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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~挿話編・その弐~
120/256

花咲く原野(前編)

 幅広い河の上に青い姿が浮かんでいた。

 羽ばたきもせず、優雅に空中で静止する仔竜。足下の水面に幾重もの波紋が広がり、ゆっくりと押し流されていく。

「そんじゃ」

 片手を空に差し上げ、フィアクゥルは勢い良く振り下ろした。

「いくぜぇっ!」

 空気が炸裂し、衝撃が仔竜を中心に広がる。その圧力がシェートの肌に叩きつけられ、煽られた体が僅かに下がる。

 遅れて通り雨のような水滴が、草もまばらな大地に降り注いだ。

「おーい! どうだぁ?」

「あ……ああ。ちょっと待て」

 吹き飛んだ水と一緒に、岸に打ち上げられた魚たちが鱗を輝かせてはねている。粗製の魚篭びくの中へ大きなものを選んで放り込み、衝撃で死んだ小魚をグートがつまみ食いしていった。

「大漁大漁、ってところだな」

「無茶するな。こういう漁、河汚す」

 目の前に舞い降りたフィーは、シェートの言葉に肩をすくめた。

「気にすんなって。どうせこの辺りには人住んでないし、それだけ魚があれば、当分食い物には困らないだろ?」

「……分かった。仕事、手伝え」

「おう」

 なだらかな斜面を登るシェートの傍らを、滑るように仔竜が飛ぶ。最初は面食らったものだが、ようやく驚かずに過ごせるようになっている。

「それにしても、今日もいい天気だなぁ」

 太陽が、地平線の果てから見えないきざはしに足を掛け、中天へと登る途にあった。

 その輝きで空の青は白っぽくかすれて見え、大気にも昼の酷暑を思わせる熱が混じりこみ始めている。

「この調子なら、あっという間に干し魚もできるんじゃないか?」

「乾かすの急ぐ、よくない。昼前、影作る」

 木の枝と草で組まれた、小さな掛け小屋。

 その近くに作られた乾燥台の前に腰を下ろすと、シェートは魚篭の中から魚を取り出してさばき始めた。

「干し魚って、ただ干すだけじゃないんだな」

「干すだけ、乾いた魚。塩、香草、腐りにくくする。あと、味ない、まずい」

「そりゃそうか」

 暴れる魚を山刀の背で叩いて動きを止め、素早く腹をさばいてわたを出す。その傍らでは、仔竜も同じように魚を処理していた。

「フィー、魚さばく、上手なった」

「この生活も長くなってるし、だいぶ慣れたよ」

「俺、混ぜ塩、魚すり込む。ここ任せる、平気か?」

 器用にミスリルの小刀を扱う仔竜は、笑顔で頷く。

 そのまま、あらかじめ用意しておいた袋に手を入れると、細かくすりつぶした岩塩と、手近に生えていた香草を混ぜたものを、さばいて半身にした魚にすり込んだ。

 それを一枚一枚、横に渡された竿にくくりつけていく。普段は網を張った箱に並べていくのだが、手に入れられる材料を考えた結果、吊り下げる形にした。

「なんか干し魚ってより、干し肉っぽいな」

「そうだな」

 さばき終わった魚を手にフィーが干し台を見上げる。シェートは手元の塩を見て、苦笑いを浮かべた。

「やっぱり、塩、足らないか」

 注意して使っていたつもりだったが、手持ちの塩ではやはり量が少なすぎた。塩気を抑えすぎると日持ちがしなくなるため、単純に少なくするわけにもいかない。

「仕方ない。味無い魚、乾かすか」

「塩……か」

 腕組みをしつつ、フィーが何事か考える。

 それから、スマホを片手に地面を映し始めた。

「どうした?」

「昔聞いたことあるんだよ。土の中にはミネラル、まあ、塩とかがちょっとだけ入ってるって」

「ああ。父っちゃ、言ってた。塩気ある土、そういう土地、あるって」

 それから仔竜は土をすくって口に含み、顔をしかめて細かな砂利を吐き出した。

「うぇー、口ん中じゃりじゃりするぅ」

「お前……土、何で食べた」

「んー? まあ、実験?」

 飲み水で口をすすぐと、フィーは残っている混ぜ塩に指を突っ込み、味を確かめた。

「こんなもんか」

「だから、なにを」

「言ったろ、実験だって」

 おもむろに数歩、踏み出す仔竜。

 その瞳が、不思議な色合いを帯びた。

「うまく行かなくても、がっかりすんなよ?」

 大地に両手を突き、フィーは謳い始めた。

 その途端、石混じりの砂に、さざなみが生み出された。波は薄く広がり、見える限りの地面に広がっていく。

「きゃんっ!」

 敏感なグートが、フィーの聲に悲鳴を上げて距離を取る。どうやら、魔法に関してはコボルトよりも星狼のほうが反応しやすいらしい。

 低く、世界を揺るがすような音。

 風を操り、河を爆発させたような、劇的な変化は起こらない、ように見えた。

「え……?」

 初めは、日の照り返しが強くなったのだと思った。

 その輝きは次第に大きくなり、目に見える大きさへと結晶する。

 周囲の大地で、岩塩そっくりの塊が、植物のように成長していた。

 仔竜の青い肌の上にも。

「フィ、フィー! お前、体!」

「ん?」

 夢から醒めたように体を起こすと、フィーは体に生えたものを見て、叫びを上げた。

「おおおおおっ!? お、俺の体からっ、塩が生えてるぅっ!?」

「大丈夫か! 体、痛くないか!?」

 大慌てで叩き落とすと、しみ一つ無い青が現れる。ほっと息をつくと、シェートはフィーの頭を軽く撫でる。

「塩、体からでた。悪いとこ無いか?」

「それは大丈夫だけど……おっかしいなぁ」

 体から湧き出た塩を遠くに放り捨てると、フィーは苦笑いしつつ、成果を示した。

「とりあえず、使えるかどうか試してみてくれ。良さそうなら、これで干物作りも続けられるだろ」

 大地に生えた塊を手に取り、端っこをなめてみる。岩塩よりも塩気の強い、差すような刺激を舌に感じた。

「しょっぱい。いつもの塩、それより強い」

「まじりっけなしだからな。塩って言うと、そっちの方がイメージしやすかったし」

「でも、たぶん、使える、思う」

 むしろここまで強い塩なら、量を加減しても十分だろう。小石を拾うように結晶した白い欠片を拾い集めていく。

 だが、フィーはその場に立ち止まって、腕組みをしていた。

「どうした?」

「なんで、うまく行かなかったのかなって」

「気にするな」

 くしゃくしゃと頭を撫でてやると、袋に詰まった塩を掲げてみせた。

「いっぱい塩、できた。すごいありがたい。お前、ちゃんとできた」

「でもなぁ、予定ではこう、すごい塩の柱がどーんて!」

「わかったわかった。次、もっとうまくやれ」

 ふくれっつらをするフィーの背中をそっと押すと、シェートは小屋へと向かう。日差しが次第に強くなり、昼の暑さが強まろうとしていた。

「残り、小屋でやろう。昼間、外出る、よくない」

「そだな」

 すでにグートは小屋の奥に引っ込んでいる。

 入り口近くに陣取ると、シェートは塩を砕きながら、光の中に輪郭を失っていく瓦礫の地平を眺めた。

 バルジャサルン砂漠。

 中央大陸エファレアの東部分に位置する、岩と潅木で覆われた不毛の大地。

 そこを貫くヌリース河のほとりに、シェートが滞在するようになって、一週間が過ぎようとしていた。

 凄絶な脱出行が、夢だったと思えるような、安らいだ日々。

 逃げ出して数日の夜は、魔王の幻影に怯えて目を覚ますこともあったが、今ではそんなこともなくなっていた。

「さばくの終わったぜ。俺も塩塗るわ」

「ああ」

 作業しやすいよう、平たい石の上に塩を置いてやると、仔竜はごしごしと魚の身を磨き始めた。

「力、あまり入れるな。皮、塩、軽くでいい」

「うん」

 フィーの動きは、以前と比べて格段とよくなっていた。

 軽い指示と作業を見せるだけで、ほぼ完璧に覚えこなしてしまう。手の加減などは難しいようだったが、シェートと遜色ない精度で仕事を仕上げていく。

「暑くなってきたなぁ」

「そうだな」

 手を動かしながら、仕事歌でも口ずさむように、仔竜が聲を紡ぐ。

 川面の涼しい風が小屋へと流れ込み、暑熱が嘘のように消えた。

「一家に一匹、ドラゴンクーラーってね」

「お前、聲使う、疲れないか?」

「このぐらい何でも無いよ。てか、これも練習みたいなもんだし」

 謳う横顔はとても心地良さそうで、全く苦労を伴わない所作に見えた。むしろ、聲を出すことが嬉しくてしょうがないようだ。

 さっきの塩作りにせよ、川での魚捕りにせよ、フィーの"魔法"は、これまで見てきたどんな魔法とも違っていた。まるで、世界そのものが、この仔竜に味方するように思える。

「よし、これで終わりっと」

「ありがとな。これ、干してくる」

「んじゃ、何か飲み物でも作っとくよ」

 外の掛け台で作業している間も、シェートの周りには冷えた大気が、外套のように纏いつくのを感じていた。砂漠の暑ささえ、ドラゴンの聲の前には何の問題にもならない。

 魚を干しながら、シェートは掛け小屋の中で憩う仔竜を眺めた。

 小さな炉に掛けた鍋に謳いかけながら、傍らの狼と楽しげにじゃれあっている。

 まるで子供のような仕草に、目元が緩んだ。

「どうした?」

 こちらの視線に気が付いたフィーが、壷から顔を上げた。

「……なんでもない」

「そっか。早くやっちゃえよ。日差しが強くなってきたぞ」

「分かった」

 干し台に魚を掛け終わると、草を編んで作った覆いを掛けて影を作る。強烈な天日に曝すと味が落ちるため、表面が乾いたぐらいで陰干しに切り替えるのだ。

 全ての始末を終えて小屋に帰ると、フィーは土鍋の中身をカップに掬った。

「味はともかく、良く冷えてるぜ」

 香草を煮て作った茶。渋い香りの液体の中には、透明な氷が浮かんでいて、中身もしっかり冷えていた。

「お前、氷、作れるか」

「水の温度を下げるだけでいいから、そんなに難しく無いからな」

 冷えた茶はほろ苦かったが、暑気の強い砂漠で飲むのには心地いい味だ。それに、大気も程よく涼しく保たれて、乾きと熱を遮ってくれた。

「魚はいつぐらいに上がる?」

「多分、あさって。出来たら、また動く」

「じゃあ、明日は木の実とか集めるか」

 のんびりと涼気を浴びながら、収穫や狩の予定を話し合う。

 全く見ず知らずの土地にいながら、どこか懐かしささえ感じるやり取り。まだ、群れの仲間が生きていた頃、猟行から帰った午後には、よくこんな風にしていたものだ。 

「あとは水も用意しないとな。あの河、深くなくて助かるんだけど、水があんまりきれいじゃないのがな」

「俺、朝早く、狩出る。鹿、似たやついた。肉と水袋、狩って増やす」

「それじゃ、明後日には出られないんじゃ?」

「動くとき、川伝い、する。水袋、できる、七日位。竿立てて行く」

 こちらの提案にフィーは、おかしそうに笑い声を上げた。

「物干し竿かついで移動か。グートにくくりつけたら、変な侍の旗印みたいだな」

「さむらい?」

「あー、勇者の世界に昔いた、騎士みたいなもんだよ」

「そうか。グート、騎士の馬、なるか?」

 眠っていたグートが片目を開け、ふんっと鼻を鳴らして目を閉じる。いかにも嫌そうな仕草に、シェートも笑った。

 穏やかな時間が流れて行く。

 憂いの影も今は遠く、差し当たって命を脅かされる危険は無い。

 ここにあるのは、心を許せる存在と過ごす日常だけだ。

 ふと、目の前の仔竜に顔を向けた。


『俺が、お前の味方になってやる』


 魔王の城から脱出したあの日、語られた言葉。

 群れを失い、一人さまよい続けた自分の元に訪れた、新しい仲間。

「仲間、か」

 つぶやいた言葉に、胸の奥がかすかに痛む。

「どうした?」

 問いかけに首を振ると、魚篭に残してあった魚に手を伸ばした。

「そろそろ飯、食うか」

「ああ」

 湧き上がった思いを隠したまま、シェートは魚に串を打つ作業に没頭した。



 星明りの未だに残る黎明の頃、フィーは目を覚ました。

 夜の砂漠は冷たく凍えるような大気に満たされていたが、寝る前に掛けておいた聲のおかげで、誰も凍えないで済んでいる。

 炉の側に積んでおいた小枝をくべると、紅の息吹を吐き出す。

 炎が乾いた枝に燃え移り、暗闇が暖かな色で拭われた。

「ん……おはよう」

「まだ寝てろよ。飯が出来たら起こすから」

 寝ぼけ眼をこするシェートを制し、鍋を火にかける。昨日の魚の残りを、水と一緒に放り込み、塩と香草で煮ていく。

 意外なことに、コボルトは本当に目を閉じて、寝息を立てていた。

 少し前は、身の回りのことはシェートが先頭に立ち、その後に自分がついていくという感じだった。今では、完全に仕事が分担され、こちらの行動に指導を入れてくる機会も少なくなっている。

「ちょっとは、信頼してくれるようになったんかな」

 こうして朝から仕事をしていくと、これまでの自分が、いかに人任せで生活していたのかが良く分かる。朝食の仕度から日用品の作成、狩や漁の準備に至るまで、シェート一人でやる作業があまりにも多すぎた。

「料理だって、まともにやったこともなかったしなぁ」

 人間だった頃も、せいぜいレトルトか冷凍の料理を温める程度で、生活の全ては母親に世話されるままだった。過去の自分の振る舞いに、僅かな罪悪感がこみ上げた。

「変われば変わるもんだよな」

 木のさじでスープを掬い、口に含んで味を確かめる。

 川魚は身が淡白で、うまみがそれほど強くない。いたずらに塩を足してもしょっぱくなるだけだ。フィーは指を振りたて、風の聲を放った。

 乾燥台にかけられた干し魚の一つ、一番熟成が進んだものを選んで、手元に引き寄せると、細かく刻んで鍋に放り込む。

 じっくり煮えて行くスープは、さっきよりも濃く、滋味が強くなったように思えた。

「できたぞ」

 大きく伸びをしてシェートが身を起こし、のっそりと小屋の影からグートが歩み寄る。

「熱いから気をつけてな」

 二人分を椀に盛って差し出すと、薄闇の中に、芳しいスープの香りが漂った。

「フィー、料理、上手なったな」

「そっかな。最近、舌が敏感になったからかも」

「ドラゴン、ほんとすごいな」

「料理で実感されるってのも、複雑な気分だけどな」

 竜の六識を体得してから、自分の中には次々と新しい力が芽生えていた。

 昨日の塩を生成した聲もそうだが、思いついたことを何でも試し、そのたびに世界に対する発見と理解が広がっていく。

 龍サイクロペディアの情報も、以前とは段違いの精度になり、自分のステータスに日々さまざまな鳴唱が追加されていた。

「そういや、ちょっと魚貰ったぞ。昨日の残りじゃ味薄かったから」

「ああ。好きに使え」

「俺は川岸沿いに北に行ってみる。そっちは西の方か?」

 椀から顔をあげ、シェートは満足そうに頷いた。

「お前、いい狩人、なるぞ」

「先生の仕込みがいいからな」

「……そうか」

 朝食をしたため終えると、軽く干した木の実や魚を包み、執事から手渡されていたチタンの保温水筒と一緒に、シェートへ差し出す。

「これ、お前の、違うか?」

「俺はいつでも冷たい水が飲めるけど、そっちは無理だからな」

「ありがとな」

 改めて作り直した弓を手に、コボルトは狼を伴って猟行へと向かう。

 それを見送ると、火の始末をして、仔竜も小屋を出た。

 夜気が未だに濃い砂漠は、深閑とした空気を漂わせている。だが、まばらな草の茂みや潅木の下、岩の陰には、こそこそとうごめく小さな生き物の息づかいを感じた。

 その一切を気にせず、フィーはのんびりと薄闇の中を歩き出す。

 以前教わったような、棒で動物を追い散らす必要は全く無い。軽く聲を上げるだけで、蛇や毒虫の類を散らすことができるからだ。

「力を持ってるからこそ、悟れない、か」

 執事の指摘が、ふと思い出される。

 確かに、こんな能力を持ってしまえば、悟りなんてどうでもよくなるだろう。自分の聲一つで、他の生き物はおろか、自然現象でさえ操ることができる。


『ドラゴンて、すげーんだな』


 脱出行の後、フィーは自分の体に起こった出来事を竜神に話していた。

 相手は相槌を打つのも控え、こちらの言葉に耳を傾けていたが、感嘆したフィーの言葉を聞くと、重々しく口を開いた。


『その力は、本来あらゆる生き物が持つものだ。ドラゴンは、ほんの少しばかり、それが大きかったというだけに過ぎん』

『ああ。調子に乗って使いすぎるなってことだろ? 世界のバランスがどうとかって奴』

『……今は、そのぐらいの理解でよかろう』


 遠まわしな言い方だったが、あまり気にはならなかった。

 竜神の育成方針は『紐付きの放任主義』だ。ある程度の示唆を与え、適度に実体験をしたところで細かい解説を加えてくる。

 こちらが大きな間違いを犯しそうなら、それとなく釘を刺してくれるだろう。


『そういや、なんで"六識"なんだ?』

『儂なりの皮肉という奴さ。こんな力を持っていた所で、本当に知りたいことは、何一つ分からないのだからな』

『「そのアプリをお作りになった方は、ずいぶん諧謔がお好きとお見受けしました」だってさ。さすが執事さん、良く見抜いてるよ』


 珍しく、竜神は絶句し、それから苦い笑いを漏らしていた。

 機械越しでも分かるような、ためらいの匂い。以前の自分なら見逃していた変化を、仔竜の体は敏感に察していた。


『何か言いたいこと、あるんじゃないのか?』

『今は言えぬ、とだけ言っておこう』

『……分かった』


 それから、竜神は休暇を告げた。

 他の神々に働きかけ、一時的にシェートに対する攻撃を禁じさせたらしい。その間に、次の対戦相手に対する準備も整えると聞いていた。


『そなたらも旅の仕度で忙しかろう。二週間ぐらいは手出しを封じるゆえ、ゆっくりと過ごすがいい』

『魔王の追っ手が無きゃ、そうしたいけどな』

『あちらとて居城を壊されては、すぐには動けぬだろう。それを見越して半月、という見立てなのだ』


 長いようで短い休暇、そのことを胸に刻むと、フィーは問いかけた。


『"聲"は、どうする?』


 一呼吸を置き、竜神は告げた。


『学べ』


 それは、言い得て妙な回答だった。

 そもそも鳴唱とは、奇跡を起こす力ではない。万理の根底に流れる聲を聞き、それを理解し、共に謳うことだ。

 識が拓いてから、世界は常に、フィーに謳いかけていた。

 肌ではじけ、角に染み透り、瞳に写り、香りとなって心を刺激していく。

 それを理解し、鳴唱という形を与えることは、ドラゴンにとって当たり前の所作に過ぎなかった。

 だから、


『分かった』


 そう答えることに、何のためらいもなかった。

 むしろ、聲を封じろと言われるのではないかと、密かに恐れていたくらいだ。

 こうしている間にも、世界は謳い続け、仔竜に今まで知らなかった事実を伝え続けている。それを聲として発したいという欲求は、膨れ上がるばかりだった。

 いつの間にか、夜は明けていた。

 東の果てから曙光が差し込み、遮るものの無い砂漠が、輝きに染め上げられていく。

 威光から逃れるように、薄桃色のすそを翻して藍色の夜空が引き下がり、星々の瞬きも朝の中へと溶けていった。

 凪の終わりを告げる風が、わずかに湿気を含んで吹き渡り、夜露に濡れた草木の匂いを届けてくれる。

 飛べば五分も掛からない位置に、甘い木の実のなる低木があるだろう。他の動物には悪いが、少し多めに収穫しておかないと。

 スキップするように地面を蹴り、フィーは宙に身を躍らせた。

 翼を大きく広げると、大気が体を優しく包んで、あっという間に視界が加速する。

「なんか、ツバメみたいだな」

 田舎に行ったとき、田んぼの上をすいすいと飛ぶ小鳥たちの姿を見た。姿勢を制御する時以外、体は一定の形を保ち、素早く風を切っていた。 

 そのイメージが重なると、フィーの体が更に加速する。

 ドラゴンの飛翔は、聲と自然現象が融合した結果の産物だ。本来なら、その重量を持ち上げることさえ出来ない大きさの翼に、聲で風を与え、ツバメや鷹のような"翼の形"を整えることで、自在に飛行する。

 楽しい。

 いつの間にか、フィーは笑っていた。

 飛ぶことは謳うことと同じで、謳うたびに世界が身近に感じられた。

 視界が急激に広がっていく。

 実際に眼で見たものではなく、肌で感じた大気の具合と、漂う匂いの密度、伝わってくる音が、周囲の環境を視覚の形で想起されていく。

「そっか……これが"意識"なのか」

 気が付いてみれば、それはずっとフィーに対して語りかけていた。

 それを統合し、理解するだけの力が自分に無かったから、気づかなかっただけ。文字通り"意識"が世界を変えていた。

「ほんと、すごいな……」

 たどり着いた小さな茂みには、びっしりと木の実が付いていた。

 だが、熟れているものもあれば、未だに青いままの部分もある。その木の葉のいくらかが、奇妙に変色しているのが見てとれた。

「お前、病気してんのか?」

 葉をちぎり取り、口に含む。健康なものと違う成分、異常を発生させている原因を、知識ではなく感覚が探り当てる。

「木の実、貰ってくから、お礼代わりってことで」

 今まで考えたことも無いイメージが、音律になって喉からほとばしる。薬を処方するのではなく、偏っていた栄養を循環させ、湿度や温度を調整して、病菌の生育しにくい環境を生み出し、大気や大地から水気を少しづつ集める。

 気が付けば、フィーはコーラス隊のリーダーのように樹木の聲を整え、目の前の茂みが病葉わくらば一枚無い、みずみずしい姿に変わっていた。

「そっか……気持ちいいか……よかったなぁ」

 言葉も無いはずの植物が、喜びの聲を上げている。先ほどよりも熟れた木の実を鞄に詰めながら、覚えたての聲を謳うと、茂みの周囲に生えていた草たちも、伸び上がりながら一緒に謳いだす。


 ――謳おう。


 いつかの声が胸にこだまする。


 ――共に謳おう。


 喉をそらし、大きく口を開くと、フィアクゥルは竜の聲を、高らかに響き渡らせた。


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