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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~archenemy編~
110/256

17、蝕み

 肌にまとわりつくような気配に、目が覚めた。

 城の全ては、自分の体のようなものだ。どこかで異常があればすぐに感じ取れる。

『魔王様』

 天蓋の薄布越しに声が掛かる。身を起こすとベッドボードに背をもたせ掛け、無言で続きを待った。

『例の仔竜が動きました』

「そうか」

 おおよそ予定通りだ。執事の館で何があったにせよ、長くとどまることは無いだろうと踏んでいた。

「シェートには気づかれていないだろうな」

『昨日より、まともに就寝していない様子です。かなり不安定な精神状態であり、城内の様子に気づく余裕もないものと推察します』

「良い事だ。ここまで手間を掛けた甲斐があったというものだ」

 寝床を抜けると、ナイトテーブルに置かれたタブレット端末を指ではじく。通信障害のエラーが吐き出され、魔王は笑った。

「浮き足立っているな? 何があった」

『現在、参謀殿がこちらに向かっておられます。報告はそちらから』

 傍らに侍るのは、白い仮面を着けた侍従だ。全身を黒灰色のローブで包み、いかなる種族なのかさえ分からない。

 楚々とした様子で、部屋の隅から女が近づく。執事の館に置いた物と同じ型のオートマタが、手馴れた様子でこちらの着替えに手を貸し始める。

 ややあって、短いノックと共に参謀が姿を現した。

 表情事態は平静そのものだが、まとった雰囲気は焦りを漂わせていた。

「ご報告申し上げます。現在、城内を例の仔竜が逃走中。十五階、連絡通路西側、Bブロックのハッチから、メンテナンスブロックに侵入されました」

「その様子では、仔竜は見失ったようだな」

 頷く姿に、苦悩がありありと浮かんでいる。自分の失態を悔いている様子に、笑顔がこみ上げた。

「それで、俺に陣頭指揮を執れというのか?」

「……確定ではありませんが、仔竜は竜神の庇護を受けたものと思われます。何らかの助言か、あるいは神規を受け取った可能性も」

「それがどうした」

 人形が差し出した上着を一瞥し、魔王はそっけなく否定を述べた。

「俺は命じたはずだが、瑣末事さまつごとは全て貴様らに任せると」

「ですが!」

「今日は落ち着いた色合いのものでまとめろ。黒や灰色は避け、明度は低く、彩度の高い暖色をアクセントにな」

 衣装合わせをする背後で、完全に色を失った参謀が立ち尽くす。

「それでいい」

 全てに向かって頷くと、魔王は一切を省みずに歩き出した。

 普段は身に付けることのない、長い裾の外套を二体のオートマタが受け持ち、その両脇を衛視が守る。

 背後から参謀が去る気配を感じ、笑みが更に深くなる。

『よろしいのですか』

「参謀殿が心配か?」

『城の中枢を損じることは、魔王様も本意ではないはず』

「"トライアル・アンド・エラー"、という思考法がある」

 この城に仕える魔物は、自分に対して忠実だ。

 それゆえ、最終的には魔王たるこちらの意に沿うよう、行動しようとする。

「特定の課題に対し、挑戦と失敗を一つの工程と考え、学習させるやり方だ」

『失敗と成功、ではないのですか?』

「失敗と成功では可か否かにしかならない。失敗はあくまで"成功するために必要な要素がなかった例"として、学習の糧ケーススタディとする姿勢が必要なのだ」

 物事を可否で判定すれば、作業者は失敗を恐れて萎縮し、柔軟な対応ができなくなる。

 全ては成功のためのデータ。無限の試行が、最終的な成功に結びつくのだ。

「俺は、忠良さなど求めていない。そんな愚直は、前線に立つ戦士にのみあればいい」

『全ては有能な幕僚を育成するため、ということですか』

「俺がシェート達を招きいれた理由も、それだ」

 いずれ来る勇者に対する演習は、これまで何度も行われてきた。

 しかし、演習と実戦は、当然ながら違う。

「程よく歯ごたえがあり、程よく意外性を持ち、いざとなれば即座に握りつぶせる、そんな実在の危機が、必要だったのだ」

『かの仔竜の振る舞いさえも、ですか』

「いや、アレはまた別件だ」

 長い廊下の果てに、長い階段が設けられていた。

 この先にあるのは謁見の間。

 傍らの仮面がわずかに逡巡し、答えを求めるようにこちらを見上げる。

「食事は後にする。シェートを呼んで来てくれ」

『……かしこまりました』

 玉座へのきざはしを歩みながら、彼は笑う。

 もうすぐ決着がつく。

 その時、あのコボルトは自分にとっていかなる存在になっているだろう。

 敵か、味方か、あるいは重圧に押しつぶされて肉塊となるか。

 その足取りに快悦を漂わせ、魔王は歩んだ。



 抱えた膝の向こうに、窓が白んでいく。

 格子のない牢獄、見えない鎖に繋がれて、シェートはまんじりともせず、暗い物思いの世界に心を浸され続けていた。

 夜は重く、全身に圧し掛かる。

 引き伸ばされた時間の中で、心の中に滴り続けたのは、魔王の毒。


『俺は、全てを殺したいのだ』


 どうして魔王は、あんなことを言ったのか。

 もしかすると、サリアを知っているのか。

 そんなはずはない、そうでなければ、今までその名前を出さなかったのはおかしい。

 それでも、本当に知らないという確証もない。

 もしかすると、本当は知っているのではないのか。

 全て知った上で、弄ばれているのではないか。


 心が重い。

 何もかもが疑わしくて、何の答えも見出せない。

 本当のことなど、どこにもない、全て嘘なのではとさえ思える。


 豪華な部屋も、柔らかな寝床も、美食の類も、何もかもがいとわしい。

 どこにも逃げられない、行く場所が見つからない。

 何の助けもないまま、自分はここにいる。

 今まで身につけたものが何も役に立たない。

 むしろ、その全てが毒になって、全身を巡っているような気持ちになる。


『失礼します』


 顔を上げると、そこには無貌の存在が立っていた。

 真っ白で、薄く目鼻が引いてあるだけの仮面を着けたローブ姿。

「……誰だ」

 体が震えた。

 こいつは誰だ。

 いったい自分に、何をする気だ。

『ご心配には及びません。私は"影以かげい"。魔王様にお仕えする一人です』

 面から漏れ出すのは、性別さえ定かでない声。

『魔王様がお待ちです』

 行きたくない。

 絶対に嫌だ。

「おれ、は……」

 白い仮面は、するりとシェートに近づいた。

『魔王様のお召しは、絶対です』

「あ……」

 臭いもなく、音もなく、顔もない。

 ローブをはいだ途端、一切が消え去るのではないか、そんな妄想さえ浮かんだ。

『お早く、お願いします』

 気おされ、のろのろと衣服のかけられた台に近づく。

 逆らう気は、起きなかった。

 茫洋と身支度を済ませ、部屋を出る。

 何もかもが空虚で、心が重く、何も考えられない。

 魔王に会えば、また自分の心が締め付けられる。それでも、ここから逃げ出すことさえ考えられない。

 世界は壁で仕切られ、自分のちっぽけな力で破ることはできない。

 絶望。

 シェートの心は、生まれて初めてその言葉の、本当の毒を知った。

 果てしなく巨大な檻と、見えざる不壊ふえの鎖。

 限界を設けられた自由に閉じ込められ、心が侵されていく。

 長い廊下を歩き、やがて目の前に、巨大な階段が現れた。

 この先にあるものを、シェートは知っている。

「行きたく、ない」

『それが許されるとお思いですか』

 問いかけではなく、確認の言葉。

 コボルトの足が、頼りなくきざはしを進む。

 それは一歩ごとに重くなり、体を縛る行程だった。無貌の存在は影のように傍らに追従し、歩くのを止めさせない。

 初めて参謀と共にここを降りたとき、自分は魔王のことを何も知らなかった。

 そして今、傍らの"影以"と共に登る自分は、魔王に対して、芯から怯えていた。

「遅かったな」

 初めてあった日と同じように、彼は玉座で待っていた。

 だが、その姿は、以前のようなものとは違っていた。

 緋色を基調にした上下が、日に照らされて燃え立つように見える。痩せて頼りないとさえ思えた体躯も、活力と威厳を放散していた。

 青い髪は丁寧に撫で付けられ、鋭い眼差しとあいまって、高貴さをかもし出している。

 背中を押され、よろめくようにシェートは、魔王の前にまろび出た。

 こちらを見つめる異眸いぼうにあるのは、冴えた知性の輝き。

 今まで見せてきた朗らかさも、偏執も、いたわりも、一切が抜けていた。

 あるのは、こちらを問いただし、答えを得るという意思だけ。

「神々の遊戯」

 魔王の声が、謁見の間に響く。

「それはかつて、神と魔の争いに規約を設け、互いの破壊が世界の全てを燃やし尽くさんとするのを、とどむるために結ばれた約定だった」

 深く、重く、心を揺さぶる男の声。

 降り注ぐ光は、語り手を世界から浮かび上がらせ、シェートの視線を縛り付ける。

「だが、その約定は、不平等なものであった。神は己の力を勇者に託し、魔のものは、己の力のみで、敵と相対することとなった」

 魔王の視線は、シェートただ一人に注がれていた。

 逸らすことはできない。

 この広い空間でただ一人、自分に向き合ってくれる存在を、無視することはできない。

「神々の遊戯、なんと皮肉な名前であろうか。初めから、そこには、魔の介在する余地などないと、声高らかに謳っているのだ」

 ああ、そうだ。

 考えてみれば、その名には魔の存在が入っていない。初めから、自分達は狩られる側と定められていた。

「魔界の上位なる者は、この争いを茶番と見なし、己の領分を守ることに腐心した。勝ち易きに勝ち、敗れ去る戦には、切り捨てても痛まぬ雑兵を当てる体たらくだ」

 玉座から立ち上がり、魔王はその姿を顕にした。

 掛けられた外套が翻り、両手の籠手が勇ましく鳴り響き、長靴が地を踏みしめる。

「神は己の権勢を誇り、魔は己の地勢を守る。その腐敗したありように磨り潰され、明日をも知れぬ命を翻弄される者たちなど、見向きもせずに!」

 無限に近い回数行わたという遊戯。その中で得をするのは、結局力のあるものだけだ。

 自分が打ち破ってきた神は、みなそうだった。

 そして、魔の世界にも、それを良しとする者がいる。

「だが、俺は知っている。魔物であろうとも、定められた分を超え、強き者をしいする力があると! そして、その力を持つものが、俺の目の前にいる!」

 シェートを指し示し、魔王はその手を胸に当てた。

「俺は、魔界においては最下層の民。虐げられ、搾り取られ、種族としての態すら失った一族の残渣ざんさ、ただの残りカスだ」

 不思議と、嘘ではないと思えた。

 彼の持つ意志の力は、きっと自分と同じところから来たものだ。

 暴虐に否と言ってのける心から、もたらされたものだ。

「なぜ俺が、お前を欲しがったのか、もう分かったろう。初めから強き者では、真に俺を理解することはできん。己の弱さを知り、つことができるお前こそが、俺の傍らにふさわしい」

 シェートは、魔王を見た。

 今まで数限りなく視線を交わし、言葉を交わし、昼夜を共にしてきた存在を。

 彼は、ずっと待っていたのだ。

 自分が首を縦に振ることを。

「シェートよ。最も弱き勇者、俺の臣を討ち果たした、偉大な狩人よ」

 言葉が、わずかに哀切を帯びる。

 魔王の声は、かすかに慟哭の憂いを含むように思えた。

「俺は、お前に詫びねばならん」 

「……な、なにを?」

「我が臣下、ベルガンダと闘わせたことをだ」

 耳の奥で、ごうっと唸るような音が聞こえた。

 心が一瞬のうちに、魔将と過ごした日々に立ち返っていく。

「そうだ……お前、どうして、あんな……」

「お前が、神に呪われていたからだ」

 言葉が芯に突き刺さる。

 呪い、という言葉が、ひび割れた心に捻じ込まれた。

「そんなの、俺」

「では、お前はなぜ、最後に魔将と戦うことを選んだ?」

 問いは端的だった。

 しかし、答えは、目の前からすり抜けた。


 なぜ自分は、あそこで魔将と戦うことを選んだ?


 憎くかったわけではない、むしろ気に入ってさえいたはずの相手と。

「お、俺、勇者、だから……命、救って、もらって、だから……」

 当然だと思っていたはずの答えが、歪んで見えた。


 命を救われたから、その相手の言葉に従って、誰かを殺すのか?


「本来、お前は魔物だ。勇者として世界を救うなど、ましてや人間に義理立てする意味など、初めから無いはずだ」

 魔王の言葉が刺さる。

 自分は、どこまで行っても魔物だ。

 人から疎まれ、感謝されることなどない。

 それでも命を救われ、復讐を果たす助けを受けたからと、自分を納得させていた。

「言ったはずだ、お前は繰り人形だと。神に契約で縛られ、操られた存在だと」

「あ……」

「それこそが、お前に掛けられた呪い。本来なら、手を携えて歩めるはずの我らを、反目させている物の正体だ」

 胸が苦しい。

 今まで信じていたものが、根底から揺らいでいく。

「できれば、我が魔将には勝って欲しかったのだがな。お前の強さが、ベルガンダを凌駕してしまった」

「う……あ……」

「神の言葉に翻弄され、お前は自身を見失ったのだ」

 ゆっくりと、膝が落ちる。

 立っていられない、めまいがする、自分の何かが、壊れていく。

「ベルガンダ、あの聲、使わせたの、なんでだ」

「勇者軍の残党には、正式な騎士も多く参入していた。あの場で殲滅せねば、いずれは体勢を立て直し、弱ったベルガンダ諸共討ち取られていただろう」

 告白が、震える体に注ぎ込まれた。

 それが残虐な方法であれ、神との不利な戦いを余儀なくされた魔王にとって、それが取りえる最善だった。

「何より、お前を救いたかった。己の自由な魂を縛られ、望まぬ戦いに身を置くお前を……解き放ちたかったのだ」

 魔王は、ゆっくりとシェートに歩み寄った。

「これは俺だけの願いではない。亡き忠臣の思いでもあるのだ」

『その通りです』

 自ら片膝を突き、無貌の仮面を自らの手で外す。

「あの方は、最後まで、あなたを魔王様に引き合わせることを、願っていた」

「コ……モス」

 魔将の腹心であったはずのホブゴブリンは、あの時と同じ目で、こちらを見ていた。

「あのときの礼を、まだ言っていませんでしたね。我が主と共に勝利をもたらした事、感謝します」

「で、でも……俺、あ、あいつ……」

「勝負を挑まれ、その果てに敗れたことを、あの方は後悔しなかったでしょう。私にも、一切の遺恨もありません」

 身を引き、その場を二人に譲ると、コモスは静かな眼差しで、シェートを見た。

「神の悪辣さは、我らが陣にて散々味わいつくしたはず。その手先となり、己の自由を縛められる日々を断ち切れば、亡き我が将も本懐を果たされ、喜ばれることでしょう」

 うつむき、シェートは胸に手を当てた。

 大ぶりな石の感触を確かめる。

 それはどこか空疎で、頼りなかった。

「お前は自由な存在だ、シェート」

 宣言が耳をしびれさせ、自然と顔が上がった。

 その先に、厳しくも優しく見つめる、魔王の顔があった。

「俺の言葉をもう一度思い出せ。俺は、魔物に知性を与え、規律を与え、弱きものを暴虐から守ると言ったはずだ。そして、実際にお前に見せてきた」

 魔王の背後に空の輝きがあり、緋色の衣装がかがり火のように燃え立ち、焚き火のように心を温める気がした。

「お前の神はどうだ? 戦いの先に展望を見せ、お前に希望を与えることができたか?」

 その問いかけに、失望が生まれた。

 女神の声は、どこまで行っても、先の展望などなかった。

 目の前の困難を払うことで、精一杯だった。

「小神に大事を為す器量などありはしない。お前を真に救うのは、大望を抱き、それを為しうる力を持つものだけだ」

 輝くものが、目の前にあった。

 美々しく、真摯で、力強かった。

 その振る舞いを、積み上げてきた業を、心に秘めた強い野心を、余すところなくその体から放ち続けていた。

 魔の王が、そこにいた。

「今ひとたび問おう」

 青年は手を伸ばし、わずかな間を置いて、告げた。

「勇者よ、この魔王の物となれ」


 望まれている、自分の全てを。

 そして自分は、それに答えなくてはならない。

 シェートは右手を伸ばし、鋼の籠手に触れようとした。


 この手を握れば、全てが変わる。

 勇者を倒し、平穏にコボルトが暮らせる世界を創ることができる。

 魔王と契約することで。


「――けいやく」

「何?」

 魔王が眉根をしかめる。

「俺、お前、契約、するか?」 

「そうだな」

 魔王は口元を緩め、それまでの威厳を親しさに変えた。

「神と袂を分かち、俺と契ることになる」

 サリアとの契約を破棄する。

 その事実に、心が揺らいだ。

 

 頼りない女神だった。

 本当にどうしようもない、役立たずの存在。

 聞き届けた願いをかなえることもできず、中途半端な加護を与えられ、右往左往を繰り返した日々だった。

 それに比べて、魔王は大きかった。

 己の手を尽くし、力を尽くし、この場に立っている。

 シェートを評価し、理解し、必要だといってくれた。

 その『強さ』を。


「聞いていいか」


 シェートは、自分の右手を見た。

 胸の傷ほど目立たない、だが確かに刻まれた、炎の痕跡を。


「焼けた村、死に掛けコボルト、見つける。お前、どうする」

 魔王はわずかに息を詰め、微笑んだ。

「見所があるなら、そいつを助けるだろう。生きる意志を持ち、戦おうとするならば」

「なら自分、死ぬ寸前、思え」

 炎の記憶が、心の中で閃いた。

 紅蓮の世界に取り囲まれ、どこに行くこともできなくなった自分。

 それを救い上げた声を胸に抱いて、シェートは問いかけた。

「それでも同じ、できるか?」

 初めて、魔王の表情が硬直した。

 今まで常に悠然と、こちらを眺めやっていたはずの存在が、わずかに逡巡する。

「自分の命、使う。そうやって、俺、助けるか?」

「お前の神は、そう言ったのか? 自分の命と引き換えに、お前を助けたと」

 何かが、ほんのわずかな掛け違えが、魔王の言葉を揺らがせた。

 隙がなかったはずの言葉に、迷いを感じる。

 深く考えることもなく、シェートは反撃を口にしていた。

「聞いてるの、俺。お前、同じ、できるか?」

「無意味な仮定だ。そもそも、その神が本当に、命を掛けたかどうかなど、お前に証明できるのか?」

「ち……がう。お前……俺、質問、答えて、ない」

 違和感が、おぼろげな確信に変わる。

 魔王の言葉は、確かに本当だろう。

 だが、それは大きな前置きがあって、初めて成立するものだ。

 力があるから、魔王はシェートを欲しいと言った。

 逆に言えば、

「お前、欲しいの、力か」

 シェートという存在ではなく、それが持つ力が、欲しいということ。

「――その通りだ。それは、何度も説明したろう」

「なら、弱い俺、お前、欲しくない、そうだな」

「なぜそう思う?」

「俺、弱いから、強くなった。その強いの、見せるため、欲しい。強い奴、お前、欲しい思う強い奴、集めるため」

 青年は笑顔で頷き、そっとこちらの肩に手を伸ばした。

「やはり、お前は賢いな」

「……やめろ!」

 その腕を払いのけると、シェートは目の前の敵を睨んだ。

 本当に、これが最後だ。

 もしあの手に触れられ、優しく諭されれば、自分はもう戻ってはこられない。

 だから、

「質問、ちゃんと答えろ」

 笑みを浮かべた魔王に向けて、コボルトは精一杯の言葉を、叩き付けた。

「お前、自分、命捨てて、俺、欲しい言えるか!」

 潮が引くように、青年の顔から表情が消える。

 しゃがんでいた姿勢を正し、立ち上がると、ゆっくりと首を振った。

「確かに、俺は自分の命と引き換えに、お前を救うことなどしない」

「……そうか」

「だが、勘違いするな」

 青年の視線が、侮蔑で満たされる。

 あざけりが滴るような言葉が、美麗な口からほとばしった。

「俺はそんな愚かなまねはしない。誰かを救うというのなら、俺自身をも勘定に含める。自己犠牲による救いだと? そういうのを欺瞞ぎまんというのだ」

「そうだ。あいつ、バカだ」

 そんなことは誰よりも知っている。

 女神は愚かで、力もない。

 魔王は賢く、力を備えている。

 だが、たった一つだけ、女神にあって魔王に無いものがあった。

「でも……あいつ、俺、だまさない」

 思いつきで行動し、後先を考えない。それでも、その言葉も行動も、詐術や利己から発生したことは、決してなかった。

「お前、焼け死ぬコボルト、きっと救わない。力あっても、必要ない、思えば。でも、あいつ、俺、助けた」

 炎の中から自分の命を救い上げたのは、サリアだ。

 何のうまみもなく、先の望みもなく、ただ純粋に救いたいと願って。

「頭いいお前、俺、救わない! 俺、救ったの、馬鹿なあいつだ!」

「そうか」

 魔王の口が、薄く裂けた。

 酷薄な笑みが、食べごろの獲物に食らいつく、猛獣のように思えた。

「ならば、お前の神の名を、俺に教えてくれ」

 がちりと、片足が罠に掛かった感覚に、全身の毛が逆立つ。

 これまでの言い合いも、わずかに乱れた口調も、このやり取りを引き出すための布石。

「そこまで信を尽くせる存在なのだ。その名を示しても、何の問題もあるまい?」

「う……」

 立て直したはずの心に、魔王の毒が再び染み込んでくる。

 サリアの名前を口にすれば、もうシェートの心を守るものは何もない。

 しかし、ここで黙ってしまえば、相手の言葉に対抗する力を失ってしまう。

「――サリアーシェ」

 隠し持った刃を引き抜くように、コボルトはその名を口にした。

「サリアーシェ・シュス・スーイーラ。俺、契約した、女神だ」

 玉座の間に、声が響き渡った。

 脇に侍ったコモスは身動き一つせず、薄暗い謁見の間に沈黙が降りる。

 そして、目の前に立った魔王の顔を見た時、シェートの心魂は恐怖に塗りつぶされた。

 無数の顔。

 暗黒で作られた苦悶の相貌が魔王の全身を這い登り、


『サリ、アーシェェッ!』


 禍々しく、忌むべき異形の顔が、一斉に叫喚を挙げた。

諸般の事情により、明日16日の更新は一旦お休みします。再開は17日の月曜日からです。

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