1、世界の敵
柔らかい腐葉土を踏みしめながら、三上修斗は走っていた。
広葉樹の茂る森は下生えもほとんどなく、意外と見晴らしがいい。森の中といえばどこでもでたらめに木があると思いがちだが、極相になった場所では、意外に草も生えないものだということを学校の授業で言っていた。
学校、そういえばもう一月以上思い出していなかった言葉だ。異世界から召喚された勇者として、この世界に来てから大分経つ。
「ぼっとするなシュウト! もっと急げ、追いつかねぇぞ!」
自分と並んで走る、浅黒い肌をした長身痩躯の男。皮鎧とショートソードという格好は戦士というより、盗賊と言った方がしっくり来る。現に、ちょっとした手わざも使えると言っていた。
「わ、分ってるよ!」
一応、神器として与えられた鎧と剣は、通常の装備よりも軽くしてもらっている。とはいえ現代社会の恩恵を受けてきた中学生の自分が、体力のお化けのような傭兵と並んで走れるわけが無い。
「こりゃ、明日から走りこみ追加だね、お先にっ!」
自分よりもはるかに背の高いところから降る深みのある声。重そうな鎧を身につけた女戦士が、さらにダッシュを掛けて目標を追っていく。
「あまり先行するな、アミ!」
「もたもたすんな男ども! グリンド、あんたもついといで!」
軽口を叩く鎧姿に、さらにマントを翻して同じような鎧を着けた男が追いすがる。この世界に来て驚いたことの一つが、『鎧騎士はダッシュなど朝飯前』ということだ。
『あたりまえだろ? 鎧なんてあたしらにとっては服みたいなもん。鎧着て泳ぐぐらいやって一人前だ』
『さすがにそれはお前だけだぞ、アミュール』
南方海浜の出だというアミュールはパーティ一の重戦士で、リーダー格のグリンドにも劣らない戦闘能力を持っている。
「あまり距離を離さなければ多少遅くてもいい! 無理はするなよシュウト!」
以前はどこかの教会に詰めていたという、正真正銘の騎士であるグリンドは、勇者である自分に力を貸そうと言ってくれた最初の人間だ。それ以来、鎧や剣の加護に頼りがちな自分に色々と教えてくれていた。
「とはいえ、狩りの主役はうちの勇者様だからな。ちょっと待ってろ」
手にしていた剣を収め、自分と併走していた男、ノイエスが虚空に指を走らせる。
「声なき声、意思なき意思、我が声に答え唱和せよ、鳴れよ来たれよ手弱女よ」
言葉として聞こえたのはそこまで。そのあとはまるで鳴くような、か細い音だけが喉から漏れ、いきなり修斗の体が風をまとって軽くなる。
「これでちったぁマシだろ? とっとと追いつくぞ!」
「うん!」
全く息も切らせず、走ったまま唱えられる魔法。精霊の力を使うというノイエスは、実のところ修斗が一番好きな『先輩』だ。
最後まで自分の仲間になることに反対し、今では最も仲良くなった彼。生真面目なグリンドをたしなめ、みんなを危険から護る影のリーダー。
「……ノルディア、大丈夫かな?」
いくらか楽になった息を整えつつ、声だけを脇の先輩に掛ける。
「ああ見えてあいつも頑丈だ。毒もきっちり飛ばしたし、そんなに心配ならお前だけ帰るか?」
「冗談でしょ!」
今はこの場に居ない、魔法使いのノルディア。この狩りの最初に毒矢を受けて、今は近くの町で休んでいるはずだ。
それをやったのが、目の前を走っていく、一匹のコボルト。
草か何かで作ったぼろぼろの服を身につけて、背中に弓矢を背負ったそいつは、風のような速さで森を駆け抜ける。
そんな追跡行を続ける修斗の耳に、見えざる神の声が届いた。
『あと少しで森が切れる! そこまで行けば奴が罠を仕掛けられそうな場所は無い!』
「分った! ノイエス! 森が切れるって!」
「誰に物を言ってんだって、神さんに言ってやれ!」
ノイエスを初めとして、仲間の傭兵達はそろいもそろって、神というものに恐れを抱かないらしい。グリンドにしたところで、信徒として神は崇めるが、全ての行動は自分の選んだ結果に過ぎず、見守ってくれるだけでいいという現実主義者だ。
数歩のダッシュでいきなり視界が開け、目の前に石ころだらけのなだらかな斜面が広がった。
「アノシュタット平原。水はけがよすぎるんで、畑にもできない荒地が延々続いてる」
何かと教えたがりのノイエスが、呼吸でもするように薀蓄を口にする。先に出ていた二人の鎧騎士が、それ以上の逃亡を許さないといった姿で、コボルトの進路を塞いでいた。
「奴は森の生き物、この平原に追い詰めれば、得意の罠戦法は使えないってわけだ」
「うん」
「っと、お前はまだ出番じゃない。いいって言うまで動くなよ」
神剣を鞘払ったこちらに注意を飛ばし、ノイエスが剣を抜き放つ。
コボルトは弓を構え、中腰の姿勢で油断なく仲間達に視線を移し、最後に自分を見た。
「そこか、勇者」
思ったより高い、子供のような声。
毛皮の生えた低い背丈とふわっとした尻尾、犬のような顔立ち、眉間に刻まれた皺と目じりの鋭ささえなければ、かわいらしいとさえ思えただろう。
だが、瞳の奥に宿るのは驚くほどに強い意思。手練の傭兵に取り囲まれてもなお、怯えた様子すら見せない。
「散々走り回らせてくれて、ありがとよ」
その視線をさえぎるように、ノイエスが前に立つ。その体の端から見える魔物は、動じた様子なく隙を覗っている。
「神さんの話じゃ、お前を倒せばすごい量の"けいけんち"とやらが手に入るらしいな」
「お前ら、勇者のため、俺狩るか」
「ああ。こんなんでも一応、雇い主でね。仕事はきっちり果たさせてもらう」
言いながらノイエスの開いている手が背中に回る。その指が虚空に描く言葉を見て、修斗は剣を握りなおした。
「それじゃ、"レアモンスター狩り"……始めるとするか。グリンド! アミ!」
仲間の叫びに二人が魔物から飛び離れ、軽戦士がすばやく脇に退く。
そして修斗はコボルトに向け、構えた剣を一気に振り下ろした。
「行けっ! エクスカリバーっ!」
神剣から黄金の光が迸り、輝く三日月になってコボルトに突き進む。番えを解いた魔物が左に飛んだ。
「囲めっ!」
斬光を避けた先を塞ぐ鎧。幅広の剣をかざしたアミュールがコボルトに迫る。
「喰らいなっ!」
横薙ぎに振るわれる剣、コボルトの頭が一瞬早く軌跡から逃れ、素早い動作で弓を打ち出す。その威力が鎧に施された守りの術で弾け、力なく地面に転がる。
「そんなひょろい矢なんざ効くかぁっ!」
アミュールは立て続けに剣を振り、矢に手を伸ばす暇を与えない。それでも必死に身をかわし、低い姿勢で脇をすり抜けようとするコボルト。
「逃がすかっ!」
退路に今度は薪割りのような一撃、慌てて飛び退った犬の背後を、もう一両の鎧が塞ぎに掛かる。グリンドの得物は棘の付いたメイス、それを中腰で構え、同時に楯を前面に押し立てる。
「はっ!」
楯が魔物の視界を塞ぐように振るわれ、その突風で犬顔がわずかにぶれる、その後を追うように追撃するメイス。体を投げ出して、転がりながらコボルトが避ける。
「ふうんっ!」
再び構えなおされた楯を前に、グリンドが体ごとコボルトに突進する。薄いものなら壁でも粉砕する強烈な体当たりが、犬のような体を軽々と吹き飛ばした。
「ぐはああっ!」
小さな体が地面に叩きつけられ、軽くバウンドし、倒れ付す。それでも体をわななかせながら、必死に立ち上がろうとしていた。
「意外に丈夫だな、助かった」
「ちょっとは手加減しな! 死んじまったらどうするんだ!」
「すまん。だが、時間稼ぎはこれでいいだろう」
そう言いながらグリンドは仲間の軽戦士を見た。すでにノイエスは地面に手を当て、唸るような声を漏らしている。
「力強き手よ、敵を縛れ」
言葉が結ばれ、立ち上がろうとしたコボルトを、無数の土で出来た手が一気に引きずり倒した。
「ぐあああっ!」
「よしっと、これでもう安心だ。シュウト」
呆然と事態を見ていた修斗は、ようやく事態の推移を飲み込んだ。いきなり『神剣をコボルトに使え』という指示が来たのには驚いたが、何とか対応できた。
「お前も大分勘がよくなってきたな?」
「師匠が良いおかげだよ」
「ハッ、抜かせ」
まぜっかえすノイエスの顔には、皮肉げな笑み。それが自分に対する親愛の情であることも、すっかり分かるようになった。
「無駄話してないで、さっさとやりな」
アミュールが示す先、地面に縛り付けられたコボルトは、それでもこちらを睨む。
「やっぱ、レア物って言うだけあって、なんか顔つきが違うよね」
「そうだな。とはいえ、殺しちまえば同じことさ」
「……そうだね」
神様からは『別の勇者を殺して力を奪った、邪悪な女神の配下』だと聞かされていた。 でも、ここに来るまでの間、こいつは森に罠を仕掛けたり弓で闇討ちをするぐらいで、魔物らしい攻撃方法というか、邪悪っぽい技は使っていなかった。
こいつは、一体なんなのだろう。どうやって強力な力を持っていたという、勇者を殺せたんだろうか。
「サリア」
突然、コボルトは口を開いた。
その動きにあわせて仲間達が構え、自分も剣を握りなおす。
「これで勇者、仲間、何するかわかったか? ……ああ。気をつける」
サリアというのは魔物を守護している女神の名前のはず。雰囲気の変わった魔物に神が叫ぶ。
『シュウト! 奴は何かするつもりだ! 早く止めを!』
「う、うん! 行けっ! エクスカリバーっ!」
渾身の力を込めて振り下ろす剣。斬光が奔り、大地を削りながら敵に殺到する。
その光の向こうで、コボルトは確かに、こう言っていた。
「勇者、お前に決闘、申し込む!」
決闘宣言をさえぎるように飛び来る光。
だが、地に縛り付けられたコボルト族の青年、シェートは全身に真紅の燐光をまとわせて、それを掴んで一気に押し剥がす。
「うおおおおおおおおっ!」
まるで壁のようにそそり立つ土の塊、そこに一気に白の光がまといつき、黄金の光を完全に弾き散らせた。
「"地縛"を引きちぎっただと!?」
「ノイエス! 周りに光が!」
自分にとってはもうお馴染みの光景。光の壁が広い荒地を封鎖し、勇者と自分の決闘場を作り出していく。その光景に驚く勇者一行を距離を取って冷静に見つめつつ、シェートは自分の相棒である女神、サリアーシェに語りかける。
「サリア、相手の神、どうだ?」
『ああ、こちらが加護の追加を行わないと宣言して、決闘宣言を拒否しないよう言っておいたおかげだ。向こうも油断していたのだろうが……内心肝を冷やしたぞ』
「お前ら作る勇者、ほんとズルイ。だから、全部知りたい、やること、やれないこと」
軍神ゼーファレスの配下、絶対防御の力を持つ勇者を倒して以来、シェートを狙う勇者は日を追うごとに増えていた。
そのほとんどはゼーファレスほどの力を持たない、小神の生み出した勇者だが、それでも能力は侮れない。
だからこそ、身を挺して能力を見極め、戦わなければならない。それが小さく、仲間もいない魔物の取れる最善の策。
「さすが邪悪な女神の配下、だな。俺たちの実力を知るためにわざとやってたってか」
浅黒い肌の男が軽口を飛ばす、この手合いが一番厄介だ。素早い剣と精霊を操り、仲間を護る力に長けている。
「さっきの傷も治ってるようだ。やはり一筋縄ではいかないな」
楯と鎧で身を護る騎士風の男。こいつが仲間の治療を引き受けていることは、魔法使いの毒を消している姿から了解済みだ。
「しかも妙な力を使うよ。シュウトの剣の光が、土くれなんかで防げるわけが無い」
荒っぽい動きをする女の戦士。勝負勘が鋭く、続けて剣の間合いに入り続けるのは自分の死を意味する。
「神様が言ってる。この空間で負けると、元の世界に送り返されちゃうって」
不安一杯の表情で剣を握る勇者。光を飛ばす剣と、魔法や攻撃に強い胸当てをつけている、何よりゼーファレスの勇者のように神器頼みではなく、仲間と連携して動く機転を身につけていた。
『いきなり将は討てないな。切り崩しが必要だ』
「サリア、この辺り、隠れるとこ、あるか」
『アノシュタット平原は岩と砂が積もる荒蕪地、万歩逃げても洞窟などありはしないぞ』
「分った」
言いながらシェートは深く腰を沈める。同時に隊列の一番後ろの精霊使いを、ほんの一瞬だけ見た。
その視線がこちらと絡み、男が叫ぶ。
「逃がすな! グリンド! アミ!」
楯を構えた鎧が猛然と突き進む。その横に並んだ女も一気に間合いを詰める。右にも左にも避けられない事態。
だが、シェートはその場から動くことなく、弓を構え引き絞る。
番えた矢の先、灯る光は白い閃光。
「しっ!」
鳴った弓弦に弾かれた鏃が、騎士のかざした楯に殺到。
「うぐっ!?」
ばぢぃっ、と激しい火花を散らせ、その守りが弾かれる。間髪入れず番えた矢が重戦士の鎧で大きく爆ぜる。
「くあああっ!」
思う以上の威力に二人がたじろぐ。楯には黒い焦げ、鎧には深く突き刺さった木の矢、敵の視線が警戒に強く輝いた。
「手ぇ抜きすぎだろグリンド、ちゃんと神様にお祈りしたのかい」
「そういう口が叩けるなら、まだ大丈夫そうだな」
あの戦い以来、それぞれの加護の力は高めてある。敵の攻撃を受けて見切る無茶な行動も、攻撃と守りの加護を重ね、自己治癒の力を上乗せしたから出来る行為だ。
『シェート、鷹が動くぞ!』
「二人とも一旦引け! 守りを高めてもう一度押し包むんだ!」
「逃がさない!」
素早く下がる鎧に向けて木矢が追いすがる、その威力を横殴りの風が吹き飛ばす。
風の精霊の力を解放した精霊使いが、鎧の二人を大気の壁で包み込んだ。
『"矢来封殺"か! 好機だシェート!』
「ああ!」
普通の矢では貫けない精霊の護り、風壁に包まれた騎士が女戦士に神の加護を与えていく、この時こそが絶対の隙。
引き絞った弓の先、守りの青、攻撃の白が宿り、最後に赤い光が包み込む。
「いけえっ!」
弦打ちが大気を震わせ、獲物へ飛ぶ。
光を宿した矢はまっしぐらに風の壁に突進、その護りを容易く引き裂いた。
「アミ!」
異常に気が付いた男が女を突き飛ばす。
「うがあっ!」
木矢が楯の騎士の肩口深く突き刺さり、その体がもんどりうって地面に転がった。
「てめえええええっ!」
「やめろアミ!」
精霊使いの言葉を振り切り、一気にこちらへ突進する女戦士。動じずシェートは矢を番え、三つの加護を重ねた矢を膝頭に叩き込む。
「ぐうおおっ!」
ぐしゃりと音を立てて鎧が地面に倒れ付す。その脇を抜け、コボルトは勇者に向けて走り出した。
「逃げろ! シュウト! こいつはまずい!」
「でも、二人が!」
言い争いを立ちふさがる動作で打ち切り、剣を構えた精霊使いがこちらに牙をむく。
「風壁を破るってこた、魔法使いかよ、お前!」
「俺、魔法使わない。サリアの加護」
「神様謹製の術破りか、とんでもない隠し玉だぜ、ったく!」
どれほど武器への耐性をつけても、眠りや麻痺、捕縛などの魔法に掛かればコボルトなど一瞬で無力化される。その弱点を補うために、サリアがレベルアップの加護の大半を使って付けてくれた『破術』の力。
身にまとえば掛けられた術の効果を打ち消し、武器に与えれば魔法の防りを打ち破る力になる。その赤い光が再び鏃を輝かせる。
「こいつの力はまずい! とりあえずお前だけでも逃げろ!」
ためらいなく距離を詰め、精霊使いが切りかかる。その小剣を覆う濃い褐色に気づき、シェートは力いっぱい背後に飛び退った。空を切った剣から液体がしぶいて玉と散り、鼻腔にきつい匂いを残す。
「毒か。ヤブカガミとカズラダマ」
「嫌になるな、そんなことまでお見通しかよ」
「俺、狩人。毒罠も使う」
毒蛇と毒草の混合毒、たっぷり塗った矢を喰らえば、熊も昏倒する代物。
『おそらく、そやつは盗賊か暗殺者上がりだ。何をするか分からん、油断するな!』
右手の小剣を前に、片手は背に隠す。腰を低く屈め、それで居て絶妙に勇者を庇う位置取り。進むも戻るも、討つも護るも、自在に対応できる中庸の構えで睨んでくる。
中庸? いや、違う。
「どうした勇者! 逃げないのか!」
精霊使いの背後に居た影が、一瞬たじろぐ。
「魔王倒す勇者、聞いて呆れる! 弱いコボルト一匹、お前一人で狩れ!」
「聞くんじゃねぇ! こいつは強い! 今のお前じゃ絶対勝てない!」
これがただの傭兵なら、自分は死んでいるかもしれない。
だが、こいつは『勇者』の仲間。その事が最大の隙になる。
「卑怯者! 意気地なし勇者! さっさと家帰れ! 母ちゃのおっぱい飲んでろ!」
「この……っ」
「安い挑発に乗るな! いいから黙って――」
精霊使いの言葉が途切れ、シェートの全身が危機と勝機に弾けた。
振り向きもせずに地面に身を捨て、背後からの騎士の一撃を横っ飛びに避ける。その視界に精霊使いが後ろ手に構えた短剣と、肉の壁から外れた勇者の姿が焼きついた。
絞った手から弓弦が離れ、唸りと共に木矢が勇者に襲い掛かる。
「シュウトぉおっ!!」
精霊使いが一瞬で射線を封じ、胸板に矢が突き刺さる。地面に体を打ちつけながら、それでもシェートの右手が矢筒に伸びる。
「うおおおおおおっ!」
覆いかぶさるようにメイスを振りかざす騎士、突き上げられるシェートの右手。
その交錯が一瞬で絶叫に変わった。
「ぐうあああっ!」
木の鏃に込めた加護が鎧を貫き、みぞおち辺りを深々と抉りぬく。それを確かめる間もなく騎士の脇に転がり出た。
「よくもみんなをっ!」
叫びが光の刃に乗り、片膝をついたシェートに飛ぶ。
その一撃を、抜き放った破術の山刀が完全に打ち砕いた。
「このぉおっ!」
勇者の刃が連続で放たれる。縦に、真横に、斜めに振られる斬撃。その全てを避け、飛び、払って突き進む。
「来るな! 来るなぁっ!」
遮る者一つなく、シェートは歳若い人間の子供の前にたどり着き、
「お前の世界、帰れ、勇者」
すり抜けざま、山刀で深々と、勇者の腹を切り裂いた。
ノイエスの目の前で、金色の光が砕けていく。
腹を割かれ、内臓をはみ出させた痛々しい姿のままで、少年が消えて行く。多分、自分が戦場で見た中で、もっとも奇妙で、ある意味美しいともいえる死者。
木矢の刺さった胸は深手ではあるが、重要な器官は傷つけないでいたため、そのまま抜くことが出来た。その一撃を射たコボルトは矢を番えたまま、こちらを見ている。
「シュウトは、どうなるんだ」
「……そいつ死んでない、らしい」
コボルトは敵意の失せた目でこちらを見ている。その間で砕けていく光がやがて小さくなり、彼の身につけていた鎧や剣だけを残して、シュウトという少年が居たという痕跡は完全に消え去った。
「死ぬか役目終わる、勇者、元の世界帰る。サリア、そう言ってた」
「そう、か」
ごまかしの類ではないだろう、シュウトは神から力を与えられ、地上に降りたという勇者なのだから。
治療を終えたアミュールとグリンドが自分の後ろに立ち、だが何もせずに立ち尽くす。
「お前達、勇者の仇、討つか?」
「仇……か」
コボルトの言葉は、なぜか弔意に聞こえた。その言葉の甘やかな熱と痛みを味わいながら、それでも首を横に振る。
「やめとくよ。雇い主がいなくなれば、それ以上の仕事はしない。傭兵にとって、命は金や名誉以上に大事だからな」
「ノイエス……ッ」
武器に手を伸ばしかけたアミュールを、片手でさえぎる。
「本当のことを言えば、今ここでこいつを殺したい。殺せないまでも、シュウトのために一矢報いたい。だが、俺たちがここで死んだとしたら、ノルディアはどうなる?」
自分達の帰りを待つ魔法使い、彼女のことを口にすると、女戦士は息を殺して嗚咽を漏らし始めた。
「聞かせてくれ……どうしてお前は、勇者を殺したんだ」
「決まってるだろ! そいつが魔物だからだよっ!」
泣きながら怒り狂う彼女を支えながら、それでもグリンドは問いかけた。
「お前は、俺たちを殺さなかった。何度でもその機会はあったはずなのに。コボルトのお前が、なぜそんな風に戦える、お前の仕える女神とは、どんな存在なんだ」
「俺の村、勇者、滅ぼした。家族、仲間……大好きだった人、みんな、殺された」
コボルトの瞳に、暗い炎が宿る。
搾り出す深い怨恨の言葉が、小さな体を数倍にも大きく見せた。
「俺、殺した勇者、そういう奴。サリア、力、くれた」
「復讐を後押す女神……だからこそ、邪神と呼ばれるのか」
「邪神?」
暗い輝きが一瞬で消える。
そして、コボルトは驚くほど優しく笑った。
「……うん。そうだ。あいつ、怖い女神。優しい邪神」
魔物は構えを解き、背を向けた。
「俺、勇者殺す。それ以外、無理に殺す気、ない。それだけ」
そして、振り返りもせず、荒野へと消えていく。
「優しい邪神、か」
乾いた風が吹き始めた。すでに日は西に傾き、覆うもののない荒れた大地が、しんとした底冷えを伝えてくる。
「……帰ろう」
グリンドの言葉にのろのろと頷き、アミュールが残された遺骸を抱えた。
「剣だけにしろ。鎧なんて邪魔になるだけだ」
「だって……だってさぁ……っ」
普段は決して見せることのない、女の顔をむき出しにして、アミュールが恋人の胸にもたれる。栗色の髪を優しく撫でながら、グリンドは呟いた。
「なぁ、ノイエス」
「なんだよ」
「一体……なんだったんだろうな」
要領を得ない言葉、だが、言いたいことは分かった。
勇者を名乗る少年と旅をした日々、その物語の幕を降ろした小さな魔物。
どんな三流吟遊詩人でも歌わないだろう、あっけない物語の終わり。
「俺たちは、何を間違ったのかな」
声は虚ろで、本当に答えを探しあぐねているように聞こえた。
敵をただのコボルトと思ったことか、シュウトの実力を高く見積もりすぎたことか、それとも神の言葉に踊らされたことか。
『すみません、おじさんたちって、傭兵ですか?』
『おじさんって言うな。それからなクソガキ、俺たちはガキのお守はしない主義だ』
『あの……勇者なんです、俺』
『なに?』
『これから魔王を退治しに行くんですけど……俺の仲間になってもらえませんか?』
「……多分」
「多分?」
「……いや」
言いかけた一言を飲み込み、空を見上げる。
「俺にも、わからねぇよ」
傭兵は雇われて戦う商売。
そこに夢想も理想も入り込まない、入り込ませない。
そのはずだったのに。
宵闇のびろうどに美しく散る白い星を見つめて、暗殺者上がりの傭兵は、誰にも悟られぬよう、言葉を漏らした。
「お前に雇われたこと、間違いなんて思っちゃいねぇよ、シュウト」