23、明日の標
落ちる。
落ちていく。
最前まで足元にあったはずの緑の大地が、あっという間に頭上に競りあがり、慇懃に頭を下げた女の顔が遠ざかる。
「ひやああああああああああああああああああ!」
強烈な風に視界が狭まり、翼どころか両手足をもぎ取る勢いで吹き抜ける。角が空気圧でぱんぱんに張り詰め、脳に激痛が走った。
それでも必死に目を開き、何とか周囲を確認する。
灰色の岩肌がはるか向こうに見える。一緒に落ちてきた石橋が、落下の衝撃で粉々に砕け、大気の摩擦でコマのように回転していく。
どうにか身動きを取ろうとするが、体はがんじがらめに縛られたまま、落下し続けている。シェートとグートの姿も、瓦礫に隠されて目線の通る場所にはいない。
体感する加速度が上がっていく。魔王城の姿がどんどん小さくなり、ちぎれ雲の塊が視界を閉ざす。
「うぶうっ!」
このまま敵から逃れられるのは問題ない。魔王の影響下から離れれば、サリアや竜神も自分たちの存在をモニターできるようになるはず。
だが、魔王城の影響はどこまでだ?
「まさか、あの女っ」
そこまで計算に入れて橋を落としたとすれば、天界からの奇跡は多分間に合わない。
竜神の干渉が封じられた今、こちらの状況はモニターできていないはずだ。
「あのクソオヤジッ! 最後の最後でドジしやがってぇっ!」
雲が途切れ、魔王城の威容が、沈みかけた太陽に照らされているのが見えた。
下を向けばどこまでも広がる平原。叩きつけられればこんな体、粉々になるだけだ。
支えるものも、掴まるものもないない虚空。
神の奇跡も、相手を出し抜く奸智も、文明の利器も役に立たない。
残されたのは――。
その時、フィアクゥルは見た。
無人の交差点を佇む、巨大な黄金の竜の幻を。
「まったく」
刻々と地面に近づくのを感じながら、呆れと賞賛の混じった声を漏らした。
「どこまで見抜いてたんだよ、おっさん」
出会ったときから、それは始まっていた。
竜神は常に言っていた。自分の頭で考え、選択することの大切さを。
そのために、あらゆるものを見聞きし、考えを深めることが必要であると。
簡単に答えを教えてくれないメールも、旅の間中、語り聞かせてくれた雑学の類も、スマホに仕込んだアプリさえも。
全てが、ドラゴンとしての"識"を開くために必要な、教示の積み重ね。
そして今。
仔竜の心は、初めての飛翔を、思い出していた。
覚えている。
夕暮れの東京の街を、その空を、海原を泳ぎ渡るように昇ったときのことを。
聲に震えた翼が、皮膚が、骨の髄さえもが、朗々と謳う竜神を覚えていた。
恐れが、怯えが、消え去っていく。
ただ一声、呼びかければいいのだから。
フィアクゥルは、静かに謳い始めた。
風がシェートの何もかも塞いでいく。
甲高い悲鳴が耳を貫き、目も鼻も見えない流れに押さえつけられて、まともに息ができない。
支えも無いまま落ちる、腹の中がかき混ぜられるような不快感。薄く開いた目の向こうで魔王の城と、落ちてくる瓦礫が黒々と見える。
肺が苦しい、瓦礫に囲まれて、フィーとグートの姿も見失った。
今まで見たこともの無いような、広大な平野が眼下に広がっている。
あそこに落ちれば、自分は死ぬ。
サリアの声は途切れたまま、備わった神器も今は役に立たない。
地の生き物にとって、空は決して手の届かない世界だ。
為す術も無く、どこまでも死に向かって落ちていくだけ。
檻から解き放たれた先にあったのは、無遠慮に広大な虚空。
「サリア……」
遠くなっていく意識の中、シェートは絶望に体を預けようとした。
――聲が聞こえた。
烈風の壁を突き破り、諦めかけた心を奮わせる、喜びを謳う聲。
見開いた先、落ちかかる瓦礫の群れを貫き、両手を広げて、それは叫んだ。
「シェートぉおおおおおおおっ!」
声が身に染みた。
目じりが緩んで、幾筋もの涙が光になって空に散っていく。
両手を差し伸べて、シェートは声を限りに名前を呼んだ。
「フィーっ!」
輝く翼を打ち振るい、仔竜の体が矢の様に飛び込んでくる。優しく暖かな調べが、シェートの体を包み込んだ。
「大丈夫か」
抱きとめてくる腕は、思ったより力強かった。
彼はもう、か弱い竜の仔ではない。そのことがはっきりと分かった。
「ありがとな。フィー」
「礼を言うのは、まだ早いぜ」
シェートの背中に回りこむと、少し照れくさそうにフィーが笑う。
「まだうまく"風"を操れないんだ。グートを見つけたら、お前が捕まえてくれ」
「……ああ。任せろ」
軽く仔竜の体が身を翻す。
その途端、シェートの体は、軽やかに宙を滑り出した。
狂乱の限りを尽くしていた風が、胸が透くような美しい音色を奏でている。水に泳ぐ魚のように、崩落する岩を回り込み、気絶しながら落下していく狼を見出した。
「あそこだ!」
「岩に巻き込まれたらやばい。すり抜けながらかっさらえ!」
体が前に倒れ、落ちかかるようにグートの体が近づいていく。その胴体を、シェートの腕がしっかりと掴み、
「行くぞ! 絶対に離すなよ!」
鼻先が歪むほどの加速が、全身をなぶった。
すばらしい勢いで魔王の城が遠ざかっていく。次第に地上が近づき、広大な荒れ野と、傍らを流れる大河が大きくなっていく。
「おい……フィー?」
地上の様子が次第にはっきり見えてくる。川はそれなりに深そうで、自分たちのちょうど真下を流れる形になっていた。
それでも、速度が一切緩まない。
「これ、どうやって、止まる?」
「そ、それなんだけど、さ」
風の謳う楽しげな聲の響く中、フィーは泣き出しそうな笑顔で告げた。
「止め方わかんないから、水の中、突っ込むわ」
「……え?」
「行くぞ」
水面が風にあおられ、ざわざわと沸き立つ。
間の悪いことにグートが目を覚まし、目の前の異常事態に声も上げずに凍りつく。
「着水すんぞぉおおっ! 歯ぁくいしばれぇええええええええええっ!」
「うわああああああああああああ!」
「うおおおおおおおおんっ!」
そして、爆発した水面が、三匹の体を絶叫もろとも飲み込んだ。
空が紅に染まっていく。
川を背に見渡す大地には、思う以上に何も無い。岩とまばらな潅木ばかりで、人の住んでいる様子も無かった。
この場所にいるのは、自分と、即席の炉の側で寝そべる狼と、青い仔竜だけだ。
濡れた体を乾かしている仔竜に、シェートは声を掛けた。
「体……大丈夫か」
「うん。お前は」
「俺も、体、平気だ」
短いやり取りを交わしながらも、安堵は浮かんでこなかった。
もう、魔王の城は見えない。遠く彼方の点になり、姿を消している。
それでも、心には重いわだかまりが残っていた。
「なに考えてんだ?」
「……俺、魔王、一杯話、した」
あの城で体験した、たくさんのことが思い出される。
脳裏に浮かぶのは光る箱の向こうでうごめき続けた勇者の姿。
「知ってるか? 勇者たち、本、ゲーム、そういうので、魔王殺す遊び、一杯するんだ」
「ああ……知ってるよ」
「魔王、そういうの、全部、覚える、調べて、勇者殺す、研究する、言ってた」
今頃、魔王はどうしているだろう。
あの城の中で、今回の戦いも研究させているんだろうか。
「あいつ、神、殺す、言ってた。それに、強い魔物、みんな殺すって」
「あの魔王、頭おかしいもんな。そのぐらい言うよな」
シェートは胸の中で、その言葉を否定した。
あいつは狂ってなどいない。
本心から、自分を取り巻く全ての抑圧する者を、廃滅するつもりなのだ。
正気を保ちながら狂う者、それがシェートが見た魔王の、真の姿。
「俺、あいつ、何度も仲間なれ、言われた。勇者、俺の物なれ、って」
「ラノベの読みすぎだろ、あいつ。お前が元ネタしらねーと思って、ドヤ顔で言ってたのが目に浮かぶぜ」
ひとしきり笑いあうと、シェートは両手を、そっと見つめた。
「俺な、城で、兵士、戦った」
心の中に詰まっていた、消しきれない罪悪感。
それを、そろそろと吐き出していく。
「そいつら……弱、かった」
「そっか。んじゃ、次に城に行くときも、雑魚戦は」
「俺、強い魔物だ、言われた」
これまでずっと、自分は抗う側だった。力で暴虐を押し付けるものと戦ってきた。
しかし、あの時は、違った。
「強い魔物、弱い奴、いじめる力、使う。魔王言ってた。そういう魔物、俺……同じ、なったって」
「ふざけんなよ! なんだよそりゃ!」
激高する仔竜に、シェートは首を振った。
「でも、俺、そいつら、叩きのめした。すごく弱い、そう、思った」
「シェート……」
「それに魔王、言った。俺、神、利用されてる」
本当は、魔王の言葉に揺れ動いていた。
あの指摘は、根本的に間違ってはいるが、的外れではない。
「俺、サリアの勇者。戦う、遊戯、終わるまで。でも、ほんとは、戦い、嫌だ」
望まない戦いを続け、強いられ、いつの間にか自分でない自分が、生み出されていた。
「俺、戦う、強くなる。でも、心、変わってく。相手、強い、弱い、分かる。でも、その気持ち、魔物の心だ」
このまま戦い続け、殺し続けた先に、自分はどうなってしまうんだろう。
深まっていく闇の中で、体が震えた。
小さな火明かりでは温まらない、変わっていくことへの不安。
息を詰め、拳を握ると、シェートは問いを吐き出していた。
「魔王、言うとおり、俺、強い魔物、なる。そしたら、どうなる?」
小さな焚き火に照らされたコボルトの顔は、泣いているように見えた。
生きて帰ってこれたことが不思議なほど、すさまじい逃避行の果てに。
フィーの目の前で、シェートは怯えていた。
これまで、弱音など吐いたことは無かった。どんな苦境であっても、必死に食い下がってきたし、自分に不安なと口にしなかった。
魔王の言ったことなど、何もかも嘘っぱちだ。そう言う事もできるだろう。
元気を出せ、そう言えば、きっとシェートは何事も無かったように振舞うだろう。
でも、もうそんな真似はできなかった。
「……怖かったんだな」
犬顔が驚いたように上げられ、まじまじとこちらを見つめる。
「誰もいなかったし、サリアとも話せなくて、すごく、辛かったんだな」
傷ついた匂いが、疲れきった心の匂いが、感じ取れる。
ずっと無理をして、必死に立つしかなかった。
そうしなければ、倒れてしまうから、心が砕けてしまうから。
「ほんと、ごめんな。遅くなって」
涙がシェートの頬を伝っていく。
その流れをあわてて拭う仕草に、フィーは立ち上がった。
「フィー……?」
「城でも見ただろ。俺、魔法も使えるようになったんだぜ」
歩み寄り、不安を抱えた顔を見上げる。
「これからは、お前を一人で戦わせたりしないよ」
「だ、だめだ。お前、これ以上、危ない目、あわせる、したくない」
悲しみと苦しみが、シェートを包んでいく。
その姿に、覚悟が決まる。
「なに遠慮してんだよ」
心からの笑みを浮かべて、フィーは最大の罪を犯した。
「仲間だろ、俺たち」
無意識にシェートが首を振る。
それは優しさから出た拒絶、冥府魔道を往く道程に付き合わせたくないという、願いを込められたもの。
その優しさを踏み越えて、言葉を継ぐ。
「俺が、お前の味方になってやる」
自らの一言が、針のように胸に突き刺ささる。
「世界中の誰が敵になっても、俺だけは味方でいてやる」
自らの魂に呪詛を打ち込みながら、それでもフィアクゥルは、震えるシェートの体を抱きとめた。
「俺は、お前の仲間だ」
小さな体に抱きとめられて、シェートは深々と、息を吐いた。
この仔竜には、驚かされ通しだった。
最初は手の掛かる弟分。
次に出会ったときは頼れる味方。
そして、今、本当の仲間になれた気がした。
「ほんとに、良いのか」
「ああ。お前が遊戯が勝つまで、ずっと側にいてやる」
頭を優しくなでてやりながら、シェートは涙声のまま、礼を述べた。
「ありがとな」
ゆっくりと背中に腕を伸ばし、同じぐらい強く、抱きとめてやる。
自分の罪を抱くように。
城での戦いの後、フィーは死ぬ寸前に見えた。こんな小さな体で、あれほどの力を出して、反動が無いわけがない。
こんな申し出を受けてはいけないと分かっていた。
縁もゆかりも無い彼を、過酷な旅に付き合せたくない。
それでも、この優しさを、大切にしたかった。
――くるるるるっ。
「お?」
「あ」
どちらのものとも分からない、腹の虫。
体を引き剥がすと、フィーはとことこと新しい鞄に走り寄った。
「そういや、執事さんから弁当もらってたんだ。一緒に食おうぜ!」
屈託ない笑顔で弁当の包みを取り出す姿に、シェートの口元がほころぶ。
「執事、誰だ? 城の奴か?」
「あー、うん。すげーいい人で、ってか羊なんだけど」
「羊? 羊って、あの羊?」
「それもメシ食いながら話そうぜ! って、おおー、すげえ、きっちり無事だ!」
静かな夕暮れに、仔竜の歓声が響き渡る。
「サリア」
その光景を目に焼き付けながら、シェートは空を見上げた。
「ただいま」
久しぶりの呼びかけに、周囲の大気が潤いと香気に満たされていく。
『おかえり』
女神の声が、優しく降り注いだ。
明日で、第五章エピローグです。