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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~最も弱き反逆者~
12/256

12、見えざる罠


「宣言は行われました。これより、この場を決闘の間と定めます」


 イェスタの高らかな声が、神々の意識に刻み込まれる。従うように、東屋が音も無く競り上がり、サリアとゼーファレスのみを中空へと押し上げた。

 何もなくなった空間には、さらに巨大な水鏡が投影され、東屋の周囲にも透明な壁が発生する。


「遊戯の定めにより、決闘の間より出ること叶うは一名のみ。神々よ、選ばれし勇者よ」


 口上を少し溜め、それから不思議な笑みを浮かべたイェスタは宣言した。


「そして、小さき魔物よ、己の全てをかけて、存分に戦うが良い」


 東屋の中も、全く先ほどと違う様相を見せていた。座っていた石造りの座卓が別の形に変わり、石のテーブルであったものは、美しく飾られた枠を持つ、水鏡の鏡台を乗せた物に変わっている。

 兄の座っているのは、豪奢な黄金製の玉座。自分のものは、神座にあった小さな石の長椅子だった。


「なんだ、この事態は……」


 全く不本意といった顔で、兄がかぶりを振る。


「サリアよ。まさかお前は、あの魔物が我が勇者を倒せると、本気で思って」

「おりますよ。我が魔物……いいえ、コボルトのシェートが貴方の勇者を打ち倒すと」

「ありえぬ!」

『お、おい! これ、一体何なんだよ!』


 兄と同じぐらいうろたえた勇者が、水鏡の向こうで絶叫する。その似たもの同士の姿に苦笑すると、サリアはいつの間にか中空に立っていたイェスタに声を掛けた。


「制限を一時解き、兄と勇者殿に会話を。ただし、助言のようなものをすれば」

「心得ております。では、ゼーファレス様」

「く……ゆ……勇者よ、聞こえるか」

『あ、やっとつながった! なにやってんだよアンタ! こっちは大変で』

「黙れ! 今、事情を説明する」


 そして、彼は物語った。妹の魔物と勇者を決闘させることになり、その間の助言、助力を封じられていることを。


『なにやってんだよ! なんでそんな大事なこと、俺がいないとこで進めてんだ!』

「うるさい! 神がわざわざ貴様ごときの状況を斟酌などするものか! そもそもなんださっきの無様な戦いは!」

『ふざけんなよ! そっちが勝手な約束してなかったら今頃』

「黙れ黙れ! とにかく必ず勝て! 分ったな!」


 自己主張のぶつけ合いでまともな会話にならなかったことに、サリアは苦笑した。


「それでは、少しだけ私も勇者殿に説明を……お初にお耳に掛かる勇者殿」


 水鏡の向こうで勇者はきょろきょろと周囲を見回し、ともかく空を見上げた。


「私はサリアーシェ。そのコボルトの主を務めている」

『アンタがこいつをけしかけた奴か! 何なんだよ、さっきの』

「仲間のことならば心配は無い。毒は痺れや疲労は濃く出るが、命に別状は無いものだ。現に僧侶の娘も回復し、他の者の治療も済んでおる」

『そ……そうか……』


 心から安堵した姿に、ほんの少しだけ胸が痛む。だが、同情はしない。


「これから勇者殿には、我が配下と戦ってもらう。その空間は今、神々の定めた勇者同士が戦うために、俗世より閉ざされた」

『結界って奴か。で、こいつを倒せば出られるんだろ』

「理解が早くて助かる。勝負が付くか期限が来るまで世界の封鎖は続く、期限は今日より三日後の夕刻まで。付け加えるが、そこにはそなたと我が配下以外、何人も存在しておらぬ」


 本来、この結界には勇者とその仲間達を入れることができる。しかし、決闘の宣言が行われ、視界の届く範囲に仲間がいない場合、それらは除外されることになっていた。


『……まさか、こいつ……そのためにあんなことを!?』

「説明はこれで終わりだ。勇者殿、一つ言っておく」


 ようやく事態が飲み込めたらしい勇者に、サリアは最後の慈悲をかけた。


「我が配下は強い。決して侮らないことだ」


 それきり会話を打ち切ると、サリアは対手の前に座りなおす。


「あのような魔物が、強いだと?」

「そうは見えませぬか」

「……だが、お前の配下に奴は倒せん!」


 否定しきれない可能性を見ながら、それでも兄は必死で自らを鼓舞するように大声を張り上げた。


「事実、貴様の配下の弓は勇者まで届かぬ! 今日は使い果たしたが、夜明けと共に魔法は充填されよう! あのような曲芸じみた回避がいつまで続く!? 打撃を与えずして、いかに決闘に勝利するつもりだ!」


 サリアは答える気は無かった。これ以上は何もいえない、最後の一手は自分ではなく、彼が打つのだから。


「シェートよ」

『ああ。聞こえる』

「我らの狩りは、あと少しで成る」

『俺、勇者、必ず狩る』


 神である自分には幸運を祈るべき者はない、力ない存在である自分には、幸運を授けてやることもできない。

 だが、見守り、共に戦うことができる。


「やろう、我がガナリよ」

『頼りにしてるぞ、ナガユビ』


 水鏡の向こうで、シェートが力強く弓を手に取った。 



 弓を手に取り、矢を番える。

 呼吸が落ち着いている、驚くほど冷静に勇者を見つめていられる自分が居る。森の夜は早い、目に分かるほどの速度で光が絶えていく。

 それなのに勇者は、剣を構えたまま呆然とこちらを見ていた。


 いや、あの目を見れば必死にこちらの隙を覗う、真似事をしているのだと分った。

 まるで目配りがなっていない、視線はこちらの顔や矢にひきつけられていて、もっと大事なところ、いつでも逃げ去れるように溜めた下半身や、弓手の返し具合に全く気づいていない。

 もし、あの壁が無かったら、勇者はただの一発で眉間を抜かれ死んでいるだろう。

 強大な力でよろわれ、危険を意識せず、遊びでこの場に踏み込んだ、羊のような子供。


「ああ……お前、子供か」

「い、いきなりなんだよ!」


 どれだけ自分が、恐ろしさで何も見えなくなっていたかが分かる。

 顔立ちは平たく、幼くて、肌にはなんの皺も刻まれていない。この辺りの農家に生まれたなら、十を越えたものには少なからず、日差しや労働の皺が刻まれるものだ。

 見たことは無いが、多分これが貴族というものなのだろう。手仕事を知らず、柔弱に育てられた、乳母日傘おんばひがさの生き物。


「お前、なぜここ、来た」

「……そんなこと、話してる余裕、あるのかよ」


 剣をちらつかせ、自分の力を誇示する姿。だが、それは蟷螂かまきりの威嚇と同じだ。虫同士であれば恐ろしい威圧だが、狼や熊からしてみれば滑稽な踊りすぎない。

 そして、シェートはその剣の間合いを、完璧に外した場所に立っている。


「そうだな。俺、お前狩るだけ、お前、獲物」

「ふざけるな! お前なんかにやられるか!」


 言葉が軽い。魔術師との会話は、常に緊張を強いられた、うっかり話に釣り込まれれば自分の隙を作るし、こちらも言葉を投げて相手の隙を覗わなければならなかった。

 だが、勇者のそれはただの会話だ。

 目配りもできない、間合いも計れない、そんな状態でする会話は隙を作るだけ。


「俺、怖いか」

「怖くなんか無いってんだろ!」

「違う。お前、俺何してくるか、分からない、それ怖がってる」


 まともに動揺が顔に浮かぶ。とても狩人には向かない性根の弱さ。


「そ、そんなこと……」

「じゃあ、すぐ斬れ。その剣、俺簡単に斬れる。女神の守り、そこまで強くない」

「……や、やってやるよ!」


 激昂し身構える、たやすく挑発に乗る薄い心が透けて見える。


「でも、お前、いいのか」

「今度はなんだよ!?」

「もう、夜だ」


 残光が完全に絶えた。

 その瞬間シェートの瞳孔が薄くすぼまり、勇者の姿を昼間とほとんど変わりなく映し出してゆく。同時に、相手の全身からきつく立ち上る汗の臭いを嗅いだ。


「うおっ!? くそっ、もうこんな……」


 汗の臭いが、緊張から驚き、怯えの冷や汗に変わっていく。勇者の心が、手に取るように分っていく。

 剥がれていく、剥がされていく。


「お前、俺、見えるか」


 足音を殺し、素早く下がる。勇者が顔をしかめてこちらを見ようと必死になる。だが、人間の目は急激な光の変化に耐えられはしない。


「く、くそっ! 時間稼ぎに話をしてたってのか」


 コボルトは苦笑した。もたもたと攻撃をためらい、こちらの会話に気の抜けた応対をしたのはお前だ。

 引き剥がしていく、一枚、一枚。

 勇者という虚飾を、彼の強さを形作るものを。 

 シェートは、最初の一撃を解き放った。



 目の前でいきなり光がはじける。


「うおっ!?」


 気が付くとあたりは真っ暗になっていた。いや、一応暗くなるのには気が付いていた。

 それでも目の前のコボルトから目が逸らせなかった。

 こちらを覗う視線は、何を考えているのか分からない。人型の体に犬の頭の小さな魔物は確かに奇妙な造詣で、あまり強そうではなかった


 だが弓を構え、こちらを見る目は、底冷えのする迫力があった。

 今まで、漫画やラノベにあるような敵同士にらみ合いは、創作上の都合で作り出される間の表現、ぐらいに考えていた。


 ぱしっ。


「くそっ!? なんだってんだよ!」


 障壁とコボルトの矢がぶつかってほとばしる閃光。そのたびに一瞬森の光景が浮かび上がって、自分の目が焼けつく。

 あのコボルトには何かの確信があり、自分を倒そうと行動していた。そして、実際に仲間が倒され、魔法は打ち破られている。


 うっかり行動したら、自分もやられるかもしれない。それを避けなければならない、未知の事態に対する葛藤が生まれた。

 つまり、にらみ合いとは、お互いの行動で相手を凌駕したいと、せめぐ人の心が作り出す、必然に発生するものなのだと。


 ぱしぃっ。


「い、一体何のまねだ!」


 光が弾け、再び世界が闇に包まれる。相変わらず辺りの光景は良く見えず、目が全く闇に慣れない。


「何回やっても同じだぞ! 大魔法を連続で打たれたって破れない障壁なんだからな!」


 返事代わりの三度目の閃光、瞬きが目を焼いて視界が闇に包まれる。これでもこちらの世界に来て、夜を見透かす力が上がっているはずなのに。


「あ……!」


 目が潰されている。人間の目の暗順応を阻害するために放たれる矢。障壁と女神の力がぶつかって、カメラのフラッシュのように瞬いて。

 女神。

 そうだ、相手はただのコボルトではない。神の力を背負った自分の対手。


「こ、このっ!」


 闇雲に剣を振り回すが、何も当たりはしない。いくつかの枝が切れ、がさがさと下生えを踏み荒らすだけ。


 ぱしいっ。


「うわっ!」


 また目が潰れる。闇が物理的な圧力さえ持って、目を塞ぎに掛かる。


「ひ、卑怯だぞ! こんなうああああっ!!?」


 いきなり体が地面に吸い込まれ、落下する時の気持ち悪い感覚が走る。障壁が展開し、自分の居る場所を輝きで照らし出した。


「お、落とし穴!?」


 自分の腰ぐらいまで埋まりそうな穴。底には木を削った槍が敷かれ、障壁がそれをさえぎっていた。


「残念。壁なかったら、お前串刺し」


 声は、ぞっとするほど近く、すぐ背後で聞こえた。


「う、うわあっ!」


 必死に剣を振るが、障壁に弾かれる。


「おお! 危ない!」


 ざっと茂みを鳴らしてコボルトが闇に消える。必死に穴の淵に手を掛けて這い登ると、すでに周囲は闇の中。


「ひ、卑怯だぞ! 隠れてないで出て」


 ぱんっ。


 閃光が弾けて目が眩む。足元がふらつくのを必死に堪え、一瞬だけ照らし出された世界の端に、逃げていく姿を見出した。


「そこかっ」


 反射的に走り出した足が、何かの反発に引っかかる。


「うわあっ!?」


 まっしぐらに地面に倒れる寸前、障壁が展開して地面への追突を免れる。だが、急な制動で体に衝撃だけが伝わった。


「な、なんだよこりゃ!」


 壁の消失と共に、急速に暗くなる世界。その時一瞬見えた、ロープのようなもの。


「足元お留守だぞ、勇者」

「――っ、このおっ!」


 落とし穴に足を引っ掛ける蔦の罠、まるで子供のいたずらだ。怪我は全く無いが、苛立ちがこみ上げてくる。


「なんなんださっきから! お前、真面目にやってんのか!?」

「でもお前、罠、全然避けられない」


 はじける閃光が障壁を浮き上がらせ、再び視界を闇に包む。


「こうするとお前、動けない。穴落ちる、足引っ掛かる、次、崖落とすか?」

「う……」

「でも俺、お前はっきり見える、臭い分かる。弱虫、意気地なしの勇者、分かる」


 明らかに馬鹿にした口調。しかし、相手の居る位置が分からないのは事実だ。

 そういえば、夜に冒険をしたことはほとんど無い。もしやったとしても、エルカの明かりの魔法や、松明、ランタンを使ってもらっていたし、町の中でもこれほど暗くなることは無かった。

 周囲を押し包むのは、光一つ差さない真の暗黒。魔法も明かりも無く、剣だけで戦うのは自殺行為だ。

 腰をかがめると、浩二は剣を使って地面を探り始めた。穴が無いか叩いて確かめ、蔓が張られていないかを感触を頼りに探る。すぐに、堅い手ごたえと共に大きな木の根元にたどり着いた。


「朝になればあいつも見えるようになる。魔法さえ使えるようになれば、あいつだって迂闊に近づいてこないだろ」


 明日になれば、朝になれば事態は好転する、漠然とそう思っていた。

 剣を構えつつ、その場に腰を下ろした。夜の森は意外と暖かい、今が冬でなくて良かった、そんな考えが浮かぶ。

 ほっと息をついた途端、腹の中から唸るような音が聞こえてきた。


「くそっ、昼からなんにも食べてないもんなぁ」


 多分、今日は飯抜きだろう。明日あの魔物を倒したらみんなと合流して、食えなかった分を取り戻してやる。


「覚えてろよ、食い物の恨みは恐ろしいんだぜ」


 いつの間にか静かになった周囲に気を配りながら、勇者はすきっ腹を感じながら呪いの言葉を吐き出した。



 腰の袋から細く裂いた皮を取り出し、口に放り込む。甘い樹皮を噛みながら、シェートは、すぐ真下に居る勇者を、高い梢から見下ろしていた。

 すでに自分が居ない地上を、必死に目を凝らして見つめている背中。白いうなじがこずえからもくっきりと分かる。

 コボルトは小さな皮袋を取り出すと、その中に一本の棒を差し、取り出して勇者のうなじのちょうど上にかざした。

 先端から、ぽたり、と水滴が落ちる。


「つめてっ!」


 慌てて首に手をやり、その感触を確かめる勇者。臭いを嗅ぎ、それがただの水だと理解して、また座りなおす。

 それからしばらく時間を置き、また垂らす。


「うわっ!」


 水の感触に、今度は梢を見上げた。空模様を確かめようとしたのか、結局あきらめ、根方に戻る。

 そうしてシェートは、その皮袋の中に良く噛んだ樹皮を入れ、時間を置いて同じように水滴を垂らした。


「ん……っ」


 その動きは、冷たさを嫌がってはいたが、もう水滴には感心を払っていないのが明らかだった。シェートは樹皮を噛み、水袋に入れては少しずつ、落とす間隔と位置をばらばらにして水滴をこぼす。

 頭、鎧の肩当て、首筋、気づかれないように、ごくごく僅かづつ。

 水は甘くなり、濃くなり、反対に勇者の水に対する感心は薄まっていく。

 やがて、見張りの緊張に耐えられなくなったのか、下の頭がふらふらと揺れ始めた。


「起きろ、勇者」


 薄く笑い、首筋に水滴を落とす。


「ううっ!」


 嫌な感触に無理矢理起された不平を漏らし、それでも周囲の警戒を続けようとするが、水滴落としをやめると、また舟をこぎ始める。

 染みていく。

 甘い水が染みていく。

 彼の体に、服に染みていく。

 水袋の中身がほとんどなくなると、シェートはゆっくり身を起し、幹を伝って勇者の上から離れた。

 太い別の木の幹に、わずかなさやぎだけを残して飛び移る。その音にも、彼は反応しなかった。


『さすがだな。まるで気が付いていなかったぞ』

「あいつ、夜番慣れてない、それ助かった」

『大方、仲間に全て任せていたのであろうな』


 サリアの声は笑っている。自分も口元をゆがめた。


「これで仕掛け、終わった。あとは明日」

『そうだな。そなたも良く頑張った。こちらの見張りは任せよ』


 頷き、新たな梢に飛び移る。残してきた勇者のことを思いながら、小さな姿が夜に消えていく。



 違和感は、最初は水滴のせいで起こったのだと思った。首や背中に、じわじわと蠢く感覚がする。

 そして、それは唐突に差すような痛みに変わった。


「つっ!?」


 目を開くと、すでに辺りは薄ぼんやりと明るくなっている。朝が来た、そのことを感じるのと同時に首筋にざわめく違和感。


「な、あっ!?」


 首筋に手をやった途端、ぶちゅっ、っと何かを潰す感触。


「うあっ! あっ! ああっ! うひゃああっ!」


 視界の端に何かが蠢いている。鎧の肩当に群がるのは、つぶつぶとしたこまかな蟻の黒い帯。


「うぎゃあああああああっ! な、なんだ! これっ!」


 首にも鎧の中にも、何かが這い回っている。


「ひいいいっ! あっ、ああっ! うわああっ!」


 慌てて脇の金具に手をやり、鎧を脱ごうと手を掛ける。早くこれを外して――。


「で、できるわけないだろ、くそおおっ!」


 無理矢理首筋をこすって虫をこそぎ落とし、手で肩から叩き落とす。それでも服の中を這い回る虫は、中々出て行かない。


「畜生っ、なんてことするんだよあいつっ!」


 一体どうしてこんなことが出来たのか、全く理解できない。それでも何分か格闘し、必死に背中を木にこすり付けていると、ようやく虫の這い回る感じは無くなった。

 だが、


「……う……く……」


 痒みが、体中に襲い掛かる。虫の体液や蟻の顎の噛み痕が、むずむずとした感覚を伝えてくるようになっていた。鎧の上からその部分を掻こうとしてみるが、もちろん指は届くはずも無い。


「こ、こんな……こんなことで、脱いでたまる、かよぉっ」


 そうだ、これさえ脱がなければ、あいつには絶対に負けない。歯を食いしばり、剣を引き抜いて周囲を睨む。


「畜生! 早く出て来い! 俺はここだぁ!」


 白い朝もやが、薄明かりの中に流れていく。鳥が茂みから飛び立ち、どこかで小さな動物が走り抜けていく音がする。

 それでも、小さな魔物は現れない。


「早くでてこいよぉっ……」


 背中を木にこすりつけながら、浩二はじれた表情で辺りを見回し続けた。



 すでに怒る気力も湧かず、玉座に体を埋めるようにしてゼーファレスは頭を抱えた。

 下では絶え間なく神々の笑い声が響き、一秒もこの状況に耐えられそうに無い。もし勇者がこの場を切り抜けられたとしても、自分の権威は完璧に失墜しているだろう。

 唯一の救いは、妹の小ざかしい策を見抜き、勇者が鎧を脱がなかったこと。あれで無防備な体を晒していれば、今も虎視眈々と隙を覗っている卑怯な魔物に、射抜かれて死んでいたはずだ。


「中々状況判断が出来るようですね、勇者殿も」

「嫌味のつもりか! いくら我が神器頼みとて、あの者も戦を潜り抜けてきた者! 自分の優位が何によってもたらされているか、理解しておるわ!」

「鎧を脱ぎさえしなければ勝てる、ですか」


 妹の言葉には、強い確信が乗っている。鎧を脱ぎさえしなければ勝てる、裏を返せば鎧を脱がせさえすれば打ち負かせるということ。


「あ、生憎だったな。おそらく勇者も、あの小ざかしい虫寄せがいかなる手業によるものか気づくであろう。痒みはいずれおさまる、同じ手は二度とは」

「シェートよ。体の方は大丈夫か?」

『うん。良く寝た、体調子いい』


 こちらの指摘を無視して、妹は魔物と楽しげに語らっている。


「そうやって強がっていられるのも今のうち」


 こちらの発言をさえぎるように、コボルトの矢が茂みから飛ぶ。はじける障壁と、熊のように背中をこすり付けるのをやめて身構える勇者。


『起きたか、お前。どうした、背中、痒いか』

『何が痒いかだ! これ、お前がやったんだろ!?』

『ああ。俺、やった。上から、甘い水、いっぱい垂らした。虫、お前殺す力ない。だから壁、通れた』

「な……に?」


 あっさりと種明かしをした魔物は、嬉しそうに自分の所業を語った。


『俺、お前の上、ずっといた。知らなかったか?』

『じゃあ、あの水が垂れてきたのは!』

『お前バカ、鈍い、目玉、足の裏付いてる』

『て、てめぇっ!』


 無様に癇癪を起す勇者を見ながら、それでもゼーファレスは失笑を漏らしていた。


「愚かな奴よ、自分で策をばらしてしまうとはな。これで勇者に同じ手は通用すまい」

「でしょうな」

「それで、次はどうする? 直接樹液でも掛けて虫を寄せてみるか? また姑息に逃げ回り、落とし穴にでも落とすか?」


 妹は何も語らず、まっすぐ結晶の向こうに映る景色を見つめている。

 その景色が乳色に染まり始めた。


「な……なに!?」

『う、うそだろ……』


 単なる靄、そう思っていたはずの水蒸気の塊が、次第にその濃さを増していく。吹き付ける風に乗って、木々の間を白い霧が包んでいく。


『昨日、森、温かかった。次の日、霧になる。朝、虫動くの、霧出る時、分かるから』


 あっという間に木は黒い陰になり、小さな魔物の姿が消えていく。


『ま、またかくれんぼかよ!』

『違う。今度、かくれんぼ、違う』


 かさかさと地面を走りまわる音だけが、白い世界に響く。勇者は完全に相手を見失い、必死に周囲を見回した。


『どこ見てる。俺、ここ』

『そんな手に乗るかよ! お前の力は俺には効かない! こうして霧が晴れるまで待ってればいいんだ!』

『そうか。それなら』


 コボルトの言葉と同時に、いきなり勇者の体が地面に打ち倒される。一瞬障壁で霧が散らされ、その足元に蔓でできた仕掛け罠が見えた。


『またかよっ』


 そうぼやく勇者のほんのすぐ脇に、うずくまる銀色の毛皮。


「剣を振れ! そなたの右に居るぞ!」


 だが、勇者は全く気づく様子もなく、剣を支えにして立ち上がる。コボルトの手が、何者も害することない速度で伸ばされ、鞘に伸びた。

 だが、何も起きない。そのまま霧の中に魔物が消えていく。


「何をしたいのだあやつは!」

『何がしたいんだよあいつは!』


 奇しくもお互いの言葉がシンクロし、それでもコボルトは霧の中に消えたまま、森を動き回る。


『俺、どうやってお前倒すか、聞いたな』

『それがどうした! お前の力でこの鎧を貫けるってのか!』

『無理。女神、弱い。この力、役立たない』


 はっきりとした物言いに、思わず笑みが浮かんだ。あの魔物も、自分の妹の能力は把握しているらしい。


「ずいぶん正直なことだな」

「それが事実ですので」

『でも、お前倒す方法、ある』

『一体なにうおおおおっ!?』


 いきなり強烈な引っ張りを感じて勇者が前のめりになる。何とか踏ん張った瞬間、鈍く何かが千切れる音が響いた。


『うわあっ!?』

『俺の弓、女神の力、それ以外のもの使う』

『それ以外って……』


 その時、あれほど濃かった霧が晴れ始めた。立ち込めたときと同じぐらい唐突に。

 陰が幹になり、小岩だと思っていたものがコボルトに変わる。

 その手に握られていたのは、鞘。


『それ俺の!』

『じゃあな』


 勇者が腕輪を突きつけるより早く、木に隠れてコボルトが走り去る。山の斜面を不規則に駆け抜けていく背中に、勇者は叫んでいた。


『くそおおっ! この泥棒! 俺の鞘返しやがれ!』


 下でひとしきり起こる笑いも、ゼーファレスは耳に入らなくなっていた。

 障壁に引っかからない虫を使っての鎧封じ。

 霧の中で鞘を奪った行為。

 そのどれもが、一つの可能性を示唆していた。


「私の勇者の力を奪って勝つ、そういうことか」

「はい。今回の狩りは『わたぬすみ』ですので」

「また下賎な魔物の言葉か! 一体なんなのだそれは!」

「そのうち、お分かりになるでしょう」


 勿体つけてはいるが結局は勇者の油断を突き、装備を奪って反撃するつもりだろう。

 だが、生憎だったな、ゼーファレスは心の中で笑う。

 勇者の装備は彼専用の物。たとえ剣や腕輪を奪っても、その力を引き出すことはできない。虫の一件で勇者も、自分の鎧の重要性を嫌が上でも理解したはずだ。

 最悪、攻撃手段を失っても鎧さえあれば勝てる。無様ではあるが、負けるよりは遥かにいい。


「……な……なに……?」


 霧の晴れた世界で、ようやく行動を開始した勇者を見ることもなく、ゼーファレスは自分の内側から出た思考に愕然とした。

 負けるよりは遥かにいい、だと?

 何を考えている。

 負けるはずが無い、勇者が負けるはずが無い。

 それを証拠に見ろ、自分の勇者はあのコボルトの一撃を受けても、傷らしいものは負わされてなど。


『くそっ、かいいなぁ……』


 違う、あれは姑息な手段、虫の体液にかぶれただけで、傷にも入らない。


「どうされた、兄上」

「な、なんでもない!」


 その無様な姿を見ながら、それでも必死に言い聞かせる。

 勇者が負けるなど、絶対にないのだ。



 霧が晴れてから、襲撃はぴたりと止んだ。

 静かな森の中には鳥の声、茂みのざわめきくらいしか音が無い。

 後は自分の歩く足音と、腹の虫。


「く……そぉ……腹減ったなぁ」


 緊張している間は感じなかったが、こうして何も無い時間が続くと、途端に意識してしまう。こちらの食事は向こうとは全く違うし、時には死ぬほどまずいものもあるが、それでもなんとかやってこれた。

 そういえば、自分の荷物は全て鞍袋にしまったままだ。こちらに来て驚いたのは、いわゆる背負い袋のようなものではなく、鞍袋が荷物を運ぶ時の主流だったこと。

 馬の背中にまたがるように掛かった袋は取り外し、肩に掛けて持ち運ぶ。

 確かに、背中に荷物を背負うのは鎧を着る人間には難しいから、自分も便利なものだと思っていた。


「でも、背負い袋だったら、飯とか持ってこれたろうなぁ」


 堅くて不味い焼き締めたパン、塩辛い豚肉、酸っぱいワイン、旅のお供は大体こればかりだったが、リィルやエルカが手を加えてくれて、そこそこうまいサンドイッチになったり、焼きたての魚を食べることもあった。


「魚かぁ……川に行けば食えるかなぁ……」


 そう言いながら、火を起こす用意が何も無いことを思い出し、顔をしかめる。

 火を起こす係はいつも他の三人だった。というのは自分でまともに火口箱を使って火を起こせたことが無いからだ。

 石英と鉄片を打ち合わせ、細く裂いた繊維に火をつける。一番不器用なリィルでも、簡単に火をつけてみせたし、エルカは魔法を使って、アクスルに至っては脛当てと剣を使った横着までやっていた。


「しょうがねーじゃんよ……今やIHの時代で、ガスだって使わなくなってきてんのに」


 現代文明の恩恵に浴した高校生に、石器時代のサバイバビリティを要求する方が間違っているのだ。そんなことを考え斜面を下っていくと、小さな茂みが目に付いた。

 紫の木の実が、びっしりと付いた低木がある。粒は小指の先ほどしかないが、枝に固まって付いている。


「おおお! 食い物発見、か?」


 とっさに駆け寄ろうとして、立ち止まる。ここにもあのコボルトが仕掛けた罠があるかもしれない。剣を使い、周囲の地面を叩き、上を見て、さらに周囲の木々を見回す。

 何も無い、どうにかその低木までたどり着く。

 枝の一本を折り取り、さらに周囲を確認。何も動くものは無い。

 紫の木の実は少し堅そうで、それでもつやつやとした光沢を放っている。

 もしかしたら、毒かもしれない。


「いや、物は試しだ。一個だけ、食ってみて、だめなら……」


 そっと木の実に口を近づけ、一粒だけ口に含む。そして、舌と上あごで潰してみた。


「…………ぐ!」


 途端に口の中に苦酸っぱい味が、ぶわっと広がる。


「ぐあああああっ! ぺえっ! ぺっ、な、なんじゃごりゃ、にがすっぺぇえっ!」


 その渋みは口全体に広がり、吐き出した今も味覚をおかしくしている。


「ちくしょうっ。毒じゃないみたいだけど……うげええええっ!」


 腹立ち紛れに枝を叩きつけ、ブーツのそこでぐりぐりと潰す。一緒に白い花の咲いた草を踏み潰してしまうが、ついでに踏みにじっておいた。


「そうだよな、もし食えるなら、あいつが残しておくわけ無いもんなぁ……」


 散々こちら嫌がらせをしてきたのだ、食べられるものを全て引っこ抜いたり隠しておくくらいやりかねないだろう。


「じゃあ、あいつの行ってなさそうなところに行くしか……ん?」


 どこからか、香ばしい匂いが漂ってきた。

 焚き火であぶられた肉が、じうじうと脂を滴らせる。そこから立ち上った香りが、風に乗って浩二の鼻腔をくすぐった。


「……ここには、あいつと俺しか居ない、んだよな」


 もちろん、この匂いの源にはコボルトが居るだろう。罠かもしれない、だが今は昼で、魔法も充填されている。飯を食っている最中に襲い掛かって倒す、そしてあわよくば食料を奪う。


「……山賊かよ、俺は」


 とはいえ、背に腹は変えられないし、コボルトを倒せばこの封鎖は解ける。そう考えながら匂いを辿り、山道を進む。

 次第に水の流れる音が大きくなり、唐突に森が開けた。

 どうやら崖になっているらしい地面と、その向こうでぷつりと途切れている大地。どうどうと水の流れる音が聞こえるから、川はすぐ側らしい。


 そして、コボルトは崖の端で火を起こし、肉を焼いていた。

 何の肉は分からないが、ひどくうまそうな匂いがする。焼き加減を見る横顔は真剣で、どこか嬉しそうだ。

 浩二は周囲を見回した。コボルトの周りには遮蔽物になる岩などは無い。楯になるようなものも置いていない。しかも、弓も持たないまま、腰に小さな剣を刺しただけの姿。


「罠かよ……くそっ」


 そうだ、あんなあからさまな罠に引っかかる奴は居ない。だが、肉は、どうしようも無く美味そうで。


「魔法でぶっ飛ばす……それで、終わりだ」


 もし気づかれたとしても、今なら肉を奪えるだろう。そうすれば、こちらにかなり有利になる。


「……『貫け、ゼー」


 小声で囁き、腕輪をそっと向ける。こちらの姿は木陰に隠れて完璧に見えないはず。


「ファント』っ」


 次の瞬間、コボルトの姿が消えた。


「な、に!?」


 魔法の矢が今までコボルトの居た場所に突き刺さり、焚き火と地面を削り取る。だが、死体も血の跡も一切残らない。


「ま、まさか、なんかの魔法か!?」


 隠れていた茂みから飛び出すと、浩二は焚き火のあった場所に走りより、逃げ去っていく銀色の背中を見た。

 焚き火のすぐ近く、確かに崖はあった。川原までの高さはせいぜい二メートル、いくつもの岩が張り出し、多少急だがスロープのような斜面まで付いていた。


「くっそっ!」


 最初からこちらのことなど気が付いていたのか、そこまで考えて浩二は空を見上げた。


「ま、まさか、見てるのか!?」

 考えてみれば、自分のカミサマの助言は封じられたが、向こうも同じ条件になるとは一言も言われていない。


「……なんだよそりゃ! インチキじゃねーか!」


 絶叫してみるが今更遅い。自分の意見すら無視し、勝手に決めたバカガミに頭がくらくらするほどの怒りがこみ上げる。


「バカじゃねーの!? いやマジでバカだろ! なんでそんな条件飲んでんだ! マジクソガミが!」


 叫ぶと同時にこみ上げるのはむなしさと、それを上回る空腹。

 さっきの肉は跡形も無い、吹き飛んだかコボルトが持ち去ったか。


『おい勇者!』


 どこか遠くから自分を呼ばわる声、それは逃げ去ったはずの魔物。


「どこ行ったんだこのクソモンスター! 出てきて戦え!」

『嫌だ。俺飯食う。肉、うまい』


 多分、峡谷になった川の壁に、自分の声を木霊させているんだろう。どこに居るか分からない相手に、浩二は叫ぶことしか出来ない自分を呪った。


『お前、俺の肉、食おうとした。ずる、よくない』

「お前の方がインチキだろうが! こんな風に罠に掛けやがって!」

『じゃあ、お前、その鎧脱げ。お前、インチキやめたら、俺もやめる』

「くっそがああああっ!」


 むなしく響く声と、黙り込む魔物。多分、あの美味そうな肉を食っているんだろう。握り締めた剣がぶるぶると振るえた。


『でも、俺、お前狩するの、止めない』

「な、なに!?」

『山、獲物いる。川、魚居る、獲れるなら獲れ』


 まるでやれるものならやってみろ、と言わんばかりの声。浩二は崖を見つめ、高さを確かめなおす。


「や、やってやろうじゃねーか!」


 相手の挑発に乗るのは癪だが、確かに食料は必要だ。魚なら何度か食べているし、川魚に毒をもつものは居なかったはず。それに、食事と同じぐらい切実な問題もある。

 足がかりを確かめ、少しずつ降りる。すでに逃げたのか、コボルトの声は聞こえない。


「……まさか、水攻めとかするんじゃないだろうな」


 一瞬、川の水に目をやるが、水量はかなりのものに見えた。不自然な減り方はしていないようだし、そもそもコボルトは一匹だけだ。山の落とし穴や蔓の足掛け罠だけで精一杯のはず。

 それにしても動きにくい。片手の剣がひどく邪魔で、いつ落とすかとひやひやしてしまう。そうでなくても、ずっと手に持って歩くしかないので手が疲れていた。

 なんとか崖を降りると、ほっと息をつく。同時に、強い喉の渇きを覚える。

 昨日から食べていないだけでなく、何も飲んでいなかった。口の中にねばねばした唾が湧いて気持ち悪い。


「でも、川の水、なんだよな」


 生水は飲むなというのは現代人でも知っている知識。しかも、仲間達からも川の水はどんなにきれいでもやめておけと言われている。


「それに……魚獲るにしても、道具もないし」


 確かに川岸には大きな岩や石がごろごろして、その先は川と接する浅瀬になっていた。

 流れは速いし、そもそも魚を釣る道具も、火を起こすこともできない。


「しょうがない……」


 浩二は川岸に近づき、籠手だけを外して手と顔を洗った。水は冷たくて気持ちいい。


「口すすぐくらいなら、大丈夫だよな」


 もう一度流れに手を入れ、水を掬う。

 その中に、大きな虫が入り込んだ。


「うわっ! キモっ!」


 思わず振り飛ばし、そこで異常に気が付いた。


「な、なんだ、これっ!」


 目の前の川を、虫が流れていく。おそらく川の虫だと思うが、ピクリとも動かないまま何匹も下流に流れ去る。

 そして、白い腹を見せて、川魚さえも喘ぎながら水流に浮かんでいた。


「う、うわあああああああああっ!」

『勘違いするな。俺、狩りするの止めない。でも、邪魔する』


 毒。その単語に気が付き、慌てて籠手を着けて剣を構える。


『お前、毒効かない。でも、魚、虫、毒で死ぬ』

「なんてことしやがるんだよ!」

『欲しかったら獲れ。でも、お前の鎧、毒魚、食わせてくれるか?』


 流れていく、魚が白い腹を見せて流れていく。手に取れば鎧の効果で毒魚を食っても問題が無かったかもしれない。でも、みんな急流に押し流されていってしまう。


『俺、お前見てる。お前、動く時、食べるとき、寝るとき、みんな見てる』

「う……」

『忘れるな』


 それきり声が途絶える。だが、今の浩二にそれを安全だと考えることはできなくなっていた。


「く……」


 川原を見回し、大きな岩の陰を探る。崖を見上げ、張り出した木の枝に目を凝らす。

 岩陰には誰も居ない、鳥の小さな影がまばらに枝を揺らすばかり。


「ちくしょおおおおっ!」


 浩二の絶叫が谷川に木霊した。



 絶叫を耳にしながらシェートは川に突き出た岩の上に立ち、網を引いていた。中には白い腹を見せて浮かんでいた魚が大量に入っている。


『まさか、"根流し"までやるとはな』

「知ってたか」


 川漁の一つであり、シェートもめったなことではしてはならないと、ガナリから戒められた毒撒き漁法。


「これで川、汚れた。少なくとも三月、根流しできない」

『大量に獲物は取れるが、漁場が荒れるゆえな。無軌道な根流しで集落が潰れたのを見たことがある』


 毒自体は人間やコボルトには猛毒というわけではない。しかし、川魚だけでなく、その餌になる虫や小魚まで殺すことになるため、川の環境が荒れてしまう。村を開く時に一度だけやったきりで、シェートたちも根流しは禁じ手にしていた。


『しかしこれで、また勇者から一つ奪ったな。これで奴は川で魚を獲ろうとは思わないだろう』

「一つ違う、多分、三つ」

『三つ? ……川の水が飲めぬことを入れても二つだと思うが』


 編んでおいた粗製の魚篭に魚を入れ、そのまま岩を飛び歩く。鎧を着けた人間ではとてもたどり着けない早瀬の岩を、シェートは軽々と飛んだ。


「あいつ、もう食べ物探すの、怖い思ってる」

『どこにお前の手があるか分からないから、か』


 頷くと崖近くの岩に飛び移り、崖を登る。


『ところでその魚は?』

「食う。根流し、漁だ。食べられなくする方法違う」

『そうではない。とても食べきれないのではといったのだ』


 宝の山を背負い直し、コボルトは笑った。


「勇者来れない岩山、そこで干す。俺、食い物困らない」

『なるほど。では勇者の方は』

「しばらくほっとく。あの辺り、あいつ食えるもの、食える分かるもの、何も無い」


 そうだ、そのことを自分は知っている。そして敵は知らない、知ることができない。その視線が岸辺の近くに咲く、小さな花を見た。


「知ってるか。あの花、根っこ食える」

『ああ、塊根の部分だな』

「焚き火入れて焼く、すごくうまい」


 それを知らずに踏みにじっていた姿を思い出し、狩人は苦笑した。


『どうした?』

「なんでもない」


 川の流れる音を背に、コボルトは再び森の奥に姿を消した。



 再び世界が夜に包まれていくのを、ゼーファレスは暗澹たる眼差しで見つめていた。

 結局、コボルトは時折勇者の様子を確認するのに忍び寄ったきりで、一切姿を見せていなかった。本来ならそこで息をつき、気持ちと体を休めることができただろう。

 しかし、勇者は全く落ち着かな気に周囲を見回し、小さな物音にも驚いて剣を構える。


『く、くそっ……どこに行ったんだよ、あいつ……』


 薄暗くなりかけた森の中、不安に顔を曇らせている子供。握り締めた神剣が、まるで棒切れのように見えた。


「だ、大丈夫だ! 今は休め! あの魔物はお前の側にはおらん!」


 その時、茂みの中から何かが飛び出す。振り向いた勇者の目の前に居たのは、一匹のウサギ。


『あ……っ』


 剣を握り、一歩踏み出した途端、小さな獣は一瞬で姿を隠した。


『くそっ! くそっ! くそおおっ!』


 手に取るように分かる、あのウサギを仕留め、何とか口にすることができればという思いが。だが、手持ちの魔法では小動物など粉々に砕けるし、剣を振り回して当たる間合いに居続けてくれるわけもない。


「ば、馬鹿者、そんなことをせずとも、ほれ、その右手にある木が」


 コボルトが皮を剥ぎ、口にしていたのと同じ木が立っている。それさえ教えられれば、そう思いながらも伝える術が無い。


「くそおおおおっ!」


 まるで役に立たない。千の軍を前にしてもひるまない鎧、万の敵を切っても刃こぼれ一つしない剣、瞬時に大魔法を扱える腕輪。

 そのどれもが、緑の地獄に抗う力を持ち合わせない。

 なにより自分の声が、一つとして届かない。目の前に居る妹は配下と言葉を交わし、森の秘密を隠すことなく自分に教えているというのに。


『サリア、勇者、どうだ?』

「さまよっている。大分参ってきているようだ。今も叫びながら下生えを刈っているぞ」

『そうか。俺、水汲んでから行く。そろそろ次の仕掛け、やる』


 森には恵みが満ちている。それを余すところ無くコボルトは使いこなす。食料、水、武器、罠の材料として。

 そして、天からは妹の目。冷徹に、確かに下界の状況を配下に知らせていく。


「いつからだ……」

「……なんのことでしょう」

「とぼけるな! この山に陣を引き、我が勇者を捕らえる罠と変えたは、いつからだと聞いておるのだ!」

「勇者に破れ、逃れし次の日、辺りかと」


 こともなげに言い放つ妹に、ゼーファレスは叫喚した。


「ありえぬ! それでもせいぜい二週間だぞ! 我が勇者の行方を捜し、その上で罠を張る場所を選び、仕掛けを施すなど!」

「シェートにはただ、勇者の進む方向だけを調べて貰いました。その後は差配は不詳ながらこの私が」

「……まさか」


 思い出していた。妹は地のものと交わることを好み、世界の上を経巡ることを楽しみにしていたことを。


「とはいえ、私はただ、陣を引くにかなう場所を配下に教えたまで。季節や星の巡りでいささか変わりはありますが、あの世界の地勢は悉く、我が頭に入っておりますゆえ」

「お……おのれ……」


 たった一日と半、それだけの時間が過ぎた時点で、勇者の優位は剥ぎ取られていた。

 頼るべき仲間から離され、自由な思考と行動を奪われ、食料を得る術を失った。

 叫ぶのに疲れ果て、ぐったりと背を大木にもたせかける姿は、まるで。


「だが! 所詮はそこまでだ! 鎧を貫く一撃は生み出せておらぬ!」

「ですが、勇者殿を」


 剣を地面に置き、片手のこりをほぐすように手を振っている。鞘の代わりになるものを見つけられず、何度かあんな動きをしているのを見ていた。


「我が神剣は勇者専用! 確かに鋭く強い剣ではあるが、貴様の配下では真の力は引き出せぬ!」

「ですが、棒切れよりはましな武器になりましょう」

「サリアアアアアアアアアア!」


 向こうの世界には闇の帳が下りていた。勇者は怯え、辺りを見回している。


「何をやっているこの馬鹿者! 奴は何か仕掛けるつもりなのだ! 頼む、頼むから気づいてくれえええええっ!」


 叫ぶ自分の視界に、コボルトの姿が見える。それを伝える術を持たないまま、敵の新たな策が始まった。



 また、森は闇に包まれた。

 周囲でざわめく梢の音も、下生えの風に鳴る音も、浩二の神経を逆なでしてくる。どこに行っても木が視界を塞ぎ、見晴らしのいい場所がほとんどない。


 森なんて、こちらに来るまで意識したことも無かった。小学生の時に林間学校で夜の森を歩いた記憶もあるが、あれだって引率に連れられただけだし、こんな風に圧倒的な闇の中に放り出されるなんてなかった。

 一応、梢の薄いところを探して、夜空が見えるところに居るが、月明かりすらない状態であまり意味は無い。


「……くそ……」


 片手がだるい、ずっと握っていた剣のせいで手首が熱を持っている。鞘が無いことがここまで響いてくるなんて思わなかった。

 それに、あの昼間のことが、忘れられなかった。


『俺、お前見てる』


 思わず空を見上げる。あまり枝振りの良くない木の上には、何の姿も居ない、ように見えた。周囲の茂みも、ここに落ち着くまでに、何度か見回しておいた。

 落とし穴も、蔓の罠も無い、それでもあの木の陰に、あるいは少し離れたところに転がった岩に、何かが潜んでいる気がする。


「大丈夫、大丈夫なんだ」


 そっと鎧を撫でる。これさえあれば、自分は大丈夫だ、罠を喰らっても傷一つ負わないし、あいつの攻撃は自分には通らない。

 何とか気分を落ち着けようとするのに、腹がぐるぐると鳴った。

 喉も渇いている、何か飲みたい。


「あいつ、水とかどうしてるんだ」


 自分で川に毒を流した以上、毒消しを使えるか別の水場を確保してあるんだろう。

 それを見つければ、だがどうやって?

 腹が減って、喉が渇いて、仲間もいない一人ぼっちで。


「こんなの、おかしいだろ……」


 一体どこで間違ったんだ。昨日まで、自分は無敵の英雄だったはずなのに。


 ほーう……


「な、なんだ?」


 ほーう…………ほーう……


 遠くから、何かの鳴く声がする。

 最初はそう思った。


『ほーう……ほーう……ほーう』


 暗い森に、声が響きだす。それは間違いなく、あのコボルトの声。


「き、きやがったな!」


 身構えた途端、近くの茂みが揺れる。薄暗がりに目を凝らし、剣を構えてそこへ一気に走った。


「ぶった切れ『ゼーファレス!』」


 熟達の剣士の一撃が茂みを両断し、茂みを打ち払う。だが、そこには何も無い。


「く、くそっ!」

『ほーう! ほーう!』


 声が遠ざかり、同時に別の茂みが音を鳴らす。これもブラフだ、ということは敵はまたこちらをいらだたせるだけで、直接攻撃するつもりは無いに違いない。


「もうその手は喰うかよ! 勝手に好きなだけ吼えてやがれ!」


 木の下に陣取り、剣を地面に突き刺す。近づいてくれば魔法をお見舞いすればいいし、近づいてこないならゆっくり休ませて貰うだけだ。


『ほーう、ほーう、ほーう』

「ちっ……」

『ほーう……ほーう、ほーう!』

「……っ」

『ほーう……ほう、ほーう、ほーう!』

「うるせぇってんだよ……」


 声は遠く、あるいはすぐ近くで響いてくる。あるときはほんのすぐ側、と思えば森の外れの方で声がすることもある。茂みや木の枝もがさがさと音を立て、どこからどこへ動いたのかすらつかめない。


『ほーう! ほーう! ほーう!』

「だまれえええええっ!」


 敵は確かにそこにいる。しかし、声ばかりを上げて一行に近づかない。その上、渇きと空腹が嫌が上でも意識されて、気分が滅入ってきた。


「畜生、こんなの、こんなの勇者とか関係ねぇじゃんよ……」


 頭を抱え、その場にうずくまる。それでも視線だけは辺りに気を配る。相手は自分の気の緩みを突いて、剣を奪いに来るはず。


「早く、早く来い……」


 じりじりとした時間が続く。


「……なにやってんだ……早く……?」


 声が止まっている。森には静けさが戻っていた。


「な、なんだよ、あいつ帰っ」


 ガンッガンッガンッ!


「うわあああっ!?」


 金物を打ち合わせる激しい音、吼え声に入れ替わるように打撃音が夜を震わせた。


「うるせええええっ!」


 多分、鍋か何かを打ち合わせているのか、今度は自分を遠巻きにめぐりながら、コボルトは騒音を撒き散らし続ける。

 ただでさえイライラしているところへ甲高い金属音は神経に堪える。耳を塞ぎ、相手の位置を探ろうと闇に目を凝らす。


「くそっ、くそっ、くそっ!」


 今すぐ走り寄ってぶった切ってやりたい。しかし、今出て行けばきっと何かの罠に掛かってしまう。その隙に何が起こるか、次こそ剣を盗まれるかもしれない。

 頭を押さえつけるような金属音が、ぱたりと止んだ。


「う……?」


 耳から手をどけ、剣を手に取る。ようやく静かになったか、そう思った途端。


『ほーう!』

「またかよ!」


 魔物が夜を駆け、吼え声が辺りを満たす。決して位置を気取らせない歩行で、浩二の世界をかきむしって行く。


『ほーう!』

「や、やめろ……」


 吼え声が耳の奥に染み入る。


『ほーう!』

「やめろ……っ」


 そしてぱたりと止んだ声。


「う……?」


 再び、脳を突き刺す金属音が森のしじまを裂いた。


「やめろおおおおおおおっ!」


 鳴り響く音の向こうに、深い闇の向こうに、浩二は腕を突き出した。


「砕け『ゼーファント』ぉぉぉぉおおおおおお!」


 爆裂が騒音を吹き飛ばし、森中がわめき騒いだ。鳥が鳴き声を上げて飛び立ち、動物や虫たちが大気をゆるがせて逃げていく。


「畜生っ、ちくしょうっ!」


 魔法の明かりが消え、騒音が失われる。

 吼え声も金属音も消え、ようやく世界が落ち着きを取り戻す。浩二はほっと地面にへたり込んだ。

 これで休める、とにかく今日のところは。


「ほーう」


 その声は、すぐ後ろから届いた。


「――っ!?」


 自分のもたれていた木の陰に、輝く双眸。


「つ、貫け『ゼーファント』!」


 言霊に従い、集った魔法の銀光が照らし出したのは、コボルトの体を包む木の板、はじける防御の閃光と砕けていく木片。

 だが、傷一つ無い毛皮の姿はニヤリと笑い、闇に消えていく。


「あ……!」


 使わされた、魔法のストックが一瞬のうちに使い切らされた。

 明日になれば、またチャージはされる。だが、今日はもう使えない。

 夜明けと共に力は戻る、だが今は何時だ?


「あ、ああ……!」


 抜き身の剣を引っつかみ、必死に抱きかかえた。これは奪われるわけにはいかない、そんなことになれば、一体どうなる?

 もう虫のことなど構っていられない、ピッタリと背中を木につけ、身を固める。


 ガンッガンッガンッ!


 金属音が鳴る。

 音が鼓膜を刺し、意識に痛みすら感じさせる。浩二はそれでも、必死に体を固めて、剣を守ろうと目を見開いていた。



 手にしていた錆びた鍋と剣であった代物を収めると、シェートは場から離れる。勇者は強張った形相で闇を見つめたままだ。


『なるほど。これが熊狩りのやり方か』

「熊、そのまま戦う、死人出る。だから、色々やる」


 シェートの隠れ家は勇者の居る森から少し離れた場所、川岸の岩山の上にある。人の足ではまず登れないし、茂みが周囲を隠してくれていた。


「まず、巣穴見つけて潰す。そいつ以外の臭いつける。縄張り、うろつく」

『帰る場所を無くし、熊のテリトリーを壊す。その上で、近づかずに声や音で精神を参らせるのだな』

「うん。大きな音、俺たちの声、熊追い立てる。熊、食べること、飲むこと許さない。それ、長い間続ける」

『なるほど、狩りの時にはろくに食べられない、と言っていたのはこういう意味か』

「熊狩り特別、気持ち、特に疲れる」


 枝を組んで作った掛け小屋にもぐりこむと、用意しておいた木の実や干し肉を頬張り、水で流し込む。鹿の毛皮に包まると、目を閉じた。


「少し寝る。北の星、山のてっぺん掛かる頃、起きる」

『起してやる必要もないのだものなぁ。私の立つ瀬が無い』

「見張り、頼んだ、ナガユビ」


 別にサリアが役に立たないわけではない。不眠不休で文句も言わず、見張りを続けてくれるものが居るのはありがたい。

 これで二日目、最後の日まで気は抜けない。

 狩りはいつだってそうだ、今までと同じく、食べられるときに食べ、眠れる時に眠ればいい。

 シェートの視界は、すぐに安らぎの暗闇に落ちていく。



 いつのまにか夜は明けていた。視界が白く縁取られていて、目の下に痛みを感じる筋が入っている感じだ。

 浩二はあくびをして、それから剣を握りなおした。

 結局コボルトは夜通し騒ぎ、うろついていた。気が付くと叫び、甲高い音を鳴らして自分をいらだたせてくれた。

 一体、あいつはいつ寝たんだろう、もしかすると向こうは、全く眠っていないのかもしれない。


「くそ……夜更かしには、慣れてるはずなんだけどなぁ」


 剣を引きずるようにして持ちながら、木の根方から歩き出す。今日は霧は出ていないから、昨日のようには襲撃されない、かもしれない。

 下手すれば二日ぐらいは寝ずにゲームをやることもあった。廃人寸前までネトゲをやり続け、いくつかのゲームではかなり有名人にもなっていた。

 そんな時、声が聞こえてきたのだ。あの忌々しいカミサマの声が。


「やっぱり、こんなのクソゲーじゃねぇかよ」


 確かに無敵の能力を使えば、敵に勝てた。大軍だって、巨大な化物だって怖くない。

 それが今、たった一匹のコボルトに振り回されている。

 ぐるるるるる。

 腹の虫が、空腹を訴えてきた。それでも、何も無い。


「あー、ラーメン喰いたいなー、醤油とんこつでニンニクたっぷりの奴!」


 うっかり口にしてしまった言葉に、激しい後悔が湧いた。

 頭の中に湯気がもうもうと立つラーメンのイメージで汚染される。しかも、想像の中のどんぶりには、脂がてらてらと光ったロースのチャーシューまで敷き詰められていた。


「畜生! 米喰いたいよ米! もう固いパンはうんざりだっての!」


 やめようと思うのに、後から後から妄想が湧いてくる。腹の虫は鳴りっぱなしで、イライラがさらに募る。


「……あー……のど、かわいたなぁ」


 空腹もそうだが、こっちも切実だ。確か、青草でもかじるといいと何かで聞いた気がするが、それもさすがにやる気が起きない。

 あいつが、どこかで自分を見ている。

 もしかすると、その辺りの木や草に、毒でも撒いているのかもしれない。そんなことはありえないと分っている。それでも、手が出せない。

 浩二の足は、自然とふもとの方へ向いていた。次第に川の流れる音が近づいてくる。


「あー、くそ……」


 昨日コボルトを見失った崖の上には、焚き火の跡以外何も無い。今日は一度も姿を見せていないのは、夜の騒ぎで疲れて眠っているのかもしれない。


「まてよ」


 素早く辺りを見回すと、浩二は崖の上に近づいた。そのまま、昨日と同じように、必死にバランスを取りながら降りていく。昨日と同じ場所に立ちながら、川を見つめた。

 どうやら、ここまでは問題ない。もし見ているのなら、自分が川辺にうずくまった途端に毒を流すつもりだろう。

 水は比較的澄んでいた。かなり山奥だし、民家もあるようには思えない。多分、汚染という点は心配ない気がする。

 飲んだら、どうなるだろう。

 川の水は流れている、ならば毒はすぐに下流に行くはずだ。第一この鎧を着けていれば毒は排除されるはず。

 生水ではあるし、沸かして飲むわけには行かない。でも、ほんの一口くらいなら。


「そうだよな。腹が痛くなっても、ちょっとなら」


 籠手を外し、流れに手を突っ込む。相変わらずの冷たさで、顔を洗うと眠気が少し飛んだ気がした。

 昨日と同じように手に掬い、そっと口をつける


「…………っ」


 冷たい、そしてどことなく、金属っぽい香りがする。舌にはなんとなく苦い味が広がる気がした。

 大丈夫か、ダメなのか。もう一掬い、そして飲み下す。

 体には何も起こらない。


「っし」


 今度は両手で掬い、ぐいっと飲み込む。水だ、紛れもなく水。


「……っはぁ……」


 喉越しの冷たさに、ほっと息をつく。それから、もう一掬い飲んだ。


「へ、へへへ、ざまーみろ。飲んでやったぞ」


 ようやく、敵の監視をすり抜けた。その思いで笑みがこぼれる。

 とにかく水は確保できた。これで当面の問題は。


「……う……っ」


 変化は唐突で、コボルトの進撃のように素早かった。腹の中にぐるぐると廻る何か、そして鈍い痛み。


「う、嘘だろ、おい……」


 胸がむかむかとしてくる。どうしようもない気持ち悪さがこみ上げてきた。


「う……うぐっ!」


 毒ならば鎧が弾くはず、ということは、これは毒ではないのか。


「うげ……」


 気持ち悪い、どうしようもなく気持ち悪さがこみ上げる。


「ぐぶっ……ぐ、ぐえええええええええっ」


 びしゃびしゃと川原が吐瀉物で汚れ、ブーツに胃液交じりの水が掛かる。


「げえっ、ぐえっ、ぐええええええええっ」


 吐き出しても気持ち悪さが止まらない。もう吐くものなんて何も無いのに、筋肉が引きつれて、無理矢理胃壁まで吐かせようとしてくる。


「な、なんだごれっ、どぐ……じゃだいどに……げええええっ」



「一体どういうことだ、あれは!?」


 あっという間に目の前で衰弱していく勇者、なす術もなく見守るしかない兄を、サリアはただ冷静に見つめていた。


『勇者、川行ったか』


 そのことを知らせた時、シェートは平然と頷き、こう言っていた。

『好きなだけ飲め。その後、地獄、待ってる』

「我が鎧の効果で毒など退けられるはず!」

「ええ。ですが、あれは毒でありません」


 勇者の体で何が起こっているのか、シェートも断片的にしか分からないようだったが、それが何をもたらすのかは知っていた。


『金臭い水、飲むと腹壊す。きれいでも俺たち、絶対飲まない』

「おそらく、あの水はミネラル分が高すぎるのでしょう」

「ミネラルだと!?」

「単なる経口摂取では直接の毒にはならない。ただ、胃内部に入ると胃酸と化合するか、あるいはミネラル自体が胃壁を刺激し、強い痛みを感じさせるのです」

『それだけではないぞ』


 階下で全てを見ていた竜神が、注釈を加えた。


『あの水の中にはおそらく、バクテリアなどの微生物が棲んでおるのだろう。それ自体は無害であるし、毒でもない。ただ、そうした生物は環境の変化に対して、毒素を発生させて身を守ろうとするものがある』

「ならばそれは鎧の効果で!」

『もちろん毒は消えようさ。だが、胃酸は常に分泌され、微生物達はそれに対して反抗し続けるだろう。そうすればどうなる?』


 無様に胃袋の中身を吐き散らす勇者、いや、ただの子供。地面にうずくまり、瞳に涙さえ浮かべている。

 もう、誰も彼を勝者とも英雄とも見ないだろう。顔を体液でべとべとにし、泣きながら腹痛を訴える姿。兄はその姿を呆然と見据え、か細い声を絞り出した。


「イェスタよ、我が勇者の腹痛を止めてやれ」

「できませぬ」

「我が力は残っておるのだ。できぬはずがない」

「約定をお忘れでありましょうや?」


 その時、兄は眼を見開き、こちらを見た。

 ようやく全てを悟った、そういう顔で。

 だが――まだまだ。


「シェート、勇者は水を飲んだぞ」

『そうか。なら、俺の狩り、もうすぐ終わる』


 コボルトの声は冷静で力強い。彼は勇者もまだ踏み入ったことの無い、広葉樹の深い森にたたずんでいた。

 そこには岩とコケに包まれた柔らかな場所で、彼は一塊の岩の前に立ち、コケの生えた割れ目に細い枝を突き刺していた。

 つぅっと、その枝を透明な液体が流れていく。それに皮袋をあてがい、満たしてゆく。


「あんなところから、水が……」

「広葉樹の森は水を蓄える力が強く、どんな乾季でも耐え抜く力を持っております。そして、その近隣に在る岩とコケばかりの場所は、木々の蓄えた恵みが溢れる場所」


 もちろん女神は見知っていた、狩人は常からそうした場所で喉を潤していた。


「樹木を通した湧き水は甘く、滋味に溢れ、生き物を害することも在りませぬ」


 しかし戦に明け暮れ、美々しく飾ることだけを好み、神の力で全てをごり押してきた者たちは、隠された神秘に気が付かない。

 最後にシェートは草の葉で作った器で清水を汲み、飲み干した。


『うまい』


 準備は終わった。

 あとは、最後の仕上げを行うだけだ。


「いよいよだな」

『ああ。でも、もう少し勇者、締め上げる』


 兄の喉が、コボルトの言葉にうめきを上げた。


「明日は決戦だ。無理はするな」

『大丈夫。俺とても、楽に、勇者踊らせる』


 そういう彼の背中には、丸々と太ったウサギが背負われている。肩をゆすり、こちらにいたずらな笑みを向けた。


『俺、あいつに匂い、たっぷりご馳走する』

「ひどい奴だ。今の彼には一番堪える拷問だぞ」

『そうだな。俺、ひどい魔物』


 ひとしきり笑い合うと、シェートは歩き出した。

 神々の集う広間から声が絶えていた。兄ですら、玉座にしがみ付き、声もなく体をわななかせている。

 水鏡に映るのは、川辺で反吐まみれになった勇者と、悠々と森を歩く狩人。

 見えざる罠は、もう首元まで掛かっていた。


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