2、貧する勝者
暁光が浄闇を打ち払い、空が白々と明けるころ、シェートは野営地のくぼ地から歩きだした。
『おはよう、シェート』
「ああ、おはよう」
目の前に広がるのは、ほとんど生命の無い大地。岩と砂の間で、乾燥と暑気に強い低木や小さくこごまった草だけが、薄暗い影に包まれて、静かに息づいている。
『今日は大分早いな』
「……もう、食料少ない。この辺り、水も飲めない」
戦闘の間に失ったもの、保存食や水袋、猟の道具などを思い出し、ため息をつく。勇者との戦いはいつもギリギリで、命を以外を護ることなど不可能に近い。
胸元に下がる恋人との思い出の石と、父親の形見である山刀が、今でも残っているのは奇跡に等しかった。
『ここから少し行った所に川がある。あまりきれいとはいえないが、何とか飲用にはなるだろう。その川岸に食べられる果樹もいくらかあったはずだ』
腰につけた無事な小袋から干し肉を取り出し、噛みながら歩く。昨日戦った勇者達とは二日近く追いかけっこをしていたはずだ。
精霊の魔法は探知や、気配を消す特殊なものが多く、少しでも気を抜くと隙を突かれるという状況だった。戦いの中で矢筒の中身は減り、十本足らずに落ち込んでいる。
「矢、少ない。狩り、戦い、どっちも難しい」
『その上こんな平原に追い込まれてはな。だが、この辺りは人の足もほとんど入らない土地柄だ。追っ手を撒くのにはちょうどいい』
「けど、もっと準備、したかった」
『……だからすまんと言っているだろう。だが、予想以上に勇者達の行動が素早くて』
すっかりしょげ返ったサリアの香りが、辺りに湿っぽい空気を漂わせる。
見えないはずの女神の顔が思い浮かび、シェートは笑った。
「別にいい。俺、お前、期待しない言ったぞ?」
『さすがにそれは聞き捨てならん! それならこの瓦礫の荒野を、私の案内なしに通り抜けてみよ!』
「ああ、それ困る。勘弁しろ、サリア」
こちらの降参に、女神は意地悪な笑いを漏らした。
『さてさて、どうしてくれよう。何しろ私は邪神らしいからな?』
「……そう、だな」
あの時は思わず笑ってしまったが、冷静になると、彼らの言葉は胸に痛かった。
彼らにとって、自分は勇者を殺した邪悪な魔物であり、それを使うサリアは、復讐を司る邪神なのだ。
自分は間違ったことをしたつもりは無い。
魔物と魔王と勇者を使った神の遊戯、その定めに対する怒りを、体現者たる勇者にぶつけたことも。
世界で最も弱く、人からも魔からも蔑まれ狩り立てられる自分達、その声を世界に響かせたことも。
だが――。
「あいつ、仲間、いたな」
『……昨日の勇者のことか』
「女、泣いてた。精霊使う男、俺、殺したい、言ってた」
彼らは心から悲しんでいた、そう思える。
あの勇者にしたところで、実際には世界のためになることをする過程で、自分という魔物、"レアモンスター"を狩って、その行動の足しにしたいと思っていただけだ。
その行為を許せはしないが、自分も結局はその定め、神々の遊戯に参加している身であり、全てを責める事はできない。昨日の勇者達を打ち倒せたのも、サリアの兄の勇者を殺し、その力を奪ったからできたことだから。
「俺、やっぱりひどい魔物」
自分は何なのだろう。魔物でありながら女神の加護を受け、定めに抗うという名目で世界を救うという勇者を殺す。
「俺、もう恨みない。あの勇者、死んだ。でも俺、沢山、勇者惹きつける。レアモンスターだから」
『……そうだな。すでにこの大陸、モラニア中から、あまたの勇者が集まりつつある。そなたはすでに36というレベルを身につけ、私も兄上の世界をはじめ、数々の世界を手中にした神となった』
「……俺、逃げられない、そうだな?」
空の向こう、自分の想像も付かない世界から、女神は悲しみのため息を降らせた。
『これが、小さな所領を得ただけなら、まだ途中退場も出来たであろう。だが、兄上の世界は多く、そうした所領を手に入れた神に、辞退の権利は与えられない』
「そうか……」
答えは聞く前から予想はできていた。幸運で大金を得たにわかの博徒を、胴元がやすやすと逃がすわけはない。
「そういえば俺、レベルどうなった?」
『……経験点に変化はほとんどない。そもそも、昨日の勇者はレベル6、そなたの六分の一程度の存在だ』
これまでシェートは五組、昨日の連中を入れれば六組の勇者パーティと戦っている。それでも、レベルアップの声は聞かない。
『イェスタ……審判の女神に尋ねたのだが、この大陸中にいる勇者のほとんどが、お前以下のレベルしか持たないそうなのだ』
「そうなのか?」
『兄上の勇者は、比較的魔物の侵攻が穏やかで、かつ自身の勇者を暴れまわらせることが出来るこの地を"狩場"と定めた。強力な神器で身を固め、本来は不可能な大物食いをさせるべく……それを、我らが道半ばで砕いたのだ』
本来なら絶対にありえない、大番狂わせ。しかも、倒したのは最弱の魔物。
その相乗効果から、自分はありえないほどの大レベルアップを果たしてしまった。
『後は、この大陸を治める魔王の配下を倒すより他はないだろう。だが、それとて、推定レベルでは、そなたよりも少々高い程度、なのだそうだ』
「でも俺……強くなってない」
『コボルトという種族の、限界だ』
元々強くない存在を戦えるようにすることは、それなりに強いものに力を上乗せをするよりも難しい。不足分を補填する手間が掛かるゆえに。
あれほどの戦績を上げたにもかかわらず、シェートにできたことといえば、持っていた能力の底上げと、破術を使えるようにしたことだけだった。
『後は、兄上のしたように、世界を担保に加護を与える方法だが』
「サリア」
シェートは立ち止まり、空を見上げた。
眉間に深い皺を寄せ、首を振る。
「俺、それ、やりたくない」
『シェート』
「それやったら俺、勇者と同じ、なる」
世界を担保にする、それはつまり、世界を数字として見ること。
『それが……どれほど困難な選択か、分っているのか』
「遊び参加してる奴、仕方ない。俺、狙われる、しょうがない。でも、関係ない奴捧げる……それ、仲間たち、母ちゃ、ルー殺した勇者、同じだ」
とんでもない欺瞞だ、自分だって結局、相手を殺してその抱えた数字を得ることで、新しい力を手に入れるのだから。
それでも、言わずにはいられない。
何の関係もない者を、その命を勝手にやり取りする、それは自分達の種族に『一点』をつけた者と、同じことをするということ。
それをしてしまえば、自分があの時憤った思いに背くことになる。
『……そうだな』
肯定しながら、それでもサリアは言葉を継いだ。
『だが、そなたが死に瀕するようなことがあれば、容赦なく加護を発動させるからな』
「サリア」
『そうならぬよう、必死で戦え、ということだ』
最後の言葉は笑いを含んで放たれる。その内側に潜むいくつもの感情を風に嗅ぎ取り、シェートはそっと頭を下げた。
「ごめん。俺、サリア困らせた」
『かまわん。どうせそう言うと思っていたよ、この頑固者め』
サリアの笑いにつられて、自分も笑う。それと共に、日がゆっくりと自分の背を暖めながら、天空に昇っていくのを感じた。
世界が明るく輝き始め、地平線の彼方まで見渡せるようになっていく。
『とにかく目の前に見えるあの山、ノビレ山脈を目指そう』
「そうだな。森行って、勇者見つかる前、いろいろやりたい」
どうにもならないことを悩むよりも、目的に歩く方が性に合っている。
行く手に煙る緑なす山々の稜線を目指して、シェートは再び歩き出した。
「少し出てくる。何かあったら呼ぶようにな」
『分った』
水鏡の向こうに声を掛けるとサリアは顔を上げ、ほっと息をついた。
肩に流れる金髪が、物憂げな吐息と共に重く揺れる。
「……さて、どうしてくれよう」
自分以外誰もいない神座は、今も石造りの庭園を切り取ったような質素さで、とても十数余の世界を手にした大神の住まう場所とは思えない。
とはいえ、自分としてもそうした余計な飾り付けをする気は無かったし、せいぜい新しい花木でも植えてやろうか、程度の心算がある程度だ。
そんなことより、今は遊戯のことだ。
シェートの言った『世界を捧げない』という答えは、自分の思いでもある。もし彼が、世界を捧げて加護を得ようなどといったら、それこそこっちが驚いただろう。
だが、その選択が厳しいものである、というのも事実。
「世界を捧げた加護を使えない、となれば……今後はもっと厳しくなろうな」
しかもレベルは頭打ちで、力を得たければさらに上位の敵を狙う必要がある。
もちろん、このまま勇者達から隠れ住み、遊戯の終わるまでひっそりと生き続ける、という選択肢も無いわけではない。
それでも、いつかは狩り出され、殺されてしまうことは確実だろう。生き延びるためには戦って勝つしかない。
重い息を吐き出すと、サリアは神座の扉を抜け、広間へと入った。
一歩踏み出した時、誰かが息を詰めるのを聞いた気がした。それから、驚くほどに奇妙な静寂。
自分が出てきた扉の周囲には誰もいない。かなり離れた場所に、三々五々と固まった姿が見えるが、とても声を掛けられるような距離ではなかった。
目の前にある階にも、誰一人座っていない。その向こうに広がる緑なす庭にはいくらか影が見えるものの、神々の姿は少なかった。
「やれやれ……」
兄神ゼーファレスを討ち果たして後、サリアの周囲から神の姿は激減した。
遊戯に参加している小神たちはもとより、単なる観客に過ぎないものまで。自分を避けようという意思が、明確に感じられる距離を取っている。
エルフの神は、割と最後まで周囲に居残っていたが、その影も絶えて久しい。
決定的だったのは、この前の勇者達が口にした『邪神サリア』という呼称。
対手となった神は最後までこちらと目を合わせようとせず、勇者が滅び去った後、慈悲を請いながら、体を丸めて石になっていった。
実際、他の神々も自分の存在を説明する時に言っているのだろう。自分の兄を倒し、その力を奪った、邪悪な魔物使いの女神と。
自分の選択は、間違ったことなのだろうか。
後悔することを止め、新たな世界を創生せよという竜神の言葉を振り切り、魔物と契約を結んで、あまつさえ計略によって兄神の配下を討ち果たした。
遊戯が結局は神々の権力闘争の場であり、魔族と創りあう茶番であるにせよ、それ自体は世界に善を敷衍する行為。
だが、それを理由に弱き物を一方的に殺戮し、意に染まぬ世界を滅ぼしていい理由にはならない。その思いが正しいと思うからこそ、自分はシェートと共に歩んできた。
その結果、自分はたった一人、誰にも寄り添われることなく、この場に立っている。
「それに……完全に善、というわけでもないしな」
自分の世界を遊戯の場と定めた神の存在、それに復讐するという目的も、心のどこかに根を張り、今もくすぶり続けている。
怨恨のために勇者を討ち果たさせた女神。邪神の誹りを受けるに足る理由だ。
「やはり、私もまたひどい女神ということか」
「なにやら物憂げで御座います事」
涼やかな声が耳をなぶる。いつの間にか傍らに立っていた審判の女神、"刻を揺蕩う"イェスタはいつもながらの笑顔でこちらを見ていた。
「何か用かな。またどこぞの神が、決闘を申し込みに来たか」
「ふふ、殺伐とした心はご尊顔を曇らす故、お止めになられた方が宜しいかと」
巨大な"時計杖"を苦もなく手にしながら、漆黒のスーツ姿をまとった女神は笑う。
「与太話なら他のものとすればよかろう。私は少々考え事に忙しいのでな」
「配下のコボルトを、いかに強化するべきか、で御座いますね」
「……ああ、そのことなら、もう済んだ」
「では、早速わたくしに何事かご注文をいただけるので?」
サリアは周囲を見回す、こういうときには、近くに誰もいないことを感謝したくなる。
「その予定はない。おそらく、今後もな」
「……まさか、何の加護も持たせず、かのコボルトを戦わせようと?」
「とりあえず、私からは何もない。いずれレベルが上がった時にでも呼ばわろう。それまで用がなければ出てこないでくれぬか」
すげない答えに、イェスタは笑った。
「ふふふ。そのようなことを仰られるとは、思ってもおりませんでした。ですが、宜しいので?」
「何がだ」
「彼のコボルト討ち果たされし時、御身もまた消失の憂き目にあう事で御座います」
確かに、サリアはシェートに能力を付与するため、自分の存在を担保にしている。もしシェートが死んだ場合、同時にサリア自身も消滅するか、他の神に吸収、隷属する可能性もあった。
「他の神々は、すでに"買戻し"を行っております。そろそろサリアーシェ様も、その時期かと思われたのですが」
「兄から奪った世界を使い、自分の存在を買い戻せというのか」
神々が遊戯の際、勇者に与える加護として捧げる世界や信仰心。それらは一度負けてしまえば、その対戦相手に奪われることになる。
しかし、勇者のレベルアップや対戦相手の撃破によって増えた支配地や信仰、レベルアップボーナスを使って"買い戻す"ことができる。
これにより、勝った者は勇者の強化だけでなく、自分の世界や信仰心を確保し、遊戯に負けた際にも被害が少なくて済むようにしていた。
「配下が命を掛けて戦っているのだ、自分だけ安全な場所に下がるつもりはない。そもそも、負けてしまえば全てを失うのだ。私のような無一物の存在に、そんな心配をする必要はないだろうな」
「無一物」
イェスタは、薄く薄く、口の端を引き延ばした。
「そう思われるなら、そのような事でありましょう哉」
「何が言いたい」
「さぁ」
それ以上何も答えず、審判の女神は去っていく。
彼女は不思議な存在だ。
時を司る神、悠久を生きる神にとってはほとんど意味を成さない『小神』であり、定命の存在にとっては生と死を司る絶対の『大神』。
遊戯を司るようになる前は、誰にもその姿も、存在も知られることがなかった。それが今では、神々の間でああして囀り、心をそぞろにする言霊を投げ、皆を駆り立てていく。
おそらく、遊戯において最も『力』を伸ばした者。
「"斯界の彷徨者"エルム・オゥド様、御奉臨!」
物思いを覚ましたのは、ドライアドが放った呼び出しの声。
扉を抜けて現れた巨躯をゆったりと地に落ち着け、いつものように緑の草地に体を横たえている。
おそらくこの空間で、唯一自分と普通に会話ができる存在に、サリアは安堵を覚えつつも近づこうとした。
「おお、これは竜神殿、ご機嫌は如何かな」
それをさえぎるように、どこからか神々が集まってきた。
「いきなり出迎えとは……喧しいことだ」
「実は、兼ねてより尋ねたき儀が御座いまして」
「いやいや、こちらを先にしていただこう。先だってお借りした書物の件で」
そうして彼を取り巻く神の幾人かには、見覚えがあった。そろいもそろって遊戯の参加者として名を連ねているものばかりであり、その視線は隠しようもなく、こちらを盗み見ている。
いじましい離間策。自分の唯一ともいえる協力者に会わせない腹積もりだろう。神とは思えない行動、いや神だからこその稚気溢れる振る舞いだろうか。
「やれやれ……」
心の疲れを感じ、サリアは広場を囲む回廊を歩き始めた。その動きを敏感に察知し、回廊から影が絶える。
彼らの行為を責めようという気は、あまり起きなかった。
汎世界で力ある種族として知られる竜種や、自然を生かし護る力に長けた妖精の一族。その彼らを治める竜神やエルフの神は、争いに加わらずとも勢力を維持し続けることが出来るが、そうした背景を持たない小神は、自らの消失を防ぐ働きを強いられる。
遊戯への参加は、自らの存続と栄達を掛けた一大事、皆必死なのだ。
とはいえ、何も持たない者として長い年月存続してきた自分には、その事実もどこか遠いもののように思えた。
いつ滅びてもいい、そう考えていた時期さえある。廃神と言われても、慈しんだ世界を滅ぼされたこと以上に胸が痛むこともなかった。
ただ、今は。
「シェート……」
自分の小さな魔物。たった一匹の仲間。
彼だけは、どうしても守り抜きたい。
だが、どうすればいい。彼の信義と、これまでの献身と、意思を保ったまま。
「いっそ……」
別のものを選ぶこともできようか、使役者の変更は認められるだろうか、それもやはり世界を加護に変えることが必要か。
世界を捧げない、それは守りたい矜持。
しかし、矜持を守って負ければ、所領どころか大切なものの命さえ奪われる。
「くそ……っ」
回廊の欄干に手を突き、うつむく。どうにもならないことを、どうにかしようと考えるうちに、両肩に重荷がのしかかる。
「どうかされましたかな? 女神よ」
届いた声が耳に障る。苛立ちを抱えたまま、唸るような声を背中越しに返した。
「……呼ばわるまで来るなと言ったはずだが」
「そ、それは失礼を。ただ、大変申し上げにくいのですが、どうやら私を、どなたかとお間違えでは?」
済まなさそうに掛けられるのは、聞いたことのない声。サリアは慌てて振り返った。
そこに居たのは、自分の腰くらいの背丈をした、二足歩行のネズミが一匹。
身につけているのはボロ布のような衣で、茶色の毛皮も少々すすけた色をしている。
「も、申し訳ない。少々込み入ったことを考えておったので……」
「いえいえ。私こそ、いきなりお声掛けなどいたしまして」
「ところで、御身は?」
ネズミはにっこりと笑い、名乗りを上げた。
「イヴーカスと申します。以後お見知りおきを"平和の女神"よ」