20、奈落の王
魔王城十五階、大広間。
かつて、壮麗な迷宮と異世界の知識を収蔵していたその場所は、見渡す限り闇の泥濘に沈んでいた。
もやのように立ち込めていた瘴気は消え去っていたが、地面を這い進む悪意はその濃度を増し、触れるもの全てを食い荒らす。
その中心、汚染の源である魔王の体は、溶け崩れた人型として、よろめきながら立ち尽くしている。
『"屈従態"』
身に掛けた守りの力で、コモスの周囲にはわずかに自由な空間が広がっていた。それでも闇は押し寄せ、明滅する障壁が蚕食されていく。
『怨讐の力を広げ、全てをひれ伏させるための姿だ』
シェートの周囲で、守りの力に競り負けた穢れが爆ぜる。少しでも加護を緩めてしまえば、一瞬で全身が貪り食われるだろう。
壁の四方で待機する兵士の一団は、自分たちを守る結界を必死で維持している。魔王の瘴気に食われたものも数多く、相当の被害が出ていた。
「"屈従態"は、敵対した相手に実力者が存在する際、自己防衛として発動する形態です。無差別な侵食が止まったのは喜ばしいことですが」
厳しい目を魔王に向けながら、参謀が両手の剣を打ち振るう。青い長剣が漆黒を飲み込み、赤い剣が光芒を吐き出し、周囲を祓い散らした。
「"瘴霊態"が盲目的に破壊をもたらす力なら、"屈従態"は意思を持つ狂気」
魔王の力に没しかけた空間で、彼女のいる場所だけは、切り抜かれたように正常を保ち続けている。それでも、その顔にはかすかな焦りが浮かんでいた。
「広範に力を広げ、私たちの動きを封じるつもりでしょう」
『四方から結界の壁で瘴気を押し込め、参謀殿の"咆顎"と"餓顎"にて怨念を殺いでもらうつもりだったが』
すでに泥のような闇は、シェートの膝に届きそうなぐらいに増えている。攻撃と防御の力を込めてさえ、まともに足を動かすのも難しくなっていた。
「それで! これ、止める、どうやる!?」
『無論』
灰色のローブが、風を巻いた。
黒い海を真っ二つに裂く突進、拳が白熱し、光の軌跡が闇を斬る。
『こうするのだ!』
叩きつけられた一撃が爆発する。闇が飛び散り、壁の向こうに立つ魔王の口が、笑いの形に引き伸ばされる。
『攻撃を続け、ひたすら削り続ける!』
コモスの背丈をはるかに越える壁。力強い拳が唸りを上げ、叩き付けられる連打。
弾け、砕け、その壁が形を失い、破裂した。
『まだ動けるなら、お前も手を貸せ!』
参謀は無言で闇を掻き分けて走り、立ちはだかる壁を砕きながらコモスが進む。
自分の神器は二人の物よりも威力は低い。常に全力で行かなければ、闇に抗えない。
弓を引き絞り、全ての力を矢に纏わせる。
「う、ぐっ!」
出力の弱まった守りに、下半身が痛みに侵食されていく。
それでも、込めた力は緩めたりはしない。
狙いは一つ、目の前にそそり立つ闇の柱。
「しいっ!」
金と銀の閃きが奔る。
魔法の威力が闇を削り、魔王めがけて光が突き進む。
そそり立つ壁、その圧倒的質量が、苦も無く力を飲み込んだ瞬間、
「ぬああっ!」
わずかに見えた一筋の地面を、シェートは駆けた。
押し寄せる泥を蹴立て、一歩ごとに加護と闇の威力がせめぎ爆ぜる。波頭の向こうから無数の手が伸びる。
【あらがうな】
黒い腕が鎖と化し、手指が枷に、首輪に変わる。コボルトの五体を縛めようと、厭わしい拘束の意思となって飛来する。
その一切を打ち砕くのは、魔狼双牙。
月日の光をその身に喰らい、輝く者を天よりを堕とす、異界の魔狼の牙を握り締め、小さな体が大きく飛翔する。
「断る!」
二つの剣が弧を描き、魔王の体に深い楔を刻み込んだ。
闇の衣が裂け、一瞬でほころびが消え去る。
「誰が! 言いなり、なるか!」
シェートの追撃に底なしの防御がわずかに揺らぐ。
【おまえに、みらいはない】
下半身を貪る泥濘の痛みに歯を食いしばり、魔王の胸板を十字に切り裂く。
【どれほど、つよくあろうとも、しょせんはまもの】
闇夜のようなのっぺりした体に、無数の顔が浮かぶ。
その唇に、舌の無い口腔に絶望をはらみ、目の前の弱者を嘲弄した。
【みかたもなく、つかれはて、やみにのまれよ】
わだかまった黒い意思が、悪意と共に体を這い登る。
その全てに、シェートは叫んだ。
「い、や、だ!」
全力の加護を両腕に宿し、力いっぱい地面に叩きつけた。
魔法が弾け、加護の威力に闇が押し返される。
貪られかけた血まみれの足。砕ける覚悟でばねを溜め、両手を背中に振りかぶる。
「スコル! ハティ!」
金銀の魔弾が魔王の体に叩きつけられ、わずかに体がかしぐ。
シェートの体が大きく前に跳んだ。
踏みしめる右足、加護を宿す右剣が魔王の胴を薙ぐ。
「ぬがあああっ!」
背中をぶつける様に脇をすり抜け、回転した勢いで左剣が魔王の背を薙ぐ。
「あああああああああっ!」
駆け抜ける一撃、右腕が再度魔王の胴を薙ぎ、切り裂く。
闇が大きくよろめき、砕け散る金銀の華が、暗黒に咲き誇る。
『良くやった』
羽ばたく鳥の様に、灰色の影が乱れた魔王の前に割り込んだ。
落とした腰、脇にひきつけた拳、狙いをつけるように突き出した手刀。
『魔王様、ご無礼仕る!』
大気そのものをえぐる様な、右手突き。
輝きが炸裂し、闇が押し開らかれる。拳大の打撃痕が中心となり、波動は腹をよじりつつ、胴体の守りを引き裂いていく。
大地に根ざした大木のように、不抜だった体が、コモスの一撃に宙へ舞う。
「魔王様!」
その委細を請けるように、しなやかな肢体が刹の動きで肉薄した。
「私の一撃で、目をお覚ましください!」
参謀の手の中で、真紅と紺碧の刃が一つとなり、残った闇を残らず食い尽くす。
露になる、一糸纏わぬ青年の体。
その胸で黒く脈打つ異物を、紫に彩られた長剣が、撃ち貫いた。
「な『る【ほ】ど』な」
はずだった。
ほんのわずかに残った、黒い闇の塊が切っ先を喰らっている。
「そん、な」
「だ『が【ま】だ』だ」
闇の触手が参謀の剣を這い登り、その刀身をへし折り砕いた。
「ああっ!」
周囲にたまっていた闇が、一瞬のうちに魔王を飲み込み、再び防御を編み上げる。
その姿は、先ほどよりも輪郭がはっきりしていた。
衣ではない。
攻撃を防ぎ、見るものに畏怖を与える鎧。
「そう『かんたんに【ふうじ】られる』ものか」
胴鎧に張り付いた顔たちが、一斉に叫ぶ。
「われらの『いし【じゃま】するもの』ころす」
すでに、部屋中の闇は消え去っている。
床は食い荒らされ、天井にも無数のひびが入っている。照明は弱弱しく、四方にいた兵士たちは、ほとんどが食い荒らされていた。
『参謀殿、一旦下がれ!』
コモスの叫びに、砕けた剣を収めた女がわずかに後ずさる。
その足元から、闇が勢い良く吹き上がった。
「うあああああああっ!」
背中が切り裂かれ、血を流しながら女の体が地面を転がる。巨大な槍のようになった暗黒は、出てきた唐突さで姿を消す。
『奴らは姿を消したわけではない! 己の存在を希薄にし、周囲に隠れ』
天井の割れ目から音も無く染み出た影が、コモスの姿を一瞬で飲み込む。
残っていた兵士たちが、同時に四肢をねじ切られ、血袋になって地面に転がった。
「よ『う【や】っ』と」
ずしり、と一歩を踏み出し、魔王は喉を鳴らした。
「おまえ『と【はなし】がで』きる」
顔たちが、一斉に嗤った。
「コボル『と【シェー】と』おまえ」
腐った沼の香りを漂わせ、言葉が紡がれる。
「われに『わたしに【おれに】わたくしに』じぶんに」
先を争い、意識を混濁させながら、怨讐の影たちは、一斉に強請った
「おまえ『の【いのち】を』よこせ」
「い……いや、だ!」
振りかぶった右腕が、ぎりと締め付けられる。
巻きついた触手の力で骨がきしみ、間接が嫌な音を立てて捻じ曲げられた。
「うがあああああああああっ!」
「われら『ふくしゅう【しめい】ひがん』ねがい」
左腕が強引に引っ張られ、両腕から神器がもぎ取られた。
「うあああっ! あぐぅあああっ!」
「めがみ『の【まえに】きさまの』むくろを」
両足が縛り上げられ、身動きできないまま、宙に吊り上げられる。
痛みと苦しみで世界が熱く、遠くなり、絶叫がほとばしった。
「それこそ『わがいちぞくを【なぐさめる】よろこびの』うたげとなる」
「ど、どうして! おまえっ、サ、サリア、をっ」
苦悶の問いかけが、闇の面に吸い込まれる。
その面当てがおもむろに開き、魔王その人の顔が現れた。
「それはな、シェート。あの女神が、こいつらの一族を滅ぼしたからだ」
答えが耳に注がれた瞬間。
右足の骨がへし折れる音が、シェートの脳を焼いた。
「うああああああああああああああっ!」
「こいつらはな、シェート」
左足があらぬほうに曲がり、激痛と吐き気が全身に悪寒を走らせる。
「ぐうっ、ぐえええええっ!」
「ただそれだけを考えて、今日まで存続し続けたのだ!」
二本の触手が、シェートの体から腕をもぎ取ろうと力を込めた。
「うあっ、うっ、あああああああああああああっ!」
「こいつらも欲しているのだ。お前の存在を」
魔王の両手が、ゆっくりと喉に掛かる。
いとおしむように撫でさすると、細い指におぞましいほどの力が掛かった。
「悪いが、今の俺はこいつらの言いなりだ」
囁きかける瞳は無邪気な喜びに輝き、睦言でも述べるかのように、陶然としていた。
「だから、シェートよ」
喉に爪が食い込み、気管が押しつぶされる。
声さえ上げられない絶息の中、シェートは魔王の宣言を聞いた。
「俺の手に掛かって、死ね」
四肢の感覚が消えうせ、気が遠くなる。
死が間近に迫り、どうすることもできない。
――こんな、ところで。
「死にたく、ない」
視界の周囲から闇が押し寄せ、笑みを貼り付けた魔王の顔が。
赤く染まった。
「え」
全身が激しくゆすぶられ、遠くへ投げ出される。地面を転がり、四肢から伝わる激痛が薄れた意識を無理やり引き戻した。
「ウオオオ『オオアアアア【アアアアアアウオア】アアアアア』アアアアアアッ!」
漆黒の兜が赤く燃えている。
顔を押さえ、のた打ち回り、悲鳴を上げて魔王がのけぞっている。
苦しみもがく怪異のはるか後ろ、無人となったはずの石畳の上に、彼らはいた。
白い毛並みも鮮やかに、静かにたたずむ一頭の狼。
その上に立ち上がり、両手の先で炎を弄ぶ、青き仔竜。
「待たせたな、シェート」
知らずのうちに、涙がこぼれた。
痛みからではない、懐かしさと安堵によって。
「こっからは俺たちが相手だ。覚悟しろよ、オタ魔王が!」
シェートの耳に、フィーの声が頼もしく響いた。