1、「お前は、それでいいのか」
見上げると、暗い雲の塊が増えていた。
早朝、出がけの時点では、空模様はもう少し加減された曇り空だったはずだ。
泥まみれの雪に似た塊、今にも冷たい水を滴らせそうな重みを感じた。
四方を見渡せば、背の高い水辺の草がどこまでも広がっている。癖のある焦げたような香りの源は、湿気で緩んだ泥炭からくるものだ。
一応、街道は石材や板きれて舗装されていたが、整備する者もないために、ところどころ水没したり、泥に沈んだりしている。
この上、雨まで降られたら、まともに進むこともできなくなるだろう。
「鼻の奥が、ツンとするぜ。こりゃ一雨来るな」
隣を歩く同僚が、鉄兜の下で無慈悲に断言する。
「冷てぇ雨だ。肌に染みて、骨まで凍りそうなのが来るぜ」
「勘弁してくれ。ただでさえヘデギアスはうすら寒いんだ、これ以上冷え込まれたら、一歩も動けなくなる」
「とはいえ、今日のこれは、いつもより温いな」
自分が従軍するゴブリン歩兵の一団は、一万二千の大所帯だ。モラニア、エファレア、ヘデギアスの三大陸から集められて、寒い北国の頼りない道を歩き続けている。
雨まで振られたら、更に行軍速度が落ちるだろう。
「そういやおめぇ、モラニアからか」
「ああ」
曖昧に頷くと、寒気を払うように両手をこすり合わせる。肩に担いだ奇妙な槍が、身に付けた革鎧とこすれ合って、騒音を立てた。
「"知見者"の軍とやり合った後、うちの大将が討ち死にした。解散、再編成、そんで今回の行軍に駆り出された」
「そうか……そいつぁ、災難だったな」
災難、そう確かに災難だ。
降って湧いたように現れた勇者の軍団、そいつらに必死で抵抗している間に、自分の環境は目まぐるしく変わっていた。
勇者軍団は打倒され、引き換えるように魔将ベルガンダは、死んだ。
「お前のところはどうなんだ」
「気位の高いお貴族様でよ、下賤で下級な魔族はいらんだとか言っといて、気が付きゃ勇者に首を取られてやんの」
「大口叩いて無様に敗北か、いい気味だ」
「……違ぇねえ」
ヘデギアスを統治していた吸血王は、魔王軍の鼻つまみ者だった。
権力を嵩に着て、位も力も低いベルガンダを侮辱する姿を、周囲に見せつけていた。
もちろん、魔族は力が全てだ。
吸血鬼の振る舞いも、別に咎められる筋合いはない。
とはいえ、気にくわない相手を認める筋合いもなかった。
「正直、おめぇらの所が羨ましかったよ。俺ぁもともと、"闘魔将"付きだったんだが、あっちはあっちで、ひでぇもんだ」
「話には聞いてたぞ。教練とか言って、下働きを魔獣の餌にしてたとか」
「違ぇよ。傷モンの魔獣を潰すのに、雑兵を使ってたんだ。まあ、実情は似たようなもんだったけどな」
その"闘魔将"も、この世にいない。
勇者に抵抗することもできず、一瞬で消滅した。その事実を伝えたのが、この同僚が所属した一隊だということを思い出す。
「なぁ……ところで、おめえに聞きてぇんだが」
「俺の詰めてたのは王都リミリス近くの迷宮だ。"知見者"の別動隊を足止めするんで、本隊に加わることもなかったよ。だから」
「例のコボルトは見たこともねぇ、ってか」
「噂だけなら、いくらでも話してやれるがな」
苦笑し、同僚の肩を叩くと、そのまま行軍に意識を戻す。
噂は自分も嫌と言うほど聞いている。
信じられないような、だが、確かな事実に基づく、噂を。
曰く――
『神秘の守りでよろわれた神の勇者を斬り屠った』
『百人の勇者を相手に生き残り、その力を喰らった』
『無限に増える神の軍隊を相手取り、勇者を魔将もろともに討ち取った』
『魔王と渡り合い、その身体に手傷を負わせて逃げ延びた』
『運命を授ける女神の勇者を、その神規もろとも打ち砕いて勝利した』
廃神と契り結び、その加護であらゆる敵を退ける一匹の魔物。
『最弱』のコボルト。
これがまだ、自分たちと同じゴブリン種なら、まだ納得できたろう。
あるいは高名な神が背後に立ち、溢れんばかりの祝福と加護を注いだというなら、分からないでもなかった。
『言っておくが、シェートの本質はそんなところにはない。あいつの強さは、貴様らの慮外に存在する。侮れば、生きて帰ることはないと思え』
この世界を支配する魔王に『最大限に警戒しろ』と言わしめた存在。
その神は名もなく落ちぶれた神であり、コボルトは命をなげうつようにして、瀕死の末に勝利をもぎ取り続けたという。
思い返すほどに、不安と焦燥が曇天のように心を覆っていく。
その重圧に押し出されて、もう一つの噂が、まことしやかにささやかれた。
「噂って言えば、俺たち――」
「やめろ、そんな話は気にするだけ損だぞ」
「でもよぉ」
『無駄口を叩くな』
いつのまにか、自分たちの傍らに、そいつは現れていた。
目鼻もついていない、真っ白な仮面。
今の空からもぎ取ったような、暗い灰色のローブに身を包んでいる。
種族も性別も分からない。声にも偽装を施しているのか、震えるような歪んだような耳障りな音として聞こえてくる。
『再編成した地上軍にて、コボルトの勇者、シェートを討ち果たす。そのことだけを考えていればいい』
「コボルト一匹に、一万二千か」
『不服か』
剣呑な気配がローブから発散される。
逆らうなら始末する、そんな意図を笑い飛ばすと、担いだ槍を軽く差し上げた。
「俺だって、大将の部下だったんだ。仇を討てるってんなら、それでいい」
『……そうか』
そっけなく言い捨て、ローブは立ち去っていく。
影以、今まで聞いたこともない、魔王直属の部隊だという。
自分たちがどこに向かって行軍するのかは、斥候役のあいつらが決めていた。ヘデギアスの片隅、名もない泥炭土の荒野にやってきたのも、そういう理由からだ。
そういえば、今自分が手にしている武器も、これまで知らされなかった『新兵器』だ。
杖槍、内部に組み込まれた魔力を消費し、投射型の魔法を命令ひとつで射出する魔道具。訓練のたびにこれを構え、独特な姿勢で射撃をさせられてきた。
異常な敵、見たこともない装備、存在さえ知らなかった味方。
これまで体験してきた、どんな戦とも違う異様さに、胸がざわめく。
『噂って言えばよ、俺たち――』
遮った同僚の言葉を、思い返す。
その後に、こう続けるはずだったはずだ。
俺たちはここで使い潰されるんじゃないか、と。
『魔王軍の魔将、あと一人だけなんだってさ』
昨日の晩、一緒に飯を食ったヤツが、そんなことを漏らしていた。
勇者たちが投入されてから半年余り、最初に敗北した海魔将を皮切りに、魔将たちは掌にすくい上げた泥のように、こぼれ落ちて姿を消した。
『この部隊が結成される直前に、"繰魔将"が城に上がったって聞いたな。暇乞いを告げに行ったらしい』
南西の大陸、ケデナを縄張りにする最後の魔将が、神の中でも最優と謳われる"英傑神"
の勇者を引き受けているという話は、遠くモラニアにも届いていた。
その策謀が、打ち破られ続けていることも。
『残す勇者はあと三人らしいが、うち二人が"闘神"と"英傑神"の勇者だってよぉ』
その二柱神の勇者は、出れば必ず神の側に勝利をもたらすという。育ち切る前に倒すのが上策、神々の遊戯を知る魔物であれば、誰でも口にする必勝法だ。
だが、今の自分たちの懸念は、そこにはない。
『参考となる映像はここまでだ。"愛乱の君"との戦いは、余技のようなもの。ただし、その過程で、あらゆる神秘の行使を禁ずる、神規を使うようになったがな』
この作戦に投入される前、自分たちは例のコボルトの映像を見た。
初めて見る魔王の姿にも驚いたが、もっとも心を奪ったのは、コボルトの戦いだった。
始まりは、"魔将"ベルガンダとともに"知見者"と争う姿だ。手にした弓の神器で魔力弾を自在に操り、弓を二つの剣に変えて斬り結ぶ。
次に見たのは巨大な炎を背負って、魔王と対峙する場面。それまで注目されていなかった、仔竜による支援らしい。
そして今、この広い荒野のどこかに潜むコボルトと仔竜は、更なる変化をしているのではないか、というのが灰色の連中の発言だ。
「勇者って、何なんだろうな」
誰に尋ねたわけでもない、自然に湧いた言葉だった。
だが、耳聡い者は振り返り、疑問そのものであるようにこちらを凝視した。
「神の使い、俺たちの敵、そして、滅茶苦茶に強ぇ奴だ」
「例のコボルトもそうだ、ってことになるな」
「いや、その、そういう事じゃなくて……」
仲間の言葉につつかれて、渾沌としていた心がかき混ぜられる。
相手が強いとか弱いとかじゃない、勇者という言葉が持つ恐ろしさを、探ろうともがいていく。
「もしも、俺が『勇者』にされたら、俺はどうなるんだろうな?」
「なんでぇ、今から神に鞍替えかぁ?」
「まあ、まてよ。お前が神の奇跡を受けたら、そりゃ『勇者』になっちまうんだろうな。それで無敵の力で、俺たちをぶち殺す」
「……コボルトの奴は、そうじゃなかったんだろ?」
こちらの指摘に、仲間たちは一様に押しだまった。
魔王は言っていた。コボルトに与えられた最初の奇跡は、たった三つ。
守りを付与し、武器を強め、傷が治りやすくなる、それだけだと。
『では貴様らに問おう。その三つを使って、あらゆる攻撃をはじく鎧を持ち、達人の剣術を約束する剣を携え、高位魔法を一声で解き放つ道具を持った勇者に、たった一人で立ち向かい、勝利できるか?』
答えは『不可能』だ。
最初から勝負にならない、一目散に逃げて怯え隠れる方がいい。
それが魔物だ。弱きを虐げ強きにへつらう、そういう世界に自分たちは生きている。
だが、
「あいつは勇者を喰った。何の助けにもならない奇跡だけで。つまり、勇者ってのは、その……神の力ってだけじゃ、ない、気がする」
「おめぇはこう言いたいわけだ、勇者って銘自体『魔法』みてぇなもんだって」
魔法。
確かにその通りだ。
勇者という言葉に込められた力が、そいつの何もかもを変えてしまう。
「俺は、勇者が怖い」
言葉にした途端、それは明確になった。
今までの生は、なにもかも霧の中にいたかのように思えた。
魔物の生き方は、目の前に出たものを判断するだけでことが足りるものだ。
食うか、殺すか、逃げるか、従うか。
投げ出された死肉のように、成り行きで腐っていく日常だった。
そんな条理をすべてぶち壊す、異常な存在が立ちふさがろうとしている。
勇者とは、なんなのか。
「俺だって怖ぇよ、死にたくねぇ」
そんな疑問を死肉の条理が上書きした。
分かっている、こんな疑問に意味はない。自分の思いは、魔物の条理にそぐわない。
死への恐れとは関係ない、別の畏怖などに心を砕いている場合ではない。
『無駄口は終わりにしろ。対象を補足した』
白仮面が再び姿を現す。
隊伍のあちこちに同じような姿が現れ、それぞれに情報を伝達しているのが見える。
目の前の相手も、寸分違わぬ動作で、告げた。
『隊を分割し、包囲殲滅する。指示を聞き違えず、命令通りに動け』
そうだ、今は命令通りに動けばいい。
槍を担ぎなおすと、ゴブリンの歩卒は指示された方角に向けて、仲間と共に進軍を開始した。
まるで黒い大波だ。
どこまでも広がる泥炭の土地を進む部隊を見て、シェートはそんなことを思った。
槍を担いだゴブリンたちが横隊列を取り、確かな足取りでこちらに突き進んでくる。
この辺りは、いくらか水はけがいいせいか、連中の軍靴が枯草や倒木を踏みしめる音が地鳴りのように響く。
その全てに、シェートはヘデギアスの海を重ねた。
日差しの弱い曇天模様の下、黒々として大きくうねって、岸に押し寄せていたっけ。
「ビビってるかと思ったけど、大丈夫そうだな」
「そうか?」
「顔。"知見者"の時と違って、緊張してないから」
傍らに浮かんだ青い仔竜の指摘に、口元を和らげる。確かにあの群れは恐ろしいが、それでも、大波に例えるぐらいには、余裕は持てているのだろう。
『こちらは準備完了した。……とはいえ、本当によいのか?』
『我々の作戦がお気に召しませんか? 採択をするかの判断は、貴方次第と申し上げたはずですが、"平和の女神"よ』
『そ、そういう事ではないのですが……』
相変わらず足並みのそろわない上の判断に、コボルトの狩人は笑った。
「だいじょぶだ。みんな力、尽くす。いつもの狩り、同じする、それだけ」
「だってさ。ガナリのGOが出たんだ、やってやろうぜ」
『分かった。では、作戦開始だ』
かぶっていた覆いを背中におろし、マントを軽くふるって湿り気を飛ばす。
両手両足の防具に問題はない。
胸元の青い石に軽く触れ、左手に魔弓の手ごたえを出現させた。
「行くぞ、グート」
歩み寄ってきた星狼の背にまたがると、鐙に力を込めた。
途端に世界が、一気に加速する。
『シェート、連中が持っているのは、魔王城の兵士たちが持っていた、魔法を使う槍だ。破術を展開しながら足を止めずに動け』
「ああ」
自分と狼の体が赤く輝く。
槍の群れは見渡す限りに行く手をふさぎ、叫びながらこちらに穂先を向ける。その先端に、炎の熱と光が揺らめき、こちらに向けて打ち出された。
魔法を打ち消す赤い光とぶつかり合い、閃光になってはじけ飛ぶ。
その輝きを背後に散らし、グートの疾走が敵との間合いをみるみる削っていく。
「しっ!」
引き絞った弓から、金と銀の輝きが飛ぶ。
全てを貫く金の矢が前方の敵を焼き、銀の光が取り囲もうと回り込んだ敵の、手足を正確に射貫いて止める。
「怯むんじゃねえ! 魔法を打ちかけて勢いを削れ! 槍を立てて遮りにしろ!」
前方についたゴブリンたちが石突を大地に刺し、こちらの突進に備える。その姿勢を視界に入れると、シェートはふわりと、鞍から飛び降りた。
同時に、狼の姿が空気に溶けるようにして消える。
「降りたぞ! 狼に注意して囲め!」
気が付けば、周りはすべて敵だらけだ。曇り空の下に、槍の穂先が鈍く光る。
それでもシェートは、臆することなく軽く息を吸い、叫んだ。
「貫け、"スコル"!」
二つに分かれた弓の魔剣から、閃光がほとばしる。頭を砕かれた敵を乗り越えるようにして突き進み、さらに言葉を重ねる。
「射貫け"ハティ"!」
銀の光が八つに砕け、回避も防御も許さず、迫る敵の四肢を正確に傷つける。
たった二挙動の魔法で、密集していた敵にわずかな空隙が生まれた。
「うおおおおおっ!」
叫び、両手の刃を振るう。
体を回転させ前進、槍の穂先を斬り飛ばし、相手の肩口から斜めに斬り落とす。
両脇から突き出された一撃をさばき、かわし、銀色の魔弾がそれぞれの顔と両手を吹き飛ばす。
シェートの目には、敵の全身は見えていない。槍を持つ腕と肩、一瞬だけ盗み見た視線と敵のつま先だけだ。
『次の瞬間、自分を殺し得るもの』を見極め、刃と魔法で機先を制して潰す。
たったそれだけの動作で、敵の動きが鈍る。
「顔を狙え! 破術があろうが、当てれば動きを止められる!」
それでも相手は押し寄せる。こちらの抵抗を封じるために。
紅蓮の炎と、見えない風の刃が、立て続けに視界を揺らし、魔法の衝撃が意識を狩り取ろうと顔面を吹き飛ばす。
「ウオオオオオオンッ!」
グートの咆哮に、狩人は正確に答えた。
狼の牙で悲鳴を上げた敵の声を聞き、その方角へ向かって弓の一撃を解き放つ。ためらうことなく、貫いた場所へと高く跳んだ。
ふわり、と股座に収まる鞍の感触。そのまま手綱を掴み、相棒が走るに任せる。
「ダメだ、こっちの攻撃が足止めにならねぇ!」
目を見開けば、こちらを見失って混乱する槍の群れ。自然と両手が弓を執り、崩れた敵たちへ迫撃を繰り返す。
それでも、反撃の魔法が増えていく。槍で止めるよりも魔法で、敵の意志が統一されてきた証拠だ。
『相手の足が止まった。シェート、右手前方に進め。そちらが敵の密集した場所だ』
「分かった」
サリアの指示通りに動いた途端、ぶつけられる魔法の密度が、さらに増す。
水中に飛び込んだように、息が苦しくなる。破術は効いているが、魔法が生む衝撃にグートの足が場に縫い留められた。
「動きが止まったぞ! そのまま押し包め!」
こちらの反撃を警戒し、槍で突っ込んでくる者はいない。距離を取り、ひたすらに魔法を浴びせかけ、こちらの疲労を待って必殺の瞬間を創り出すつもりだ。
その全てが、神の目算通り。
『よし、すべて範囲に入った! 今だ、フィー!』
仔竜は目を開いた。
泥炭の大地に広がる万の敵と、その中にたった一人、取り残されたように見える仲間。
だが、それ以外のモノをフィアクゥルは見ていた。
あいつらの足元で脈打つ、自分の仕掛けを。
「シェートに言ってくれ。そこから左手側、三歩分だけ避けてくれって」
『分かった』
青いマズルがかすかに開き、聲がほとばしる。
その妙なる音律に、口元で光が爆ぜた。
それに合わせ、曇天に輝きが奔る。空が重く、堅く、鋭く雷鳴を轟かせる。
「我が"銘"に従い、天へと還れ」
いつかの時、あの荒野で感じた天地鳴動の力を、仔竜は力を解き放った。
「"蒼き雷霆の咆哮ッ"!」
稲妻が、そそり立った。
竜の如き光が猛り叫び、大地が破裂していく。雷の群舞がゴブリンたちを打ち砕き、炎と光が全て焼き滅ぼしていく。万の魔物の肉が塵に、身に付けた装備が灰になって吹き散れて消えていく
その中にあっても、シェートとグートには、傷一つついていない。
落雷とは、その言葉に反して、天に昇るものだ。大地の負が、天を覆う正の電位差をたどって通電するために。
もしも、地面の電位を『視る』ことができれば、どこに雷が発生するかを予測し、安全な範囲を指定することなど造作もない。
自然の理を把握する、竜の六識を持つフィアクゥルだからこそ、可能な芸当だった。
「ついでにおまけだ、これ使え、シェート!」
指をならし、雷のひとかけらをシェートの弓に纏わせる。鞍上のコボルトは弓を剣に分割し、疾走した。
雷が大きく伸長して刃と化し、一振りで残敵が斬り屠られていく。
『有効射程、指定位置より半径二キロ弱。仔竜の扱う雷群としては、まずまずですね』
『冗談言うなよ。こんなチビの頃から使えるやつが、そうそういてたまるか』
『フィー、体内の残留電圧、危険域。尻尾でアースを』
言われた通りに地面に降り、尻尾を接地させる。逆立っていた鱗や髪が落ち着きを取り戻し、仔竜は息をつく。
雷の聲を謳えば、自分の体の電気的な要素も活性するし、そのままにしておくと雷そのものになりかねない。
細胞の一つ一つが炭酸のように泡立つ感じは、ちょっと面白いが。
その間に、ゴブリンたちは手勢をまとめ、撤退を始めていた。
「一応、これで作戦は終わりだけど、あいつらどうする?」
『見敵必殺を進言します。私たちに手を出したらどうなるか、教育は必要です』
『……ただしフィー、お前たちに負担がかからないのであれば、という条件でな』
女神の言葉に頷き、風の聲をまとうと、青い仔竜は舞い上がる。
戦場の跡に立ち尽くすコボルトの背中へ追いつき、両手を肩に乗せた。
「フィー、来たのか」
「ソールから提案、あいつら逃がすなってさ。二度と、俺らにケンカを売りたくないって思わせるように」
「……できるのか?」
「お前がいいって言うなら」
わずかにためらい、それでもコボルトは弓を構える。
承諾のしるしにうなずくと、仔竜は聲を上げた。
あたりで燃えていた泥炭から、炎が千切られて仔竜の背に集う。広げたフィアクゥルの翼が、集められた炎をまとって、大きく広がっていく。
その色は深紅から白へ、そして壮絶な青の焔となって世界を染めた。
「宿れ、"天狼の蒼炎"」
燃える青を凝集させた矢が、コボルトの弓に装填される。狩人の目が、逃げていく獲物の背中を、その逃げる先を正確に捉え、
「しっ!」
弓弦が、呼気と共に解き放たれた。
炎の鏃が大気を切り裂き、九つに分かれた炎がそれぞれの道を往く。
直前方向に太く苛烈な炎の帯、バラバラに散った八つの炎が、青く燃える大輪の花を咲かせていく。
後に残されたのは、新たに燃え上がった泥炭と、爆発によってえぐられたクレーターだけだった。
『……確認した。その領域に、もう敵は存在しない』
天からの声に、シェートはゆっくりと弓を降ろし、構えを解く。
だが、フィーは周囲の気配をそうざらえして、顔をしかめた。先ほどの戦場からはるかに離れた位置に、こちらを覗く目がある。
竜眼をしぼって、そいつらの位置を確認。手にした双眼鏡と、ビデオカメラのレンズが見て取れた。
「敵は存在しないって、まだこっちを見てる奴がいるぜ? しかも魔王の奴、地球の技術を使ってること、隠しもしなくなってる」
『私の加護の範囲で、ということだ。さすがに現地の竜の感覚には遠く及ばぬよ』
『それは無視していい連中です。魔王軍の観戦武官、というところでしょう』
「かんせん、なんとかってのはわかんねーけど、要するにスパイってことだろ」
舞い上がろうとしたフィーに向けて、赤い竜の参謀は冷たく断言した。
『お前ひとりで突出すれば、確実に罠にはまって死ぬ。無駄なことはやめなさい』
『シェートの弓が届くのは自分が見えている範囲だけ、フィーの聲も、射程距離はどっこいだ。推定距離五キロ越えの偵察隊に、どーやって手出しすんだよ』
もっともな指摘に、返す言葉もなかった。
自分の聲は、基本的に遠くへ飛ばすことができない。成長したドラゴンなら、巨大な全身を増幅器として使えるが、仔竜の体ではそうもいかない。
だからこそ、シェートの弓で足りない飛距離を補ったのが、"天狼の蒼炎"なのだが。
とはいえ、みすみす索敵行為を許して返すのも腹立たしい。
「なんかないのか、こういう時に、遠くまで飛ばす方法――」
過去の記憶を大急ぎでたどる。こちらに来る前、見てきた様々なものの中に、距離を超えて相手を射貫くアイデアが、何か。
「――シェート、小銭出してくれ!」
「え? えっと、金? なんで金?」
「いいから早く!」
戸惑ったまま差し出された革袋を受け取ると、中から一枚の銅貨を取り出す。自分たちの冒険には無用の長物になったが、まだ使い道はあるかもしれない。
歯を食いしばり、喉の奥で雷の聲を謳う。
再び鱗と髪の毛が逆立ち、銅貨を持った右手に電気が収束する。
親指の上にコインを載せ、弾いた瞬間に集めた力を――。
ぱぁんっ!
「うがああああああっ!?」
「フィーッ!?」
閃光が破裂して、手先が激痛の塊になる。顔や胸にも痛みが走って、視界が完全に白濁した。
『何をやってるのですか、全く! メーレ!?』
『親指を中心に右腕部、二度の熱傷。右母子爪剥離。上半身に数か所、飛散金属塊による裂傷。眼球へのダメージ、なし。総合被害評価、損傷軽微』
背中から抱きかかえられ、そのまま地面に寝かされる。鞍袋から取り出された薬草が傷に宛がわれて、その辺りが少し沁みた。
「なにやった、フィー。なんで銅貨、はじけた?」
「あー、むかーし見た、とあるお話でさ、あんな感じで飛ばしてたんだよ、硬貨を。やっぱ五百円玉とかじゃないと、ダメか」
『ギャハハハ! やっぱりそれか、ほんっとアホだなぁフィー! マジおもしれ―!』
容赦ない爆笑に晒されながら、布でぐるぐる巻きにされていく右手をぼんやり眺めた。
指が吹き飛ばずに残ったのは、自分に掛けられた守りの加護があったからだろう。なんでもできると思っていた聲の力だが、時々こうやって予想外のことが起こる。
『言っておくが、お前がやったのはただの自爆です。百万遍繰り返そうが、さっきのやり方では、失敗しかありません』
『"竜の聲"はフィクションじゃねーんだ。なんでもできると勘違いすんじゃねーぞ』
「材質の問題とかじゃないのか」
『弾体を、七グラム程度のニッケル合金へ変えたところで、結果は同じです』
もう一度彼方に目をやれば、さっきの連中はすでに撤退したあとだった。自分の無様を見られたかはともかく、自分たちの戦いを記録されたのは問題だ。
そんな意図を察したのか、ソールは少しだけ、声を和らげた。
『あの程度の戦法、見られたからといって、支障はありません。たった二人で一万の軍勢を消滅させる敵、私が魔王なら、その情報だけで次の手は熟慮します』
『相手は"闘神"や"英傑神"だけじゃねーんだ。オレらを舐めてんじゃねーぞ、ってな』
『感想戦はそこまでにしないかい? 日も暮れるし、野営の準備に入ったほうがいい』
それまで黙っていた白竜ヴィトの言葉に、それぞれが思い思いの反応を示す。
シェートは場をグートに任せ、野営のための資材を探しに、天の神々は周囲の警戒を申し出て、自分は引き続き、その場で休むことになった。
『まあ、着眼点は悪くなかったぜ。仔竜の体で遠距離攻撃するなら、そういう「搦め手」が必要になってくるだろうな』
『ドラゴンは本来、肉体の成長によって能力を増幅するもの。仔竜の身であれば、知識と経験と工夫で限界を超えるほかありません』
この前のカードゲーム以来、赤と黒の小竜はなにかと助言をくれる。竜神のような分かりにくさはなく、要点を的確に伝えてきた。
答えそのものを与えないところは、おっさんそっくりだったが。
「俺だって、毎度指や顔を吹き飛ばすのはごめんだよ。次は実験の前に申請するから、そっちで内容チェックしてもらえるか?」
『いいぜ。次はもっと笑える失敗、してくれんだろ?』
『少なくとも、アニメや漫画から安易にアイデアを引っ張るのは、やめておくように』
手厳しい監修者に苦笑いすると、帰ってきたシェートを出迎える。
この辺りなら、燃やすものに困ることはない。その辺りの泥炭を掘り、適当に重ね置くと、聲で火をともす。
いつの間にか、呼んでおいた雷雲は吹き散れ、星空が顔を出していた。
「観測班、撤収完了しました。収録映像並びに計測結果は、中継地点より魔王城へ送信する予定です」
黒いボディースーツと防刃ジャケット、目を覆うゴーグルと合金製のヘルメットに身を包んだゴブリンが、報告を終え直立不動の姿勢を取った。
この世界のいかなる場所でも、見かけることがなかった風体だ。
そして、魔王軍の『正式装備』となるはずのものでもある。
『ご苦労。生存者は』
「四肢欠損、重度熱傷の者多数のため、事情聴取終了後、全員廃棄処分にしました」
『……わかった。貴様らも撤収しろ』
敬礼を一つして、黒服は待機している部隊へと戻っていった。
やがて、周囲に自分たち以外の気配がないと確信すると、顔を覆う無貌の白仮面を取り外した。
一匹のホブゴブリンは、黒焦げた大地に刻まれた、虐殺の痕跡に目をやる。
彼は観測班として、全てを見ていた。
コボルトの向上した戦闘能力も、それを囮にした仔竜の聲が引き起こした暴威も。
その嵐の如き力に飲み込まれて、砕け散っていった兵士たちの姿も。
「勇者とは恐るべき戦士にして、神威の代行者である」
苦々しい思いを引き受けるように、隣に進み出た長身痩躯の男がつぶやく。
それは青い肌を持つ、鱗目も鮮やかな蜥蜴人の勇士だ。
だが、その体のあちこちに、浅くはない傷が無数に走り、左目が完全につぶれていた。
「あれはもはや、コボルトではないな」
「そうだ。一匹の怪物、"平和の女神"サリア―シェの使徒だ」
無事な方の目に冴え冴えとした光を宿し、リザードマンは告げる。
「魔王様に伝えてくれ。貴方の鈍らは、あれを折るために命を賭すと」
「伝えよう」
「――コモス」
去り際、元同僚は捨てたはずの名で、こちらを呼んだ。
「お前は、それでいいのか」
分かり切っているはずの答えを、口に溜める。
だが、告げるべき言葉は、何かに引っかかった。
『俺だって、大将の部下だったんだ。仇を討てるってんなら、それでいい』
吐息を押し出し、未練も感傷も共に吐き捨てて、白仮面は答えた。
『魔王様の命令だ。従わぬ理由がない』
身の丈を超える長剣を背負い直すと、クナ・ナクラという名の男は去っていく。
戦場と男に背を向け、名もなき『影以』は、風と共に姿を消した。




