15、親身の教示者
薄暗い迷宮に猛火がはじけ、重い破裂音と共に敵が焼かれていく。輝くカードをかざした少年は、駆逐を確認してクーリに振り返った。
「これで、この辺りの敵は全部倒した、ってことでいいのかな?」
「ちょっと待つでした」
目を閉じ、自らに備わった感覚を研ぎ澄ませる。
石材と焼きレンガで造られた迷宮は、かすかな衣擦れさえ反響を引き起こす。その上、大気が滞留しがちな閉鎖空間、居住者の匂いが泥靴の跡のように残留するするものだ。
野の獣を自らの祖とするクーリにとって、この場所は索敵し放題の無防備な場所だ。
念のために壊しておいた入り口から、風が吹き込んでくる以外、動くものはない。
自分の勇者が発散する雄臭さが一筋の道となり、小部屋や広間でゴブリンやオークの不潔と交錯していく。
作業の締めに、クーリは軽く顎を上げて"聲"を放った。
大気を磨する響きが石材を貫き、地下に掘り抜かれた魔物の巣窟の全容が、脳裏に浮かぶ。いくつか足を踏み入れていない場所があるようだが、脅威となる反応は感じられない。
「エレジー、オールフリーですか。きれいさっぱりトシユキがぶっ殺しやがるでしょう」
満面の笑みで敵の掃討を報告してやると、勇者は渋い顔でこちらに振り返った。
「どーしたですか。言い間違い、誰にでもあるだった。細かいこと気にする、頭モゲる聞いたでしょう」
「……どこから突っ込んだらいいのか分かんないけど、とりあえず一つだけ。そういう物騒な物言い、やめてくれない?」
勇者の視線が、打ち倒した敵に向けられる。そこに篭った嫌悪の色に、クーリは鼻白んでみせた。
「まーたアホなこと言うでしょう、このトーセンボ。魔物滅ぼす、勇者の役割でしたか」
「勇者の役割は、魔王とその配下の魔物を排除する、でしょ」
「だから、どいつもこいつも皆殺しで済むでしたか」
大げさにため息をつき、それ以上の議論は無駄だとでも言うように、少年は迷宮の奥へと歩きだした。
「自分からぶったくせに、虫食うとか許せないでした」
「何度も言うけど、無理してこっちの言葉を使わなくていいからね」
「何度も言うでしたが、神の私からがぶり寄る、コーボギカイに必要なことですか」
胸を張って言い返してやると、トシユキは屁こき虫でも飲み込んだような顔になり、ため息をついた。
「言い間違いしてる時点で、相互理解とは程遠いんだよなぁ……」
「聞こえたでしたから」
「はいはいごめんなさい。気を使っていただいてアリガトウゴザイマス、女神様」
言葉とは真逆な感情を吐き出しつつ、勇者は先を行く。その背中を小走りで追いかけながら、クーリはこのトシユキという少年の不可解さについて、思いを巡らせる。
"神去"から呼ばれた少年少女というのは、基本的に屈託のない存在と聞いていた。
神と気軽に接し、与えられた能力に怖じることをしない。良くも悪くも物事に無頓着であり、思慮に欠けているというのが、"神去の者"への評価だ。
だが、トシユキは、そうした連中と少し違っていた。
カードで戦えることが分かった当初は、それなりに力を振るうことを楽しんでいた様子だったが、最近はよほどの事がない限り荒事を控えている。
魔物と戦うのも積極的ではなく、確実に被害があると判断された事態にのみ対処するような素振りをみせた。
神や地上に生きる者達にとって、魔物は見つけ次第駆除するべき害獣に過ぎない。どこぞの酔狂な女神の様に、余計な慈悲などかけていたら、そこに付け入る邪悪な連中を招くだけのことだ。
「言っとくですがトシユキ、フィッシュ野郎も大概にしたでしょう。魔物殺すべし、獅子はないでしたから」
「別に、慈悲とかそういうんじゃないけどさ……こういう能力に振り回される人間の末路って、ろくなもんじゃないからね」
「あ……うん。確かに、そうだったでした。"審美の断剣"、いい豚のケツだったか」
とはいえ、この勇者は当たりの部類だろう。多少臆病者のきらいはあるにせよ、自ら力の使い方を考えて行動に移しているのだから。
「ともかく、魔物は見つけ次第ひねり殺すでした。分かったか?」
「はいはい。可能な限り、善処します」
少々口答えが過ぎるところがあるが、それはおいおい直させていくことにしよう。クーリはそのまま少年を追い越し、迷宮の最深部である結晶体の安置された間に入った。
「これが、迷宮の核、なんだな」
「そうでした。今もにゃくにゃくと、魔王に力を送り届けているですか」
青白く輝く水晶に似た柱、床には呪紋が描かれ、巨大な魔方陣が形成されている。話には聞いていたが、自分も目にするのは初めてだ。
大地から吸い上げた力が、結晶の中に形成された"門"を通して、はるか天空に浮かぶ城へと送られている。いくらかの流れは、迷宮内の施設を維持するために使われているようだった。
「それじゃ、一気にバーンといくでした!」
「これ、壊した途端に迷宮が崩れたりしない?」
「多分大丈夫だった。堕落装置とか付いてないでした、と思う」
「僕が死んだらゲームオーバーだってこと、忘れないでね」
本当にいちいち細かい男だ。いざとなれば、こいつを担いで外に駆け出せばいいだけの話で――。
「トシユキ」
二つの耳が、ぴりっと逆立った。
腕や足の和毛が、予感に震えていく。
「どうしたの? いったい」
目の前の結晶を中心に、空間が悲鳴を上げた。まばゆく輝く石の目の前に、どこまでも暗い穴が拡大していく。
何かが来る。
得体の知れない何かが、世界の条理を押しのけて、こちらに現れようとしている。
「逃げるですか!」
叫び、少年を腰から担ぎ上げ、クーリは全速力で走り出した。
「うぇえっ!? ちょっと、クーリー!?」
「文句後で聞く! 早く逃げる!」
空気が爆ぜ、黒い穴から何かが現れるのを感じる。一人や二人ではない、十人単位の人型の者達。
「なんか、なんか変な連中が!」
「いいから無視する! 視線、絶対合わせるな!」
こちらの叱責に、担ぎ上げられた少年が、呆然と呟いた。
「それは……大丈夫、だと思う」
「なんで!?」
「あの仮面、顔がない、から」
逃げ去る一瞬、クーリは肩越しに振り返り、その連中を見た。
真っ白な無貌の面と、全身を包む黒いローブ。極限まで自己というものをそぎ落とした集団が、陽炎のように揺らめいている。
あれは絶対にまずいものだ。少なくとも、今のトシユキに相対させてはいけないもの。
『油断はしないでね。いくら安全とは言っても、遊戯は遊戯なんだから』
「おひいさま」
脳裏に蘇った主の諫言に、クーリは悲鳴の様な呟きを返した。
「やっぱり遊戯、すごく怖いでした……」
サリアの目の前で、状況はがらりと変わっていた。
口元に揶揄を湛えた竜神に、"愛乱の君"が険しい一瞥を投げる。
それでも髪をかき上げ、居住まいを正すと、マクマトーゥナは平静を取り戻した。
「それで、報告はそれだけ?」
「実は、他の神々も相次いで石化されております。場所は違えど、すべて魔王軍との交戦によるものです」
「被害状況は」
"刻の女神"は淡々と、顛末を報告した。
「十一柱の神が敗退なされました。また、現在も交戦中の方々がおりますので、敗退者は更に増えるものと」
「それは、全てデュエルによるもの、ということ?」
「はい」
単なる不意打ちならば、準備していたカードの質によっては、敵の物量に突破されることも考えられる。だが、審判の女神による報告は、それを最悪な形で否定した。
「一体、どういうことなのよ、なんで魔物がカードなんて……」
「ショック受けてるとこ悪いんだけどさ」
絶句する"愛乱の君"に向けて、青い仔竜は呆れとも感心とも取れる声を漏らした。
「あの魔王なら、こんぐらいやって当然なんだよ。むしろ遅かったぐらい?」
「魔王、やっぱり怖い。勇者、天敵だ」
「ちょ……ちょっとなに二人して分かりあっちゃってんの!?」
問いかけられ、フィーとシェートは顔を見合わせて、生暖かい表情を浮かべた。
「あいつ、勇者、一杯調べてた。ゲーム、"まんが"、"らのべ"、とか、一杯」
「何それ!? 初耳なんだけど!」
「そういえば、そなたには言っておらんかったな」
審判の女神に負けないほどのまったき笑顔で、竜神が全ての説明を引き取った。
「あの魔王は、そなたらの神規の元となる異世界の勇者の情報を、徹底的に精査しておるのだ。ゲーム全般は言うに及ばず、ラノベや漫画、アニメにおけるお約束、心理学や民俗学的見地を軸にした文化の解析までな」
「そ、それじゃあ、まさか」
「カードゲームなど調べていて当たり前というわけさ。この対応の速さからすれば、ウィズ専門の部署が設立されていたと見るべきだろう」
フィーとシェートによってもたらされた魔王城の情報は、竜神による検証が加えられ、サリアにも伝えられている。魔王による研究の成果が、明確に発揮されたというわけだ。
「ちなみに、あの中には現代日本のインテリジェントビル並に"電子化"が為されておってな、インターネット経由で通販さえできるそうだ」
「何てインチキ!」
『お前が言うな』
仔竜と竜神から同時にツッコミを喰らい、めまいを起こしたように女神がよろめく。悠々たる主役語りから一転、完璧な喜劇俳優を演じる羽目になっていた。
「こっちが苦心してカードプールを制限したってのに……通販で買い足しできるとか、全部台無しじゃない!」
「ああ。それについては安心せよ。儂ら竜洞がクラッキングを仕掛けて後、地球への接続は完全に途絶えておる。新たにカードを買い足すことはあるまい」
「それにしたって、ある程度強力なカードは押さえてるわけでしょ……最悪だわ」
カードゲームの強さを下支えするのは、それぞれのカードが持つ効果だ。強力な一枚をどれだけ手元に集められるかが、勝負を分かつといっても過言ではない。
だからこそ、"愛乱の君"は勇者たちの持ち込み品を許さず、新たにカードを買わせるという形で、勇者たちのパワーバランスを公平に保とうと努めていたのだ。
その前提条件は、今や完全に崩壊していた。魔王という、彼女が予想もしなかった勢力によって。
「どれだけ用意周到だっていうのよ! カードゲームなんて、覚えさせるのも一苦労だったでしょうにっ!」
「魔王は国家百年の計よろしく、魔族の陣営に対勇者戦のノウハウを構築する腹積もりなのだ。そなたが新たな遊戯を提唱したのと同じか、それ以上の熱心さでな」
「ぬ……ぐ……ぐぐぐぐぐぐぐぐっ」
わしっと、両手で頭を掴み、"愛乱の君"はギリギリと歯噛みした。
「まったく! 一体なんだってのよ! どうやったら、ここまでしっちゃかめっちゃかになっちゃうのよぉっ! わーたーしーの計画がぁあっ!」
「なんかもう、ごしゅーしょー様って感じ?」
「うっさいクソジジイ! あぁぁあああぁああんっ、もうっ!」
激しい苦悩にねじれていく女神を尻目に、竜神はサリアへ歩み寄った。
「さて、サリアよ」
「……はい」
「事態はいよいよ混迷し、先が分からなくなった。おそらく魔王は手抜かり無く、勇者達を狩っていくだろう。あやつが何か手を打たぬ限りはな」
すでに"愛乱の君"は、成立しているのが不可思議なほどの、ねじれた体勢に変形している。こちらに気を向ける余裕はなさそうだった。
「いずれにせよ、そなたは己の身の振り方を考えねばならん。戦うか、諦めるかをな」
再び突きつけられた問題に、サリアは言葉を失った。"愛乱の君"がいかなる策で魔王に対抗するにせよ、結局こちらがすべきことは変わらないのだ。
「やれやれ、また思案か。上に立つものがそんなことでは、部下が道を失おうぞ」
「分かっております。ですが――」
「うっしゃああああああっ!」
気合とも罵声ともつかない声が迸り、真紅のドレスが炎のように渦を巻く。
驚くこちらを尻目に、拳を握り締めたマクマトゥーナは、不敵な笑みを浮かべて気炎を吐いた。
「そっちがその気なら、こっちだってやってやろうじゃない!」
「あ、あの……一体、何を、どうなさるおつもりですか?」
「決まってんでしょ。魔王の手下共をぶっちめてくるの。ヒミちゃん、ちょっと来て!」
虚空を指を走らせ、自らの勇者を呼び寄せると、"愛乱の君"は悪辣な笑みを浮かべた。
「ごめんね。緊急事態発生しちゃったから、例のアレ、お願いできる?」
「えっと……『管理者権限デュエル』のこと?」
「うん。なんか、魔王の奴が地球から通販でデッキを取り寄せちゃって、手下を使って、こっちのゲームにちょっかい出してるみたいなの」
事態は飲み込めていないようだが、勇者の方もこうした事態は想定していたらしい。用意してあったデッキケースを複数取り出し、身につけていく。
「イェスタ、生き残った子達に伝えて。ゲームは一時中断、全員最寄のカードショップか町の宿屋に引きこもって、絶対に動かないように」
「かしこまりました」
「"斯界の彷徨者"、何かアドバイスは?」
話を振られた竜神は軽く顎をしごき、策を紡ぎだした。
「おそらく敵は、軽いクリーチャーデッキ、カウンターデッキ、即死コンボデッキを使う三名を一部隊として、勇者との戦闘に当たらせているだろう。有志を募り、そちらも三名以上で事に当たれ。アルコンルールは決して使うなよ」
「できれば私だけで話を済ませたかったんだけど……仕方ないか。貴方は協力してくれるつもり、ある?」
「よかろう。儂としても、魔王のやり口に興味がある」
竜神は虚空から物々しくも大きなケースを取り出し、その場で中身を検める。ぎっしりと詰め込まれていたのは、数十個にも及ぶウィズのデッキ群だ。
「うちの仔竜に実戦経験を積ませる、いい機会でもあるしな。チーム戦で勝ち数を競う形にすれば、個人の敗北が石化に繋がることもなかろう」
「魔王の側だけカードの使用を禁ずる、という訳には、行かないのでしょうか」
「神規はあくまで、"神々の遊戯"に新たなルールを追加するってだけだもの。カードさえ持っていれば、魔物達も私にとってはお客様ってことね」
口にした言葉はとは裏腹に、"愛乱の君"の顔はどこか柔らかだった。その傍らに立った竜神が、彼女の思いを補完するように策を付け足す。
「落とし所としては、魔王の部下をある程度狩り、講和に持ち込むといったところか。そなたとしては、魔王にも同じテーブルについてもらいたいだろうからな」
「そういうこと。一筋縄では行かないでしょうけど」
神々の遊戯において、魔物の側は狩られるべき獲物に過ぎない。勇者同士の争いに華を添える、気の利いた妨害者であり、考慮に入れる必要さえなかった。
そんな魔物達でさえ、彼女は自分の遊びに組み込むつもり気なのだ。
「では、行きますか。ヒミちゃん」
「う、うん」
何気ない口調で言ってのけると、"愛乱の君"は昂然と顔を上げて歩き出す。
その姿に、サリアは見惚れた。
先ほどまでの狼狽など微塵もない。自らの意志と信念を、燃え立つ炎のように放散させる彼女は、まさしく大神と呼ぶにふさわしい存在だった。
「悪いけど、これで失礼するわね。全部片付いたら、改めて一緒に遊びましょ」
優雅に一礼すると、勇者を伴った女神が、虚空へと消える。
成り行きを眺めていた竜神は、その後を引き取るようにして口を開いた。
「聞いての通り、儂もあやつの魔物討伐に協力することとなった。よもや、共に来るなどという無謀は、口にはするまいな?」
それは問いかけというより、確認だった。実力をわきまえろ、言外にそう告げた彼は、更に痛烈な一言を加えた。
「言い遅れたが、儂らは正式に決闘者として此度の遊戯に参加することとなった。すでにフィーとも相談済みだ」
「それはつまり、私たちと敵対する、という意味と考えて、よろしいでしょうか」
「部外者であったゲームに、参加する機会を得たのだ。逃す手はあるまいよ」
足元の仔竜は、なんともいえない顔でこちらを見つめていた。
不本意ではあるが、反対する理由もない、おそらくそういう感情なのだろう。
「うちの仔竜は筋がいい。竜種の代表として申し分なく働いてくれるだろう。マクマトゥーナを打倒して神規を引継ぎ、ドラゴンの勇者となるのも面白かろうな」
単なる援助の打ち切りではなく、対手として立ちふさがるという宣言。
"愛乱の君"と"斯界の彷徨者"、この二柱を向こうにまわして、慣れない戦場で戦わなければならない。その事実が意味するところは。
「降伏しろと、仰るのですか」
「儂は、これ以上戦う意義があるのか、と問うただけだ」
戦う意義。
意義とはなんだ。自分よりも小さきものを駒として繰り、命を削って戦えと命じることの理由と価値はどこにある。
繰り返される問いが視界をふさぎ、世界が影で覆われようとした、その時。
「待て」
小柄な毛皮の姿が、サリアの目の前に立ちふさがった。
竜神の問いを、サリアの煩悶をさえぎるように、シェートは同じ言葉を繰り返した。
「待て。サリア、困ってる」
「……良かろう。では、待つことにしよう」
あっさりと言い放つと、竜神は背を向けた。
「魔王との講和が成って後、また尋ねよう。その時までに、何らかの答えを用意しておくといい」
歩み去っていく男に取り残される形で、仔竜が立ち尽くしていた。
不安そうに後ろを振り返り、それでも意を決して、こちらに駆け寄った。
「あのさ! 別におっさんは、見捨てたってわけじゃないからな!」
「……良いのか、フィー。勝手なことをしては、あの方に叱られてしまうぞ?」
「助言するなとは言われてないからな。何を言っていいのかも、わかんねえけど」
小さな頭をかしげ、もどかしそうにしながら、フィーは言葉を続けた。
「おっさんが言ってた。無理を通して、道理を引っ込ませる、それがお前らなんだって。勝負は最後までわからないって」
「今までなら、確かにそうかもしれん。だが……」
「鳥の勇者にやってた『言葉の入れ替え』だけど、あんなもん、お前らだったら気づいて当然だって、それでも足りないって言ってたんだ!」
幼い子供がやるように、両手を伸ばし、声を張り上げる青い仔竜。
その目はこちらをまっすぐ見ていた。失われようとするものをかき集めるように、必死に考えを振り絞っていた。
「あのさ、悩むのって、愚痴なんだって。それよりも、自分がどうするべきか、考えて動いたほうがいいんだ」
「それも……竜神殿から?」
「うん。できないことで立ち止まるより、今できることをしろって。それと……」
そこでもう一度、いなくなった影を探すように振り返り、仔竜は小声で秘密を告げた。
「それと……おっさんの策は、一杯あるんだ。"知見者"のときと同じで、策は状況に応じて使い分けるものだって。お前らが勝ったときのも、きっとある」
「今の我々は、それを使うに値しない、ということか」
「そういうことだと思う。だから……その」
精一杯の背伸びは、そこで止まってしまった。
それでも、伝えられたことを思い出しながら、何かの助言ができればいいと、つたない経験の中から必死にひねり出そうとしていた。
その姿に、サリアは笑いかけた。
「ありがとう、フィー。その言葉だけで十分だ」
「で、でも……こんなんじゃ、役になんて……」
「心配ない」
しょげ返った弟分の背中を叩いてやりながら、コボルトも笑顔で頷く。
「俺、サリア、ちゃんと答え、見つける。お前、自分の仕事、しろ」
迷いが晴れたわけではない、何かが変わったわけでもない。
それでも、心配してくれるものがいる事実に、心が温められる思いだった。
やがて仔竜が去り、サリアはシェートに向き直る。
「さて……ああは言ってみたが……そなたはどうだ、何かいい考えは?」
「ない。サリア、お前、考える役だ」
丸投げされた課題に苦く笑いながら、それでもサリアは考える。
竜神は見捨ててはいない、というフィーの言葉。
策は無限にある、むしろこの現状さえも、彼の策であるならば。
「もう一度考えよう。手抜かりなく、余すことなくだ」
「そうだな」
「その前に、湯でも使うか」
こちらの提案に、心底嫌そうにするシェートを、サリアは笑い飛ばした。
「下らぬ考えは洗い流すに限る。身を清めたら、最初からやり直しだ」