31、勇敢な行為
あと一歩だったのに。
海藤俊之にとって、ウィズというカードゲームは、その一言に集約された。
『《暴露》を唱えます。カード指定は《幼い剣士 アルゼル》です』
接戦が苦手だった。
互いを削りあい、手札を読み合うという展開になると、途端に引きが悪くなる。
『【スタック】。そのカード、《果敢な論破》で打ち消します』
考えに考え抜いて、デッキを調整し、手札事故をなくそうと努める。
あるいは大会優勝者のデッキを完全にコピーし、構築の不安定要素を消すことに、必死になったこともあった。
『本体に《雷撃》です。対応なければ、こちらの勝ちで良いですか?』
それでも、相手はこちらの意図をすり抜けた。
必要なカードを削られ、通したいカードを打ち消され、残りのライフが一瞬でゼロになっていく。
あと一歩のところで、自分はいつも敗者の側に蹴り落とされた。
クーリと出会ったあの日。
もう何度目になるか分からない、公式予選の帰り。
本当は、ウィズを辞めるつもりでいた。
勝てないから楽しくないのではない。
勝とうとして、あと一歩のところで及ばない自分が、嫌でたまらなかったからだ。
そして今、自分は再び、接戦という局面を迎えていた。
「俺は、全てのクリーチャーで攻撃します!」
伏せられたカードが致命的なものであることは分かっている。
それでも俊之は、全員で攻撃をさせていた。コボルトの伏せ札を一枚でも多く使わせ、それでもこちらが勝つ方法は、ある。
「【スタック】! 罠カード《水攻めの計略》! 弓の《砕けぬ意思》使う!」
『やっぱり伏せてた全体除去! 海藤選手の攻撃に対し、シェート選手、さらに星狼を守るべく《砕けぬ意思》を使用だ!』
《水攻めの計略》ファストスペル 罠
対象の飛行を持たないクリーチャーかコンストラクトを破壊する。
埋設(このカードをプレイするとき、裏側で場に伏せた状態でゲームから取り除く)
対戦相手があなたに攻撃してきた場合、あなたは白緑2を払い、このカードを表側表示で
場に出しても良い。
このカードが罠として唱えられた場合、場にある飛行を持たない全てのクリーチャーとコンストラクトを破壊する。
もちろん、そう来るのは分かっていた。対抗策はこっちにだってある。
「《聖なる王 アルゼル》の効果、《幼い王子 アルゼル》を墓地に送り、"不朽"を付与します!」
フィールドを濁流が洗い流し、相手フィールドには狼が一体。
そしてこちらには生き残った騎士の王と、飛行を持つ騎士が生き残る。
「残った《アルゼル》と《リスタン》で攻撃続行!」
「王様、グートで止める、飛んでるやつ、そのまま受ける!」
《竜殺しのリスタン》クリーチャー 英雄 聖騎士
飛行 対抗 (ドラゴン) 瞬招
推参(竜殺しのリスタンがデッキから墓地に置かれた時、場にアルゼルと名の付くカードがあった場合、白白を支払って場に出してもよい)
竜殺しのリスタンが推参コストによって場に出たとき、プレイヤーを一人対象とする。そのプレイヤーは自分がコントロールするクリーチャーを一体生贄に捧げる。
竜殺しのリスタンは、ドラゴンの効果の対象にならない。
竜殺しのリスタンをアクト:対象のドラゴンを一体か、攻撃力四以上のクリーチャーを破壊する。
リスタンの一撃がコボルトのライフを削り、残りライフは十二点。
伏せられたカードは残り一枚、例の《狩人の妙技》で罠に変えたものだ。あれが一体何なのかで、この先の勝負が決まる。
「クーリの【物惜しみ】で、墓地のカードをデッキへ! ターン終了!」
こちらの宣言に、コボルトは奇妙に冷えた顔で、淡々とカードを引いた。
そして、マナカードを場に出し、行動を終了させた。
「な……なんでしたか! もう罠、おしまいだったか!」
「ああ。罠、もうない。だから、かかってこい」
あからさまな挑発に、ケモノの女神がわけの分からない絶叫を投げつける。そんなうるさい姿も、俊之の目には入らなかった。
あの伏せられた一枚、どんなカードなのか。
罠を使うカードセットは、過去に一回作られただけだ。その後の採録はほとんどなく、俊之がウィズで遊ぶようになってから、一度も見ていなかった。
「な、なにボーっとしてるですか! 早く、自分のバーン、回すでしたから!」
可能性として高いのは、白か緑のカードだろう。伏せたカードに掛けるコストは、本来それが唱えられるマナの種類と数に依存する。
だとすれば、もう一度全体除去か、あるいはこちらの動きを制限するもののはず。
「こっちは、あと一回なら、《アルゼル》に全体除去を回避させられる」
「うんうん」
「神器と狼を出しているから、二体で攻撃したら《魔狼双牙》のコンボで片方を倒されてジリ貧になる」
「なるほど」
分かっているのかいないのか、こちらの独り言に女神は律儀にうなづいた。
「あの一枚を使わせれば、多分……何とかなる」
「なら、行くしかないだった! 洪水なら、飛んでる騎士、避けられるだから!」
大丈夫だ、そう自分に言い聞かせる。
全体除去なら、相手もこちらも仕切り直しするだけ。時間を掛けさえすれば、こっちのデッキは必要なカードしか引かなくなるんだ。
「俺は、《アルゼル》と《リスタン》で攻撃します! そしてアルゼルの効果!」
デッキから二枚のカードが落ち、片方が聖騎士であることを確認する。
「《偉大なるガーラ》を"推参"で召喚!」
《偉大なるガーラ》クリーチャー 英雄 聖騎士
先攻 保護 瞬招
推参(偉大なるガーラがデッキから墓地に送られたとき、場にアルゼルと名の付くカードがあった場合、白緑を支払って場に出してもよい)
偉大なるガーラを生贄に捧げる:あなたの手札から、好きなコンストラクトを一枚選んで手札に加える。偉大なるガーラをゲームから取り除く。
こちらの場にはクリーチャーが三体、十分に餌は撒いた。
あとは、あの伏せカードが何かで流れが決まる。
「【スタック】」
「来たっ」
「なんでも来やがれでした! 洪水でも大嵐でも――」
「俺、《仕掛け紐》使う」
《仕掛け紐》 ファストスペル 罠
このカードは相手の戦闘フェイズのときのみ唱えることができる。
あなたの場にある罠を一つ指定し、コストを無視して発動させる。
ぎょっとした。
コボルトが唱えたカードの、最後の一文に。
コストを無視して発動させる、だって?
「俺、使うの――《灰燼を食む者 ディハール》!」
声に従って、巨大な炎が、柱になって吹き上がった。
それは形を変え、みるみるうちにこちらを見下ろす、暴虐の姿をあらわしていく。
全てを焼き尽くす火竜。鳥の勇者が使っていた、最強の切り札。
「あ……《アルゼル》の効果! プロモーションカードを廃棄して"不朽"を付与!」
炎の波がフィールドを洗う。砕けた二体の騎士がこちらのデッキを削るが、コボルトの狼と神器は、傷一つなくその場に残る。
「な、なんで!? 飛んでた騎士、ドラゴンの力、効かないでしたから!」
「対象を取らない、全体の効果、だからだよ。ダメージだったら止められたのに!」
その時、俊之の脳裏に浮かんだのは、こんな言葉だった。
シンプルなテキストのカードは、強い。
「そ、そのカード! いつ手に入れただった!? 鳥の勇者、盗んだか!」
「去り際に渡されたのです。彼には、感謝してもしきれない大恩ができました」
コボルトのデッキは、俗に言う『一枚差し』だ。
細かいクリーチャーはともかく、勝ちに行くためのカードは複数入れていない。一枚でも十分強力なカードを採用し、それをカウンターで守るスタイル。
除去と一緒に強力な打撃力を提供する《ディハール》は、採用に値するということだ。
「だけど、よりによって……っ」
「あの鳥勇者! どこまでも私たちの邪魔するでした! 一生呪われろ! 鹿のウンコ踏み続ければいいだったから!」
単騎で攻撃したアルゼルの一撃も止められ、あっけなく戦闘が終了する。
呆然としたまま、手札に目を落とす。
マナが二枚、クリーチャーが三枚。だが、手札にあるクリーチャーはどれも、飛行を持っていない。
このデッキのキーであるアルゼルは、"不朽"の能力を使い切ってしまった。次のターン以降、コボルトは弓の能力を使って、アルゼルを破壊しに来るだろう。
「俺は……《預言者 メルディ》を召喚。対象能力"保護"で。ターンを、終了します」
《預言者 メルディ》クリーチャー 英雄 魔法使い
瞬招
預言者 メルディが場に出たとき、能力を一つ宣言する。このカードが場から離れるまで全てのクリーチャーはその能力を失う。
預言者 メルディが場から墓地に落ちたとき、このカードをゲームから取り除き、緑のマナカードとしてセットする。
これで、狼もドラゴンも能力の対象に取れるようになった。それでも、そのチャンスを生かせるカードはなかった。
「俺の、ターンだ。俺、罠、一枚伏せる。全員、戦う」
無常の一言が告げられ、ドラゴンと狼が突進してくる。とにかく、アルゼルさえ生きていれば、まだどうにかなるはず。
「《メルディ》で……《グート》をブロック。《ディハール》は、そのまま通し」
「【スタック】、罠使うぞ《野戦陣地》」
《野戦陣地》リチュアル(場) 罠
あなたのコントロールするクリーチャーは+1/+1の修正を受ける
埋設(このカードをプレイするとき、裏側で場に伏せた状態でゲームから取り除く)
白緑2を払ってこのカードを表側表示でプレイしてもよい。
このカードが罠として唱えられたとき、上に前哨基地カウンターを一つ置く。前哨基地にカウンターが置かれている場合、全てのクリーチャーは+2/+2と歩哨を得る。
「あぐっ!」
ドラゴンの一撃が恐ろしい勢いで振りぬかれ、片手が弾き飛ばされる。痛みと共に、自分のデッキからごっそりとカードが落ちた。
「トシユキ!」
『《ディハール》の一撃を受け、海藤選手、八枚のディスカード! このまま攻撃を通し続ければ《アルゼル》の能力でライブラリアウトの可能性が出てきたぞ!』
『しかも、シェート選手の方は《グート》と《魔狼双牙》のコンボで、ターンの終わりに騎士たちを倒すことができます。マナが十分であれば《アルゼル》も射程圏内でしょう』
そんなこと、言われなくても分かっている。
クーリの能力に加えて、さっきの攻撃でデッキのカードは二十枚を切っていた。おまけにコボルトの《野戦陣地》は、出したクリーチャーに"歩哨"を与える力がある。
攻撃してもアクト状態にならず、毎ターン八枚以上のカードを捨てさせてくるドラゴンの存在がきつすぎる。【物惜しみ】で一枚戻せたところで焼け石に水だ。
「俺、《緑》出す。ターン終わり。次、お前だ」
コボルトは手札を使いきり、マナを充足させた。すでに相手のマナは合計七点。常に狼を破壊から守るマナを確保し、隙を見てはこちらのクリーチャーを削る。
空のドラゴンに攻撃を任せて、自分は地上で余計な邪魔を排除する陣容だ。
(この状況を、打開する方法は……)
仕切りなおす、それしかない。
全体除去呪文でドラゴンを落とし、時間を稼ぐ。アルゼルは落ちるが、残りデッキが少なくなった以上、いつでも引きなおすことは可能だ。
こちらの残りライフは、まだ十九点もある。生き残るだろう狼の攻撃も、二ターンは確実に稼げるはずだ。
『本当に、そうか?』
冷たい予感が、ひやりと背中をなぶった。
これは土壇場の局面、自分が一番嫌いな接戦の状況だ。
『あのカードを引き当てられる運命力なんて、お前にあるわけないだろ』
ドラゴンの打撃を喰らった左腕が、鈍く痛む。
削り落とされた八枚の中に、あのカードが入っていたら。
「ス……【スタック】。墓地を、確認します」
怖くて自分のターンが進められない。ドローの権利を行使するよりも先に、墓地のカードを一枚ずつめくっていく。
目当てのカードは墓地に無かった。希望はまだ、デッキに残っている。
『そう思うなら引いてみろよ。どうせ《緑》でも引いて終わりさ』
そんなことはない。通常のドローにクーリの能力でライブラリを二枚掘れば、可能性は上がるはず。
『その次の一枚が、全体除去だよ。試合が終わった後、何度も見たじゃないか』
これまで感じてきた絶望が、徒労感になって押し寄せる。
負けるつもりでゲームをする奴なんていない。
だが、どんなに手を尽くしても、自分の手に幸運が転がり込むことはなかった。
どうしてなんだ。
こんな異世界に来てまで、自分はあの苦しみを負わなければならないのか。
「な、なにしてるトシユキ!? は、早くゲームを……続けるでした、から」
小さなケモノは、不安そうにこちらを見つめている。
自分をこんなところに引っ張り出した、身勝手な女神様が。
「――降参」
「え?」
「しても、いいかな」
短くても、ここまでずっと付き合ってきた仲だ。
こんなことを言えば、どういう言葉が返ってくるかは分かっていた。
「ふ、ふざけるのも大体にするでしたから! このケモショタ野郎!」
火のように怒りながら、クーリは獣毛を逆立て、ぎりぎりと歯噛みをした。
「騎士王、まだ生きてるだから! コボルト殴る、それだけで勝てるでした!」
「狼をどかす手がない。その間にドラゴンに二回も殴られたら、カードも尽きるよ」
「だったらあいつらどかすでした! それにお前、まだカード引いてないでしょう!」
珍しく正しい語尾になった女神に、思わず笑ってしまう。
それでも、最後のカードを引く気にはなれなかった。
「駄目だよ。俺には分かる。この一枚は、きっと何の意味もないカードだ」
「だったらわたし、二枚捨てて一枚拾うでした! そのどっちか、トシユキが」
「それだって、使えないカードかもしれない。今からクリーチャーなんて引いても、間に合わないんだよ」
小さな女の子が、頭を振って地団駄を踏んだ。
唸り声を上げ、牙をむき出しにしたケモノの女の子が、叫んだ。
「お前! 悔しくないだから! 勝負、やる前に負ける気になる! 根性なし、アホ丸出しの変態でしたからぁっ!」
「俺だって! こんなのは、たくさんなんだよ! 何回引いてもカードがこない! あんなに調整したのに、最後には相手に競り負けるんだ!」
勝てないわけじゃない。
それなのに、大事な場面で、いつも引き負けてしまう。
次こそは、そう信じてやりつづけてきたのに。
「俺、本当はもう、ウィズなんて辞めるつもりだったんだ」
「……」
「少なくとも、トーナメントには出ないつもりだった。カジュアルで、知り合いと時々遊ぶくらいで。真剣にやったって、負けることが決まってるなら――」
その瞬間、世界がとてもゆっくり動いたように、俊之は感じた。
腰の位置ぐらいにあったクーリの顔が、目の前に現れる。
そして、
「いい加減にしろ! この……青ビョウタン!」
ずがむっ、まさしくそんな音が、クーリの頭突きと共に叩きつけられる。
ぼやける視界の向こうで大粒の涙をこぼしながら、ケモノの少女は胸倉にぶら下がりながら、絶叫した。
「わたし、この戦い、命を掛けてるでしたから! 欲しいものがある、だからお前を選んで連れてきただった!」
「でも……それなら、なおさら」
「違うでした! わたし、勝つためここに来た! でも、なにより、戦いたかった!」
泣きながら、すがりつきながら、女神は意思を叫んだ。
「分かるかトシユキ! 戦えなかった今までの分、わたしの意思で、戦うために来た! それを、そんな情けない理由で、止めたくないでしたからぁっ!」
ひどい身勝手な話だ。
そんな思いを掛けているなら、こんな俺じゃなく、三条日美香のようなトーナメント常連でも選べばよかったのに。
司会者たちが絶句し、対戦相手は微妙な顔で沈黙している。
そんな会場の空気を、声が切り裂いた。
「そこまでにしておきなさい、"八瀬の踊鹿"。女神がそんな風に泣き叫ぶものじゃないわ」
フィールドに、競技者でもなく審判でもない、新たな姿が舞い降りる。
真紅のドレスに身を包んだ"愛乱の君"は、片手を揚げて全ての問いかけを制した。
「管理者権限で、五分だけ。それが終われば退散するわ」
「お早く願います。勝負が湿るのは、皆も望むところではないでしょう」
審判の女神に軽くうなづき、女神はこちらに顔を向けた。
軽く浮かした右腰に手を当て、静かに語りだした。
「顔を上げなさい、クーリ・スミシェ。そして、笑いなさい。あらゆる困難に、居並ぶ会衆に、そして、あなたの勇者に」
「おひいさま……」
「いかなる運命であろうとも、たとえ手にした全ての札に、絶望しか描かれなかったとしても。それでこそが、己の運命を拓く者の顔だわ」
クーリは口を閉じて、こちらを見上げた。
笑ってはいなかったが、それでも顔の形を変えようと、必死に努力していた。
「"八瀬の踊鹿"クーリ・スミシェの勇者、海藤俊之君」
彼女は俊之を見つめた。
それは責めているのでもなく、怒っているのでもなかった。
問いかけ、問いただす顔だった。
「あなたは運命を見てきたと言った。開いた扉の向こうには、裏切りしかなかったと」
「……そうです。俺は、いつも最後の最後で、負けてきた」
「つまり、そこに至るまでは、勝っていたということよね」
意外な視点だった。
同時に、これほど無意味な指摘もなかった。
最後に勝てなければ、途中でどれほど勝とうが、意味ないのに。
「ねえ、俊之君。あなた、世界一の男になりなさいよ」
「え?」
「ご町内の一番でもない、県内でのトップでもない、ましてや日本一なんて小さいことなんて歯牙にもかけない。そんな、世界一のデュエリストを目指す男に」
この神様は、何を言っているんだろう。
たった一枚のカードを引くことさえためらっている俺が、世界を取る?
「どうして……そんな」
「だってあなた、言ったじゃない。途中までは勝てるんだって。だったら世界一を目指しちゃえばいいのよ。それなら県内の試合だろうと、国内の大会だろうと、すべては途中経過だわ。違う?」
言い切ると、女神は鮮やかに笑った。
あらゆるものに挑み、そして踏破してみせるという、勇気にあふれた顔だった。
馬鹿げた言葉をぶち上げ、それを現実にしてみせると、笑う顔だった。
「放たれた矢は、的を射たところで動きを止めたりはしないわ。貫いてなお、力の限り飛ぶものよ。運命なんてただの結果、立ち止まらずに突き抜けなさい!」
「でも、俺は……」
「だいたい、こんなかわいい相棒が泣きながらお願いしているのよ? それなのに弱気に駆られてリタイアなんて、ちょっとかっこ悪いんじゃない?」
胸にぶら下がったクーリは、もう泣いていなかった。
まるで"愛乱の君"を写したような、笑顔を見せていた。
「引くでしたから、トシユキ。勝つために……いや、戦うために」
俊之は、ぶら下がったクーリを地面に下ろした。
それから左腕のデッキケースに手をあてがい、呼吸を整えていく。
助言を終えた女神が空気に溶けて消え、審判の女神が無言で再開の合図を示した。
「すみませんでした。俺の、ターンです」
そこに何が書いてあるかは問題じゃなかった。
こんな行き詰った世界だからこそ、馬鹿げた望みを掲げるくらいがちょうどいい。
これは、その最初の一歩だ。
「行きます……っ、ドローッ!」
引き抜かれた一枚、その文面に、俊之の視線は吸い寄せられた。
《栄華の終焉》 マグス
伝承(あなたの場に英雄が一枚以上ある場合、伝承の効果を適応する)
全てのクリーチャーを破壊する。
このカードが伝承として唱えられた時、場にある全てのカードをゲームから取り除く。
「俺は……俺はっ、《栄華の終焉》を"伝承"の効果でプレイします!」
これは最後の手段だ。
敵だけでなく、自分にも被害を与える究極のリセットスペル。それでも、これを通せば相手のキーカードはすべて消滅する。
コボルトの手札はない。弓につけられたカードは破壊から身を守るものであって、ゲームから取り除く効果には対抗できない。
まだ終わりじゃない。今度こそ、ここから逆転を。
「【スタック】」
コボルトは、静かにこちらを見つめていた。どこか悲しげで、それでも自分の行動を止める気はないという、意思を込めて。
「"八瀬の踊鹿"殿。どうか、ご容赦いただきたい」
女神は厳しく引き締まった顔で、クーリに謝罪を述べた。コボルトの意志と、まったく変わらない容赦のなさを湛えて。
「我らもまた、自らの欲によって剣を振るうものとなりました。どうか存分に嘲り、侮蔑していただきたい。それでも、我らは」
「……気にするなでした。わたし、お前、大嫌いです。でも、戦った奴、馬鹿にする、しないだから」
効果を発揮する寸前で止まったカードを見つめ、俊之は理解していた。
それは埋伏の毒だ。
百の勇者軍団を打ち滅ぼしたとき、あのコボルトが使っていた毒矢は、屍の毒に浸されていたという。
なら、この逆転の一枚を砕くのもまた、墓地からのカードに他ならない。
「《落穂拾い》! 《白》引いて、そのカード、打ち消す!」
絶望は浮かばなかった。
諦観も起こらなかった。
ただほんの少し、悔しいと思った。
もっと早く、あの激励を聞けていたら、違う結果だったかもしれない。
ほどなくして、騎士たちはコボルトのカードに蹂躙された。
そして海藤俊之は、敗北した。
「お前、本当に、ダメダメ勇者でしたから」
黒く固まっていきながら、クーリは相変わらずだった。
顔いっぱいに笑い、顔いっぱいに泣いていた。
「変態の上にダメダメとか、手の施しようがないでしょう」
「それなら次は、もっといい勇者を選ばないとね」
「嫌でしたから」
小さな手を一杯に伸ばし、消えていくこちらの頬を、そっと撫でる。
かわいい仕草、女の子の笑いが、遠ざかっていく。
「この次も、そのまた次も、ずっと、ずっと、トシユキが良いでしたから」
「……今度会うときは、もっと強くなってるよ」
お互いに、馬鹿みたいな願いを言い合う。
きっと、自分たちにはこれが足りなかったのだと、確かめるように。
「さようなら、トシユキ。わたしの勇者」
「ありがとう、クーリ。俺の女神様」
願いと別れをその場に残して、世界は途絶する。
いつかまたと、再会を約束しながら。