Heritage
照り輝く日を浴びて、魔王は玉座に背を預けていた。
半分崩壊しては大穴の開いた天井からの光。この城は山よりも高い空をいくため、雨の心配はない。それでも部下たちからは、事あるごとに修繕を要求されている。
もちろん、直す気は全くなかった。
俺の勇者が刻み付けていった、大切な傷跡を消すなどとんでもない。
目前に広がる会議の間には、円卓がひとつ。
席は五つあったが、そのうち四つは腰かける者もないまま、余白をさらしていた。
「さすがは神の勇者……と言ったところですかな」
皺だらけの老人が、しわがれた声を発する。
脱落していった者たちの席を眺め、確認でもするように、その末路を語りだした。
「海魔将レレンディア、南洋の居城にて"愛乱の君"の勇者と戦い、敗北。闘魔将ゾノ、同じく"愛乱の君"の勇者により、魔獣軍団と共に敗北。魔将ベルガンダ、"平和の女神"の勇者により敗北」
ひじ掛けに乗せられた杯を口に運ぶ。
語られた臣下と愛しい勇者を一息に飲み込むと、目で先を続けさせた。
「そして不死魔将コクトゥス、"闘神"の勇者に敗北。これによりモラニア、エファレア、ヘデギアスの三大陸と、大海洋の封鎖が解かれたわけですな」
「残すは操魔将エメユギル、貴様の支配するケデナのみだ」
「ホホッ、これは大変なことになりましたな」
にたりと笑うと、老人は虚空に一人の姿を浮かび上がらせた。
黒髪の、平板な顔立ちの青年だ。
美形かと言われれば微妙なところだが、意志に輝く瞳と引き締まった顎の形は、他者を惹きつける要素にあふれている。
主な装備は、軽い皮胴の鎧と腰に吊られた長剣と、腹の前を横切るように収められた短刀が一振りのみ。
鎧にも鞘にも大した装飾はなく、美々しさとは無縁の姿だ。
これまでの勇者の中では、屈指のみすぼらしさだろう。
ただ一人の『例外』を除いてだが。
「我が大陸にて動き回る勇者、かの"英傑神"が使徒、イワクラ・ユーリでございます。さすがは神々の遊戯にて勇名を轟かす、至高の神の選びし――」
「口上はほどほどにしておけ。それで、その岩倉悠里の始末は?」
「ホ、それについてはなかなかに難航しておりまして」
自分の失態を責める同僚もいないためか、老人は嬉々として顛末を語りだした。
「エルフ共と人の和解は成立し、ドワーフの鉱山は解放、我が研究所にて作成しておりました"ドラゴンキメラ"の方も、これまた打ち砕かれましてな」
「ヴィルメロザの騎士団はどうした。貴様の肝煎りで離間を画策していたのだろう?」
「まんまと出し抜かれ、間者の手下もろとも……計画はご破算でございます」
「……フッ」
エメユギルの顔には、一切の動揺がなかった。
ここまで失敗したのが爽快だとでも言うかのように、朗らかに笑っていた。
「そして、連中は我が居城に向けて進軍を画策しているとの連絡が」
「なるほど。俺を呼びだして何の用かと思えば」
「はい。そろそろ私も、お暇を頂戴するころかと」
魔王は笑い、それから告げた。
「何か欲しいものはあるか」
「ございません。むしろ、この皺首を代に、連中の仲間の一人も討ち取り、魔王さまに献上しとうございます」
目を閉じ、言葉を探す。
それから魔王は、下賜した。
「貴様の墓に、極上の勝利をくれてやる。存分に死に遂げよ」
「はい。見事に死に遂げて御覧に入れます」
一礼すると、操魔将エメユギルは姿を消した。
残された魔王は虚空を眺め、それから傍らに視線を流す。
「『表』の"演目"は全て終了した。以後、城の全機能を完全開放、軍制を『TFP』に移行する」
「かしこまりました」
竜眼の"参謀"は一礼し、去っていく。
青年は、ひじ掛けの一部をたぐり、スイッチを入れた。
景色が沈み、石造りの会議場の代わりに、武骨な金属のシャフトの張り巡らされた壁面が視界を閉ざす。
上部の前時代的な建屋が表とすれば、この竪穴から続く空間は、裏に当たるだろう。
やがて、静寂とは無縁の、熱気あふれる指令室が姿を見せた。
壁一面に設置されたモニター、各デスクに置かれたモニターには、様々な数値や外部の景色が映し出されている。
せわしなく動き回るオペレーターたち。手にファイリングされた資料を持ち、手にしたスマートフォンで外部との連絡を取り、あるいは別の職員と意見を交わしている。
「全員、そのままの姿勢で聞け」
スタッフは顔を上げ、礼も取らずにこちらを見る。その中には、己の作業に集中して視線さえ向けない者もいた。
どこぞの吸血貴族なら不敬に柳眉を逆立てるだろうが、そんな下らない儀礼は、今後の魔王城には不要だ。
「只今より『勇者討滅計画』最終段階への移行を宣言する。残す勇者は三名」
魔王の玉座も、様変わりしていた。
ひじ掛けには略式のキーボートが接続され、モニターには無数のアイコンが投影されている。アイコンの一つをタッチし、すべての画面に割り込み表示させた。
「"闘神"ルシャーバの使徒、辻隆健。あらゆる魔法と奇跡を封じる神規を操る勇者。コクトゥスを打ち破った技術から、中国武術の類を得手とすることが分かっている。現在、流派の割り出し中だ」
映し出される光景は、暗く沈んだ城内の決闘の様子だ。
無限とも思える刃の刺突をかわし、たった一撃で不死を粉砕してみせた。
『虎撲子、あるいは虎形拳と呼ばれる技法か』
『八極拳か形意拳と思うが、決めつけるのは早計だな。似たような技法は他流にもある』
『一門だけとは限らんぞ。併修は近代化した武術では常識と言っていい』
部下たちのささやきに、魔王は笑う。
すでに連中にとって、勇者は分析するべき試料であり、打倒を模索する課題でしかなくなっている証拠だ。
「先日、我が城に招き入れた客人にして、大胆不敵な破獄者。"平和の女神"のガナリ、コボルトのシェート」
その名前を口にした途端、部下たちに異様な緊張が走る。
モニターには蒼い子竜と共に、魔王と渡り合うコボルトの姿が映し出された。
『"青天の霹靂"の脅威に隠れがちだが、こいつの身体能力と神器もなかなか厄介だ』
『"愛乱の君"による神規への順応も、こちらの予想を超えていたしな』
『コボルト扱いする愚は犯せん。特別対策チームの解析を最優先にすべきだ」
シェートに対する評価は、上々だ。
部下たちの反応は自分の目的に適ったものだし、ひいきの勇者が持ち上げられるのは、なかなかに心地よい。
だが、上機嫌はそこまでだった。
「そして、我らの真に打倒するべき相手。忌まわしき"英傑神"の勇者、岩倉悠里」
室内の空気が、一層重くなる。
それまで自分の作業に没頭していたものでさえ、手を止めてモニターに映し出された光景を注視した。
「『勇者討滅計画』の最終目的。それは英傑神の勇者に勝利することだ。それも、ただの勝利ではない」
映像に映し出された勇者の一行を、魔王は射殺すような意志を込めて睨んだ。
「英傑を作り出す神の威光を、地に叩き落す。かの神の勇者が唾棄され、訪れた地で一人の協力も得られずに朽ちていく。そういう未来を創り出すこと」
映像に映る勇者の少年は、たしかにみすぼらしい。
だが、そいつは確かに輝いていた。
人々を惹きつけ、崇敬の念を呼び起こす、内から漏れ出す光があった。
その全てが憎らしい。
地に堕とし、泥にまみれさせ、断絶と絶望の中で悲鳴を上げさせ、世界を呪わせずにはいられない。
「それこそが魔の者に真の繁栄をもたらす道だ。計画が成就すれば、今後の神々の遊戯に勝つ事など、児戯にも等しくなろう」
そう、今までのすべてが過程だ。
魔将という『見せかけの組織』で、分かりやすく世界を仕切ったことも、部下たちを全世界に配置し、勇者たちを観察させたことも、異世界の文化を精査したことも。
たった一柱の神を打ち倒し、神々の遊戯という束縛を、粉砕するため。
「引き続き、各々の職分を全うせよ。鋼の冷徹、歯車の正確を以て任じ、我が力となれ」
部下たちは一斉に敬礼し、即座に仕事へと戻っていく。
これでいい。
自分に必要なのは、カビの生えた災厄の化身となることではない。
神を打倒しうる、知識と能力の集積所を司る長となることだ。
そのまま手元のモニターに触れ、音声呼び出しで一人の部下に繋げる。
「予定通り会議を行う。開始は十分後、それまでに雑事を済ませておけ。今日の侍従役はお前だ」
通話の切れたスマートフォンを机に置くと、彼は吐息をついた。
自分が『影以』として抜擢されて以来、自体はめまぐるしく変わっていた。
一番大きかったのは、名前を失ったことだ。
ほんの数か月前、自分はベーデという名前のしがない牢番だった。魔王城詰めに抜擢され、上位の研究者を夢見ながら、代り映えのない日々を送っていたはずだ。
それが今では、無貌の面を身に着け、魔王の命により勇者を打ち倒すための計画を進める手ごまとして活動している。
『定例会議、五分前。出席を命じられている職員は地下六階、大会議室に集合せよ』
アナウンスが鳴り響いた。
すべてを観念し、彼はテーブルに置かれていたもう一つのもの、目鼻のない白い仮面をかぶり直す。
これをつけることによって、自分はすべてを失う。
名前どころか、過去も種族も、私人としてのあらゆる自発的な行動を、捨て去らなくてはならない。
後悔などあるはずもない。
ただ、少しだけ、『重たい』だけだ。
灰色のフード付きローブをまとうと、私室を後にする。
扉を抜けた先、磨かれたクロームの通路に、誰かが立っていた。
「遅かったな、ベーデ」
痩せた、人のような顔立ちの青年が、こちらに笑いかける。
豪奢なマントと衣装に身を包んでいるが、強烈な畏怖を感じされるものは何もない。
ただ、その容姿だけで青年を侮る者は、この城に一人としているはずもなかった。
「急ぎの仕事か、それとも実務疲れでうたた寝でもしていたか、ベーデよ」
その問いかけに、彼は答えない。
踵を返し、会議室の方角へと歩き出す。
「先ほどから、俺がこれほどまでに呼びつけているというのに、無視とはなかなか剛毅だなベーデよ」
声どころか吐息さえ漏らさず、廊下を進む。
時々、すれ違った他の職員がそそくさと道を開けるのを、横目で見ながら。
「――では、我が影以よ。返答を許す。部屋で何かあったか?」
本当にこの方は。
危うく漏れ出しそうになった言葉を飲み込み、返答する。
「ご連絡を頂戴した後、部下への指示を済ませておりました」
「いいだろう。今日の会議は貴様が進行を務めろ。第一位は地上任務に就いて留守だ」
「かしこまりました」
「それと」
顔をこちらに近づけると、魔王は薄く笑った。
「よくぞ自分を律し調教してのけたな、褒めてやるぞ。ベーデ」
「あ――……っ」
危うく飛び出そうになった言葉を飲み込む。
影以は魔王の影、そう成る前の名前は召し上げられている。
だからこそ、自分を呼ぶものに反応してはならない。
たとえそれが、魔王その人であっても。
「許せ。ようやく操魔将が盤面から消える決心をしてくれてな。面倒な偽装をする意味も消えたので、はしゃいでしまった」
「"愛乱の君"との一件以来、参謀殿の顔が和らいだことがありません。どうか戯れはお控えください」
「真面目一辺倒の連中に薫陶されたか。子竜と楽しい駆け引きをした茶目っ気は、どこへ行ったやら」
痛い一言を投げつけ、すねたように足を速める魔王。
その姿は、見かけの歳よりも数段幼く見えた。
白い電灯の輝きに照らされた通路は、やがて継ぎ目を見出すのも難しいドアの前で途切れた。魔王が前に立ち、音もなく開いていく。
『御出座、恐悦至極でございます、魔王様』
すでに整列していた面々が、立ち上がり挨拶を向けてくる。
室内は数十名にも及ぶ出席者で占められ、その対面には小高い演壇が整えられている。
片手を上げて全員に着座を命じると、青年は演壇脇の椅子に腰かけ、こちらを手招きしてみせた。
「今日、第一位は俺の令により地上での勤務についている。そのため、定例会の司会進行はここにいる、第八百三十二位が執り行うものとする。この会議の間、貴様は"議長"だ」
「……拝命いたします。僭越ながら、"議長"を務めさせていただきます」
影以にとって、自分の番号はただの入隊時期を示すものに過ぎない。とはいえ、隠然と年功序列がまかり通っているのも事実だ。
あとでやっかみを受けなければいいが、そんなことを思いつつ"議長"は職務に就いた。
「それでは『TFP』定例会、十二期目第七回の開催を宣言します。開催に当たり、緊急の議題、注意を要する報告のある方、挙手を願います」
指導を受けたとおりに、ルーチンの質問を投げる。
一同は沈黙し、こちらの進行を待つ雰囲気になった。
「ないようですので、定期報告に移らせていただきます。最初に"牧人"の方々から、お願いします」
机の一隅を占めていた一人が立ち上がり、演壇に登る。
手にした資料を改め、それぞれに同じものがあるのを確認すると、発言を始めた。
「――三頭の"狼"のうち、"肉置き"の血統は八割方知れた。"北"の複数の血統を汲んでいるとみられる。論拠に関しては手元の写真と映像解説を参考されたし」
「"はぐれ"が"肉置き"の縄張りに入ったとの報告あり。角を突き合わせることは確実と見られる。現在、両者の位置を捜索中」
「"馬印"に関しては、魔王さまのご指示通り。機密にてこれ以上の報告を終了する」
上層で語られるものと違い、ここでの会話は符丁で行われる。
手元にある資料も、黒塗りになった部分や『書類抜け』が数多くあり、この場で全容を把握することはできない仕組みだ。
基本、情報の全容は担当部署のものしか知らず、魔王自身の判断で『閲覧可能』とされたものだけが公文書館にて公開されていた。
勇者側の間諜や、内部犯の情報漏洩に備えたこれらの措置は、魔王の慎重さと偏執の気質の現れだ。
「ありがとうございます。続きまして、領地経営報告に移らせていただきます」
「"牛飼い"だ。発言、構わないだろうか?」
「はい、よろしくお願いします」
会議場に詰める仮面が、一斉に"牛飼い"へと向けられる。
無言の圧にひるむことなく、発言者は資料を手に登壇した。
「"牡牛"の育成は順調に進んでいる。"牧場"のものを含めれば、当初の予定数を満たしたと言っていいだろう」
「"くびき"と"犂"の改良は終了した。耕しの効率も、想定を上方修正する結果が出ている。細かな手直しは、畑に出してから考えるべきだな」
報告を聞き終えた聴衆は、安堵と興奮の入り混じった吐息を吐いていた。
"牛飼い"の成功は、今後の侵攻に重要な意味を持つ。そんな皆の空気を読んだのか、別の発言者が挙手した。
「"薬草園"の状況を報告させてもらう。よろしいか」
「どうぞ」
仮面の上からでも分かる誇らしげな気配を漂わせ、"薬草園"の報告が連なり始めた。
「"バジリコ"と"ミント"の陰干しは順調に進んでおり、いつでも持ち出しが可能だ。"コアントロー"に関しては作業の進行を見計らいながら増産する予定になっている」
「"アニス"は"牛飼い"の牛舎に、"ローズマリー"は城内の花壇に植えることになった。いずれも魔王様のご指示だ」
「それぞれの種も備蓄を進めている。"花祭り"には十分間に合うだろう」
手元の資料を見ながら、"議長"はこれらの進展のことを考えていた。
発表された成果はどれも『表』の戦況を加味していない。むしろ、そんなものはこちらの計画になんら影響を及ぼしていなかった。
すべては囮。
魔王城を中核とした真の侵攻計画のために、魔将たちは使い潰され、勇者たちは踊らされたのだ。
唯一、この城の秘密に触れたあの子竜でも、ここまでの状況を予想できただろうか。
「"議長"、次は"橋大工"から報告したいが、いいかね」
「――っは、はい! よろしくお願いします」
落ち着き払った声に呼び覚まされ、慌てて"議長"は職務に戻った。
老齢を感じさせる発話とともに、最古参の"橋大工"は、状況を解説し始めた。
「先日、"ハーバー"と"アイアン"が無事開通した。開通済みである"ビスカヤ"、"フォース"、"ミヨー"とあわせ『ケーニヒスベルク』には五基の橋が掛けられたことになる」
「残すは"ゴールデンゲート"、そして"ロンドン"だが、次の定例会には、完成を報告できるだろう」
少なくない歓声が、しめやかに上がった。
"橋"の建築は、魔王城築城以来の計画と聞いている。担当の"橋大工"も、静かな喜びを漂わせて、賞賛を受けていた。
そんな祝賀の雰囲気の中、そっと手を上げる者が一名。
「"厩舎"です。私の報告を進めてもよろしいですか?」
「どうぞ、"厩務員"」
咳払いし、"厩務員"は告げるべき言葉を放つ。
「"牧童"達の働きもあり、"馬"の生育も順調です。そろそろ"花祭り"に向けた調整に移るべきかと思われますが」
「その件については、俺から提案がある」
それまで黙していた魔王の宣言に、一同が緊張する。
手元の資料をたぐり、目的のものを見出すと、案が出された。
「調整を兼ねて、"狼"狩りを行いたい。供出できる"馬"の数は?」
「……"スティード"中心でなく、"マスタング"を含めた編成であれば、一両日中には百から二百頭は用意できます」
「五日くれてやる。"肉置き"に二百、"はぐれ"にも二百を当てろ。"スティード"に"馬具"は掛けるな」
「"手槍"の持ち出しを許可いただければ、御命令に従います」
「狩りだからな。いいだろう、許可する」
魔王の査定を経て、"厩務員"は安堵しつつ、手元の端末に指示を打ち込み始めた。
実働に即した部門は、こうした要請を受けることが多い。その労苦を思いながら、"議長"は、最後まで黙していた部門に声を掛けた。
「"果樹園"からは何かありますか、"園丁"殿」
「ある」
そう言ったきり、"園丁"は手元の資料をたぐり、しばらく沈黙した。
報告の内容を忘れたのか、あるいは何かのタイミングを探っているのか。
おもむろに、彼は決定的な一言を口にした。
「"トキジク"は収穫された」
それまで、何らかの反応を示していた会議場の面々は、身じろぎもせずに発言の意味を反芻しているようだった。
魔王は頷き、"庭師"に問いかける。
「連作は見込めるか」
「下肥さえあれば」
「"花祭り"の引き出物となり得るか?」
「存分に振舞われよ」
回答に満足すると、魔王は座席に体を預けた。
部下たちを見回して、告げた。
「貴様らの働き、十分に堪能させてもらった。今後も緩みなく励め」
ねぎらいの言葉に、仮面の者たちが喜悦と共に礼を取る。
その一切を見つめながら、"議長"は己の職分を全うした。
「それでは、本会議の終了を宣言し、解散といたします」
木造の大広間には、かりそめの夕日が差し込んでいた。
長い食卓の両端に二人が座り、その中途ほどに小柄な姿が音もなく侍る。
魔王城の地下中央部、"執事"が取り仕切る『セーブの館』。ここでは外の時間と同じ光景が窓に投影されるようになっていた。
長机の向かいに一人のゴブリンを座らせ、魔王は供された食前酒を口に運んだ。
「今日はなかなかの議長ぶりだったな」
「ありがとうございます。次回以降、謹んで辞退させていただければ」
久しぶりに見た白仮面なしの表情は、以前のものとは違っていた。
もちろん、魔王という存在に対する畏れはある。
それでも自身を保ち、己が何をするべきかという判断をする程度には、自我というものを固めつつあるのが分かった。
「今後、何かと第一位も忙しくなる。"参謀"も城内の改築と組織再編で、俺の補佐もままならん状態だ」
「第一位に変わる新たな側近を、という事でしたら第三位の――」
「もう、とっくに分かっているのだろう?」
ゴブリンは、心底困り果てたような顔で、こちらを見つめた。
むしろ、睨んでいると言ってもよかった。
「第八百三十二位、今より貴様を、俺の"秘書官"とする」
「おめでとうございます"秘書官"殿」
黒い二足歩行の羊が、"秘書官"のグラスに酒を注ぐ。
こちらが掲げたグラスに、渋々といった表情で礼を取る相手に笑いかけた。
「研究者志望に政務をやらせるのは心苦しいがな、戦時下とはそういうものだ。貴様もそれなりに理解はしているだろう?」
「知己の建築家を、軍需大臣にした独裁者がどうなったかぐらいは、存じ上げています」
「そうだ。そういう諫言を口にできる奴こそ、俺の"秘書官"にふさわしい」
実のところ、このゴブリンの存在は、自分にとって望外の喜びだった。
単なるイエスマンではなく、こちらを立てながら冷静に職分を全うできる者。先ほどの会議で発言した役職付きも、そういう気質を判断基準に着任させている。
「"執事"、お前も席を共にしろ。後は自動人形にやらせればよかろう」
「かしこまりました」
「"秘書官"、ここにいる者には一つの共通点がある。それが何かかわかるか?」
陶器の乙女たちが運び込む前菜を眺めながら、問いかける。
食卓と壁に、ろうそくの明かりが灯され、宵闇に沈みかけた部屋が温い光に満ちた。
「"青天の霹靂"、ですね」
「そうだ。我ら三名、あいつに一杯食わされた同士だ」
「むしろ私は、おもてなしを差し上げましだので。一杯食わせた側、ですが」
そんな"執事"の軽口に、かすかな笑いが卓上を彩った。
和やかな会食、そう言っても過言ではない時が過ぎていく。
ここには自分たち以外はいない。あらゆる監視が行われている魔王城内において、"執事"の領分であるこの館で起こったことは、決して外部に漏れることがない。
それを承知で、魔王は食後酒の肴に、真実を吐露した。
「この戦いで、俺は死ぬ」
ゴブリンは食器を置き、こちらを凝視した。
黒い羊はコーヒーで口を湿し、穏やかに姿勢を正した。
「侵略を開始して十年、勇者どもと戯れ一年半余り。思う以上に力を使ったらしい。ここでの結果がどうあれ、次の世界に君臨することは、決してない」
「でしたらなおの事、すべてを我らに任せて」
「言ったろう、今は戦時下なのだと。あらゆる手練手管を用い、ため込んだ財貨、倉庫の隅の麦一粒まで全て払い出す。それが総力戦というものだ」
「その中に、ご自身の命も含まれておられる、ということですね」
黒い"執事"の言葉は、確認というより"秘書官"への注釈だ。
こちらの意志を翻すことはできない、諫言は無用ということを先回りして告げていた。
「……それで、私の役目は何なのですか?」
「"執事"には後の事を託してある。いわゆる遺産管理というやつだ」
「蔵書や研究資料、美術品といった、この城の物理的な遺産の処分についてです」
「だが、それでは足りない」
果たして、目の前にいるこいつは、どこまで俺の真意を理解するだろう。
魔王は笑い、指示を告げた。
「"秘書官"、貴様は俺の、過去から現在に至るまでの一切を検分しろ」
「一切……ですか?」
「そうだ。対勇者戦に関する戦略構想、組織の構築と管理、人材登用、現場における戦術など、俺が成してきた、あらゆる行為をだ」
「まさか……それは!」
「勘違いするな」
顔色を失った相手の思考を、柔らかく否定する。
「貴様が次期魔王の器だ、などとは微塵も思っていない。だが、戦争というものは高度な論理の積み重ねだ。研究し、精度を高め、効率化が要求される分野だ」
「ま、魔王様……」
「安心しろ。俺は貴様の願いを忘れてはいない」
ゴブリンの顔は、驚きと喜びと使命の重さで、ぐちゃぐちゃになっていた。
こういう顔が見たいから、俺は奇貨を居くのがやめられないのだ。
「貴様が受け継ぐ遺産は、俺の積み上げた戦闘教義だ。その価値を、その力を、後世へ伝えよ」
伝えるべきを伝えると、魔王は自分の遺産を受け継ぐものを眺める。
興奮し、感謝を口にし、今後のことを思い悩む者を。
これで後顧の憂いはなくなった。
あとはただ、勇者どもを――。
『必ず、お前、倒すぞ』
それは稲妻のように、閃いた記憶だ。
去っていく小さな姿が、幻のように虚空に漂う。
なぜ今、この時に、思い出してしまったのか。あれも結局は勇者の一人にすぎず、乗り越えるべき障害であるはず。
そう考えたとき、あの時の疼きを思い出した。
すべては計画、すべては自分の思惑通りに進めるものだと考えていた。
そうして連ね続けた一切を、あの小さな魔物は、真正面から打ち砕いてみせた。
あの時の驚き、快悦は、生まれてはじめての経験だった。
「そうか……。そういうこと、なのだな」
「魔王様?」
呼び声で、ようやく意識が戻る。
同時に、己の心がとてつもなく清明と、晴れ渡った気がした。
「訂正しなくてはならないことを、見出した」
「その、それは一体?」
「俺は死なん。"英傑神"の勇者を倒して、その向こう側へ行くまでは」
あれはただの目標だ。立ちふさがる障害、ただ成すべきというだけの課題に過ぎない。
だが、今の俺にはその先が、願いがある。
「俺は奇跡を見た。数多の絶望と困難を乗り越えた者を見た」
もしも、何もかもが首尾よく、成し遂げられたなら。
「俺は、最も弱き者の定めを越えた、最も強き者を、倒したい」
そこで、"執事"が席を立ち、自動人形に何かを言いつける。
ほどなくして、くすんだラベルのワインボトルを両手に、こちらにやってくる。
「それでは、ここで新たに乾杯でもいたしましょうか」
「たやすく心変わりした、移り気な主人にか?」
「死を越えてなお、手に入れたい物を見出した、主人を寿ぐために」
めいめいの新たなグラスに酒が注がれ、二人が声を合わせる。
『我が主の栄光と、願いの成就に』
「乾杯」
静かにグラスが打ち合わされ、盃が干される。
酒の味を確かめながら、魔王はただ、思い浮かべた。
はるかな先に待つ、生まれてはじめての『夢』のことを。
そして、時は静かに流れていく。
来たるべき終幕に向かって。
みなさんお久しぶりです。今回はあまりにも中断期間が長かったため、作者の手慣らしに、七章前の細かい背景世界設定の一部を描写してみました。今後も不定期に出していく予定なので、楽しんでいただければ幸いです。