11、利得と損失
青い闇の中に、黄色い満月が煌々と輝いている。
宿の中庭、辺りに人気は無く、丸太と漆喰で造られた分厚い壁にさえぎられ、酒場の喧騒もここまでは届かない。
そんな静かな場所で、シェートは不機嫌を抱えたまま、湯に漬かっていた。
こんなことをされるのは、何年ぶりだろう。
ごしごしと磨かれる背中を感じつつ、風呂桶を両手で掴む。なんともいえないむずがゆさが、そこから全身に満ち渡っていく気がする。
まだ自分が、一番下の弟ぐらいの歳、母親に湯桶に突っ込まれて以来の体験。しかも、今回の相手は同族ではない。
「かゆい所は無いか?」
「かゆい違う。俺、なんか、恥ずかしい」
自分では一人前の狩人になったつもりでいたのに、こういうことをされると、まるで子供扱いされているようで、微妙に情け無い気分になる。
だが、湯桶と風呂の準備を済ませたサリアは、嬉々として言ってのけたものだ。
『折角だ。今宵は手ずから、そなたの旅の垢を落としてやろう。これも神の祝福というものだ』
何を張り切っているのか、というかどうしてそういう発想になる。
それに、こうして若い娘の手に掛かって風呂に入っていると、魔王城での記憶が蘇ってしまう。
「や、やっぱりダメ! 俺、自分で洗う! ちゃんとできる! 頼むから! サリア、勘弁しろ!」
「……よもや、私に欲情でもしたか?」
「するかバカ! あとお前! 最近ちょっと変!」
いい加減、指摘しておくべきだろう。自分も我慢の限界だ。
コボルトは湯から立ち上がり、女神を睨みつけた。
「お前、俺、良く触る。あと、頭撫でる。それ、子供する、やり方! 俺、子供違う! 俺、そういうのされる、嫌だ!」
「むぅ……」
「あと、なんか、近い。俺、ちょっと、歩きにくい」
街中にコボルトというのは色々問題があり、サリアの使い魔という触れ込みで行動しているのだから仕方ないとはいえ、どうにもそれ以上に意味ありげな接近をしてくる。
「盛ったか、言いたいの、逆! サリア、お前、コボルト盛るか!?」
「……なにやら、ひっじょーに侮蔑的な一言を述べられてしまったが……色々誤解させたのはこちらだ、素直に謝ろう」
ぬるくなった湯に、焼き石の入った小桶を沈めつつ、サリアは幾分か真面目な顔で、語りだした。
「そなたと知り合ってから、もう半年近くにもなろうかな」
「俺、お前、会ったの、春の盛り。もう、夏、そろそろ過ぎる」
エファレアの天気や季節は分からないが、脱穀された麦を山のように積んだ荷馬車が往来するのを良く見かけていた。これから気候は少しずつ暑くなり、月が三度も満ち欠けをすれば、秋が来るだろう。
「その間、私はただ、安全な空の上から、ただ言葉を降らせるだけだった。歯がゆく、辛く、無力をかみ締める日々だった」
「それ違う。サリアいた、だから、俺、生きれた」
「だが、"知見者"殿との戦いでは、私はほぼ役に立っていなかった。魔王城については、言うに及ばずだ」
そういえば、サリアは自分が帰ってきてから、しばらく話しかけてこなかった。こちらもフィーとの仲が深まったせいか、それほど気にも留めていなかった。
いつものように、上は上で忙しいのだろう、その程度の気持ちで。
「その上、今回はそなたと共に戦えるというのに、指示の一つもまともにできておらぬ」
うつむけた顔から届く声は、力なく震えていた。
「これでは……旅が始まったときと、なにも変わらぬではないか……」
「だから……俺、洗うか」
全くもって、この女神は何も変わっていない。
知り合ったときから今まで、どうしようもないぐらい愚直で、性根の優しい以外にとりえの無い神だ。
振る舞いや知性からすれば、竜神のほうがはるかにそれらしいし、サリアはあまりに卑近過ぎるとさえ言えた。
それでも、
「サリア、俺の神。俺、お前いた、だから、最初の勇者、狩れた」
「シェート……」
「竜神、頭いい。でも、連れてきた、サリアだ」
揺るぎ無い事実を、口にする。
誰にも穢されない真実が、互いを繋いでいることを。
「俺、魔王の誘い、嫌だ言った。魔王、頭いい、力ある。でも、俺救う、命賭る、絶対、思わない」
竜神の知性は、どこまで行っても手助けに過ぎない。
燃える村から救い出してくれたのは、野望を胸に秘めた有能な魔王ではなく、破れかぶれでお人よしの、廃れかけた女神だ。
「お前、やれること、やる。それでいい。最初と同じ。ずっと、変わらない」
「私の能無しぶりくらいは、改善しておけばよかったのだがな」
シェートは笑顔で嘆息し、それを見ていたサリアも、目元を緩ませて頷いた。
「そういえば、あの時もこんな感じだったな。そなたが必死に、勇者の力を理解しようとして……」
何かに気づいたように、女神は湯船をかき混ぜながら、考えをつぶやき始めた。
水の中に自分達の希望が泳いでいるとでも言うように、ひたすらに水面を追いつつ、逃げていく思い付きを追いかけているようだった。
その顔が、希望と不安の間で揺れながら、こちらに向けられた。
「少し、思いついたことがある。うまく行くかは分からぬが、付き合ってくれるか?」
白い女神の手が、差し出される。
幾度と無く交わされた誓いを胸に、シェートはその手を握り返した。
「任せろ」
「……想像以上に、ショボい店ね」
遠慮ない一言をもらす女神に、フィーは眉間にしわを寄せた。
もちろん、自分としても拍子抜けという気持ちはあったが。
女神と会食するのだから、てっきり高層ビルにテナントを入れたレストランか、広い庭園に面した料亭に連れていかれるものと思っていた。
ところが、連れてこられたのは私鉄沿線にある、小さな店構えのイタリアン。カウンター席と、いくらかの机が並んでいるだけの、せせこましい内装。
自分としても、正直、期待を裏切られたという気持ちだ。
「奢るとは言ったが、店の選定は儂任せだろう? ならば別にどこへ行こうが、儂の勝手であろうが」
「はいはい、そうでしたわね」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
やってきた店主は愛想よく、こちらに語りかける。年のころは三十を超えたぐらいか、こちらを見ても驚いた様子はない。
「今日は込み入った話をするから、こちらから注文は入れんつもりだ。折を見て、適当に料理を出してくれ。酒はこっちで適当に持っていくので、よろしくな」
「かしこまりました」
かなり横柄な話だが、店主は気にした様子もない。竜神はカウンターの軒先にぶら下がったグラスを人数分取り、冷蔵庫から無造作にワインのボトルを引き出すと、座席にどっかりと腰を下ろした。
「では、さっそく乾杯と行こう」
「はいはい、それじゃ適当に飲んでお話ししましょうか」
鮮やかな手つきで封を切り、コルクを抜栓すると、竜神は三つのグラスに深紅の液体を注いだ。
そういえば、店主の目には自分はどういう姿で写っているのだろう。とがめられなかったところを見れば、それなりの年齢に偽装されているに違いない。
「では、互いの話が、実りある結末を迎えることを祈って」
「そうね、乾杯」
「か、乾杯」
身長は変わらないので、手にしたグラスを背伸びするようにのばし、打ち合わせる。
口に含んだ液体は、軽く渋みがあるものの、程よく甘くこってりとしていた。
「あら、意外においしいわね」
「儂の周旋で、南イタリアの上物を揃えさせているのさ。まさかこの儂が、安かろう悪かろうの安居酒屋を選ぶとでも?」
「なるほど。ここも貴方の"金の蔵"というわけね」
程なくして、店主が木の板に盛り上げたオードブルを運んでくる。黒や緑のオリーブや薄切りのハム、厚切りの豚ロースを蒸し焼きしたものが乗っていた。
「さて、それじゃさっそくだけど、いくつかお願いしたいことがあるの」
「サリアの説得、懐柔はお断りしよう。それと、そなたとの共闘も、基本的には合意することはない。うちのフィアクゥルの貸し出しも無しだ」
「いきなり破談を持ち出してくるとか、ずいぶんと強気ね」
「儂の楽しみを削ぐ話は、はなからお断りということさ。無駄が省けてよかろうが」
テーブルの上の料理を突きながら、悠々とワインを傾ける竜神。対する"愛乱の君"は、不満を浮かべながら、料理のうまさに舌鼓を打つという器用な真似をしていた。
「あの二人にカードゲームで戦うなんて無理よ。まともにカードを繰ることさえできなかったじゃない」
「儂もそう思うがな、あれは無理を通して、道理を引っ込ませてきたコンビだ。最後の最後まで、何が起こるかは分からぬよ」
「なるほど、勝負は下駄をはくまでは分からない、ってことね。じゃあ、あなたはこれからどうするつもりなの?」
その問いかけは、店主の持ってきた料理にさえぎられた。
大きな陶器製の器には、湯気の立つ魚の料理が盛られている。一メートル弱はある魚の表面には軽く焦げ目がつき、大きなハマグリやプチトマトと一緒に、染み出たスープに浸されていた。
「今日はアマダイか」
「これが最後の一匹です。電話をいただいたところで、取っておきました」
「肉は何を?」
「ラムのスペアリブですね」
「では、バケットはいらんから、残ったスープはリゾットにしてくれんか」
「かしこまりました」
去っていく店主が空のボトルとグラスを下げ、それに合わせるように竜神が新たなグラスと白のボトルを取り出してくる。
お互いに何をするべきか、完全に分かり合った姿に、フィーは薄く笑った。
「なるほど、毎回こっちに来ちゃ、こんなことしてるのか。ソールが嫌な顔するわけだ」
「ドラゴンがドラゴンらしく生きて何が悪い。仕事なんぞ片手間の余技にやっておけば、それでいいのだ」
「使えない上司を持つって苦労するわよねー。どう、フィアクゥル君、うちの子になればこんなおじさんに悩まされることもなくなるけど?」
「そうだなぁ。ほんとに愛想が尽きたら、考えなくもないよ」
新たに注がれた白ワインを口に含み、その香りに感心する。今度は、オレンジの皮のような淡い香りと、きりっとした刺激が広がった。
「おっさん以上にうまいものを食わせてくれるなら、だけどね」
「あら、ずいぶん飼いならされちゃってますこと。やっぱり若い子にはご飯が一番効くってことか」
機嫌よく笑うと、女神は何気ない調子で、問いかけた。
「ところで、君は何者なの? "青天の霹靂"君」
「……何って、見たまんまだよ。ただのドラゴンの仔供」
「見た目は、ね」
投げられた一言に、フィーの動きが緊張で止まる。手にしたハマグリを、そのまま口に含むと、殻ごとかみ砕いた。
「君ぐらいの歳の仔竜がね、そこまで聲を操るのって、かなり珍しいのよ。もちろん例外がないわけじゃないわ。そういう天賦に溢れた仔もいる」
「なら、それでいいじゃねーか」
「でもねぇ、それじゃ筋が通らないのよ。貴方の降臨を許した"刻の女神"はね、神々の遊戯の『公平な』審判者なの」
手にしたワイングラスを、ゆっくりとまろばせながら、女神はくつくつと笑う。
「確証は何もないわ。でも、疑いを持って上奏することはできるのよ?
『ねえイェスタ、あの仔おかしくない? 明らかに竜神が何かズルをして、ちょー有能な仔竜を遊戯に参加させてるんじゃないかしら』ってね」
背筋から尻尾まで、痺れるような恐怖が突き走る。
一体、この女神はどこまで気が付いているのだろう。あえて答えを口にせず、こちらが口を割るのを待っているのか。
視線だけを移し、フィーは対面の女の顔を盗み見た。
こちらの動揺を眺め、うっとりと酔いしれる姿。"愛乱"の二つ名を思い出させるのにふさわしい、酷薄な笑みがそこにあった。
「馬鹿者」
大振りな魚の半身を、ざくざくと切り取るついでに、太った顔が空気を打ち破った。
「この程度の揺さぶりで、顔色を変えるな。そなたがどのような存在であろうと、こ奴は告げ口などするような手合いではない」
「さすがに助け船を出しちゃうか。まあ、おじさんの言うことはその通りよ。イェスタに出張られたりしたら、せっかくの楽しみが台無しだもの」
でもね、そう前置きをして、女神はグラスを干した。
「その秘密を、サーちゃんやシェート君は、何も知らないんでしょ? そこのところ、どう思ってるのかしら」
その質問にも、すぐには答えられなかった。
二人に手を貸すことに異存はない。シェートに言ったように、自分は最後まで味方でいるつもりだ。
それでも、隠し事をしている自分に、重荷を感じていないわけはなかった。
果たして自分のしていることは、正しいのか。
「と、まあ、こんな感じでいい? 貴方のかわいい仔竜の教育は」
「その手にした、ワイン一杯分ぐらいの価値はあっただろうな。感謝しよう」
「ったく、けち臭いんだから。向こう百年、貴方の払いで飲み放題くらい、言ってもらってもいいくらいなんだけど?」
意外なやり取りに顔を上げると、大人たちはにやにやと、こちらを見て笑っていた。
「な……なんだよ! まさかお前ら、最初から俺を試すつもりで!?」
「儂は知らんぞ。こやつが勝手にやったことだ」
「あらら? この場にこの仔を連れてきたってことは、そういう意味だと思ってたんだけど? あたしの早とちりだったかしら」
冗談とも本気ともつかない笑顔の二人に、フィーはぎりぎりと歯をかみ合わせた。
とはいえ、女神の言ったことは、考えておかなければならない課題だ。
いつか事実を明かすべきか、それとも、永久に何も言わずに最後まで付き合うか。
「さあ、難しい話はこれでおしまいにしましょ。お兄さん、このスープ下げちゃってちょうだいね」
「そろそろ肉を出してくれんかな、それとチーズを追加で頼む」
こちらの気持ちも知らん顔で、呑み助たちは勝手に食事を進めていく。
取り残された仔竜の肩に、竜神はそっと手を置いた。
「フィーよ、一つ忠告しておこう」
「なんだよ」
「この先、何があろうとも、そなたは動揺してはならん」
何気ない調子で、それでいて真剣に言葉は継がれる。
「困難に際して動揺し、思い惑えば、その分手が遅れる。恐怖や迷いを制し、あらゆる場面で最良を思考することだけに注力せよ。そうでなければ、あやつらの助けになるなど、夢のまた夢ぞ」
「……わかったよ」
やがて、よく焼けた骨付き肉が、テーブルに運ばれてくる。王冠のような形に成形されたそれを切り分けながら、竜神はその日最後の爆弾を、食卓に放り出した。
「そなたの権限で、儂らを正式な決闘者として登録してくれ。できるな」
「使用カードは、販売されているものに限らせてもらうわよ」
「構わん。市価の一万倍のレートで売ってもらおう。その分の支払いを、そなたの金蔵に納めればよい」
呆然とするフィーの前で、女神は大ぶりの肉を受け取りつつ、満面の笑みを浮かべた。
「毎度ありがとうございます、今後ともごひいきに」