花咲く原野(前編)
幅広い河の上に青い姿が浮かんでいた。
羽ばたきもせず、優雅に空中で静止する仔竜。足下の水面に幾重もの波紋が広がり、ゆっくりと押し流されていく。
「そんじゃ」
片手を空に差し上げ、フィアクゥルは勢い良く振り下ろした。
「いくぜぇっ!」
空気が炸裂し、衝撃が仔竜を中心に広がる。その圧力がシェートの肌に叩きつけられ、煽られた体が僅かに下がる。
遅れて通り雨のような水滴が、草もまばらな大地に降り注いだ。
「おーい! どうだぁ?」
「あ……ああ。ちょっと待て」
吹き飛んだ水と一緒に、岸に打ち上げられた魚たちが鱗を輝かせてはねている。粗製の魚篭の中へ大きなものを選んで放り込み、衝撃で死んだ小魚をグートがつまみ食いしていった。
「大漁大漁、ってところだな」
「無茶するな。こういう漁、河汚す」
目の前に舞い降りたフィーは、シェートの言葉に肩をすくめた。
「気にすんなって。どうせこの辺りには人住んでないし、それだけ魚があれば、当分食い物には困らないだろ?」
「……分かった。仕事、手伝え」
「おう」
なだらかな斜面を登るシェートの傍らを、滑るように仔竜が飛ぶ。最初は面食らったものだが、ようやく驚かずに過ごせるようになっている。
「それにしても、今日もいい天気だなぁ」
太陽が、地平線の果てから見えない階に足を掛け、中天へと登る途にあった。
その輝きで空の青は白っぽくかすれて見え、大気にも昼の酷暑を思わせる熱が混じりこみ始めている。
「この調子なら、あっという間に干し魚もできるんじゃないか?」
「乾かすの急ぐ、よくない。昼前、影作る」
木の枝と草で組まれた、小さな掛け小屋。
その近くに作られた乾燥台の前に腰を下ろすと、シェートは魚篭の中から魚を取り出してさばき始めた。
「干し魚って、ただ干すだけじゃないんだな」
「干すだけ、乾いた魚。塩、香草、腐りにくくする。あと、味ない、まずい」
「そりゃそうか」
暴れる魚を山刀の背で叩いて動きを止め、素早く腹をさばいてわたを出す。その傍らでは、仔竜も同じように魚を処理していた。
「フィー、魚さばく、上手なった」
「この生活も長くなってるし、だいぶ慣れたよ」
「俺、混ぜ塩、魚すり込む。ここ任せる、平気か?」
器用にミスリルの小刀を扱う仔竜は、笑顔で頷く。
そのまま、あらかじめ用意しておいた袋に手を入れると、細かくすりつぶした岩塩と、手近に生えていた香草を混ぜたものを、さばいて半身にした魚にすり込んだ。
それを一枚一枚、横に渡された竿にくくりつけていく。普段は網を張った箱に並べていくのだが、手に入れられる材料を考えた結果、吊り下げる形にした。
「なんか干し魚ってより、干し肉っぽいな」
「そうだな」
さばき終わった魚を手にフィーが干し台を見上げる。シェートは手元の塩を見て、苦笑いを浮かべた。
「やっぱり、塩、足らないか」
注意して使っていたつもりだったが、手持ちの塩ではやはり量が少なすぎた。塩気を抑えすぎると日持ちがしなくなるため、単純に少なくするわけにもいかない。
「仕方ない。味無い魚、乾かすか」
「塩……か」
腕組みをしつつ、フィーが何事か考える。
それから、スマホを片手に地面を映し始めた。
「どうした?」
「昔聞いたことあるんだよ。土の中にはミネラル、まあ、塩とかがちょっとだけ入ってるって」
「ああ。父っちゃ、言ってた。塩気ある土、そういう土地、あるって」
それから仔竜は土をすくって口に含み、顔をしかめて細かな砂利を吐き出した。
「うぇー、口ん中じゃりじゃりするぅ」
「お前……土、何で食べた」
「んー? まあ、実験?」
飲み水で口をすすぐと、フィーは残っている混ぜ塩に指を突っ込み、味を確かめた。
「こんなもんか」
「だから、なにを」
「言ったろ、実験だって」
おもむろに数歩、踏み出す仔竜。
その瞳が、不思議な色合いを帯びた。
「うまく行かなくても、がっかりすんなよ?」
大地に両手を突き、フィーは謳い始めた。
その途端、石混じりの砂に、さざなみが生み出された。波は薄く広がり、見える限りの地面に広がっていく。
「きゃんっ!」
敏感なグートが、フィーの聲に悲鳴を上げて距離を取る。どうやら、魔法に関してはコボルトよりも星狼のほうが反応しやすいらしい。
低く、世界を揺るがすような音。
風を操り、河を爆発させたような、劇的な変化は起こらない、ように見えた。
「え……?」
初めは、日の照り返しが強くなったのだと思った。
その輝きは次第に大きくなり、目に見える大きさへと結晶する。
周囲の大地で、岩塩そっくりの塊が、植物のように成長していた。
仔竜の青い肌の上にも。
「フィ、フィー! お前、体!」
「ん?」
夢から醒めたように体を起こすと、フィーは体に生えたものを見て、叫びを上げた。
「おおおおおっ!? お、俺の体からっ、塩が生えてるぅっ!?」
「大丈夫か! 体、痛くないか!?」
大慌てで叩き落とすと、しみ一つ無い青が現れる。ほっと息をつくと、シェートはフィーの頭を軽く撫でる。
「塩、体からでた。悪いとこ無いか?」
「それは大丈夫だけど……おっかしいなぁ」
体から湧き出た塩を遠くに放り捨てると、フィーは苦笑いしつつ、成果を示した。
「とりあえず、使えるかどうか試してみてくれ。良さそうなら、これで干物作りも続けられるだろ」
大地に生えた塊を手に取り、端っこをなめてみる。岩塩よりも塩気の強い、差すような刺激を舌に感じた。
「しょっぱい。いつもの塩、それより強い」
「まじりっけなしだからな。塩って言うと、そっちの方がイメージしやすかったし」
「でも、たぶん、使える、思う」
むしろここまで強い塩なら、量を加減しても十分だろう。小石を拾うように結晶した白い欠片を拾い集めていく。
だが、フィーはその場に立ち止まって、腕組みをしていた。
「どうした?」
「なんで、うまく行かなかったのかなって」
「気にするな」
くしゃくしゃと頭を撫でてやると、袋に詰まった塩を掲げてみせた。
「いっぱい塩、できた。すごいありがたい。お前、ちゃんとできた」
「でもなぁ、予定ではこう、すごい塩の柱がどーんて!」
「わかったわかった。次、もっとうまくやれ」
ふくれっつらをするフィーの背中をそっと押すと、シェートは小屋へと向かう。日差しが次第に強くなり、昼の暑さが強まろうとしていた。
「残り、小屋でやろう。昼間、外出る、よくない」
「そだな」
すでにグートは小屋の奥に引っ込んでいる。
入り口近くに陣取ると、シェートは塩を砕きながら、光の中に輪郭を失っていく瓦礫の地平を眺めた。
バルジャサルン砂漠。
中央大陸エファレアの東部分に位置する、岩と潅木で覆われた不毛の大地。
そこを貫くヌリース河のほとりに、シェートが滞在するようになって、一週間が過ぎようとしていた。
凄絶な脱出行が、夢だったと思えるような、安らいだ日々。
逃げ出して数日の夜は、魔王の幻影に怯えて目を覚ますこともあったが、今ではそんなこともなくなっていた。
「さばくの終わったぜ。俺も塩塗るわ」
「ああ」
作業しやすいよう、平たい石の上に塩を置いてやると、仔竜はごしごしと魚の身を磨き始めた。
「力、あまり入れるな。皮、塩、軽くでいい」
「うん」
フィーの動きは、以前と比べて格段とよくなっていた。
軽い指示と作業を見せるだけで、ほぼ完璧に覚えこなしてしまう。手の加減などは難しいようだったが、シェートと遜色ない精度で仕事を仕上げていく。
「暑くなってきたなぁ」
「そうだな」
手を動かしながら、仕事歌でも口ずさむように、仔竜が聲を紡ぐ。
川面の涼しい風が小屋へと流れ込み、暑熱が嘘のように消えた。
「一家に一匹、ドラゴンクーラーってね」
「お前、聲使う、疲れないか?」
「このぐらい何でも無いよ。てか、これも練習みたいなもんだし」
謳う横顔はとても心地良さそうで、全く苦労を伴わない所作に見えた。むしろ、聲を出すことが嬉しくてしょうがないようだ。
さっきの塩作りにせよ、川での魚捕りにせよ、フィーの"魔法"は、これまで見てきたどんな魔法とも違っていた。まるで、世界そのものが、この仔竜に味方するように思える。
「よし、これで終わりっと」
「ありがとな。これ、干してくる」
「んじゃ、何か飲み物でも作っとくよ」
外の掛け台で作業している間も、シェートの周りには冷えた大気が、外套のように纏いつくのを感じていた。砂漠の暑ささえ、ドラゴンの聲の前には何の問題にもならない。
魚を干しながら、シェートは掛け小屋の中で憩う仔竜を眺めた。
小さな炉に掛けた鍋に謳いかけながら、傍らの狼と楽しげにじゃれあっている。
まるで子供のような仕草に、目元が緩んだ。
「どうした?」
こちらの視線に気が付いたフィーが、壷から顔を上げた。
「……なんでもない」
「そっか。早くやっちゃえよ。日差しが強くなってきたぞ」
「分かった」
干し台に魚を掛け終わると、草を編んで作った覆いを掛けて影を作る。強烈な天日に曝すと味が落ちるため、表面が乾いたぐらいで陰干しに切り替えるのだ。
全ての始末を終えて小屋に帰ると、フィーは土鍋の中身をカップに掬った。
「味はともかく、良く冷えてるぜ」
香草を煮て作った茶。渋い香りの液体の中には、透明な氷が浮かんでいて、中身もしっかり冷えていた。
「お前、氷、作れるか」
「水の温度を下げるだけでいいから、そんなに難しく無いからな」
冷えた茶はほろ苦かったが、暑気の強い砂漠で飲むのには心地いい味だ。それに、大気も程よく涼しく保たれて、乾きと熱を遮ってくれた。
「魚はいつぐらいに上がる?」
「多分、あさって。出来たら、また動く」
「じゃあ、明日は木の実とか集めるか」
のんびりと涼気を浴びながら、収穫や狩の予定を話し合う。
全く見ず知らずの土地にいながら、どこか懐かしささえ感じるやり取り。まだ、群れの仲間が生きていた頃、猟行から帰った午後には、よくこんな風にしていたものだ。
「あとは水も用意しないとな。あの河、深くなくて助かるんだけど、水があんまりきれいじゃないのがな」
「俺、朝早く、狩出る。鹿、似たやついた。肉と水袋、狩って増やす」
「それじゃ、明後日には出られないんじゃ?」
「動くとき、川伝い、する。水袋、できる、七日位。竿立てて行く」
こちらの提案にフィーは、おかしそうに笑い声を上げた。
「物干し竿かついで移動か。グートにくくりつけたら、変な侍の旗印みたいだな」
「さむらい?」
「あー、勇者の世界に昔いた、騎士みたいなもんだよ」
「そうか。グート、騎士の馬、なるか?」
眠っていたグートが片目を開け、ふんっと鼻を鳴らして目を閉じる。いかにも嫌そうな仕草に、シェートも笑った。
穏やかな時間が流れて行く。
憂いの影も今は遠く、差し当たって命を脅かされる危険は無い。
ここにあるのは、心を許せる存在と過ごす日常だけだ。
ふと、目の前の仔竜に顔を向けた。
『俺が、お前の味方になってやる』
魔王の城から脱出したあの日、語られた言葉。
群れを失い、一人さまよい続けた自分の元に訪れた、新しい仲間。
「仲間、か」
つぶやいた言葉に、胸の奥がかすかに痛む。
「どうした?」
問いかけに首を振ると、魚篭に残してあった魚に手を伸ばした。
「そろそろ飯、食うか」
「ああ」
湧き上がった思いを隠したまま、シェートは魚に串を打つ作業に没頭した。
星明りの未だに残る黎明の頃、フィーは目を覚ました。
夜の砂漠は冷たく凍えるような大気に満たされていたが、寝る前に掛けておいた聲のおかげで、誰も凍えないで済んでいる。
炉の側に積んでおいた小枝をくべると、紅の息吹を吐き出す。
炎が乾いた枝に燃え移り、暗闇が暖かな色で拭われた。
「ん……おはよう」
「まだ寝てろよ。飯が出来たら起こすから」
寝ぼけ眼をこするシェートを制し、鍋を火にかける。昨日の魚の残りを、水と一緒に放り込み、塩と香草で煮ていく。
意外なことに、コボルトは本当に目を閉じて、寝息を立てていた。
少し前は、身の回りのことはシェートが先頭に立ち、その後に自分がついていくという感じだった。今では、完全に仕事が分担され、こちらの行動に指導を入れてくる機会も少なくなっている。
「ちょっとは、信頼してくれるようになったんかな」
こうして朝から仕事をしていくと、これまでの自分が、いかに人任せで生活していたのかが良く分かる。朝食の仕度から日用品の作成、狩や漁の準備に至るまで、シェート一人でやる作業があまりにも多すぎた。
「料理だって、まともにやったこともなかったしなぁ」
人間だった頃も、せいぜいレトルトか冷凍の料理を温める程度で、生活の全ては母親に世話されるままだった。過去の自分の振る舞いに、僅かな罪悪感がこみ上げた。
「変われば変わるもんだよな」
木のさじでスープを掬い、口に含んで味を確かめる。
川魚は身が淡白で、うまみがそれほど強くない。いたずらに塩を足してもしょっぱくなるだけだ。フィーは指を振りたて、風の聲を放った。
乾燥台にかけられた干し魚の一つ、一番熟成が進んだものを選んで、手元に引き寄せると、細かく刻んで鍋に放り込む。
じっくり煮えて行くスープは、さっきよりも濃く、滋味が強くなったように思えた。
「できたぞ」
大きく伸びをしてシェートが身を起こし、のっそりと小屋の影からグートが歩み寄る。
「熱いから気をつけてな」
二人分を椀に盛って差し出すと、薄闇の中に、芳しいスープの香りが漂った。
「フィー、料理、上手なったな」
「そっかな。最近、舌が敏感になったからかも」
「ドラゴン、ほんとすごいな」
「料理で実感されるってのも、複雑な気分だけどな」
竜の六識を体得してから、自分の中には次々と新しい力が芽生えていた。
昨日の塩を生成した聲もそうだが、思いついたことを何でも試し、そのたびに世界に対する発見と理解が広がっていく。
龍サイクロペディアの情報も、以前とは段違いの精度になり、自分のステータスに日々さまざまな鳴唱が追加されていた。
「そういや、ちょっと魚貰ったぞ。昨日の残りじゃ味薄かったから」
「ああ。好きに使え」
「俺は川岸沿いに北に行ってみる。そっちは西の方か?」
椀から顔をあげ、シェートは満足そうに頷いた。
「お前、いい狩人、なるぞ」
「先生の仕込みがいいからな」
「……そうか」
朝食をしたため終えると、軽く干した木の実や魚を包み、執事から手渡されていたチタンの保温水筒と一緒に、シェートへ差し出す。
「これ、お前の、違うか?」
「俺はいつでも冷たい水が飲めるけど、そっちは無理だからな」
「ありがとな」
改めて作り直した弓を手に、コボルトは狼を伴って猟行へと向かう。
それを見送ると、火の始末をして、仔竜も小屋を出た。
夜気が未だに濃い砂漠は、深閑とした空気を漂わせている。だが、まばらな草の茂みや潅木の下、岩の陰には、こそこそとうごめく小さな生き物の息づかいを感じた。
その一切を気にせず、フィーはのんびりと薄闇の中を歩き出す。
以前教わったような、棒で動物を追い散らす必要は全く無い。軽く聲を上げるだけで、蛇や毒虫の類を散らすことができるからだ。
「力を持ってるからこそ、悟れない、か」
執事の指摘が、ふと思い出される。
確かに、こんな能力を持ってしまえば、悟りなんてどうでもよくなるだろう。自分の聲一つで、他の生き物はおろか、自然現象でさえ操ることができる。
『ドラゴンて、すげーんだな』
脱出行の後、フィーは自分の体に起こった出来事を竜神に話していた。
相手は相槌を打つのも控え、こちらの言葉に耳を傾けていたが、感嘆したフィーの言葉を聞くと、重々しく口を開いた。
『その力は、本来あらゆる生き物が持つものだ。ドラゴンは、ほんの少しばかり、それが大きかったというだけに過ぎん』
『ああ。調子に乗って使いすぎるなってことだろ? 世界のバランスがどうとかって奴』
『……今は、そのぐらいの理解でよかろう』
遠まわしな言い方だったが、あまり気にはならなかった。
竜神の育成方針は『紐付きの放任主義』だ。ある程度の示唆を与え、適度に実体験をしたところで細かい解説を加えてくる。
こちらが大きな間違いを犯しそうなら、それとなく釘を刺してくれるだろう。
『そういや、なんで"六識"なんだ?』
『儂なりの皮肉という奴さ。こんな力を持っていた所で、本当に知りたいことは、何一つ分からないのだからな』
『「そのアプリをお作りになった方は、ずいぶん諧謔がお好きとお見受けしました」だってさ。さすが執事さん、良く見抜いてるよ』
珍しく、竜神は絶句し、それから苦い笑いを漏らしていた。
機械越しでも分かるような、ためらいの匂い。以前の自分なら見逃していた変化を、仔竜の体は敏感に察していた。
『何か言いたいこと、あるんじゃないのか?』
『今は言えぬ、とだけ言っておこう』
『……分かった』
それから、竜神は休暇を告げた。
他の神々に働きかけ、一時的にシェートに対する攻撃を禁じさせたらしい。その間に、次の対戦相手に対する準備も整えると聞いていた。
『そなたらも旅の仕度で忙しかろう。二週間ぐらいは手出しを封じるゆえ、ゆっくりと過ごすがいい』
『魔王の追っ手が無きゃ、そうしたいけどな』
『あちらとて居城を壊されては、すぐには動けぬだろう。それを見越して半月、という見立てなのだ』
長いようで短い休暇、そのことを胸に刻むと、フィーは問いかけた。
『"聲"は、どうする?』
一呼吸を置き、竜神は告げた。
『学べ』
それは、言い得て妙な回答だった。
そもそも鳴唱とは、奇跡を起こす力ではない。万理の根底に流れる聲を聞き、それを理解し、共に謳うことだ。
識が拓いてから、世界は常に、フィーに謳いかけていた。
肌ではじけ、角に染み透り、瞳に写り、香りとなって心を刺激していく。
それを理解し、鳴唱という形を与えることは、ドラゴンにとって当たり前の所作に過ぎなかった。
だから、
『分かった』
そう答えることに、何のためらいもなかった。
むしろ、聲を封じろと言われるのではないかと、密かに恐れていたくらいだ。
こうしている間にも、世界は謳い続け、仔竜に今まで知らなかった事実を伝え続けている。それを聲として発したいという欲求は、膨れ上がるばかりだった。
いつの間にか、夜は明けていた。
東の果てから曙光が差し込み、遮るものの無い砂漠が、輝きに染め上げられていく。
威光から逃れるように、薄桃色のすそを翻して藍色の夜空が引き下がり、星々の瞬きも朝の中へと溶けていった。
凪の終わりを告げる風が、わずかに湿気を含んで吹き渡り、夜露に濡れた草木の匂いを届けてくれる。
飛べば五分も掛からない位置に、甘い木の実のなる低木があるだろう。他の動物には悪いが、少し多めに収穫しておかないと。
スキップするように地面を蹴り、フィーは宙に身を躍らせた。
翼を大きく広げると、大気が体を優しく包んで、あっという間に視界が加速する。
「なんか、ツバメみたいだな」
田舎に行ったとき、田んぼの上をすいすいと飛ぶ小鳥たちの姿を見た。姿勢を制御する時以外、体は一定の形を保ち、素早く風を切っていた。
そのイメージが重なると、フィーの体が更に加速する。
ドラゴンの飛翔は、聲と自然現象が融合した結果の産物だ。本来なら、その重量を持ち上げることさえ出来ない大きさの翼に、聲で風を与え、ツバメや鷹のような"翼の形"を整えることで、自在に飛行する。
楽しい。
いつの間にか、フィーは笑っていた。
飛ぶことは謳うことと同じで、謳うたびに世界が身近に感じられた。
視界が急激に広がっていく。
実際に眼で見たものではなく、肌で感じた大気の具合と、漂う匂いの密度、伝わってくる音が、周囲の環境を視覚の形で想起されていく。
「そっか……これが"意識"なのか」
気が付いてみれば、それはずっとフィーに対して語りかけていた。
それを統合し、理解するだけの力が自分に無かったから、気づかなかっただけ。文字通り"意識"が世界を変えていた。
「ほんと、すごいな……」
たどり着いた小さな茂みには、びっしりと木の実が付いていた。
だが、熟れているものもあれば、未だに青いままの部分もある。その木の葉のいくらかが、奇妙に変色しているのが見てとれた。
「お前、病気してんのか?」
葉をちぎり取り、口に含む。健康なものと違う成分、異常を発生させている原因を、知識ではなく感覚が探り当てる。
「木の実、貰ってくから、お礼代わりってことで」
今まで考えたことも無いイメージが、音律になって喉からほとばしる。薬を処方するのではなく、偏っていた栄養を循環させ、湿度や温度を調整して、病菌の生育しにくい環境を生み出し、大気や大地から水気を少しづつ集める。
気が付けば、フィーはコーラス隊のリーダーのように樹木の聲を整え、目の前の茂みが病葉一枚無い、みずみずしい姿に変わっていた。
「そっか……気持ちいいか……よかったなぁ」
言葉も無いはずの植物が、喜びの聲を上げている。先ほどよりも熟れた木の実を鞄に詰めながら、覚えたての聲を謳うと、茂みの周囲に生えていた草たちも、伸び上がりながら一緒に謳いだす。
――謳おう。
いつかの声が胸にこだまする。
――共に謳おう。
喉をそらし、大きく口を開くと、フィアクゥルは竜の聲を、高らかに響き渡らせた。




