10、基本に帰れ
深まる夕暮れが、町並みを紅の中に沈めて行く。
行きかう人々はみな、目指すべき場所へと向かっていく。家に帰る者、盛り場で一夜の遊興を求める者、あるいは宿る場所も無く、一晩中往来をさまよう者。
そんな群集の流れに取り残され、シェートは体に染み入る悔悟を感じていた。
「すまん、サリア」
詫びの言葉を口にすると、隣を歩いていた女神に顔を向けた。
「俺、指示、聞けなかった。言うこと、頭入れる、できなかった。すまん」
分からないことばかりだったとはいえ、あの場ではそれを無視してでも、サリアの言葉に従っておくべきだった。そうすれば、もう少しまともに立ち回れたかもしれない。
「いや、今回は全面的に私の失態だ。あらかじめ知識を授かっていたというのに、それを伝える術を講じられなかったのだから」
「でも、サリア、俺、教えてた。俺、頭良くない、だから」
「そういうことも踏まえて、きちんと説明できるまで学ぶ必要があったわけで」
「……じゃあ、俺、説明する、どうやる?」
投げかけた言葉に、サリアは押し黙った。ここまでの道すがら、ずっとそのことについて考えていたのだろう。
「それは、あと一週間かけて、何とかすればよいのだ」
「じゃあ、サリア、教えてくれ」
「……なんだ?」
「なんで火の鳥、攻撃、すぐできた?」
女神はいくらか安堵したように、回答を口にした。
「"即応"という能力を持っているクリーチャーは、呼んですぐに攻撃や能力の使用を行えるのだ」
「ゲーム、決まりごと、破る力か」
「そういうことだ」
「それ、他にも一杯、あるか」
今度の質問には、女神は易々とは答えなかった。だが、その沈黙だけで十分だった。
「これからたくさん、約束、破るカード、出る。でも俺、元の約束、分からない」
これまでの経験で、シェートもおぼろげながらに気付いていた。
今回のウィズというカードゲームは、前提条件となる"決まり"を破って、勝ちを収めることが重要なのだ。
「俺、狼、すぐ戦えない、おかしい思った。でも、相手の鳥、呼んで攻撃する。それに、空飛んでる。狼、守れない」
魔物同士の戦いでさえ『戦闘に入ったとき、自軍の魔物で敵の攻撃を防げる』という前提条件が"飛行"という能力で崩されてしまう。
「覚える約束、たくさん。相手、約束破るカード、使う。俺、きっと、覚えられない」
「……そういう、ことか」
現状でも、通しで自分の手番を進められない状況で、相手はその原則すらかき乱すような行動を起こしてくる。一週間どころか、コボルトの短い生涯を尽くしても、対応できるとは思えなかった。
「あと、ゲームの言葉、むつかしい。自分の番、やること、たくさん。できること、できないこと、色々ある」
魔物の呼び出しや魔法のいくつかは、自分の手番の、更に短い時期にしか行えない。だが、それがいつ始まって、いつ終わるのかが分からなかった。
「それ、分からない。すごく困る」
「基本的に自分のターン、いや、手番は、自分が次のフェイズに送ると言わなければ……フェイズとは、どう表現すればいいのだ……」
元々、コボルトの生活にない単語を言い換えなければならないことに、サリアも悪戦苦闘していた。だからこそ、この問題は簡単には解決しない。
「俺、ちゃんと、戦えるよう、なるか?」
「手を尽くせば、なんとかなると、信じよう」
「竜神、無理だ、言った。それでもか?」
サリアは片手で顔を押さえ、何かを思い切ったように顔を上げた。
「とりあえず、今はここまでにしよう。腹は減ってないか?」
「うん。少し」
「では、適当な店を探そう。今夜の宿も確保せねばならんしな」
暮れ掛けた通りを抜け、昼間に入った酒場へと足を踏み入れた。
ちょうど盛況の時間とあってか、店には人があふれ、座れそうな席は残っていない。その上、店のあちこちから好奇と嫌悪の視線が投げかけられ、居心地の悪さに拍車を掛けていた。
「仕方が無い、他を当たってみるか」
「うん」
「……ほぅい、そこのあんたら!」
立ち去ろうとした二人を、耳慣れない声が呼び止めた。壁際の席、両脇に荷物を置いたたびの商人男が、手招きしている。
「おらぁ、ここさ一人で席、占めてるらすけ、良かったら向かいに座らんでらすか」
「……よろしいのですか?」
「ええって。それに美人さんとコボルトの取り合わせ、旅先の土産話さ、するでらすけ」
見世物になるのは嫌だが、あまり街中をうろつく気も無い。ただでさえ周囲の視線を吸い付ける組み合わせなのだ。
「俺、それでいい。サリアは?」
「私も問題は無い。では、少々失礼させていただこう」
背の低い、取り立てて見るべきところの無い男だ。ずんぐりした体格、旅で焼けた肌、エールのジョッキを握る手は、まめと手仕事積み重ねで岩のようにごつごつとしている。
「お嬢さん、なんか飲むでらすか」
「そうですね。では、同じものを」
「はいな。おーい! エールと適当に肉とチーズでも持ってくれろ!」
手の中のジョッキを撫でこすりながら、商人はなぜか、目を細めてシェートを眺めた。
「一つ、つまらねぇことさ聞くけど、勘弁してくれろ」
「お伺いしてみなければ、なんとも。それで、何をお尋ねに?」
「そんコボルト、例の"モラニアの勇者殺し"らな?」
全身の毛が逆立ち、左手に意識が伸びる。険しい顔をしたサリアが、机の下でその動きを押し留めた。
「なぜ、そのようなことを?」
「あ! あっ、そったら恐ろしげな顔さ、したらあかんでらす! おら、ちょっと気になっただけでらすけ、悪気は無かったんでらす! 勘弁してくれろ」
商人は冷や汗をかきながら平謝りし、自分が食べかけていた焼き菓子の様なものを押し出してきた。
「ま、ま、これでも食べて、落ち着いてくれろ。ここらで流行っとる、"プレッツェル"たらいうもんでらす」
「……もしや、これは、勇者達がもたらしたものでは?」
「はぁ、そうでらすな。すこーし前、この辺りさ"知見者"たらいう神様の軍が、のし歩いていたそうでらすけ。そんとき、酒保で働いてた連中さ、広めたんらす」
細長く伸ばした麦の練り子を、束ねそこなった綱のように丸めて焼いたもの。かじってみると、ほんのりとした塩気と牛の乳臭さを感じた。
「歯ごたえもあって、酒の当てにぴったりらすけ。しかも焼き締めれば、そこそこ日持ちもする、とか聞いたでらす」
「なるほど。確かに、彼の言葉も、一面では真実だったというわけか」
「どういうことでらすか?」
「いえ、こちらのことです。お構いなく」
サリアの述懐を耳に入れつつ、シェートは程よい香ばしさの焼き菓子をほおばった。
例の"知見者"に脅威を感じていたのは、あくまで魔族の側だけだ。その恩恵に、遅ればせながらあずかっている自分が、妙におかしかった。
「それで、もういっこ、つまんねぇこと、聞いてもええでらすか」
「"好奇心猫を殺す"、という謂いが、異国にはあるそうですよ」
「あっは、やあ、こらすまんでらすな! おら、行商なんぞやっとるもんで、どーにも、珍しい話さ、ほっとけねえ性分でらすけ」
その時、注文していた料理が目の前に運ばれてきた。
赤く熾った炭を入れた壷に、金網をかぶせたものが机の中央に置かれ、その周囲には、まだ血の色の残る獣肉や切った野菜、チーズなどの乗った皿が置かれた。
「ここの特別料理、おらも食うのは始めてらす」
「……"ヤキニク"」
「おんや、どうして、この料理の名前さ、知ってらすか?」
「その……色々ありまして」
なぜか苦笑いを浮かべたサリアは、鍛冶仕事に使う"やっとこ"に似たものを掴んで、給仕をしつつ説明してくれた。
「この網の上に載せて、肉や野菜を焼くのだ。その後、たれを付けて食べる」
「物知りさんでらすな。やっぱりあんた、噂どおり女神さんでらすか」
「……昼間の話が、すでに伝わっているのですね」
あれだけ派手に、人目につく形で戦い始めたのだ、噂は町中に広がっているだろう。こちらを見ている視線が増えたのも、きっとそのせいだ。
金網に置かれた肉が、熱によって脂混じりの煙を上げ、シェートの鼻腔をくすぐる。
じうじうと音を立てて脂肪が流れ出し、肉の表面にうまみの汗がにじみ出た。
おそらく今まで目にした料理の中で、これは最上の代物だ。
「そう言えば、勇者の多くは、祝い事や苦役の慰労に、このヤキニクを食べるそうだ。折角だから、我々も、それに習おう」
「ん」
湯気を立て、うまそうな香気を放つ肉が、目の前に置かれる。
そしてシェートは、極上の美味に、ひととき憂いを忘れた。
「まんず、世の中はおもしれえことばっかでらすな」
大分酔いの回った商人は、サリアのジョッキに新たなエールを注いだ。傍らのシェートは肉に集中し、無心に食べ続けている。
そういえば、この所フィーに構うばかりで、自分を二の次にしていた。その反動が、こうして現れているのかもしれない。
「あんたら、村の勇者さ、知ってらすたぁ」
「この場にフィーが、連れの者がいれば、いろいろと話に花の咲くこともあったでしょうが……申し訳ありません」
「あの竜の仔けぇ? なんか、あったでらすか」
素直にこちらの事情を話してしまっていいものだろうか、この男は物見高い性格だし、うっかり人に広められても困る。
こちらの気配を察し、商人はそれ以上の詮索を、己のジョッキで封じた。
「ま、いいずれぇことは言わんでええらす。話の接ぎ穂だ、気にしねぇでくれろ」
「恐れ入ります。所要で席を外しているとお考えください」
「しっかしまぁ、まさか神さんとこうしてメシ食いながら話すとか、今までん中で、飛び切りの珍しい体験らす」
「そうでしょうか」
口元をくつろげて、サリアは男の皿に肉や魚を供し、酒を注いだ。
「ここは、いまだ主神も定まらぬ若き土地ゆえ、そのような仕儀に至る者も稀ではありましょうが……私が、治めた地では」
言葉に苦味と、わずかな寿ぎを乗せて、女神は思い出を語った。
「収穫祭や枢要な祭礼には必ず降臨し、皆と神饌を共にしたものです」
「はぁ。神さんつうのは、こう、のっぺらな像を拝めっつわれて、信心の深い司祭さんらだけが、ご尊顔を拝する、つうはなしだったらすが」
「我々の間では『仮神』と呼ばれる状態ですね」
こうして神事を人に語るのも久しぶりだ。以前は降臨するたびに、集まった者達や子供らに話していたものだ。
「この世に在るあらゆる星には、命の種とも言うべきものが備わっているのです。それが芽吹くと同時に、世界に命が生まれます。このとき、まだ世界に神は居りません」
「んじゃあ、神様はどっからきなすったのけ?」
「その後、世界の命が意志を持ち始めると同時に、神もまた生まれるのです」
本来、神とそれを崇めるものの関係は対等だ。
神は人に認識されることでその存在を保ち、人間は神を通して世界とその理を知る。信仰と神威はそれぞれに等しく、互いに影響を及ぼしあっていく。
「ただ、生まれたばかりの神は人々同様に幼く、その有様も定まりません。人々が神に何を求めるか、如何なる行為によって神は人々のありようを是とするか、そうしたやり取りによって、"無貌の神"は、一個の神格を得るのです」
「……不思議なもんでらすな」
おそらく、こうした教えを受けるのは初めてなのだろう。商人は居住まいを正し、ジョッキを脇にのけて、こちらを見た。
「まるで、赤ん坊さ、大人になるみてぇな話らす。神さんちゅうのは、おらたちとなんもかわんねえらすか」
「互いの似姿にして、その半身。少なくとも、私はそのように思っております」
無論、神格によっては、こうした思考を惰弱と考えるものもある。それでもサリアは、崇敬と尊信を旨とすることを良しとしてきたのだ。
「んでも、わかんねぇことさ、あるでらす。聞いてもええらすけ?」
「はい。私に答えられることであれば」
「おらたちの世界の神さんは、どこさいるでらすか?」
それは、されて当然の質問だった。
この世界で祭られているのは、全て仮神の像だ。これだけ栄え、人々が生活している世界。本来なら、代表たる神格が存在しなくてはならない。
「……"神々の遊戯"」
「あの、勇者達さ、繰り出す奴、らすけ?」
「ここから先の話は、あまり気持ちのいい話ではありませぬ。それでもお聞きになられますか?」
商人はためらい、それでも無言で先を促した。
「神々の遊戯とは、文字通り、神による遊びです。世界を盤面に勇者を投じ、どの駒が先に魔王を倒すかを競う」
「……そったら話さ、よう聞いたらす。まぁ、神さん方、えれえもんだと思ったらすけ」
「その、盤面として選ばれる世界こそ、仮神の生まれて間もない地なのです」
二人の会話はそこで途切れ、何も知らない酒場の人々が、背後で陽気な喧騒を振りまいている。傍らのコボルトは肉を食べるのをやめて、こちらを気遣うように見つめていた。
「仮神は、自我も定かならず、酷く脆い存在です。他の世界から神が干渉すれば、その者に存在を書き換えられ、自身は消滅する」
「守ってくれるもんさ、いねぇでらすか。親とか」
「比較的近くに存在する神が、いわば親代わりとなり、仮神の星を守るという慣例があったのです。それも、遊戯の一環に取り込まれ、有名無実と成り果てましたが」
遊戯以前の天界では、仮神の親代わりとなることが大神への道だった。
大神は自らの神威を割いて仮神を守り、一個の神格を得た神は、自らの神格を以って、親代わりの神への返報とする。
「今や、新たに生まれた星は、神の覇権を争うための賭場でしかなくなった。その驕慢に黙殺され、仮神たちは己が星の民にさえ気付かれず、消えてゆく」
「年端もいかねぇ子供さ、おっ殺して、その遺産さ食い物にするみてな話、らすな」
「仮神は自我も定まらぬ『生まれ無き者』、よって生殺の是非は問われぬなどと、詭弁を奮った愚か者もおりましたが」
それを言ったのが、自分の兄だというのがなおさら情けないが、それが現在における天界の実情だった。
「神さんも、色々あるんらな」
商人はジョッキを干すと、席を立った。その顔には、苦いものでも飲み込んだような、言い知れない苦悩が浮かんでいた。
「申し訳ない。このような不始末、請われてもお話しするべきではなかった」
「あんさんも、そういうこと、するらすか」
彼の瞳には、それまでになかった不信と疑念があった。
これまで彼は、この世界における遊戯の有様を目にしてきた。三枝圭太から村を収奪した"知見者"のやり口も知っているし、サリアの口から語られた遊戯の真実によって、嫌悪感は強くなったろう。
「確かに、私は今、罪に手を染めています。ですが、このままにしておく気は無い」
自身の復讐のためだけでは無い、遊戯によって蔑ろにされた者達のために。
「この戦いに勝ち、遊戯を終わらせる。それを願って、私はこのシェートと共に歩んできたのですから」
「……の割に昼間さ、大変わやになっとりゃすけな?」
「あ……っ、あれは、その……っ」
こちらの狼狽に大笑いすると、商人は両肩に荷を担いで暇を告げた。
「こういう時、神さんさ、どう言ったらええか分からんすけ。まんず、一つ、幸運があるよう、祈ってらす」
「そのお気持ちだけで十分です。お誘いいただき、ありがとうございました」
戸の向こうへ去っていく背中を送ると、サリアはふと、傍らのコボルトを見た。
その目には、先ほどまでの不安や混乱は無い。いつもの意志にあふれた、快活なシェートがそこにいた。
「良く食べて、元気になったか」
「肉、うまかった。あと、サリア、俺、さっきの話、聞いてない」
「そなたにとって、仮神の話は別世界の事柄だからな。話しても縁遠いものと」
「サリア、お前、馬鹿」
不思議と腹は立たなかった。むしろ懐かしい気持ちにさえなった。
旅の始まりに、こんな風にして罵られたことを思い出す。
「遊戯、誰か、勝手押し付ける。それ、俺、同じ」
「それこそ馬鹿な話だ。大体、初めて会った時にこのことを言ったとて、きっとこう返してきたろうよ。"俺、コボルト、むつかしいこと、わからない"」
何も言い返せなくなり、むっつりと黙るシェートの頭を、優しく撫でてやる。
ごわごわとした獣毛の質感と、その下に感じるぬくもった皮膚。酒場の熱気とヤキニクを腹いっぱい食ったせいか、少し癖のある体臭が放散され、鼻腔をくすぐる。
「どこかで浴場でも借りねばな。街中に住むには、少々匂うぞ」
「分かった。桶と井戸、借りる。サリア、頼んだ」
「普通、沐浴とは女神がするもので、汚れた犬を女神が手ずから洗うことではないのだがな?」
そうして軽口を叩き合うころには、気分もすっかり晴れていた。明日のことは皆目見当もつかないが、落ち込んでうつむいているよりもましだ。
店の主人に部屋と風呂桶の手配を頼みながら、サリアの思考は新たな展望を求めて、動き始めていた。