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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~最も弱き反逆者~
13/256

13、わたぬすみ

 朝が来た。

 いくつも連なる緑の山を染め、漏れ出した白い靄を、暖かな日差しが打ち払っていく。

 風はさやぎ、梢には新たな日を感じて鳴き交わす鳥達。草むらをウサギや地ネズミがせかせかと走り回り、その音に驚いた虫たちが散り去っていく。

 いつも通りの、何気ない光景。

 普段と違うところが一つだけある。

 それは、己の命運をかけ、歩くものが居ることだった。


 弓を手に、黙々と歩く小さな魔物。

 その目は意思に輝き、鹿の毛皮で作った衣で身支度を整えていた。肩にしょった魚にはすでに串が打ってあり、火さえあればいつでも食べられるようになっている。

 やがて、彼は森の中、朽ち倒れた木によって生まれた広場にたどり着いた。


 すでに炉が組まれ、薪も側に置かれている。遅滞無く小枝と薪を組み合わせ、火壷から移した燠で火を点す。

 熱で乾いた木が燃え爆ぜ、周囲に暖かな空気を振りまくと、シェートは用意してあった魚を炉の周りに刺した。

 後はひたすら待つ、それだけだ。


『しかし、大丈夫なのか。そのように体をさらして』

「多分あいつ、一番、警戒する。俺、命かけるしかない」


 早いうちに魔法を吐き出させる、それがこの狩りを成功させるための必須条件。

 そのためには、相手が撃ちたくてしょうがない状況を作ってやるしかない。


『……シェート』

「そんな声、出すな。俺、必ず勇者狩る」


 納得したのか、あるいはそれ以上言うべきことが見つからないのか、女神が黙る。

 やがて、その気配は自分の後ろにやってきた。



 浩二は、なんと言っていいか分からない感情で、目の前の光景を見た。

 倒れた木に腰掛け、コボルトが魚を食っている。

 昨日散々美味そうな匂いを漂わせ、いらだたせてくれた敵。それ以降、こいつは姿も見せなかった。こちらは空腹と渇きと腹痛と不信で、一睡もできなかったというのに。

 おそらく、二本あったのだろう。最後の一本を喰いきると、すでに脂汚れだけになった串の隣に差し、火に水を掛けた。


「遅かったな。俺、もう飯食ったぞ」


 立ち上がりこちらに振り向く。近づくまで見えなかったが、足元には木の板が転がっていた。

 怒りと空腹で頭がくらくらするが、腹の虫は治まっている。あまりに空っぽになりすぎて、鳴ることすらできないのかもしれない。


「どうせ、俺がこうなるのを待ってたんだろ?」


 空腹で動けなくする、考えてみれば陳腐な作戦。だが、まんまと嵌ってみればこれほど効果的で、弱者が強者を倒す手段も無かった。


「そうだ。これ、熊狩り。でも、今日の獲物、勇者」

「俺をケダモノみたいに狩れっと思うなよ!」


 怒りで疲労感が吹き飛んでいく。確かに体はだるいし腹は減っている。だが、このぐらいで倒されるなんて冗談じゃない。

 それでも、コボルトは冷たい視線で言い放った。


「お前、熊以下。ウサギより楽」

「――っ!!」


 思わず魔法をぶちかましそうになり、危うく自分を押しとどめる。足元の楯があればこちらの魔法は多分無効化されるだろう。完全な無効、というわけじゃないが、致命傷にはならない。

 そうなればまた不毛な追いかけっこが始まる。そして、今日は必ず別の何かを仕掛けてくるはずだ。


 だが、簡単に策に嵌るつもりも無い。夜通し起きていたせいで考える時間はたっぷりあったし、こいつの行動の癖も読めてきた。

 素早く身を隠し、剣と魔法の両方から間合いを外すのが基本の戦い方。身を守る楯を用意して魔法を誤射させ、後は罠を仕掛けてのかく乱。


 ここで待っていたということは、魔法を無効化する楯もその辺りに散らばして置いてあるのだろう。罠だってどこにあるか分からない。

 こいつにとって一番怖いのは魔法だろう。だからあんな楯を常に用意しているんだ。

 なら、勝負は一瞬で付く。


「そうやって俺のこと、挑発してんだろ。もうひっかからねーよ」

「お前、意外と頭良いな。見直した」

「……何とでも言ってろ」


 あえて剣を前に出し、間合いを詰めてやる。こいつにとって、自分の動きなんて丸見えなんだろう。

 だが、だからこそこいつは引っかかる。俺がアイテムに振り回された間抜けな勇者と侮っているこの一瞬が、大事なんだ。


「でも、認めてやるよ。お前、多分強いぜ。俺なんかより」

「……なに?」


 こちらの言葉に、犬の無表情が驚きに開く。

 その時、浩二の頭の中に今まで感じたことの無い、冴えた思考が満ち渡った。自分の言葉が相手を動かしたと感じる。コボルトの表情が、こちらの賞賛に驚き、強張る。

 痺れるような快感、回転する思考、駆け引きの快感が滑らかに口を開かせた。


「最弱なんて侮って悪かったよ。俺の負けだ」

「な、なに、言ってる、お前」

「だが、これで終わりだ! 貫け『ゼー」


 コボルトが反射的に楯を構える。視線が奴のすぐ脇、背を庇える大樹に逸れる。

 この三日間で、初めて見せた狩人の隙。

 浩二はありったけの気力をつぎ込んだ。


「――砕け『ゼーファント』!」


 爆光が炸裂する。

 目の前に鎧の障壁が展開、同時に楯を構えたコボルトが炎の中に飲み込まれた。


「うがあああああああっ!」


 盾が砕け散り、毛皮の塊が吹き飛ぶ。その先には身を守る物も無い空き地。

 重い袋でも叩きつけたような浅いバウンドで銀色の毛皮が地面に転がる。その無防備にさらされた躯体に、浩二は歓喜を込めて追い討ちを掛けた。


「貫け!『ゼーファント』ぉっ!」


 爆発はあくまで範囲の攻撃、吹き飛ばしてしまえば致命傷を避けられる可能性がある。

 しかし魔法の矢は剥き出しの体を追いつづけ、細切れにする。


「これで終わりだぁっ!」


 頭上に灯った光が雨になってコボルトに降り注いだ。

 腹に響くこもった衝撃音、そして、耳障りな金属音。


「……え?」

「うっくおおおっ!」


 腕と足をしっかり抱えて縮こまる姿。破れた鹿皮の下から出たのは、籠手と脛当て。


「うそだろおっ!?」

「……べ、別に、背中守る、木でなくていい。地面、堅くて、強い」


 ところどころから血を流しながら、それでもコボルトは立ち上がる。その体に纏っていたのは、いつか砦で見た魔物の装備品。


「そんなの、いつの間に!?」

「最初から持ってた。サリア、きっと役立つ言ってた。でも俺、重くて嫌い」


 防具の役割を終えた籠手と脛当てを払い捨て、身軽になったコボルトが飛び退る。


「お前、これで作戦、終わりか」


 そういわれた瞬間、脳裏に後悔が駆け巡る。後一発打ち込んでいれば勝ったか、あるいは相手に深手を負わせられたはず。魔法二発使って得たのは、コボルトが保険に身につけていた鎧を剥がしただけ。


「つら――」

「おっと!」


 コボルトの姿が木の陰に消える。


「お前、全然ダメ。やっぱり、ウサギより簡単」


 嘲笑し、木に潜む姿。

 思わず歯噛みをした浩二は、何気なく地面に目を落とした。

 魔物の寝ていた辺りに、どろりと溜まる血。明らかに軽症ではない量。

 それに気が付き、勇者は笑う。

 まだ終わっていない。



「……くっ」


 わき腹から激痛が走る。服を濡らす血の量が意外に多い。シェートは軽く息をつき、痛みに顔をしかめた。

 侮っていたわけではない、いや本当は心のどこかで侮っていたのだ。あれは他愛の無い子供だと。

 だが、猛獣の子はやはり猛獣。勇者を名乗るのであれば、それなりのものを持っていると考えるべきだった。


『大丈夫か! 動けるか!?』

「痛み、少し治まった」


 だが、流血と痛みが体から力を奪う。再生力が高まったと言っても、たちどころに直るわけではない。

 とにかく少しでも距離を、そう考えた瞬間。


「ぶった切れ」


 怖気がうなじをなぶる。体が痛みを越えてしゃがみこみ、


「『ゼーファレス』っ!」


 今まで自分があった場所に、輝きが奔った。勇者の刃が大木を両断し、こちらにめりめりと倒れてくる。


「うああああああああああっ!」


 必死に飛び出した先にあったのは、凶悪な笑顔に歪んだ男の顔。


「おらあっ!」


 真っ向から打ち下ろされる刃、横っ飛びにかわした肩が傷つき、血が流れ出る。


「ぐうっ!」

「おらおらあっ!」


 打ち下ろされる一刀、その切っ先が頬を裂き毛皮を濡らす。


「くあああっ!」

「ぶった切れ」


 魔法の言葉が勇者の口を突いた。繰り返し思い描いてきた反射のタイミング、弓が引き絞られ、刹那の一瞬に体が備え――。


「うらああああっ!」

「ぐはあっ!」


 横薙ぎに一閃、服と共に腹の皮が浅く裂け血が吹き出す。


「お前の作戦なんて、もう見切ってんだよぉおおおっ!」


 返す刀が斜めに走り、避けそこなった口元に更なる傷を生み出す。

 振り方は素人そのもの。力任せで荒っぽい、それでも手傷を負った体で交わし続けるのは至難。


「ほらほらどうした! ウサギより、楽じゃ、なかったのかあっ!?」


 銀の光が空を切り、必死に飛び退った体を浅く傷つける。勇者の顔が怒りと狂奔な嗜虐に歪み、


「うっ!?」


 いつの間にか、背中に倒木の気配があった。


「避けんので精一杯だったか? コボルトさんよ」


 倒れた木の幹、その太さは自分の膝ぐらいはある。飛び越えるには体勢が悪すぎ、目の前には刃を構える勇者。


「さぁ、今度は俺の番だ。当ててみな、剣か、魔法か、どっちでお前を殺すか」

「う……」


 痛いほどの殺気。三日前、こっちの動きをまったく予測も出来なかった人間とは思えない、鋭い眼光。勇者の体が一回り大きく見える。


「貫け」


 抑揚の無い声がほとばしる喉。だがその右肩に、ぴりっとした緊張が浮き上がるのを狩人の目は見逃さなかった。


「なんてなあああっ!」


 瞬間的に振り上げられた剣、シェートの思考が恐怖よりも生存に手を伸ばす。


「くおおおおおおっ!」


 輝きを纏わせた弓が必死に剣を受けた。その間で力が爆ぜあい、視界を焼く。


「くっ、あ、ああっ!」


 ぶあっと、脇から血が噴出し、力が抜けていく。押し込む男の顔はどこまで残酷に輝いていた。


「さんっざんいたぶってくれたよなぁ! どうだ? ずっと馬鹿にしてた勇者様の力はよおおおおおおっ!」

「ぐああああああああっ!」


 力比べでは勝ち目は無い、押し込まれた状態では何もできない。痛みが脳を焼き、白刃が眉間に迫る。


『前に倒れろシェートおおおおおおっ!』


 天啓に、体がぎゅっと縮こまる。


「うおおっ!?」


 勇者の剣は自分の背丈よりも長い。その切っ先が振り下ろした勢いのまま、自分を断つことなく突き刺さる。

 そして、コボルトは跳ねる。


「うがああああああっ!」


 身体中の力を振り絞り、弓ごと腕を突き込む。鎧の障壁が攻撃に反応して、シェートを激しく吹き飛ばした。


「うおっ!」

「あああああっ」


 弓が砕け矢筒が吹き飛ぶ、それでも勇者との距離は取った。だるさが意識を泥沼の中に引きずり込もうとするが、それでも魔物の体は後ろに飛んだ。


「ま、待ちやがれ!」


 こちらに向けて猛然と走る勇者。視線を逸らさず、シェートはそのままの勢いを殺さずに地面を転がる。

 森はなだらかに傾斜し、それを利用して必死に転がる。枯れ枝がいくつもわき腹を裂くが、それでも転倒をやめる気は無い。


「くそおっ、まてぇっ!」

『シェート! 後ろに木だ!』


 回転する視界の向こうでそびえる大樹。


『そのままではまずい、右に飛べっ』


 サリアの声にしたがって体が跳ね、行く手に立ちふさがっていた木をかわした。


『早く起きよ! そのままでは傷口が!』

「転がった方早い! このまま引き離す!」


 痛みと回転で頭の中がかき混ぜられる。それでもシェートは斜面に身を預けた。転がり落ちるこちらに引き離された勇者は、顔を引きつらせながら絶叫した。


「こ、こうなりゃやけだっ!」


 その体が木に体当たりし、大きく吹き飛んだ。


「な!」

『なんだとっ!?』


 自分の障壁を頼みに、勇者も斜面を滑り落ちてくる。向こうは傷一つ負わず、多少方向を誤りながら、それでもすさまじい勢いで突進してきた。


『ど、どうするのだシェートっ!?』

「このまま、目的地、行くっ!」


 わき腹は始終地面に削られ、痛みが全く引かない。それでも、何とか片膝を立てると、一気に通り過ぎる木に飛びついた。


「うっくっ」

『シェート!?』

「もう平気! このまま走るっ!」


 その脇を勇者が転がりすぎ、同じく膝を立てて起き上がる。


『おいつかれる!』

「まぁちやがれええええええっ!」


 息を吸い込み、シェートは走った。その影を勇者の蒼い籠手が引っかく。


「くそおっ!」

「はあっ、はあっ、はあっ!」


 一歩ごとに脇腹が痛む、少しでも気を抜くと意識が飛びそうだ。それでも、背後に勇者の気配を感じつつ走る。

 森の景色が変わっていく、目の前にはざわめく川の音。勇者の息が乱れているのが分かる、向こうは飲まず食わずだが、こっちは手負い。


「つ、貫けっ『ゼー」

「うわああああああああああっ!」


 力を振り絞り、シェートは跳んだ。森の端を抜け、茂みを破り、固い崖上の地面を感じる。そのまま、さらにもう一歩跳ぶ。


「おま、そっちは崖……」


 間抜けな勇者の声を後に引き、シェートの体はまっすぐに落下し、


「うっくあっ!」


 石の張り出しに両足をしっかりと乗せていた。勇者のような人間にとってはただの岩の出っ張り、だがコボルトには十分すぎる足場。


「まじかよっ! 貫け」


 それでも動きを止めず、下に飛び降り川原に転がり込む。同時に、岩陰に隠しておいた板を天にかざした。


「畜生っ! まだあんなもん!」

「はあっ! くはっ、はあっ、はああっ」


 岩と板に隠れ、息を整える。このままこうして時間を稼いでいれば、


「砕け『ゼーファント』!」


 打ち下ろされる爆圧。楯がへし折られシェートの体が石の地面に叩きつけられる。


「ぎゃううううっ!」

「いつまでもそんな手に乗ってられっかよぉっ!」


 あちこちの毛が焦げ、きな臭い匂いが漂う。それでも、何とか四肢は無事で、同時に脇腹の出血が深まっていく。


『起きよシェート! 勇者が来るぞ!』


 女神の警告と同時に、風の塊が唸りを上げて飛来した。


「このまま押しつぶして終わりだああああああっ!」

「くそおおおおっ!」


 勇者の障壁と魔物の脱出がほぼ同時に発露し、辺りに石の散弾が飛び散る。


「がふうっ!」

「うぐおおおおっ!」


 一部の石が腹を打ち、殺しきれなかった衝撃に、勇者の体がふらつく。

 そして、シェートは勇者と同時に立ち上がり、にらみ合った。



 さすがに衝撃は壁でも吸収し切れなかったのか、まだ脳が痺れている。

 それでも、浩二は手ごたえを感じていた。

 素早く動いていた姿は見る影も無い。脇腹の傷に気が付いたとき、何が何でも回復させてはならないと悟った。かなり無茶なまねもしたし、魔法も使いきっている、それでも圧倒的にこっちに分がある。


 コボルトは今、武器を持っていない。弓も矢も無いし、腰の刀ではこちらのリーチに届かない。つまり、こちらの壁を使って防御が出来ないのだ。

 素早く周囲を確認し、相手の立っている場所を確認する。隠れる物陰も無ければ、武器を隠していそうなところも無い。

 いや、違う。こいつに油断は厳禁だ。


「さすがだな。俺をここまで誘い込んだってところか?」


 あてずっぽうの一言。だが、確かにコボルトは動揺を走らせた。

 そうだ、こいつにしてみれば俺は格下に見えたろう。山で右往左往し、罠に掛かり、川の水を飲んでゲロまで吐いた。こいつの思惑通りに。

 そして、うまく行き過ぎた作戦に、油断したんだ。


「多分、ここに誘い込んで、さっきの楯で魔法を使わせる気だったんだな」


 浩二は無造作に間合いを詰める。コボルトはこちらを見つめ、じりじりと下がった。


「で、川原の石でも使って、弓が無くなった後でも俺の剣を避けられる、ってとこだろ」


 コボルトの顔に、焦りを感じた。多分図星、こちらの思考が相手の作戦を上回りつつあると感じる。


「今まで獲物だと思ってた相手に、追い詰められる気分はどうだ?」


 そうだ、こうやって相手を支配する。ゲームのようなごり押しではなく、本当の意味での戦い。コボルトの動きをけん制し、川の方へと回りこむのを防ぐ。逃げられればまた何をされるか分からない。


「でも、本当にお前には感謝してるよ。確かに俺は、勇者としてはヘタレだったかもしれない」


 腰を低く保ち、脇腹を押さえている。でも、その血は今は止まっているように見えた。

 おそらく、こちらの一撃をかわすための石か何かを持っている。


「お前を倒して、俺は強くなる。今度こそ本当の勇者になってやるぜ」


 その全てを粉砕して勝つ方法が、まだ残っている。

 あれだけよどんでいた思考が冴えている。空腹も眠気も疲れも、アドレナリンか何かで吹き飛んでいる感じだ。


「いくぜっ!」


 浩二は必殺の一刀を構え、一気に間合いを詰めた。



 鈍い痛みを発する脇を抑え、シェートは勇者の猛進を見つめていた。血は止まった、それでも動きはいつも通りには行かない。

 確かにこいつの言うとおりだろう。今まで全く敵わないと思っていた敵を追い詰める喜びに、狩人の本分を忘れていた。

 最後の最後まで、獲物が末期の吐息を漏らし、身動き一つしない血袋に変わるまで、決して油断してはならないと。


 だが、魔法は使い果たさせた。神の支援はすでに無い。こいつに出来ることは、今持っている能力の全てを使って、自分を凌駕すること。

 その、敵の切実さに気が付き、シェートは小さく口元を歪めた。

 神のごとき力を持ち、自分の仲間を、家族を、愛する人を、容易く踏みにじった男が、たった一匹の魔物、最弱の存在、コボルトを『越えようとしている』。

 静かに片手を下ろし、地に触れる。

 そして、シェートは勢い良く腕を振り上げた。



 風すら切り裂く速度で、銀色の毛皮が川原の礫を放ち、結界が勇者を守る。

 だが剣は振られない、突進が圧力になり、コボルトの体が弾ける。

 何者の敵も許さぬ否定の障壁が、木っ端のように最弱の魔物を吹き飛ばし、その体を身動き一つ取れない空中に放り出した。


「ぶった切れ『ゼーファレス』っ!」


 結界が消失し、剣が勇者の声に従って神力を輝かせる。

 その時、浩二は見た。

 コボルトの片手に握られた石と、そこに繋がる一本の蔓。その導線は自分のわき腹辺りから伸び、魔物の体と一緒に猛烈な勢いで引っ張られていく。


「な」


 そして、背後からの強烈な衝撃が勇者の結界を励起し、神剣が吹き飛ばされた。



「うわあああっ!」

「ぐあああっ!」


 激しく地面に叩きつけられたが、すばやく体を起こしシェートは勇者を見た。

 結界の反射によって、限界を迎えていた握力から剣が逃れ去る。

 そして、聞く者の胃の腑を貫くような鈍い音と共に、背後の大岩に突き立った。


「はぁっ……はぁ……はぁっ……」


 息は苦しいが、それも次第に軽くなっていく。脇腹の痛みはかなり引いてきた。血の流れも止まり、動くのに支障は無い。

 勇者は自分の手から失われた勝機を、呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。


「なんで……だよ……」


 身に纏う一両の鎧を残し、奇跡は失われた。依然と立ちふさがる壁を感じながら、それでもシェートは立ち上がり、臆さず歩み寄る。


「なんで、あんな」

「最初から、知ってた」


 こちらの返答に、信じられないものを見る目つきが投げられた。無敵の守りを持つはずの勇者が下がる。


「お前達襲った時、お前、動き違った」

「え……」


 小麦粉を浴びせる一瞬。斬るのではなく、間合いを詰めることを最優先にした前傾。そして、さっきも見せた姿勢。


「サリアにも聞いた。お前の壁、自分からぶつかっても出る。さっきの山、転がる時、お前、迷わなかった」


 地面に仕掛けておいた蔓の罠は、この川原にいくつも敷設されている。相手の間合いを図りながら、その直線状におびき寄せる。ただ、そのことを気づかれないようにするための演技が、一番難しかった。

 勇者の顔から生気が失われていく、せめぎ合い、読み合いをしていた、そう思っていた思惑が最初から打ち砕かれていたのを知って。


「俺、お前、ずっと見てた。サリアに聞いた。ずっと、ずっと、ずっと、一杯、考えた」

「あ……あああ」

「お前狩る、そのために」

「うああああああああああっ!」


 でたらめに繰り出された拳、それを容易く避けると、シェートはすり抜けざまに勇者の背をそっと、押した。


「うわああああっ!」


 転び、地面を舐める。もちろん擦り傷など無いだろう、だが、こんな羽のような一触れで、容易く勇者は転がった。


「立て」


 這いつくばり、それでも必死に立ち上がり、勇者は拳を固めた。

 徒手になろうと、自分には無敵の鎧がある。

 その信仰だけをよりどころにして。



「ふ……ふざけんなよ……」


 コボルトの視線は、もう自分に怯えていない。一瞬前に見せた動揺もすっかりなくなっている。さっきは一体何をされた? どうして自分は地面に倒れた?

 だがまだ戦える、この鎧さえあれば、こいつの攻撃が当たることは無い。

 そうだ、剣を、剣を取り戻そう。

 日の光を浴びて、伝説の武器のように岩に突き立った一振り。

 あれさえ引き抜けば、もう一度戦える。こいつを殺せる。


「い……いくぞっ!」


 両足に力を込め、浩二はコボルトめがけて走り出した。

 

 確かに、走り出そうと、した。


「あ?」


 ぐにゃり、と足から力が抜ける。

 地面が急に近づいてくる。


「なん、で」


 鈍い衝撃と共に、浩二は地面に倒れ伏していた。



「な、なぜだあああああああああっ!」


 もう何度目の絶叫だろうか、美しき神と呼ばれた兄は、顔をゆがめて声を振り絞る。


「なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだああああああああっ!」


 悲鳴が水鏡を揺らし、彼の動揺と一緒に震えていく。倒れ付した勇者は、冷や汗を流しながら地面に転がっている。


「なぜ、勇者が倒れたのだ!? なぜ!」

「兄上。貴方はいつも勝ちに行く勝負を用意し、負ける戦を見ようとはなさらなかった」


 常勝の神とも呼ばれる彼の存在、その裏側にあるもの。それは、敗北を恥として、決してそこから生まれるものを見ようとしない狭量さ。


「それがどうしたのだ!?」

「貴方が汎世界で信仰されるのは、御身の加護により、負け戦や厭戦が起こらぬゆえ。そのため貴方も、あることを気にする必要が無かった」

「な、何のことだ!?」

糧秣りょうまつ輜重しちょう補給線ほきゅうせん、つまり戦を「維持する」という行為に関わるもの、だな』


 竜神の言葉に、兄は首を振る。


「そんなものいちいち考えることなど無駄だ! 常に勝ち、あらゆる勝負において力が勝れば」

「それが叶わぬとき、貴方は戦場を去った。だからこそ、『飢え』の恐ろしさを知らなかったのです」

「飢えだと!? ふざけるな! たった三日で人が飢え死ぬというか!」

「確かに、飢えて死ぬ、ということは考えにくいでしょう。ですが」


 勇者は体を震わせ、ひたすら脂汗を流している。顔は蒼白で、ひどくやつれて見えた。


「シェート、どう見る」

『うん。ようやく、こいつのわた、盗めた』

「わたを、盗む、だと?」

「そうです。私たちが狙っていたのが、これです」


 熊狩りの話をした時、シェートは言っていた。熊を狩る時にはわたを盗まれないようにする、と。


「熊が何を盗むのだ?」

『熊違う。山にわたを盗まれる』

「山が、盗む?」

『飲まず食わず、山で狩りする。時々、動けなくなる奴、出る。それ、わたぬすみ』


 激しい運動と狩りのストレス、それによって発生する過度の消費状態。

 やがてそれは急性の栄養失調を呼び、唐突に生き物の動きを止める。低血糖とカロリー不足による全身虚脱は、時に生き物を死にすら追いやることがある。


「それを彼らは、山にわたを盗まれる、と言っています」

「あ……ああ……」

「加えて、嘔吐による脱水、塩分を初めとする必須ミネラル分の欠如、睡眠不足に異常状態に置かれたストレス、その全てのダメージが今、彼を襲っているものの正体です」


 同じ光景を、戦場で見ることもあったろう。絶望的な篭城戦や、補給物資の届かない激戦区の兵士達に。

 時として病気のネズミすら奪い合い、一粒の麦のために他者の胃袋を切り裂いてでも生き延びようとする、飢えの極限状態の中に。

 いずれも華々しい勝利のみを追い求める神には、無縁の世界だ。

 ゆえに、この状態になるまで、気づくことができなかった。


「最初から、私たちは彼自身を攻めていたのですよ」

「ああ……ああああああ……」


 どんなに堅牢な鎧であろうと、中に入っているものはただの人間だ。神の力を付与したところでそれは変わらないし、本来の生理現象を改ざんすることは禁じられている。

 食事、睡眠、排泄、こうした営みを無視することはできない。


『こんな手に気づけという方が残酷であろうよ。勇者同士の戦いはあくまで力比べ、こうした手を使うのは魔物ぐらいのもの……と、こやつは魔物であったか』

「ええ。彼は魔物ですゆえ、このような外連の技も使うということです」


 そうしている間に、シェートは勇者に歩み寄っていく。


「な……何をする気だ」

「シェート、彼の鎧の首元が見えるか」

『ああ、見える』


 水鏡の向こう、荒い息で仰向けに転がる勇者の鎧に、輝く星のような宝石。


「それがその鎧の核、それを破壊すれば」

「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 勇者と同じぐらいの虚脱した顔で、兄神が叫ぶ。

 それに構わず、サリアは指示を飛ばした。


「そっと刃を当て、刻まれた紋様の一部を削れ、我が加護で」

「やめろ! やめてくれ! やめさせてくれサリア!」 

『削ればいいのか』


 苦しげにうめいた勇者が、事態に気がつき瞠目する。


『な、なにやってんだ! や、やめろ!』

「やめろ! そのようなことをすればあの鎧に掛けた加護があああああああ!」


 がちりと、山刀が押し当てられ、


「『やめろおおおおおおおおおおおおおっ!』」


 閃光が弾けた。


 自分の山刀が光った瞬間、シェートは辺りに満ちていた圧力が消えたのを感じた。

 勇者は、呆然と鎧の胸元を見詰める。そこにはくすんだ色の汚い石と、その周囲が焼け焦げた痕。


『……鎧をはがせ』


 冷たい命令を耳に入れ、刀を納めて片手を鎧の脇に突っ込む。


「お、おい、何、するんだ!?」


 留め金に爪を引っ掛け、加護の力と共に一気にむしりとる。


「うあああああああああああっ!」


 引きちぎられた鎧と一緒に勇者の絶叫がほとばしり、その下から彼本来の体が現れた。

 見たことも無い材質の服と、その下にある貧相な体。いや、騎士の体に比べればといった程度で、多少は筋肉もあるようには見える。

 だが、天下無双の力を生み出す原動力など、欠片も感じなかった。薄い胸板が必死に上下を繰り返しているのみ。なんの力も神秘もない、痩せた体だけがあった。


「や、やめろおっ」

「お前……まるで沢蟹」


 ようやく、搾り出せたのはそれだけだった。

 大きなハサミと、固い殻を持ち、川の中で王様を気取っていたという、沢蟹の話を思い出す。小魚や蛙を従え有頂天になっていた蟹は、高い岩山の天辺に昇ったところで鳶にさらわれ、その命を終わらせる。

 母親に聞いた昔話、その沢蟹の化身のような存在。


「な、何が蟹だ! 俺は勇者だぞ!」


 必死に叫ぶ姿、汗を掻き、涙を浮かべ、身じろぎする子供。


「だ、だいたい……こんなの、おかしいだろ……!」


 わたを盗まれ、息をするのも苦しい中、子供が叫ぶ。


「こんなの、こんなゲームありえないだろ! なんで、なんで、お前みたいな、コボルトに、俺が……勇者が……まけるんだよ……!」

「ゲーム……」

「そうだよ! だ、だいたい、負けるにしたって、もっとあるだろ! おまえなんかじゃなくて、魔王の、腹心とか! ……それが、こんな、こんなのおかしい、おかしいじゃないか!」

「おかしいか」

「そうだよ。こんなの、おかしいんだ! こんなクソゲー、やってられるかよ!」


 シェートは高く拳を上げ――振り下ろした。


「いぎゃああっ!?」

「おかしいか」

「あ、あぐっおま、なぎゃあっ!」

「おかしいか。俺の家族、殺したの、そんなにおかしいか」


 さらに拳を、振り下ろす。


「俺の、友達、殺したの、おかしいか!」

「ややめぐああああっ!」

「お前には、ゲームか! 俺の、大事な人の命、ゲームか!」


 振り下ろす。

 振り下ろす。

 振り下ろす。


「やがあっ、やっ、ばべっ、ああっ、ああっ、やべでえあがっえっ」

「お前! お前! お前! 俺のっ、俺のっ、俺のっ、俺の大切なもの! 奪って!」


 自分の拳が裂ける。子供の歯が砕ける。

 それでも、振り下ろす、振り下ろす、振り下ろす。


「やってられないか! ありえないか! 納得いかないか!」


 白い顔が赤く、青く、どす黒いまだらになり、高々と振り上げた両拳に、コボルトは絶叫した。

「お前に奪われた俺! 一番納得、いかないんんだああああああああああっ!」


 ぐしゃり、と音がした。

 鈍い音と一緒に、鼻梁が粉々に砕ける感触。

 それでも、まだ勇者は、息を漏らしている。


『もう止めよ、シェート』

「止めるな!」

『……何をやっているのだ、ガナリよ』


 女神の言葉が、荒れ狂った自分の心を、ぐっと引き戻す。

 コボルトは手を下ろし、いつの間にか馬乗りになっていた体を、勇者の胸からどけた。


『我らは今、狩りの途中であろうが。獲物を私怨で痛めつけるが、狩人の技か』

「あ……」

『見て分かろう。そやつは子供だ。甘言で踊らされ、舞い上がった存在にすぎん。勇者でもなんでもない……ただの人の子だ』

「……すまん」


 沸騰したのと同じぐらいの速度で、心が冷えていく。そして腰の山刀に手が伸びる。


「終わりにする。いいな」

『ああ』


 息も絶え絶えになった獲物の首に、刃があてがわれた。



「やめさせよ! サリア!」


 何もかもが悪い夢のようで、未だに信じられない。

 自分の加護が打ち破られ、血だるまになった勇者が悲鳴を上げた。そして今、あの最弱の魔物に殺されようとしている。


「こんなこと、あってはならぬ! あれは英雄、勇者なのだ! 散るならば栄誉ある死こそがふさわしい! それをなんだ! この醜い様は!」


 こんなものは認められない、あってはならない。


「どこの世界にこんな物語を好むものがある! 神に選ばれし勇者が、卑劣な魔物の姦計に掛かって死ぬなど、あってはならぬのだ!」

「……いと貴き方、"美しく気高き刃""審美の断剣"、我が兄上、ゼーファレス・レッサ・レーイードよ」


 サリアは、真正面から兄の無様な顔を見据えた。


「これは戦です。物語の結末は幸福のうちに終わるもの。ですが、これは紛う方無き、現実の戦い」

「サ、サリアーシェ……」

「勇者が死に、魔物が勝つ」


 水鏡の向こうで、シェートが高々と山刀を振り上げる。


「それが、この戦の結末です」

「やめろおおおおおおおおっ!」


 滑らかに振り下ろされた一刃が、白い弧を描く。

 三日月のごとき軌跡が、勇者の喉を断然と裂き斬った。



 ぷっ、と赤い霧が吹き上がる。

 毛皮を塗らしたコボルトの姿が、いくらか遠ざかった気がした。

 殴られて歪んだ視界と、喉に感じた違和感。痛みは無い、不思議と顔よりも喉の方はいたいと思わなかった。


 何か暖かいものが体に降りかかり、じわじわと広がっていく。

 肺が動くたびに、ひゅうひゅう、ごぼごぼという音。

 ああ、自分は死ぬのか、漠然とそう思う。

 一応そういう危険があるのは聞かされていたし、それでも身の安全は保障してくれるとかなんとか言っていた。


 でも、あんなカミサマじゃ期待できそうも無い。そういえば、決闘に負けた勇者は、どうなるんだっけ。

 空腹と打撃で痛んだ頭が、少しづつ楽になっていく。視界も塞がっていく。

 そういえば、一番最初のクエストは、山奥のコボルトの村を潰すことだった。特に悪さをしているわけではなかったが、魔物は害になるからという、村人の言葉とカミサマの命令に従ったんだっけ。


 あの時、違和感はあった。みんなほとんど抵抗もしないで死んでいったから。

 そういえば、一番最後に殺したあのコボルトと、こいつは似ている気がする。

 きっと恨んでいるんだろう、俺を殺せて、嬉しいのかな、それとも悲しいのかな。

 ふと、浩二は傍らの魔物に顔を向けた。


「あ……」


 確かに魔物はこちらを見つめていた。

 何の感情もうかがわせない瞳で。

 恨みも憎しみも、さっきの怒りすらない。悲しいとも嬉しいとも思っていない。

 視線を自分の喉辺りにあわせたまま、黙っている。


「かり……か」


 こいつはずっと言っていた。自分を、勇者を狩ると。

 だから待っているんだ、自分が死ぬのを。

 血泡の吹き出る様子を、流れていく命の量を、瞳から輝きが失われていくのを、ずっと見つめながら。自分の獲物が死ぬのを、待っている。


 多分、自分の間違いは、こいつがいた村を襲ったことだったんだろう。

 痛みはすでに薄らいでいる。その代わり、場違いなくらいの空腹感を感じ取った。

 真っ黒になっていく世界の中、浩二は奇妙にほっとした気分で、呟いた。


「……チャーシュー麺、食いてぇなぁ」


 それが、この世界に勇者として降りた彼の、最後の言葉になった。



 玉座から、どすっと体がずり落ちる。水鏡の向こうの勇者は、大きな血泡を吐き、動かなくなった。


「……イェスタ」


 審判の神は答えない。時計を見つめ、頷く。


「勝敗は決されました」

「イェスタ」

「此度の決闘、勝者は」

「イェスタアアアアアアアアアアア!」


 声を上げるが体に力が入らない。時の法杖を手にした女神は、朗らかに笑っていた。


「今すぐ勇者を蘇らせよ! 我が治めし、全ての世界、信者を捧げて構わん!」

「それはできませぬ」

「そんな答えは聞いておらん! やれと言っているのだ! この私が!」

「できませぬ」


 笑顔、まったき笑顔。


「此度の勝者は女神サリアーシェ様の配下、コボルト族のシェート殿と決まりました故」

「ふあっ、あ、あああああああああああああああああああああ!」


 世界が暗くなる。目の前が暗くなっていく。何もかも仕組まれ、叩き落されるために設えられた舞台、こんなものを認めるわけにはいかない。


「サ、サリア! サリア! 頼む! そなたからも何か、何か言ってくれ!」

「何を、でございましょう?」


 妹は笑っていた。


「これは婚儀のための余興なのであろう!? いくらなんでも、未来の夫にこのような真似! 悪戯が過ぎる!」

「できませぬ」


 笑顔、まったき笑顔。


「決闘の儀を結ぶ際、兄上が宣言なされたではありませぬか。御身が勝たれた時、婚姻を結ぶと。そして、負けたときには、通常の決闘と同じに扱うと」

「あひっ、は、あああああああああああああああああああああ!」


 こんなものは無効だ、仕組まれた罠だ。なんとしてもこの場は逃れ、申し開きを。

 そう思い、身を翻そうとした。


「なんだこれは!」

「ご存知のはずですが。決闘に敗北した神は、遊戯の終わるまで、その身を敗北者の像として飾られるしきたりを」


 足が、どす黒い石炭のような色に変わっていく。その変化は見る見るうちに足を這い登り、腰を固めていく。


「はっ! あっ! はあっ! は、サリア! サリア! サリアアアアアア!」

「はい」

「たっ、頼む! このような辱めだけは、断じて、断じて認められぬ! 後生だ! そなたの奏上で、この虜囚の扱いを解いてくれ! あのような魔物に負けて石像と化したとあれば、我が神性に拭い去れぬ穢れがあああああああああ!」

「承りました」


 途端に、山のような重荷が下りる気分がする。ゼーファレスは声を甘く甘く変え、妹に囁いた。


「そ、そうか、それならばよいのだ!」

「ただし、兄上にお願いがございます」

「なんだ! 何でも申してみよ! 早く!」


 黒炭化は胸まで競りあがっている。それを知らぬ気に、サリアは耳元で囁いた。


「我が世界を貶めた、神々の名を、お教えください」

「な、なに……?」

「実は、世界喰らいの秘密を伏せ、我が世界の結界を破り、魔軍を引き入れた神がいるとあるものから聞き及んでいるのです」


 サリアの言葉に、喉が詰まる。

 目が笑っていない、顔は華やかな笑顔、だが笑っていない。


「あの結界は、私が丹精込めて創ったもの。そして、その秘密、製法を知るものは極わずか……そのことも、ご存知でしたな」

「あっ、はっ、あ、あっ」

「私の世界が最初の遊戯が行われた地であり、そこから強大な力を振るい始めた神々が、幾柱かおありでしたな。例えば……兄上とか」


 すでに顔も笑っていない。黒炭化が、じわじわと喉まで這い登る。


「その全ての神の名をお教えいただければ、兄上を虜囚の身から解き放つことも、やぶさかではございません」

「そ、その、神の名を知って、なんとする」

「鏖殺」

「ひ……」


 まるでその意思が乗り移ったように、サリアの意思が黒と一緒に顎を這い登る。


「兄上」

「う……」

「お答えを」

「……ゆ」


 首を一杯に伸ばして、ゼーファレスは絶叫した。


「許してくれサリアーシェェェェェェェェッ!」



 ようやく、煩かった空間が静かになった。

 審判の女神に一切顔も向けず、サリアは水鏡の向こうで立ち尽くす姿に声を掛けた。


「終わったぞ、シェート。我がガナリよ」

『そうか』

「とにかく、今は休め。少し用事を済ませたら呼ぶ。その時、ゆっくり話そう」

『わかった』


 ほっとしたように座り込むコボルトを見て、サリアは立ち上がった。


「おめでとうございます、サリアーシェ様」

「別に、御身に寿がれる謂れは無い」


 兄に向けたか、それ以上の冷気を、目の前の神に叩きつける。


「先の話、聞いていたのであろうが」

「はて、何のことでしょう」

「遊戯が始まりし後、力を得た神々、その中に我が求める仇の奴腹が在る」


 彼女の背後には、無様さと見苦しさを煮固めて作ったような、黒き像が立っている。


「そなたもその一つ柱であろうや? "刻を揺蕩う者"よ」

「……滅相な。そのような企みに、私が加わっていると?」

「いずれ明らかになることもあろう。とはいえ、今は――」


 東屋が地に降り、神々の顔が見えてくる。険を収めると、サリアは輝くような笑みで会衆を見回した。

「勝利の余韻を、味わうのもよかろうか」


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