それを謳う者を憎む、とは」
「述べたままの通りです、"闘神"よ。私は恋情と、それを口にする者を認めない」
「なぜだ。貴様は情愛を不要とするのか?」
苛立ったように、女神はかぶりを振った。
それは諦観と、世界の不明に憤る仕草そのもの、繰り返された押し問答に飽きた者の振る舞いだ。
私は、そんなことを問題にしていない、と。
「愛ならば、理を解することも、受け入れることもできましょう。それは信に基づき、利害を超えた僥倖。子を育み、親を慈しむ。あるいは友を誉め、見知らぬ者に憐憫を垂れる源となるものです」
「では、貴様にとって、恋とはなんだ?」
「簒奪、劫略、他者より奪って恥とも思わぬ、稚気なる軽挙妄動の雅称です」
恋などはワルガキの振る舞い、ときたか。
腹に据えかねる物言いだが、言葉の棘に塗られた毒は、恋を知らぬ者の怯えや嘲笑に由来するものとは趣が違う。
つまり、サリア―シェという女神には、恋情を仇と憎む理由がある。
「私も神となって、千有余年を過ごしております。人共や神々の世界を、狭い了見ではありますが、それなりに眺めてまいりました。恋情とは、不和の源の内で、最も度し難い悪因ではないかと」
「……嫉妬という毒花が、恋情という苗床から生える事例は、枚挙にいとまがないな」
「恥ずかしながら、我が兄の愚挙が、その事例を裏付けてしまったようですが」
あのろくでなしの見栄坊め。俺の恋路をどこまで邪魔すれば気が済むのだ。次に会った時は弁解すら許さず、ぶちのめしてくれよう。
だが、そんな冗談めかした気分など、次の言葉が吹き飛ばしてしまった。
「我が星を滅ぼしたのは、そんな兄の恋情です。私を独り占めしたいあまりの」
「……なんだと?」
「我が星の護りを解き、魔物をおびき寄せ、始まりの遊戯を行う場として提供した。我が友にして裏切り者、カニラ・ファラーダの証言です」
その時、ルシャーバの中で、全てが繋がった。
あの悲惨が、あの荒廃と地獄がなぜ出来上がったのか、その最後の答えを知り、心魂が沸騰する。
その上、目の前の女神に対して、自分はとんでもない浮ついた言葉の数々を、吐き続けてきた。
ああ畜生、畜生っ、俺はなんと血の巡りの悪い、阿呆なのだ。
「……"闘神"、ど」
「ぬうううううううあああああああああああああああああああああ!」
神殿の天蓋が吹き飛び、壁が四方へと吹き散れた。
座卓や敷物が、飾られた品物全てが微塵と消える。目の前に広がった無窮の練武場、その広がりさえ怒りを呼び、腕が激しく振動する。
「あの、痴れ者共があああああああああああああああああああああああああっ!」
叩きつけた両腕が爆発の津波となって、目の前の一切をめくりあげ粉砕する。
今や俺の神座は、微塵になって砕けた。これまで集めてきた神器の類、蓄えさせた財貨の類も、一瞬のうちに塵灰と化した。
こんなことをしても何もならぬ、神にさえ過去の過ちを取り消すことはできない、愚か者、ガキの振る舞いと笑いたければ笑え。
だが、それでも怒りは、とめどなく溢れていく。
「おやめください"闘神"殿! いくら御身の神座とて、このままでは基から崩れ去ってしまいます!」
「俺を滅せ、サリア―シェ! 今すぐにも!」
「は……い、いや、なにゆえ!?」
「俺ならば構わぬ、今すぐこのそっ首打ち落とし、貴様の星の民に備えてくれ!」
驚きに目を見開いた女神は、こちらの言葉に眉をひそめた。それから、何かを察したように、怒りとは別の苦痛にも似た顔でうつむいた。
「そのような事をして、いったい何になるというのです」
「そうだ、何の意味もなかろう! 俺は大馬鹿者の卑怯者だ。あの戦に、いかなる陰謀があるのかさえ知ろうとせず、あげく、貴様に恋情を告げるなどという恥をさらした。その詫びと思ってくれればよい!」
顔を覆い、握りつぶしてしまえとばかりに力を込める。メリメリと音を立てて角にひびが入り、それでも湧き出る怒りが収まらない。
「いや、しばし待て。さすがに今はまだだ! まずはあの戦で益を被った神共を鏖殺し、しかる後、貴様に討たれよう!」
「……それはその、困ります」
「いや、こればかりは譲るわけにはいかぬ! 貴様にも意地があろうが、俺とて、想い人を虚仮にされた怒りがある!」
「ですから! しばしお待ちをと、申し上げておるのです!」
そこでようやく、ルシャーバは顔を上げた。
腰に手を当て、こちらを睨み据える女神は、つくづくとため息をついていた。
まるで大きな体をした赤子、人の似姿を取った暴風だ。
神というものは大なり小なり傲慢を体現するが、武の神ともなればその威勢も、被害も災害級と言うところだろう。
サリアは辺りの惨状を見回し、目の前の男に告げた。
「仰る通り、全ては無意味なのです。貴方が今更、神々の遊戯で益を被った神を消し去ったところで、私の無念が晴れることはない。守りたかった全てが、消えた今となっては」
「……そう、だな」
「私を想っていたというなら、私が悲しみに暮れる時、慰めを与えてくださらなかったのか。それを責めることもいたしませぬ。すべての機は逸されたのです」
それまで荒れ狂っていた姿が嘘のように、"闘神"の体は小さくなって見えた。
意気軒高という言葉が姿かたちを得たような彼は、今や消え果てる寸前のろうそくのように儚げだった。
その一切が、サリアには理解できない。
唐突に恋情を告げにきたこの男は、長い懸想を重ねてきたという。万夫不当と呼ばれた武神の、信じられないような、弱気な秘め事。
だが、こんな姿は幾度も見たことがある。
恋に悩み、破れる者たちは、一様にこういう振る舞いをする。
彼ら、彼女らはみな、自分の心に囚われて機を逸していく。想いが受け入れられて欲しいという、欲得に目を奪われたために。
「それが不思議なのですよ」
「……なにがだ?」
「恋情に溺れ、想い人と結ばれることにあくがれる者は、いつも本質を見失う」
幾度も告げた言葉だ。
神殿に恋愛成就の願を掛けに来た女たちに、大物狩りの安全祈願とあわせ、良き猟果と想い人を勝ち取りたいと誓う男たちに。
「なぜ、ただ一言、お前を好いていると、面前で言葉にしなかったのですか」
「…………」
「そして、相手が『否』と言うかもしれない自由を、許さなかったのですか」
「思いが通じる幸せを願い、否と言われることに怯えることは、許し難い罪悪か?」
「いいえ。ですが、できるのは願うまで。それ以上は、想い人への呪詛に他ならない」
そして、恋心とは『そのようになって欲しい』という願いから、『そのようになれ』という強要へと、たやすく転ずるものだと、サリアは知っていた。
「貴方がたの言う恋とは、他者を奴隷として扱うことと、何が違うのですか?」
「……どのような愛深き仲も、その者を恋焦がれるところから、始めるものであろう」
「恋が無くとも愛を育むことはできます。恋情だけが至上などという妄言に、付き合う義理もありませぬ。そういう相手をお望みなら、私以外をお選びください」
言いきってしまってから、わずかに後悔した。
これでこの神は自分の敵になる。
ただの敵ではない、想い人に手ひどく裏切られたという、逆恨みもいい所の思い込みというおまけ付きで。恋をした重さの分だけ、憎悪をたぎらせてくるだろう。
いや、いまさらそんなこと、どうでもいい。
「私はうんざりしているのです。大切にすると嘯きながら、私の愛した星を滅ぼして平然としていた兄に。私との友愛を育みながら、兄への想いで何もかもをぶち壊しにしたカニラに。なにより、彼らを狂わせた、忌々しい『恋』という呪詛に」
この期に及んで、自分の目の前に立ちふさがるのが、恋に狂って私へ懸想をするものとは、できすぎている。
この男は、自分の首を落とせと言った。ならば、その言葉にふさわしい末路を。
「もし、なにかしかの思入れが残っておいででしたら、戦場では遺恨なく振舞っていただければと。無論、貴方にはなにも期待しませんが。私は恋情を解さぬ女ですので」
「サリア―シェ!」
叫ぶなり、目の前で"闘神"は地に伏した。
獣のたてがみを思わせる後頭部が、小刻みに震えている。
「ならばここで、改めて言おう。俺は、貴様に焦がれていた! 俺は貴様への恋情が抑えられなかった! そして、その願いが通じるようにと、無様な過ちをつづけた!」
「ですから」
「恋情を解さぬなら良い! 俺を嫌っても構わぬ! だが、俺はあの時、あの星巡りの夜に貴様を見た時から、俺ではなくなった!」
星巡りの夜、その言葉に過去の思い出が浮かび上がる。
群れ集う神々の宴、老いた星々がぶつかり合って砕けて散り、砂子を撒くような輝きを放つ、世界の死を祀る時。
まだ自分は晃神して間もない頃、世界がまだ、こうではなかった日々の欠片。
「俺も、恋情など知らぬ若造だった。恋などくだらぬ、手を伸ばせば手折ることができる花を、無造作に摘み取ればよいと。だが、貴様をそうすることは、できなかった」
そうだ、あの時確かに、この男は場にあった。親代わりの大神によって引き合わされ、わずかな時だけ、まみえたはずだ。
彼は何を言うでもなく、つまらなそうに顔をそむけたきりだった。
「俺は風雅を知らぬ。付け届けも、獲物の臓物や無骨な武具を贈るのが関の山。詩など戦の頌歌を諳んじる程度。そうだ! 俺は、恋愛という戦場で、ただの雑兵であった! それに気づかず、こざかしく立ち回ろうとしたのだ!」
「……それを今、私に告げて、どうされるのです?」
「今度こそ、正当に、完膚なきまでに、負けるために」
顔を上げた"闘神"は、決意しかない顔で、言い切った。
「浅ましい真似をさらして済まなかった。貴様の言う通り、恋情とはたやすく心を狂わせるものらしい」
「それで、私は改めて貴方を袖にするということで、よろしいですか?」
「いや、俺は貴様と顔を合わせるたび、恥を思い知るだろう。貴様の手を煩わせる必要もないのだ」
「では、これまでの口上は?」
「思いの丈よ。言わねば恋は始まらず、終わりもしない。そう言ったのは貴様だぞ」
いったい何を納得したのかは知らないが、"闘神"は険の取れた顔でこちらを見ている。
こうなってしまえば、こちらも怨恨を引きずる意味もないだろう。
「では、貴方の恋心の落としどころ、ここに定まったということで、よろしいか?」
「そうよな。そしてサリア―シェ、俺はやはり、貴様が好きらしい」
「――え」
「嫌そうな顔をするな。片恋、というのもよくあることではないか。俺が勝手に貴様を想い、ただそこにあるだけだ」
しつこいというか一途と言うか。兄や"万緑の貴人"よりも面倒な武の神に呆れて笑う。
「どうぞ御勝手に。私は貴方を、永遠に好くことはありませぬが」
「それでも良ければ、恋情を抱いてもいいと言っていたしな」
「短き徒花となるでしょう。貴方と私は、遊戯において敵同士ですので」
「そう、それだ」
からりと笑うと、"闘神"は告げた。
「ならば俺と盟を結ばんか、サリア―シェ。力を合わせ、魔王と"英傑神"を倒そう」




