4、ミューズの囁き
それまで、たくさんの人と神とで、ごった返していた会場。
無人になったその空間に、三条日美香は一人、立たずんでいた。
ふと、手にしていたケースに視線を落とし、中身を取り出していく。
色とりどりのカードたち、スリーブも付けていないそれを、用心しながら一枚ずつ、内容を確かめていく。
「そういえば、デュエルするのなんて、久しぶりかぁ」
この異世界にやってきてから、半年が過ぎていた。
見知らぬ町で冒険をこなし、二人の魔将を倒してきた。すべてこのカードの力であり、勇者としての力は、常に使っているようなものだった。
でも、同じカードを使って戦うという経験は、本当に久しぶりのことだ。
「あの子、結構強かったな」
模擬戦ということで、お互いに複雑な動きをするカードはなく、入っているカードもまったく同じという、ミラーマッチのデュエルだ。
青い仔竜はさすがに初心者で、ルールは理解したものの、動きはぎこちなかった。
それでも、
「……楽しかったなぁ」
深く息をつき、戦いの状況を思い返す。
自分の意思でカードの効果が現実のものとなり、クリーチャーがぶつかり合い、呪文が飛び交う。
そして勝負がつき、自分の敗北を悔しがりながらも、仔竜は笑っていた。
次は負けるつもりはないと、付け加えて。
「ずいぶんうれしそうね。そんなに気に入った? あの仔竜のこと」
突然、背後に気配が現れ、耳元にそっとささやく。
背筋のしびれるような反応から意識をそらすと、日美香はパートナーをたしなめた。
「マーちゃん、そういうのはやめてって言ったでしょ?」
「しょうがないじゃない。声はかけたのに、反応してくれなかったんだもん」
「それと……あの子、ドラゴンだよね? 私はその、そういう趣味は……」
「なぁに? あたしはただ、彼とデュエルするのが楽しかった? って聞いたんだけど」
猫のように目を細め、にやりと笑う女神。
彼女は万事、こういう調子だった。こっちがうろたえぶりを喜ぶ姿は、まるで年下の妹のような無邪気さだ。
マクマトゥーナ、異世界に君臨する愛と美の化身。それが自分をこの世界に呼んだ女神の名前。
「それはそうと、さっきはお疲れ様。ちょっとぐだったけど、いい初舞台だったよ」
子供っぽい笑顔と気さくな言葉は、とても神様のものとは思えなかった。たぶん、一緒の学校に通ったとして、何の違和感もなく溶け込んでしまうだろう。
「ありがと。でも私、ああいう仕事はやっぱり苦手だなぁ。できれば次は、別の人にやって欲しいかなって」
「残念だけど、そのお願いは聞けないわ。あたしの勇者様であるからには、ただ勝負に勝つだけじゃだーめ。エンタティナーとしても一流でなきゃ」
「具体的には?」
「勝利者インタビューの時、取材のカメラににっこり笑って、リップサービスの一つでもかませるぐらい」
「うぅ……ハードルたっかいなぁ」
上機嫌に笑うと、彼女はテーブルに置かれていたグラスを、こちらに差し出してきた。
「ともあれ、まずは乾杯しましょ。あたしたちの計画の始動と、その成功に!」
「成功、って言うのはまだ早くない? ゲームは始まったばかりだよ?」
「いいのいいの。ここまで来たら、あたしの計画は成功したも同然なんだから」
泡立つ飲み物を満たした細長いグラスを、軽く打ち合わせる。こちらはレモンの香りのする甘めの炭酸だが、あちらは本物のシャンパンらしかった。
「成功したも同然……って言うけど、やっぱり気が早いんじゃないかな」
渇いた喉を潤しつつ、女神に問いかける。
「たくさんの神様たちを呼んで、"神々の遊戯"をデュエル形式にしたのは良いけど、もしも……私が負けちゃったら?」
「ああ、それは大丈夫。もちろんヒミちゃんが勝つのは絶対なんだけど、万が一そんな間違いが起こっても、何の問題も無いのよ」
自分のグラスを飲み干してしまうと、女神は軽やかな足取りで、舞台の上に立った。
そのまま白いドレスのすそをつまみ上げ、会釈する。
「それじゃ、そういう事情も含めて、あたしたちの計画をおさらいしましょうか」
舞台の袖から、高らかなファンファーレが響き渡る。
壇上に立った女神は顔を上げ、くるりと身をひるがえし、瞬く間に日美香そっくりの姿に早変わりした。
『あたしの見初めた勇者様、三条日美香はカードゲームの神規使い』
ジーンズにTシャツ、羽織ったジャケットにお気に入りの帽子、そして片手に一枚のカード。踊るような仕草で、紙片で虚空を斬るまねをする。
そんな彼女の前に、下半身が蛇の形をした魔物と、無数の腕を生やした魔物が、大げさな叫び声を上げて立ちふさがった。
『この神規、なんと普通の魔物に対しては絶対無敵! 一枚のカードで、どんな相手も完・全・粉・砕!』
魔物役に扮しているのは、先ほどまで給仕を務めていた彼女の従者らしい。そんな彼らの攻撃をかわし、素早くカードを振るって撃退していく。
『強靭! 無敵! 最強! インチキなぐらい強いわ! ヒミちゃんサイコー!』
絶賛の嵐に、日美香は頬を赤らめてうつむいた。
何でこれまでの事情を説明するのに、わざわざ演劇仕立てにしているんだろう。
だが、続けられた言葉は、視線を下げたまま聞いていることはできなかった。
『でもね、これでは彼女の願いには届かない。彼女の願いは、異世界チートで無双するなんて、ちゃちなものじゃございません』
舞台の上で一人、スポットライトに照らされる女神は、顔を憂いでかげらせて、そっと胸に手を当てていた。
舞台の上には、いつのまにか町並みが広がっていた。
見知った自分の故郷。自分の通う学校、通学に使う駅、良く行くカードショップ、そして自分の家さえも盛り込んだ、よくできた書き割りだ。
『元の世界では手に入れられなかったもの、そして届かなかった夢』
彼女は憂い顔のまま、日美香の通う学校の制服を身につけていた。
その周囲を行き過ぎるのは、同じような姿の女生徒たち。無数にあるグループの中で、"日美香"はそのいずれにも属していない。
そうだ、自分は取り残されていたのだ。
理由は分かっている。あの過ぎていく女の子たちが、あえて手にしなかったものを、選んでしまったから。
『地球では手に入らなかったものも――ここでなら!』
女神の腕の一振りで、背景はがらりと変わった。
古めかしい石造りの町並み、そびえる城砦、広がる荒野、そして空を往く魔王の城。
気が付けば、舞台の上の女神はこちらを差し招いていた。
『もし、あなたが本当にそれを望むなら、あたしの手を取りなさい。魔王を倒し、世界を救う。その暁に、あなたの願いを、かなえてあげるわ』
日美香はグラスを置き、そのまま舞台に上がる。
すでに仮装をやめ、ドレスに着替えた女神へと手を伸ばす。
『彼女は勇者となった。自分の願いを叶え、あたしの願いを叶えるために』
驚くほど強い力が、日美香を抱き寄せる。
甘い香りが鼻の奥に染み入り、意識はふわりと、あいまいな世界に踏み込んだ。
うれしいような、くすぐったいような、気持ちいいような心地。
『そしてこのあたし、"愛乱の君"にも願いはあった。その願いは、自分の選んだ勇者のそれと、どこか似ていた』
その台詞を合図に、袖からたくさんの役者たちが現れた。
会場で見た神様たちと勇者たちの似姿。それぞれがカードを手に、こちらと対峙する。
「さあ、踊っていらっしゃい、あたしのかわいい勇者」
意外な言葉と一緒に、女神がこちらの背中を押す。逆らうこともできず、いつの間にか片手にしたカードをかざして、目の前の勇者へ向かっていた。
『神々は勇者を送す機会を求めていた。あるものは欲から。あるものは願いから。資格がない、財貨がないと、あきらめながら』
ぶつかりそうな勢いで近づいた日美香を、相手の勇者役は優しく抱きとめ、優雅な身動きで踊り始めた。
いつの間にか音楽はワルツに変わり、互いに手にしたカードを絡ませながら、円舞を繰り出していた。
「あ……足踏んだら、ごめんなさい」
「大丈夫よ。体を楽にして、リードにあわせてね」
そう言って笑うのは、いつのまにかパートナーになっていたマクマトゥーナだ。
自分たちを囲うように人々は楽しげに回り、美しい色彩の波になって世界を飾った。
『そんな彼らをあたしは引き上げた。あたしの舞台をお使いなさいと。そうすれば、勝っても負けても、あなた方には華やぐ世界が約束される』
やがて、こちらがゆっくりと動きを止めて、それでも周囲の人々は踊り続けた。
カードを翻し、それを戦わせるのを楽しむように。
『あたしたちに勝っても、彼らはカードを使う。あたしの神規を使わせるために、召喚した勇者たちだもの』
いたずらっぽく笑う女神の顔に、日美香はこのゲームに隠された、仕組みを理解した。
彼女の呼んだ神々は、自分の力だけでは遊戯に参加できない。カードゲームの神規という遊び場を間借りして、途中参加したのだ。
だから、万が一自分が負けても、カードゲームの神規は引き継がれる。
「敗退しても、あなたが元の世界に帰ることはないと思うわ。カードの神規を使うことに長けたヒミちゃんを、手放す手はないもの」
「でも……それでマーちゃんはいいの?」
「ええ。だって――」
女神の瞳が、怪しく輝く。
「――あたしの勇者様は、絶対に負けないから。そんな未来を思う必要はないわ」
ささやく声は甘く、日美香の耳だけなく、五感すべてをとろかすように響いた。
自分の信じる未来を、少しも疑っていない顔に、やさしげな笑みが浮かぶ。
それでも、日美香はただの人間で、彼女ほどには己を信じることはできなかった。
「カードゲームに、絶対はないよ。それに……みんな、そんなに簡単な相手じゃない」
「もちろんその通り。何より今回は、最大のイレギュラーが紛れ込んでいるものね」
女神は日美香を放して、舞台の右袖に向き直る。
現れたのは役者たちではない。大きなお腹を抱えた竜の着ぐるみが、よたよたとした足取りでやってきた。
だいぶデフォルメされているが、さっき姿を見せた黄金のドラゴンだとわかる。
「"斯界の彷徨者"にして"万涯の瞥見者"。そして究極のインチキおじさん、竜神エルム・オゥド。アレがあたしたちの、乗り越えるべき『最悪』の敵よ」
「『最強』じゃないんだ」
「最強なんて、より強い力でぶっとばせばいいだけじゃない。でも、最悪はどう対応したって最悪でしかないもの。ほんと、厄介極まりないわ」
実物よりもだいぶユーモラスな竜神は、青い仔竜のぬいぐるみを掲げて戦いのポーズを取らせていた。
「サーちゃんが実の兄であるゼーファレスを倒した少し後、彼はサーちゃんに加担すると言ってきたわ。そして、何の能力もない『はず』の仔竜を、コボルトのお供によこした」
「何の能力もないって……あの子、空飛んでたよね?」
「ヒミちゃんの世界のお話でもよくあるでしょ。ピンチのときの覚醒イベント、あれが魔王城の中で、"偶然"に起きたんですって」
女神の言葉は、たっぷりと皮肉がこもっていた。
そんな都合のいい偶然が起こってたまるか、ということだろう。
「とはいえ……"知見者"の軍を滅ぼせたのは、間違いなくあのインチキおじさんのおかげだしぃ、あんまりうるさいこと、言うつもりはないけどねぇ」
「これからは別ってこと、かな?」
「そういうこと。ぶっちゃけ、サーちゃんたちは彼のオマケよ」
くるりと背を向けた着ぐるみは、背負われたコボルトと女神のぬいぐるみを、尻尾を振りながら見せ付けてきた。
腰に結わえた紐には、狼のぬいぐるみがぶら下がっている。
「あいつの得意技は、自分の持っている手駒を最大限に生かして罠を張ること。とにかくヒトの使い方が上手なのよ、ドラゴンの癖にね」
「逆に、あのドラゴンさんをどうにかできれば」
「あたしたちの勝ちが、決まるってこと!」
言うが早いか、女神は滑らかな軌跡を描いて飛び上がり、大きなドラゴンのお腹に強烈なドロップキックを叩き込む。
吹き飛ぶドラゴンと下敷きになるコボルトたち。片膝立ちで着地を決めた女神は、スカートのすそを軽く払い、笑顔でガッツポーズを決める。
日美香はそのシュールさに、笑うしかなかった。
「シェート君はコボルトにしては肝が座ってるし、フィアクゥル君もかなりの逸材だと思うわ。でも、それはあくまで竜神の存在があってこそ」
「コボルト君の女神様は?」
「サーちゃんは、うん。言わぬが華ってことで」
どうやら、彼女の中で敵の評価は終わっているらしかった。壇上から見たサリアーシェという女神は、事態の変化についていけてないようだったし、当然かもしれない。
「もちろん油断はしないわよ? これまでたくさんの強敵を降してきた子達だもの。だからこそ、逆転の目は確実につぶさなきゃ」
「もしかして、もう作戦も考えてあるとか?」
「当然よ。それで、ヒミちゃんに協力してほしいことがあるの」
協力という言葉に、日美香は当惑した。
自分はまだ中学二年生の子供でしかなく、彼女のような策略をめぐらすなんてことはできるはずもない。
「そんな顔しないで。あなたにはあなたの得意なことで、力を貸してもらうから」
「それって……ウィズのこと?」
問いかける日美香に、女神は再び近づいてくる。
さっきよりも深い、怪しげな笑みを浮かべて。
「三条日美香、あなたには創ってもらうわ。あらゆる敵に勝利する『無敵のデッキ』を」
とろけるような言葉が、日美香の耳元をくすぐる。伸ばされた腕が肩を抱きとめ、柔らかく包み込んでくる。
先ほどよりも更に大きな甘美が、大波のように覆いかぶさってくる。
彼女の命令には逆らえない、そんな気持ちが全身を満たしていく。
それでも、口にすべき答えは決まっていた。
「そ……そんなの、できないよ」
「どうして?」
「だって、ウィズは……カードゲームっていうのは……」
自分の中のあらゆる知識が、経験が、それを不可能だといっている。
トレーディングカードゲームに『万能の回答』は存在しない。ひとつのデッキに強ければ、別のデッキに弱くなるのが道理だからだ。
「できないなんて言葉は聞けないわ。それがなければ、あたしたちは竜神に敗北する」
「なら、あなたが考えて――」
「それはダメ。あくまで神々の遊戯は勇者が主役、考えるのはヒミちゃんじゃないと」
女神の吐息が首筋に掛かる。思ったよりも熱いそれは、こちらの抵抗する気持ちを根こそぎ奪っていく。
だが、無理なものは無理だ。
相手に何もさせず勝つタイプのデッキでさえ、最初の手札次第で負けることもある。
「知ってる? 私たちの世界では、それを無理ゲーって言うんだよ」
「知ってる? 無理を通して道理を引っ込ませるのが、神様のお仕事なの」
日美香の目じりが、うっすらと涙でにじんだ。
かき乱す陶酔とマクマトゥーナの頑固さで、心は熱く燃え、膝が小刻みに震えた。
内なる何かが弾けそうになる直前、女神はするりと日美香を解放した。
「ふふふ、意地悪はこのくらいにして……そろそろあたしの秘策を授けちゃおうかな」
「ひ、ひさく?」
「これさえあれば、きっとあなたにも創れるはずよ。誰にも負けない、無敵のデッキを」
そして、女神の唇は語りだした。
あまりにもおぞましく、魅惑的な『秘策』を。
「そ、そんなの! だって……それじゃあ!」
「心配しないで。これはあくまで竜殺しの剣、彼を倒す以外に揮う必要のない刃だから」
彼女の秘策を使えば、おそらく『最強』のデッキが作れるだろう。
いや、彼女流に言うなら『最悪』のデッキだ。
できるかどうかは、すでに問題ではなかった。必要なカードを選び、調整をすれば、無敵にして最悪のデッキができあがるだろう。
「もしかして……あの人が来るのも、予想してたってこと?」
「ぞうじゃないわ。全ては、今回の遊戯に勝利するため。"四柱神"を打ち倒し、頂点に立つために」
告げる女神の言葉が、鋼の硬さと氷の冷たさで吐き出される。
両目に冴え冴えとした輝きを宿し、"愛乱の君"は厳命を下した。
「創りなさい、我が決闘者。天の竜を打ち滅ぼす、最強の『武器』を」




