1、神聖なる集い
サリアが待ち合わせの場所に着いた時、同伴者は閑暇を吐き出していた。
仕立てのいい麦わら色のスーツに身を包んだ、たっぷりと肥えた男だ。
糊の利いたシャツを、風船のように膨らませる太鼓腹。
張り出した曲線はつやのある牛革のベルトに覆いかぶさり、上着の合わせも開いたままになっている。
大きな尻と緩んだふとももに合わせたズボンは、上等な布を丸太に着せかけたようなラインで裁断されており、縫い目の精緻さを相殺していた。
胸元を飾るのは、ポーラータイと呼ばれる組み紐と真紅色の輝石で作った留め具。本来ならネクタイを使うところだが、太った首が窮屈になるのを嫌ったのだろう。
身なりに気を使うが、姿形にはこだわらない。そう言外に主張するような着こなしだ。
くわえている褐色の棒は、葉巻と呼ばれる嗜好品。厚い唇がすぼめられ、先端の赤い火が心持ち明るくなる。
おもむろに、太い指が葉巻を口元から遠ざけ、長い煙の帯を吐き出す。
眼前に広がった長大な神の庭が、かすかに白くけぶる。
男は飽きることなく、吸い、吐き出しを繰り返している。
儀式めいた循環行動が一段落したところで、サリアは歩み寄った。
「お待たせして申し訳ございません、竜神殿。身支度に手間を取りました」
「なんの」
手にした葉巻を虚空に消し去ると、人の姿に身をやつした黄金竜は穏やかに微笑んだ。
「待つという行為は竜にとっての日常よ。そも、麗しき姫神を伴う栄耀を思えばこの程度、忍ぶうちにも入らんさ」
「身にそぐわぬ賛辞はどうかご勘弁ください。麗句の束なれば"万緑の貴人"殿から、十二分に頂戴いたしましたので」
「そう言えば、最近あやつの姿を見なくなったな」
竜神からの振りに、サリアはあいまいに微笑むだけに留めた。
"万緑の貴人"マリジアルは、"知見者"フルカムトとの決戦の後、サリアに暇乞いを告げていた。
『どうやら、私も貴方に対して本気にならねばならぬらしい。次にまみえる時は、存分に覇を競いましょうぞ』
星の命を育むものとして、汎世界で声望を得る森の民。
マリジアルはその長として、遊戯に参加せずとも磐石の地位を確立させていた。
そのすべてを放棄する覚悟で、彼は新たな遊戯への準備を始める気なのだ。
問題があるとすれば、万が一サリアが遊戯で勝利を収めた場合、彼の努力は無に帰すことぐらいだろう。
「そう言う割に、身づくろいに余念はないようだが……よもや連れの儂を差し置いて、思い人でも待たせておるのかな?」
「同伴していただく竜神殿に、恥をかかせるわけにはゆきませぬゆえ。ありあわせの装いではありますが、ご容赦ください」
むしろ、ありあわせというより、なけなしの知識を振り絞った結果と言ったところだ。
身につける薄物の色を、白地から薄い青に変え、濃紺に染めた腰帯を磨いた赤銅の飾りで留めてある。どちらかと言えば細身の体型であるサリアなら、こうした強い装具を使うことで見た目に変化を付けられると、カニラに教えてもらっていた。
身につける腕輪や首飾りは、まだ己の星が健在であった頃に、儀礼のためと作らせたものだ。こんなことでもなければ、再び身に飾ろうという気すら起こらなかったろう。
淡い橙に染めたもの肩掛けを選んだのは、顔色を映えさせるため。人間ベースの神は原型となった生物のしぐさを、感情表現を相関させるのが常だ。
こういう事態に備え、端女となる神を雇うのが大神のたしなみだが、そんな当てもないサリアにとって、装うという行為は遊戯で勝つ以上の難行だった。
「……そういえば、こうしたことは兄上に任せきりであったな」
まだ兄神ゼーファレスと破談していなかった頃、衣装の見た目は兄か、彼の恋のお相手に見繕ってもらっていた。カニラと親交を深めたのもそれがきっかけだった。
「いかな装いであろうと、そなたの魅力は損なわれぬよ。では、参るとしようか」
「……ええ」
差し出された片手に微笑んで返し、こちらの手を相手のそれに重ねる。
その仕草をきっかけに、二人の前で異界の門に光の筋目が入った。
身じろぎしながら開いていく門扉の向こうで、ドライアドの声が響いていく。
『"平和の女神"サリアーシェ様、"斯界の彷徨者"エルム・オゥド様、御出座!』
踏み出し、潜り抜けた先に広がっていたのは、先ほどとは別の庭園の姿だった。
緑の芝生に覆われた広々とした空間は、神の庭に準じている。しかし、四方は色とりどりの薔薇が咲き誇る生垣で囲われていた。
蒼空に輝くのは、おぼろな金の燐光ではなく、燦とした日輪だ。
己の肌を温める日差しを感じながら、サリアは辺りを見回した。
広場のあちこちには円形のテーブルがしつらえられ、果物を盛った盆や、目にも鮮やかな酒の瓶、口を楽しませる佳肴が並べられている。
卓の周囲では、来賓たちが盃を片手に談笑し、あるいは美味に舌鼓を打つ。
顔をベールで覆った端女が、踊るように客の間をすり抜け、居並ぶ貴顕の酒盃を満たし、空の大皿を山海の珍味を盛ったものと取り替えていく。
舞うような配膳の動きは優雅で、それさえも宴席を華やかにする演目と言っても、過言ではない。
いずこかの貴族の園遊会、あるいは国を挙げての祝宴と言っても通用しただろう。
居並ぶ客のほとんどが、人とは思えぬ異形でなかったら、だが。
庭の景観と見まごう程の巨大な岩石の巨人や、日差しに発条や歯車を輝かせる人型の機械、鳥や獣を顔を持つ獣人種、あるいはただの泥土と見まごう者。
そのすべてが、神と呼ばれる超越者の一群だった。
「驚きました……よもや、これほどの神々が集うとは」
「"愛乱の君"の声望は"英傑神"のそれに比肩する。あやつからすれば、これでもまだ足りぬと考えているだろうよ」
おそらく、サリアの知りうるほとんどの神が、この場に降臨しているだろう。本来なら遊戯に参加しうる実力を持ちながら、その機会さえ与えられなかった有力者たちだ。
気がつけば、場にいるすべての視線がこちらに収束していた。
険悪ではないが、友好的でもない雰囲気。敵対するか、共闘するか、そんな逡巡が目に見えるほどだ。
そしてサリアは、彼らのかたわらに立つ、意外な存在に気がついた。
思い思いの衣装に身を包んだ人間の少年少女たち。それは紛れもなく、地球から呼び寄せられた勇者たちだ。
「竜神殿、過去の遊戯において、勇者が補充された例は?」
「無い。これも、あやつの"神規"によるものということだ」
子供らの無遠慮な視線が、サリアと竜神をなぶる。これまでの顛末を、自らの神に聞かされていたのだろう。同伴者は気にした様子もなく、分厚い片手をひらひらと振って、愛想を振りまいていた。
「サリアよ、そなたも笑顔のひとつでも浮かべてみぬか? 色香に惑わされた勇者の一人や二人、こちらに転ぶかも知れんぞ」
「ですから、私はそのような真似は苦手ですので……それより、こんな状況では使いに行った二人が――」
「おらー、そこ道開けろー、邪魔だぞー!」
人垣の向こうから、聞きなれた声が届く。
群がる者達の間を縫うように、小さな人影がこちらにやってきた。
狼の背に乗った青い仔竜と、その傍らに寄り添うようにして歩くコボルト。
「おっさん、料理持ってきたぞ。酒はシェートが」
「うむ。お使いご苦労」
両手に酒瓶を下げたシェートは、こちらを見上げると、かすかに微笑んだ。
「待ったか?」
「いいや。席を取ってある、まずはそちらに腰を落ち着けよう」
休憩をするためにしつらえられた座卓に向かうと、めいめいが好きな場所に座り、料理を盛り上げた皿から料理を取り始める。
サリアの向かいには仔竜のフィアクゥルと竜神が、こちらの傍らには、コボルトのシェートが座っている。星狼のグートは座卓の脇に寝そべっていた。
「まずは乾杯といこうか」
透き通ったワインが竜神の肥厚した手によって注がれ、四つの杯を満たす。めいめいがグラスを手にしたところで、青い仔竜が問いかけた。
「いいけど、なんて乾杯する?」
「そうさな……サリア、何かあるか」
細い指先でガラスの脚を摘み取ると、サリアは心からの思いを告げる。
「これまでの、皆の尽力と、心身の息災に」
「うむ。ただいまはそれを寿ぐが良かろうな」
それぞれがうなずき、杯を手にすると、おもむろに音頭を取った。
「皆の尽力と息災に」
『乾杯』
打ち合わせたグラスがささやかに鳴り、それぞれの喉を、甘露にも似た流れが伝う。
「もしかしてこれ、大分いいやつじゃねーかな。ワインって飲んだことなかったけど」
「甘いな。ぶどうの匂い、する。あと、ちょっと青い匂い」
「この座で供されているのは、ほとんどが地球産だ。一定の質と量を備えたものを手っ取り早く集めるなら、あちらで買ったほうが早いからな」
サリアも再び口を湿し、その味わいを確かめる。美味への造詣は深くない自分だが、うるさ型の竜神を満足させ得る品質だとは理解できた。
「それにしても、久しぶりにうまい飯が食えて、ほんとありがたいぜ」
嬉しそうに言いながら、フィーは手にした鳥の腿肉をバリバリと骨ごと噛み砕く。
以前よりも食べ方が野性味を帯びているのは、長く欠乏を経験したためだろう。シェートと共に礫砂漠を縦断する間、食は常に貧弱なものだった。
「落ち着け。料理、一杯ある。鳥の骨、喉刺さるぞ」
シェートは手にした小皿に料理を盛り上げ、仔竜の目の前に置いた。その表情はとてもくつろいで、穏やかに微笑んでいた。
以前は常に緊張を強いられ、苦労と困窮が付きまとっていた旅。それもフィアクゥルという心強い同行者を得て、ある程度の余裕が生まれていた。
「でも、まさかおっさん達が、こっちに来るとは思わなかったよ。なぁ?」
「ああ……それと、あれな」
コボルトの視線が警戒を強めて、会場を見回した。
神々のかたわらに立つ、着飾った人間の少年少女たちに不満の声をもらす。
「サリア、勇者、あと少し、言ったな?」
「すまない。私もまさか、こんな形で補充されるなど想像もしていなかったのだ」
シェートたちが魔王の城にさらわれる直前、"愛乱の君"マクマトゥーナが宣言した遊戯の停止。その理由が新規に召喚された『補充勇者』達だった。
「っても、あいつら小神の勇者だろ? 神器も持ってなさそうだし、どうする気だ?」
「それが中々面白いアイデアでな……その辺りは、主催者に聞けばよかろうよ」
竜神が指差す先、周囲よりも一段高く作られた舞台の上に、艶やかな姿が現れる。片手に長細いグラスを持った女性は、よく通る声で挨拶を始めた。
「やあ、みんな、お待たせー。宴は楽しんでもらえてるかなー?」
"愛乱の君"マクマトゥーナ。
この状況を演出し、新たな勇者たちを召喚して見せた大神は、笑顔で舞台の上を歩きつつ、悠々と語りだす。
「お酒とかお料理とかはちゃんと足りてる? 欲しいものがあったらなんでも言ってね。すぐに取り寄せるから!」
その体から、仕草から、満足と喜びが放散されていた。こうして皆の前に姿を現し、注目を集めるのが、嬉しくてしょうがないといった風情だ。
「アレが例の四柱神か」
「その通り。そして、四柱神の中で、最も相手にしたくないのが、あやつだ」
祝いのワインから濃い火酒に切り替えた竜神が、酒盃を口元に添えつつ評する。
「目立ちたがり、祭り好き、楽しみのためなら労苦を惜しまない。生まれながらの享楽主義者よ」
「おっさんの同類か」
「馬鹿を言え。儂はあやつよりもはるかに謙虚で、慎みを心得ておるわ」
壇上の女神は何かに気が付き、軽やかな身ごなしで芝生に降り立ち、神と人とが群れをなす場に分け入った。
「どうしたの? もしかして、緊張してる?」
足元に小さな獣神を連れた少年へ近づき、優しく問いかける。
その声は甘く、媚を含んでいるようでありながら、芯の強さを感じさせた。
「い……いえっ、その……」
「なにも心配しなくていいんだよ? 君は君のやりたいように、楽しめばいいんだから。さぁ、一献どうぞ」
「ひいっ!? お、おひいさま手ずからっ!? ト、トシユキッ! さっさとグラスを出しやがれですかぁっ!」
緊張で蒼白になった主従に女神が飲み物を注ぎ、ぎこちなく乾杯の音頭が取られた。
そのまま、マクマトゥーナは人波を練り歩き、それぞれの神と勇者をねぎらっていく。
「自分の宴に呼ばれた客が、つまらなそうにしているのは我慢ならん、と言うところか」
「とはいえ高名な大神よりの酌、身も細る思いをされる方も、少なくありますまい」
実際、この集まりの中で、彼女に比肩しうる所領と神威を備えている者はごく僅かだ。
その中に、少し前まで廃れる寸前だった自分が混じっているのは、なんとも奇妙なことに感じられた。
「さてさて、こんなところで"壁の花"になっちゃってる悪い子は、誰かなー?」
数名の端女たちを後に引き、主賓が目の前に現れる。隣に座るシェートが、緊張で体をこわばらせた。
「サーちゃんたちも大事なお客さんなんだから、遠慮しないで楽しんでいってね?」
「ご高配、痛み入ります。こちらも十分に興じておりますので、お気遣いなきよう」
「うんうん。おおっ、君がシェート君か。始めまして、あたしはマクマトゥーナ。よろしくね」
「――ああ」
シェートは差し出された手を凝視し、敵意の混じったいらえを返した。
あからさまな無礼。成り行きを見守っていた神々が絶句し、勇者達の緊張した視線がこちらに集中する。
サリアは腰を浮かし、この場をとりなそうと口を開きかけた。
「ふぅん?」
行き場を失った右手を、蝶のようにひらひらと舞わせると、"愛乱の君"は薄い笑みを浮かべて問いかけた。
「縁をば結ばんと、差し出せし我が手、無下に払いし意は那辺にありや? 悪逆の徒よ」
それまでの砕けたものとは違う、威圧を込めた言葉。凍てついた輝きを宿す瞳を、それでもコボルトは必死に睨み返した。
「……うまい飯、きれいなとこ、タダ違う。くれる奴、絶対、何かある」
その言葉は重く、苦かった。
魔王城でのあらましは聞いていた。おそらくシェートは、この場に流れる作意を、あの時と同じものとして受け取ったのだろう。
「タダの物、くれる、仲良くする、言うやつ。俺、絶対、信じない」
重苦しい沈黙に空気が凍り、世界が凝固する。
だが、
「ふ――」
雪解けが鮮やかに女神の面を洗い、真紅の唇が緩やかに機嫌を上向かせる。
整ったかんばせを反らせて、"愛乱の君"は朗らかに笑った。
「あはっ、あははははは! いい、いいよー、最高だぁ! うんうん、ここまで勝ち残ってきた子なんだもん、そうでなくっちゃ!」
ひとしきり笑った彼女は、腰をかがめて優雅に会釈をしてみせた。
「数多の難敵討ち払い、勲刻みし勇ましき者よ。我が二つ名に掛けて、限りなき賞賛と無礼の謝辞を賜わそうぞ」
「……な、なんだ? なに、言ってる」
突然の展開にうろたえたコボルトに向けて、竜神は笑いを含んで注釈を飛ばした。
「"愛乱の君"とは、こやつが司る神性の一つに過ぎん。享楽と技芸を司る女神は、天下の覇者を見出し守護する、"王の太母"でもあるのだ」
「あたしとしても、君みたいな子は無視できないもの。どう? サーちゃんから鞍替えしてうちに来ない? 一緒に世界征服とかしようよ!」
屈託なく語りかける女神に、シェートの顔が心底嫌そうにしかめられる。求められるという行為に、かなりの苦手意識が植え付けられているのは明らかだった。
「それ以上はおやめください。シェートが困じておりますゆえ」
さりげなく身を寄せ、コボルトの両肩を抱き寄せる。驚いた表情になったシェートは、それでも黙って、背を預けてきた。
「ごめんごめん。でも、お誘いは割りと本気よ? うちの神座にも、そろそろ若くて活きのいい子が欲しかったし」
「魔王の次は女神様からラブコールか。モテモテだな、シェート」
「俺、誰のとも違う。俺のだ。絶対、やらない」
袖にされたことさえ、からりと笑い飛ばすと、女神は再び壇上に上がった。
身につけた衣装を軽く直し、咳払いを一つ。
「では、改めて。"愛乱の君"マクマトゥーナ、ここに遊戯の一時停止と、あたしの勇者であるところの三条日美香による、神規の展開を宣言するわ!」
その傍らには、いつの間にか一人の少女が立っていた。
前のみにつばの伸びた帽子、粗い織の青布で作られた上下、照れくさそうに笑みを浮かべる姿は年相応の少女であって、勇者の猛々しさは無い。
「それじゃ、えっと、僭越ながら、だっけ?」
「細かいことは考えなくていいよ、さ、どーんとかましちゃって」
「じゃあ、いきます!」
少女の片手に光り輝くカードが生み出され、天へと放り投げられる。
蒼空の太陽と見まがうばかりに光ったそれは、無音の爆発と共に砕け、飛び散り、会場にいる全ての者へと降り注ぐ。
その輝きは勇者達の手元で一枚の紙片と化し、手の中に納まった。
「なっ、なにっ!?」
「サリア!? なんだ、これっ!」
シェートの手にはサリアそっくりの姿が描かれた札、フィーのものには巨大な竜神の姿が描かれた札が現れている。
それぞれにカードが行き渡ったのを見ると、マクマトゥーナは高らかに宣言した。
「それじゃ、詳しい解説、行っちゃうよ!」