17、蝕み
肌にまとわりつくような気配に、目が覚めた。
城の全ては、自分の体のようなものだ。どこかで異常があればすぐに感じ取れる。
『魔王様』
天蓋の薄布越しに声が掛かる。身を起こすとベッドボードに背をもたせ掛け、無言で続きを待った。
『例の仔竜が動きました』
「そうか」
おおよそ予定通りだ。執事の館で何があったにせよ、長くとどまることは無いだろうと踏んでいた。
「シェートには気づかれていないだろうな」
『昨日より、まともに就寝していない様子です。かなり不安定な精神状態であり、城内の様子に気づく余裕もないものと推察します』
「良い事だ。ここまで手間を掛けた甲斐があったというものだ」
寝床を抜けると、ナイトテーブルに置かれたタブレット端末を指ではじく。通信障害のエラーが吐き出され、魔王は笑った。
「浮き足立っているな? 何があった」
『現在、参謀殿がこちらに向かっておられます。報告はそちらから』
傍らに侍るのは、白い仮面を着けた侍従だ。全身を黒灰色のローブで包み、いかなる種族なのかさえ分からない。
楚々とした様子で、部屋の隅から女が近づく。執事の館に置いた物と同じ型のオートマタが、手馴れた様子でこちらの着替えに手を貸し始める。
ややあって、短いノックと共に参謀が姿を現した。
表情事態は平静そのものだが、まとった雰囲気は焦りを漂わせていた。
「ご報告申し上げます。現在、城内を例の仔竜が逃走中。十五階、連絡通路西側、Bブロックのハッチから、メンテナンスブロックに侵入されました」
「その様子では、仔竜は見失ったようだな」
頷く姿に、苦悩がありありと浮かんでいる。自分の失態を悔いている様子に、笑顔がこみ上げた。
「それで、俺に陣頭指揮を執れというのか?」
「……確定ではありませんが、仔竜は竜神の庇護を受けたものと思われます。何らかの助言か、あるいは神規を受け取った可能性も」
「それがどうした」
人形が差し出した上着を一瞥し、魔王はそっけなく否定を述べた。
「俺は命じたはずだが、瑣末事は全て貴様らに任せると」
「ですが!」
「今日は落ち着いた色合いのものでまとめろ。黒や灰色は避け、明度は低く、彩度の高い暖色をアクセントにな」
衣装合わせをする背後で、完全に色を失った参謀が立ち尽くす。
「それでいい」
全てに向かって頷くと、魔王は一切を省みずに歩き出した。
普段は身に付けることのない、長い裾の外套を二体のオートマタが受け持ち、その両脇を衛視が守る。
背後から参謀が去る気配を感じ、笑みが更に深くなる。
『よろしいのですか』
「参謀殿が心配か?」
『城の中枢を損じることは、魔王様も本意ではないはず』
「"トライアル・アンド・エラー"、という思考法がある」
この城に仕える魔物は、自分に対して忠実だ。
それゆえ、最終的には魔王たるこちらの意に沿うよう、行動しようとする。
「特定の課題に対し、挑戦と失敗を一つの工程と考え、学習させるやり方だ」
『失敗と成功、ではないのですか?』
「失敗と成功では可か否かにしかならない。失敗はあくまで"成功するために必要な要素がなかった例"として、学習の糧とする姿勢が必要なのだ」
物事を可否で判定すれば、作業者は失敗を恐れて萎縮し、柔軟な対応ができなくなる。
全ては成功のためのデータ。無限の試行が、最終的な成功に結びつくのだ。
「俺は、忠良さなど求めていない。そんな愚直は、前線に立つ戦士にのみあればいい」
『全ては有能な幕僚を育成するため、ということですか』
「俺がシェート達を招きいれた理由も、それだ」
いずれ来る勇者に対する演習は、これまで何度も行われてきた。
しかし、演習と実戦は、当然ながら違う。
「程よく歯ごたえがあり、程よく意外性を持ち、いざとなれば即座に握りつぶせる、そんな実在の危機が、必要だったのだ」
『かの仔竜の振る舞いさえも、ですか』
「いや、アレはまた別件だ」
長い廊下の果てに、長い階段が設けられていた。
この先にあるのは謁見の間。
傍らの仮面がわずかに逡巡し、答えを求めるようにこちらを見上げる。
「食事は後にする。シェートを呼んで来てくれ」
『……かしこまりました』
玉座への階を歩みながら、彼は笑う。
もうすぐ決着がつく。
その時、あのコボルトは自分にとっていかなる存在になっているだろう。
敵か、味方か、あるいは重圧に押しつぶされて肉塊となるか。
その足取りに快悦を漂わせ、魔王は歩んだ。
抱えた膝の向こうに、窓が白んでいく。
格子のない牢獄、見えない鎖に繋がれて、シェートはまんじりともせず、暗い物思いの世界に心を浸され続けていた。
夜は重く、全身に圧し掛かる。
引き伸ばされた時間の中で、心の中に滴り続けたのは、魔王の毒。
『俺は、全てを殺したいのだ』
どうして魔王は、あんなことを言ったのか。
もしかすると、サリアを知っているのか。
そんなはずはない、そうでなければ、今までその名前を出さなかったのはおかしい。
それでも、本当に知らないという確証もない。
もしかすると、本当は知っているのではないのか。
全て知った上で、弄ばれているのではないか。
心が重い。
何もかもが疑わしくて、何の答えも見出せない。
本当のことなど、どこにもない、全て嘘なのではとさえ思える。
豪華な部屋も、柔らかな寝床も、美食の類も、何もかもが厭わしい。
どこにも逃げられない、行く場所が見つからない。
何の助けもないまま、自分はここにいる。
今まで身につけたものが何も役に立たない。
むしろ、その全てが毒になって、全身を巡っているような気持ちになる。
『失礼します』
顔を上げると、そこには無貌の存在が立っていた。
真っ白で、薄く目鼻が引いてあるだけの仮面を着けたローブ姿。
「……誰だ」
体が震えた。
こいつは誰だ。
いったい自分に、何をする気だ。
『ご心配には及びません。私は"影以"。魔王様にお仕えする一人です』
面から漏れ出すのは、性別さえ定かでない声。
『魔王様がお待ちです』
行きたくない。
絶対に嫌だ。
「おれ、は……」
白い仮面は、するりとシェートに近づいた。
『魔王様のお召しは、絶対です』
「あ……」
臭いもなく、音もなく、顔もない。
ローブをはいだ途端、一切が消え去るのではないか、そんな妄想さえ浮かんだ。
『お早く、お願いします』
気おされ、のろのろと衣服のかけられた台に近づく。
逆らう気は、起きなかった。
茫洋と身支度を済ませ、部屋を出る。
何もかもが空虚で、心が重く、何も考えられない。
魔王に会えば、また自分の心が締め付けられる。それでも、ここから逃げ出すことさえ考えられない。
世界は壁で仕切られ、自分のちっぽけな力で破ることはできない。
絶望。
シェートの心は、生まれて初めてその言葉の、本当の毒を知った。
果てしなく巨大な檻と、見えざる不壊の鎖。
限界を設けられた自由に閉じ込められ、心が侵されていく。
長い廊下を歩き、やがて目の前に、巨大な階段が現れた。
この先にあるものを、シェートは知っている。
「行きたく、ない」
『それが許されるとお思いですか』
問いかけではなく、確認の言葉。
コボルトの足が、頼りなく階を進む。
それは一歩ごとに重くなり、体を縛る行程だった。無貌の存在は影のように傍らに追従し、歩くのを止めさせない。
初めて参謀と共にここを降りたとき、自分は魔王のことを何も知らなかった。
そして今、傍らの"影以"と共に登る自分は、魔王に対して、芯から怯えていた。
「遅かったな」
初めてあった日と同じように、彼は玉座で待っていた。
だが、その姿は、以前のようなものとは違っていた。
緋色を基調にした上下が、日に照らされて燃え立つように見える。痩せて頼りないとさえ思えた体躯も、活力と威厳を放散していた。
青い髪は丁寧に撫で付けられ、鋭い眼差しとあいまって、高貴さをかもし出している。
背中を押され、よろめくようにシェートは、魔王の前にまろび出た。
こちらを見つめる異眸にあるのは、冴えた知性の輝き。
今まで見せてきた朗らかさも、偏執も、いたわりも、一切が抜けていた。
あるのは、こちらを問いただし、答えを得るという意思だけ。
「神々の遊戯」
魔王の声が、謁見の間に響く。
「それはかつて、神と魔の争いに規約を設け、互いの破壊が世界の全てを燃やし尽くさんとするのを、止むるために結ばれた約定だった」
深く、重く、心を揺さぶる男の声。
降り注ぐ光は、語り手を世界から浮かび上がらせ、シェートの視線を縛り付ける。
「だが、その約定は、不平等なものであった。神は己の力を勇者に託し、魔のものは、己の力のみで、敵と相対することとなった」
魔王の視線は、シェートただ一人に注がれていた。
逸らすことはできない。
この広い空間でただ一人、自分に向き合ってくれる存在を、無視することはできない。
「神々の遊戯、なんと皮肉な名前であろうか。初めから、そこには、魔の介在する余地などないと、声高らかに謳っているのだ」
ああ、そうだ。
考えてみれば、その名には魔の存在が入っていない。初めから、自分達は狩られる側と定められていた。
「魔界の上位なる者は、この争いを茶番と見なし、己の領分を守ることに腐心した。勝ち易きに勝ち、敗れ去る戦には、切り捨てても痛まぬ雑兵を当てる体たらくだ」
玉座から立ち上がり、魔王はその姿を顕にした。
掛けられた外套が翻り、両手の籠手が勇ましく鳴り響き、長靴が地を踏みしめる。
「神は己の権勢を誇り、魔は己の地勢を守る。その腐敗したありように磨り潰され、明日をも知れぬ命を翻弄される者たちなど、見向きもせずに!」
無限に近い回数行わたという遊戯。その中で得をするのは、結局力のあるものだけだ。
自分が打ち破ってきた神は、みなそうだった。
そして、魔の世界にも、それを良しとする者がいる。
「だが、俺は知っている。魔物であろうとも、定められた分を超え、強き者を弑する力があると! そして、その力を持つものが、俺の目の前にいる!」
シェートを指し示し、魔王はその手を胸に当てた。
「俺は、魔界においては最下層の民。虐げられ、搾り取られ、種族としての態すら失った一族の残渣、ただの残りカスだ」
不思議と、嘘ではないと思えた。
彼の持つ意志の力は、きっと自分と同じところから来たものだ。
暴虐に否と言ってのける心から、もたらされたものだ。
「なぜ俺が、お前を欲しがったのか、もう分かったろう。初めから強き者では、真に俺を理解することはできん。己の弱さを知り、克つことができるお前こそが、俺の傍らにふさわしい」
シェートは、魔王を見た。
今まで数限りなく視線を交わし、言葉を交わし、昼夜を共にしてきた存在を。
彼は、ずっと待っていたのだ。
自分が首を縦に振ることを。
「シェートよ。最も弱き勇者、俺の臣を討ち果たした、偉大な狩人よ」
言葉が、わずかに哀切を帯びる。
魔王の声は、かすかに慟哭の憂いを含むように思えた。
「俺は、お前に詫びねばならん」
「……な、なにを?」
「我が臣下、ベルガンダと闘わせたことをだ」
耳の奥で、ごうっと唸るような音が聞こえた。
心が一瞬のうちに、魔将と過ごした日々に立ち返っていく。
「そうだ……お前、どうして、あんな……」
「お前が、神に呪われていたからだ」
言葉が芯に突き刺さる。
呪い、という言葉が、ひび割れた心に捻じ込まれた。
「そんなの、俺」
「では、お前はなぜ、最後に魔将と戦うことを選んだ?」
問いは端的だった。
しかし、答えは、目の前からすり抜けた。
なぜ自分は、あそこで魔将と戦うことを選んだ?
憎くかったわけではない、むしろ気に入ってさえいたはずの相手と。
「お、俺、勇者、だから……命、救って、もらって、だから……」
当然だと思っていたはずの答えが、歪んで見えた。
命を救われたから、その相手の言葉に従って、誰かを殺すのか?
「本来、お前は魔物だ。勇者として世界を救うなど、ましてや人間に義理立てする意味など、初めから無いはずだ」
魔王の言葉が刺さる。
自分は、どこまで行っても魔物だ。
人から疎まれ、感謝されることなどない。
それでも命を救われ、復讐を果たす助けを受けたからと、自分を納得させていた。
「言ったはずだ、お前は繰り人形だと。神に契約で縛られ、操られた存在だと」
「あ……」
「それこそが、お前に掛けられた呪い。本来なら、手を携えて歩めるはずの我らを、反目させている物の正体だ」
胸が苦しい。
今まで信じていたものが、根底から揺らいでいく。
「できれば、我が魔将には勝って欲しかったのだがな。お前の強さが、ベルガンダを凌駕してしまった」
「う……あ……」
「神の言葉に翻弄され、お前は自身を見失ったのだ」
ゆっくりと、膝が落ちる。
立っていられない、めまいがする、自分の何かが、壊れていく。
「ベルガンダ、あの聲、使わせたの、なんでだ」
「勇者軍の残党には、正式な騎士も多く参入していた。あの場で殲滅せねば、いずれは体勢を立て直し、弱ったベルガンダ諸共討ち取られていただろう」
告白が、震える体に注ぎ込まれた。
それが残虐な方法であれ、神との不利な戦いを余儀なくされた魔王にとって、それが取りえる最善だった。
「何より、お前を救いたかった。己の自由な魂を縛られ、望まぬ戦いに身を置くお前を……解き放ちたかったのだ」
魔王は、ゆっくりとシェートに歩み寄った。
「これは俺だけの願いではない。亡き忠臣の思いでもあるのだ」
『その通りです』
自ら片膝を突き、無貌の仮面を自らの手で外す。
「あの方は、最後まで、あなたを魔王様に引き合わせることを、願っていた」
「コ……モス」
魔将の腹心であったはずのホブゴブリンは、あの時と同じ目で、こちらを見ていた。
「あのときの礼を、まだ言っていませんでしたね。我が主と共に勝利をもたらした事、感謝します」
「で、でも……俺、あ、あいつ……」
「勝負を挑まれ、その果てに敗れたことを、あの方は後悔しなかったでしょう。私にも、一切の遺恨もありません」
身を引き、その場を二人に譲ると、コモスは静かな眼差しで、シェートを見た。
「神の悪辣さは、我らが陣にて散々味わいつくしたはず。その手先となり、己の自由を縛められる日々を断ち切れば、亡き我が将も本懐を果たされ、喜ばれることでしょう」
うつむき、シェートは胸に手を当てた。
大ぶりな石の感触を確かめる。
それはどこか空疎で、頼りなかった。
「お前は自由な存在だ、シェート」
宣言が耳をしびれさせ、自然と顔が上がった。
その先に、厳しくも優しく見つめる、魔王の顔があった。
「俺の言葉をもう一度思い出せ。俺は、魔物に知性を与え、規律を与え、弱きものを暴虐から守ると言ったはずだ。そして、実際にお前に見せてきた」
魔王の背後に空の輝きがあり、緋色の衣装がかがり火のように燃え立ち、焚き火のように心を温める気がした。
「お前の神はどうだ? 戦いの先に展望を見せ、お前に希望を与えることができたか?」
その問いかけに、失望が生まれた。
女神の声は、どこまで行っても、先の展望などなかった。
目の前の困難を払うことで、精一杯だった。
「小神に大事を為す器量などありはしない。お前を真に救うのは、大望を抱き、それを為しうる力を持つものだけだ」
輝くものが、目の前にあった。
美々しく、真摯で、力強かった。
その振る舞いを、積み上げてきた業を、心に秘めた強い野心を、余すところなくその体から放ち続けていた。
魔の王が、そこにいた。
「今ひとたび問おう」
青年は手を伸ばし、わずかな間を置いて、告げた。
「勇者よ、この魔王の物となれ」
望まれている、自分の全てを。
そして自分は、それに答えなくてはならない。
シェートは右手を伸ばし、鋼の籠手に触れようとした。
この手を握れば、全てが変わる。
勇者を倒し、平穏にコボルトが暮らせる世界を創ることができる。
魔王と契約することで。
「――けいやく」
「何?」
魔王が眉根をしかめる。
「俺、お前、契約、するか?」
「そうだな」
魔王は口元を緩め、それまでの威厳を親しさに変えた。
「神と袂を分かち、俺と契ることになる」
サリアとの契約を破棄する。
その事実に、心が揺らいだ。
頼りない女神だった。
本当にどうしようもない、役立たずの存在。
聞き届けた願いをかなえることもできず、中途半端な加護を与えられ、右往左往を繰り返した日々だった。
それに比べて、魔王は大きかった。
己の手を尽くし、力を尽くし、この場に立っている。
シェートを評価し、理解し、必要だといってくれた。
その『強さ』を。
「聞いていいか」
シェートは、自分の右手を見た。
胸の傷ほど目立たない、だが確かに刻まれた、炎の痕跡を。
「焼けた村、死に掛けコボルト、見つける。お前、どうする」
魔王はわずかに息を詰め、微笑んだ。
「見所があるなら、そいつを助けるだろう。生きる意志を持ち、戦おうとするならば」
「なら自分、死ぬ寸前、思え」
炎の記憶が、心の中で閃いた。
紅蓮の世界に取り囲まれ、どこに行くこともできなくなった自分。
それを救い上げた声を胸に抱いて、シェートは問いかけた。
「それでも同じ、できるか?」
初めて、魔王の表情が硬直した。
今まで常に悠然と、こちらを眺めやっていたはずの存在が、わずかに逡巡する。
「自分の命、使う。そうやって、俺、助けるか?」
「お前の神は、そう言ったのか? 自分の命と引き換えに、お前を助けたと」
何かが、ほんのわずかな掛け違えが、魔王の言葉を揺らがせた。
隙がなかったはずの言葉に、迷いを感じる。
深く考えることもなく、シェートは反撃を口にしていた。
「聞いてるの、俺。お前、同じ、できるか?」
「無意味な仮定だ。そもそも、その神が本当に、命を掛けたかどうかなど、お前に証明できるのか?」
「ち……がう。お前……俺、質問、答えて、ない」
違和感が、おぼろげな確信に変わる。
魔王の言葉は、確かに本当だろう。
だが、それは大きな前置きがあって、初めて成立するものだ。
力があるから、魔王はシェートを欲しいと言った。
逆に言えば、
「お前、欲しいの、力か」
シェートという存在ではなく、それが持つ力が、欲しいということ。
「――その通りだ。それは、何度も説明したろう」
「なら、弱い俺、お前、欲しくない、そうだな」
「なぜそう思う?」
「俺、弱いから、強くなった。その強いの、見せるため、欲しい。強い奴、お前、欲しい思う強い奴、集めるため」
青年は笑顔で頷き、そっとこちらの肩に手を伸ばした。
「やはり、お前は賢いな」
「……やめろ!」
その腕を払いのけると、シェートは目の前の敵を睨んだ。
本当に、これが最後だ。
もしあの手に触れられ、優しく諭されれば、自分はもう戻ってはこられない。
だから、
「質問、ちゃんと答えろ」
笑みを浮かべた魔王に向けて、コボルトは精一杯の言葉を、叩き付けた。
「お前、自分、命捨てて、俺、欲しい言えるか!」
潮が引くように、青年の顔から表情が消える。
しゃがんでいた姿勢を正し、立ち上がると、ゆっくりと首を振った。
「確かに、俺は自分の命と引き換えに、お前を救うことなどしない」
「……そうか」
「だが、勘違いするな」
青年の視線が、侮蔑で満たされる。
あざけりが滴るような言葉が、美麗な口からほとばしった。
「俺はそんな愚かなまねはしない。誰かを救うというのなら、俺自身をも勘定に含める。自己犠牲による救いだと? そういうのを欺瞞というのだ」
「そうだ。あいつ、バカだ」
そんなことは誰よりも知っている。
女神は愚かで、力もない。
魔王は賢く、力を備えている。
だが、たった一つだけ、女神にあって魔王に無いものがあった。
「でも……あいつ、俺、だまさない」
思いつきで行動し、後先を考えない。それでも、その言葉も行動も、詐術や利己から発生したことは、決してなかった。
「お前、焼け死ぬコボルト、きっと救わない。力あっても、必要ない、思えば。でも、あいつ、俺、助けた」
炎の中から自分の命を救い上げたのは、サリアだ。
何のうまみもなく、先の望みもなく、ただ純粋に救いたいと願って。
「頭いいお前、俺、救わない! 俺、救ったの、馬鹿なあいつだ!」
「そうか」
魔王の口が、薄く裂けた。
酷薄な笑みが、食べごろの獲物に食らいつく、猛獣のように思えた。
「ならば、お前の神の名を、俺に教えてくれ」
がちりと、片足が罠に掛かった感覚に、全身の毛が逆立つ。
これまでの言い合いも、わずかに乱れた口調も、このやり取りを引き出すための布石。
「そこまで信を尽くせる存在なのだ。その名を示しても、何の問題もあるまい?」
「う……」
立て直したはずの心に、魔王の毒が再び染み込んでくる。
サリアの名前を口にすれば、もうシェートの心を守るものは何もない。
しかし、ここで黙ってしまえば、相手の言葉に対抗する力を失ってしまう。
「――サリアーシェ」
隠し持った刃を引き抜くように、コボルトはその名を口にした。
「サリアーシェ・シュス・スーイーラ。俺、契約した、女神だ」
玉座の間に、声が響き渡った。
脇に侍ったコモスは身動き一つせず、薄暗い謁見の間に沈黙が降りる。
そして、目の前に立った魔王の顔を見た時、シェートの心魂は恐怖に塗りつぶされた。
無数の顔。
暗黒で作られた苦悶の相貌が魔王の全身を這い登り、
『サリ、アーシェェッ!』
禍々しく、忌むべき異形の顔が、一斉に叫喚を挙げた。
諸般の事情により、明日16日の更新は一旦お休みします。再開は17日の月曜日からです。