4、「その言葉を喜ぶものを、憎んでいるのです」
一夜明けた湿地の光景は、霧の中から始まった。
もちろん、一聲上げれば晴らせる程度のものだったが、さすがに今日はやめておいた方がいいだろう。
昨日の雷雲招来で、周囲の聲がだいぶ騒がしい。これ以上思う通りにすれば、この後の天気がひどく荒れてしまう。
フィアクゥルは右手を確かめ、巻いてあった包帯を取り外した。薬草のツンとする匂いを嗅ぎ、それから静かに、全身を震わすように、謳い始める。
「――――」
肺の奥、みぞおちの辺り、そこからさらに下の、両足の間の腰骨の辺りへと、聲と息を降ろしていく。
皮膚感覚が、つぷつぷと泡立つ。傷ついた右手がじわりと熱くなり、かすかに震えた。
目を閉じて竜の六識を開き、心の中に思い描く。
傷ついた部分を意識しながら「健全な自分」を、上から宛がっていく。
目を開き、手を見た。
めくれ上がった薄皮をはがすと、新しい鱗と皮膚が現れる。爪は以前のように堅く伸びているが、他の手指よりは少し短かった。
「自己再生、って、こんな感じでいいんかな」
『問題ない。フィー、その聲、いつ習得を?』
独り言のつもりだったが、胸元から涼し気な呼びかけが響いた。
水竜メーレ、こちらのバイタルと侵蝕状況を管理するドラゴンだ。
「サリアの加護だと、遅い気がしたからさ。ちょうどいいから、再生中の『体の聲』を聞いたんだ。後は、病気の木を治した時と同じにやってみた」
『癒しの聲、習得難しい。ドラゴン、傷病を得ること、ほとんどないから』
「医者も薬もいらないもんな。ってことは、これって結構レアスキル?」
『フィー、良い育み手になれる。とても偉い』
普段の淡々とした声とは違う、温かみのある声だ。少し年上のお姉さんに褒められるような、そんなイメージに照れくささがこみ上げた。
「ところで、今日からはどうするんだ? 魔王軍の追っ手は潰したし、ヘデギアスにいるっていう"闘神"の勇者は?」
『……申し訳ない。その件、しばらく停滞する』
「なんかあったのか? ソールがサリアとケンカしたとか?」
『当たらずとも遠からず。竜洞、崩壊寸前』
穏やかでない言葉に息をのむ。
竜神が抜けてから、何かと先読みが過ぎるソールと、こちらの体や安全を第一に考えるサリアとの間で、何度も意見の衝突が起きていた。
自分もそういう経験があるからわかるが、神側のトラブルは勇者の動静に大きく影響するものだ。
『あまり驚かすものではないよ、メーレ。大丈夫、気にすることはないさ』
白い竜のヴィトが、いつもの飄々とした感じで声をはさんできた。
他の三匹と違い、あまり自己主張の激しくない存在だが、必要な時にはきっちりと締めてくるのが彼だ。
その達観振りは、どこか竜神の振る舞いを思い出させた。
『書庫の一部とグラウムの給食システム、第二サーバルームが崩壊したくらいかな』
「十分ヤバそうに聞こえんだけど」
『ドラゴンの大所帯としては、十分、理性的に事が進んでいると言えるね』
「原因は何なんだ? とうとうサリアがソールの嫌味にブチ切れたとか?」
なぜか二竜は黙り込み、
『聞かない方がいい』
とだけ告げた。
『済まないが、こちらも事態を把握しきれていないんだ。そこから北に行けば、山岳地帯に突き当たるはずだ。別命があるまでは待機、いいね?』
「分かった。それじゃ、ソールから言われた宿題でも、片付けるとするか」
『宿題、なにかあった?』
フィーは、持ってきていた銅貨を指ではじく。
同じ過ちを繰り返すつもりはないが、これも何かのヒントになるかもしれない。
『雷の力、昇圧で暴発しやすい。守りの加護、聲の力、併用で守りを重ねて』
『ソールはああ言ったけど、SFネタは思考を深めるのに役立つよ。見た目の再現より、どういう仕組みなのかを想像するといい』
「サンキュ。それじゃ、そっちもがんばってな」
連絡を終えるころには、霧は晴れていた。
太陽は相変わらず弱弱しいが、それでも気温は上がりつつある。すぐそばに流れる川を見つめ、フィーは雷を謳う。
そして、掌の中ではじけるコインを、水面に投げ入れた。
閃光が瞬き、電撃に打たれた魚が、流れに乗って浮かび上がってくる。
「おいグート、魚とり手伝え!」
茂みに潜んでいた星狼を呼ぶと、魚を追いかけ川面を飛ぶ。
爆発や毒漁より、電気で麻痺させた方がいいだろうと思ったが、狙い通りだ。
気が付くと、起きてきたシェートが魚拾いに合流していた。そのまま、魚をさばいて串を打つ作業に移っていく。
「フィー、銅貨、落ちてた。お前のか?」
「ああ、さっき漁に使ったんだ」
「お前の漁、どんどん変わる。俺、ついてけない」
そう言いながらも、シェートの顔に戸惑いはない。毎回ドラゴンのやり方を見てきたせいか、理解できない者への怯えや引け目は、すっかり消えていた。
「それでも、お前、良い漁師。もう俺、敵わない」
「いいんだよ。一番弓のうまい奴が、ガナリになるわけじゃないんだろ?」
「……そうだな」
笑い、頷くコボルトは、こちらを見た。
それから、串を打つ作業に戻り、調味のために塩を振っていく。
「魚はそろそろ飽きたなー。ここから北に行くと、山に突き当たるんだってさ」
「フィー、山の狩り、やるか?」
「そっちはお前に任せるよ。うまい肉、よろしくな」
掛け値なしの笑みを浮かべて、シェートは請け負った。
「ああ、任せろ」
神座には、その神性を顕す顔に等しいと言われる。
だとすれば、"闘神"のそれは、まさに武辺の徒を善しとする者の治める領域と言えた。
どこまでも続く、石畳の敷かれた床。それは飾りではなく、実用のためのものであり、あちこちが磨かれ、こすれ、へこんでいる。
神殿に続く道すがら、そんな光景が広がり、そのあちこちで闘士たちが槍や剣などの武器を振るって、鍛錬を続けていた。
「気にいらぬか? ああいうのが見たくないというなら、引っ込ませるが?」
「お気になさらずに。私とて、武そのものを拒否するというわけではありません」
どうやら、この神にも自分は誤解されているらしい。サリアは注意深く自嘲の匂いを消しながら、己への風評を笑った。
「そも、"平和の女神"というのは、私が皆様の耳元に、遊戯の撤廃と非戦を訴え続けたがゆえにつけられた俗称。元々は鄙びた辺境の星を治める、小神に過ぎませぬ。皆様のような二つ名を名乗るような、権能や勲など、ありはしないのです」
「だが、貴様は"遊戯"で勝った」
生真面目に、真摯に、居住まいさえ正して、"闘神"はサリアを讃えた。
「わずかな手勢、勝ち筋さえ見えぬ苦境、貴様らを嘲り続けた者共。その全てを向こうに回してなお、弓箭を降ろさぬ気概。その果てに掴んだ勝利だ。今後は誰に蔑されることもなかろう」
「……それも、力添えくださった皆様の、おかげにございます」
「どれほどの強弓であろうと、射手の腕なかりせば、無用の長物よ」
率直すぎる言葉に、時折浮かぶこちらへの好感。それはサリアという想い人に向けただけではない。端々に浮かんでいた興味を、拾い上げてみる。
「シェートは戦人ではありません。あれは頑なに、自らを狩人と称しますので」
「その割には、良い身のこなしをしていたな。仕込みは誰だ、竜神か?」
「魔族の一人です。色々ありましたが、悪胤から生じたとは思えぬ、好漢でした」
「なるほど、例の"魔将"殿か。シェートの足遣いに、同じ流儀がかすかに匂っていた」
さすがにこちらの資料を何度も見た、と言うだけはある。武術に関しての目利きは、竜洞の面々か、それ以上だろう。
そのことに気づいた時、サリアは思わず苦い笑みをこぼした。
「どうした」
「いえ……こうして話している間にも、シェートの技前など、みるみる暴かれていくものなのだなと」
「あー、それはな。武術などやっている愚か者は、大抵こうなのだ。あいつは俺より強いか? あの技はなんだ? あの身ごなしは? とな」
語らっている間に、二人は神殿に足を踏み入れる。
外に広がった修業場が"闘神"の顔なら、ここは彼の心そのものだった。
壁や架台に掛けられた武器や甲冑、無数の戦旗や戦場で鳴らされる角笛や太鼓など、戦に関わる器物が等間隔で飾られている。
そして、その果てにあるのは当然、長大な机が置かれた宴会場だ。
「どうだ、いかにも武辺者の好みそうなもの調度だと、笑ってもいいのだぞ」
「想像していた通り、と言えばそうですね。笑うというのとは違いますが」
「座ってくれ。気にくわぬと言うなら、貴様のためにすべてぶち壊しても構わん」
用意されたのは、詰め物の入った長椅子だった。"闘神"は先ほどと同じように、敷物の上に腰を下ろして対面している。
「そう言えば、先ほどから伺いたいことが、ひとつありまして」
「なんだ?」
「なぜ、私なのですか」
彼は当惑し、それからまじまじと、サリアを見た。
それから酒や料理を持ってくる勇士たちを眺めつつ、ため息をついた。
「それを問うとは、なかなか辛辣なことをしてくるなあ」
「おかしなことでしょうか? そも、貴方ほどの武威ある方であれば、庇護を求めて、あるいは勇姿に惹かれて、睦言を告げる方も、あまたでしたでしょうに」
「確かに。だが、そういう手合いは、人の身であるときに、通り過ぎてきたのでな」
そう言えば、この神は元々、生まれた星で天賦の才を持つ武人としてあがめられ、神格を得たものと聞いていた。
その後、魔族を討ち果たした功績から、自らの星神から禅定を受けたという。
「そうなると、ますますわからない。私などは、華美を誇る洒落者でもなく、栄耀を求めて神々の間を渉猟するでもない。星の民の安寧を……願っていただけの者に過ぎませぬ」
そうだ。私の願いは、そうだったはずだ。
日々をただ過ごす民を、紡ぎあげる営みを見る事だけが、悠久たる神の長生を費やすに足る、自分の望みだと信じていたはずなのに。
「ましてや、私は全てを取りこぼした者だ。貴方が寿いでくださった遊戯の勝利も、シェートが勝ち取ったもの。我が事と誇れるものはなにもありませぬ」
「自虐が過ぎよう。貴様の一手がなければ、あのコボルトに生きる道はなかった」
「それに、私には、分からぬのです」
これ以上のごまかしは無意味だ。
何より自分の中味が、今の全てを虚しく感じている。ただの茶番、相手に話を合わせるために続ける、反射に過ぎないと。
「私にはわからない。あなたがたが述べる『恋心』と呼ぶものが」
「……サリア―シェ?」
「神として生を受けてこのかた、私は、その言葉を理解したことがない」
それは、妹である自分を、狂おしいほどにかき口説いてきた兄にも、友人と呼んだ女神にも、告げたことがなかった真実。
「私は、誰に対しても、恋心を抱いたことがないのです。そして」
サリア―シェは、目の前の気のいい男を、怒りを込めて睨んだ。
「その言葉を喜ぶものを、憎んでいるのです」