11、勇者を狩るものたち
明星が天に耀く未明の頃。シェートは荒廃した砦に入り込んでいた。
焼け落ちた建物は、薄闇の中でもわかるほどの破壊の傷痕を、そのまま残していた。長い間魔物に支配されていた場所だけに、近くの町から人が来るのも少し後になるだろう。
無数の魔物の骸の間から、何とか仲間の遺骸を見つけると、袋の中に収める。
「終わった。後は、山に墓作る」
『見晴らしのいいところに作ってやるが良い。そこで、我らを見守ってもらおう』
「死んだら魂消える、違うか?」
『詩心を解さぬ奴め。……それでも、皆に見せてやりたいと思わぬか? 我らが勇者を狩りこめるところを』
シェートは女神の言葉に笑い、頷いた。それから、昇る朝日で陰影を際立たせる谷の光景に目を向ける。
「もう時間ない。準備、すぐやりたい」
『分っておる。そなたの仕込みが大事だからな。その前に、そこから門の方へ、十歩進んでみよ』
不思議な指示に、一歩一歩、確かめながら歩く。
『下を見て、地面を掘ってみよ、軽くでよいぞ』
焦げた土を少し掘ると、小さな蒼い石が転がり出た。蔓は焼けて燃え落ちたが、石だけは変わらず、輝きを放っていた。
『もう二度と、無くさぬようにな』
「……うん」
握り締めた石の感触に、口元を引き締める。
「行くぞ、サリア」
『ああ』
川を左手に眺めながら、四頭の馬が進んでいく。
右手には馬上の目線ほどの高い崖があり、鬱蒼と広葉樹の茂る森が広がっているが、この辺りの道幅は広く取られている上、近隣の町を結ぶ重要な街道だけに、地面も乾いた土がむき出しになったままだ。
先頭には、蒼い鎧をつけた勇者と、くつわを並べる僧侶の娘。それをその後ろに着く形で魔術師の娘。その全てを、アクスルは見つめていた。
「それで兄貴に起してもらったんだけど、もうサービス時間終わっててさ。レア狩り逃したって、みんなにすげー怒られたよ」
「それにしても、勇者様は本当に経験豊富なのですね。あちこちで魔物狩りをなさっているなんて」
「ま、ライフワークみたいなもんですよ、わはは」
長い間、小国の騎士団で活動してきたアクスルにとって、正直勇者の言動や思考には付いていける気がしなかった。『あちら』では、勇者ではなく『こうこうせい』とかいう身分だったらしいが、説明を受けたところでピンとこなかった。
こちらでは、騎士身分の子弟と生を受ければ十の歳から高名な騎士の従者として、見習い生活に明け暮れる。
それから剣を賜り、団の一員として生活するまで十余年。習ったことといえば剣に槍、戦の教練ぐらいだ。
リィルの方は、神との対話に明け暮れた浮世離れの娘だし、傭兵魔術師として世間を渡り歩いたエルカも、すんなりコウジという青年の発言に慣れてしまっている。
だが、自分は未だに、彼の存在に違和感を感じ続けていた。
勇者とは、一体なんなのか。
ある日突然、彼の住まう辺境の小国に天啓が降り、彼は現れた。
その身に纏った武具は、おおよそ人の手に成るものとは思えず、剣の害をはじき、最近ではエルカの魔術さえ、完全に打ち消してしまう。
この前も、付近の集落を荒らす魔物の砦を、たった一人で退治してのけてみせた。まさしく勇者の所業であり、人々は彼に感謝した。
それでも消えない思いが在る。
本当に、それでよいのか? そう囁く声がする。
『愚か者。神意を量るとは何事か』
年老いた父は自分の疑念を一喝し、魔物によって荒廃に瀕する世界に新たな光を見出したと、涙を流して喜んでいた。
すばらしい力だ、神よりの賜り物だ。そう国は沸き立ち、リィルなどは目を輝かせ、神の使いを上にも置かぬ扱いをする。
その熱狂の全てが、恐ろしかった。
それでも、正しいはずなのだ。そもそも彼は、自らに関係のないこの世界のために戦っている。
立派な献身、神の使いたるべき見本――。
「シケた顔してるね、おっさん」
いつの間にか横に並んだ魔術師の娘に、苦笑いを返す。そういえば、最初は胡散臭いと思っていた彼女と、今では何かと話をするようになっていた。
「すまんな。この山に入ってより、どうもな」
「へぇ……あんたもか」
いい加減でとても素性のいい人間ではないが、あまたの戦場を渡ってきたという彼女の感覚は、自分に合い通じるものがある。その目が、自分と同じ思いを宿している。
「嫌な感じだよ。ずっと、首筋にちりちりくる。まるで」
「切っ先が突きつけられるような感覚、か」
「……全く、のんきなもんだよな」
あえて声を低め、辺りの野花でも見る風で、エルカが吐き捨てる。
前を行く仲睦まじい二人の姿に向けて。
その顔には、苛立ちがあった。
「恋の鞘当には敗北といったところか」
「唐変木の田舎騎士に言われる筋合いはないね。そもそも、あたしはガキは嫌いだ」
「神に選ばれし勇者殿だぞ、そのような暴言は」
「おや、あたしは一言も勇者様だ、なんて言ってないよ。リィルだって十分ガキだ」
にひひ、といやらしく笑う。だが、その笑いはやはり苛立ちに塗り込められた。
「昔、仕事を一つ受けてね。ここからもう少し東にある、カイタルの首都さ」
「白嶺の都か。大口だったのだろうな」
「ある大貴族からね。自分の息子に付いてちょいと領地を行幸してくれ、って話だった」
ひどい仕事だったよ、今にも唾でも吐きたいといった顔で、言い捨てる
「こっちの話は聞きやしない。危ないからやるなということはやるわ、戦いの最中に使えもしない宝剣を振り回して、危うくこっちの仲間が死に掛けた。それでも雇い主さ、文句は言えない。んで、どうにか敵を追い払ったらあいつ、なんて言ったと思う?」
「想像は付く。大方、この私を見習ってしっかり戦え、とでも言ったのであろう」
「あんたもそういうのにあった口か! お互い、苦労してるねぇ」
こちらも似た様な経験をしたと知って少し溜飲が下がったのか、エルカは笑い、それからまた、前を行く二人を見る。
「彼は口先だけのボンボンではないぞ。少なくとも、戦い方は心得ている」
「同じさ。あいつの戦いは、まるで遊びだ」
言葉が、喉の奥までこみ上げたのを、何とか飲み込む。
「吐き出しちまいな、お互い辛い仕事を分かち合う仲間だろ?」
「それが出来れば、騎士などやっておらぬわ」
「まじめだねぇ……じゃあ、ちょっと独り言でも言わせて貰おうか」
魔術師は鋭い視線で周囲を見回し、口を開く。こうして軽口を叩きながらも、油断は一切無い。
「あいつの戦いは、神様からの賜り物頼みだ。何一つ自分で得たものを持っていない。それをどこで覚えたのか知らない、妙な戦術でここまでやってきた。確かに、おとり役を立てて敵をひきつけるのは戦の常道だけど、それはあくまで、複数人でやるもんだ」
それは、今でも自分の中に引っかかっていることだ。自分の身を危険に晒すことを厭わない、勇者らしい献身、では済まない。
まるで、自分が傷つくことを考えたことすらない……狂人のような振る舞いだと。
「それが勇者様の戦いだってのは分かる。だがもし、どこかであの力が消えたら?」
「神の力が消えるなど、ありえるのか?」
「知らないね。でも、あたしは戦場で見てきた。絶対に死なないと思った奴が死ぬ、それが現実なんだ。それを、あいつは全く考えたことがない、ように見える」
「嘘か真か知らぬが、勇者殿は死ぬことは無い、らしいぞ」
以前、どこかで聞いた言葉を思い出す。
『え? ああ俺、死なないらしいよ。例外は在るみたいだけど、デスペナ付くくらいで神様が生き返らせてくれるんだってさ』
そうだ、あの稚気じみた言葉が、俺の心に疑惑を湧かせたのだ。
死すらも軽々しく語れる彼は、一体なんなのか。
「そいつはすごいね。あたしも勇者様になってみたいもんだよ」
「ああ。実にすごいものだ」
感心からの言葉ではない、寒心からのものだ。
薄ら寒い、異常な奇跡の塊に対する、戦場を知る者の反発。
「……まぁ、いいさ。少なくとも、あいつが強いのは事実だ。後はあいつが気が付かないところを、こっちでお守りしてやればいい」
「そういうこと――」
上げていた面当てを降ろし、剣を引き抜く。軽く横腹に蹴りを当てると、馬は歩調を速めて勇者との距離を詰める。ほぼ同時に魔法使いもその動きに習った。
「来ているぞ」
「分ってる」
「どうした?」
きょとんとした顔でこちらを見つめる勇者の目に、肌が粟立つような気持ちが湧く。
木陰が差し掛かり、光の弱まった道の途中、森の奥からひしひしと感じる圧迫感。
その痛いほどの感覚を、目の前の勇者は感じていないのだ。
「な、なんだよ、敵か?」
覚束なげに引き抜かれる剣にも、こちらの動きをまねる、見習い従者の頼りなさしか感じられない。
それでも、あの武器は神の賜り物なのだ、そう言い聞かせる。
「とにかく、勇者殿はリィルの護衛を。馬は道の中程に、手綱は放さぬよう!」
「なんだ!? 敵は何匹だ!?」
「うるさいね! ちょっと静かにしてな!」
苛立った魔術師が森の奥を透かし見る。
そして、絶叫した。
「罠だ! 山の方へ轡を向けろ! 早く!」
地面を打ち鳴らすような激しい音を立てて、それは降り注いだ。
樽、暗い斜面を、転がり落ちる無数のそれに、魔術師の勘が警鐘を鳴らす。
「待ち伏せだ! 馬を落ち着かせて、落ちてくるものの動きを見るんだ! リィルは勇者の後ろに隠れてな!」
行軍に何度も馬を使っていたせいで、魔術師としては異例なほど馬の扱いには慣れている。上から落とされた樽は、およそ十ほど。
「そらっ! いい子だからいうこと、ききなっ!」
手綱を絞り、暴れる馬を御しきる。最初の樽が、すさまじい音を立てて地面で砕けた。
「きゃあっ! 勇者様ぁっ!」
「大丈夫だ! 俺の後ろにいろっ!」
騒ぐ役立たずたちの周りで、次々と樽がぶつかり砕けていく。勇者の鎧の守りは、接触したものの全てを保護する力が在る、そのため馬も、抱き寄せられたリィルも無事だ。
「で、なんっだ、これっ、くっせえええええええっ!」
「ひどい臭いですわぁっ!」
「こ、これは糞かっ!?」
「あ、あと、生ゴミだね。こりゃ」
辺りを汚した汚物は、ひどい悪臭を放っていた。臭いで馬達が興奮し、苛立たしげに足を踏み鳴らす。
「これが襲撃かよっ! くっせぇえええ!」
「これはたまらん、早く移動しよう」
「ちょっと待て!」
「なんですか!? こんな臭いところから早く移動を!」
きつい悪臭だが、エルカはその中で一層臭い立つ、策略を嗅いだ。
「落ちつけ! これで後先考えずに移動したら、確実に罠に嵌るよ!」
「罠だと?」
「相手はあたしら移動させたい、しかもわき目も振らずにね。だから、樽の中にこんなものを仕込んだんだ。襲撃するなら、油でも詰めて火を掛けるさ」
「じゃあどうするんだよ! くっせぇー!」
少し考え、魔法使いは答えを出す。
「元来た道を戻るよ」
「なんだよ、進まないのか!?」
「上からの襲撃を受けて、算を乱した連中は、間違いなく先を急ぐ。目的地に早く着こうって気になるからね。ここは一旦下がるべきだ」
こちらの提案に騎士も頷いてくる。
「少なくとも、先に進めば罠が在ることは確実だろうしな。落ち着いたら斥候として私が行くことにしよう」
「何でもいいですけど早く移動しましょうよー」
臭くてたまらない、といった顔でリィルがさっさと馬を出し、その後に送れて勇者が続く。馬の足が臭いのせいで速くなり、互いの間隔が心持ち広くなる。
「ちょっと待ちな! 隊列を」
その瞬間、うなじの毛が逆立った。森の木陰、自分よりも目線の高い、小高くなったところから、こちらを見つめる双瞳の輝き。
「敵襲だ! 山から……」
そうだ、自分は間違っていなかったはずだ。
罠による隊伍のかく乱、その直後の襲撃、みんな読んでいた。だから仲間に危険を知らせるため、声を上げて山に注意を向けさせる。
だがそれは、仲間全てが何をするべきか、瞬時に判断できる勘か経験を備えていた場合のみ有効な行動。
素人に、とっさの反応など出来るはずが無い。
呆然と山を見上げた勇者のすぐ前、同じくぽかんと森に顔を向けたリィルが、
「きゃあああああっ!」
二本の矢に貫かれ、馬から叩き落された。
衝撃がいきなり脳天を揺さぶり、周囲の景色が吹き飛ぶ。
「ぎゃうっ!」
同時に気が遠くなりそうな痛み、次いで頭が揺さぶられて目の前が真っ暗になった。
「リィル!」
勇者の声が聞こえる。その声に目を開くと、そっと抱き起こしてくれる腕を感じた。
「あ、わたし……どうなって……うっ……」
「だ、大丈夫、だからな! しっかりしろ!」
「バカ! いきなり起す奴があるか! そのままにしてろ!」
エルカの叱責が飛ぶ。そこでようやく、自分が襲撃を受けて落馬したのに気が付いた。
「ああ、どうすんだこれっ、確か、こういうのって抜いちゃだめなんだよな!? どうしよう、俺、回復魔法とか持ってないし……」
「だ、だいじょうぶ、ですよ」
まだ頭は痛むが、それでも何とか目を開けて自分を確認する。右の肩と太腿に、矢が刺さっている。木からそのまま削りだしたような粗末な代物で、おそらく短弓から繰り出されたもの。
「このぐらい、自分で治療、できます。それより、敵を」
「で、でも」
「大丈夫ですから、行ってください」
不安がる青年に何とか笑顔を向けると、彼は自分を横たえて敵に向かって走っていく。
そこでようやく、戦場の状況が見えてきた。
三人は森の木陰にいる何かに向かって、武器を構えていた。襲撃者は慎重に身を隠し、次の一撃を繰り出す瞬間を待っているようだ。
なんて自分は無力なんだろう、思わず後悔が溢れる。
勇者直々のお達しにより、お仕えする機会を得、ここまでやってきたのはいいが、ほとんど僧侶らしい仕事も出来なかった。
初めの頃は、旅慣れない勇者の世話や他の仲間の防御、治療などもしていたが、最近では彼の力が上がりすぎていて、自分が活躍できる場面がどんどん減っている。
野営や周囲の警戒は、僧院に篭っていた自分には荷が勝ちすぎ、騎士や魔法使いにまかせっきりになっている。
そのせいか、アクスルもエルカも、どこか自分にはよそよそしかった。だからこそ一層勇者に甘え、その言葉を聞くことで不安を紛らわせていた。
僧侶は治療者であり、戦場の守り手だ。戦うものに祝福を与え、傷ついたものを癒す要だ、そう教わってきた。
だが、勇者は傷つくことが無かった、敵の剣にも魔法にも。
最も支えるべき勇者は、自分の存在を、本当には必要としていない。
傍目には、熱狂的に勇者を崇める自分が見えているだろう。
でも、それは、自分が役立たずではないと、認めて欲しい気持ちが見せた虚像。まるで王にすがる妾姫のようだと、自嘲することさえある。
彼に対する思慕も、今では本当の気持ちだったのか、単なる依存心なのか、分からなくなってきていた。
あの人に、自分は甘えている。側にいさせてもらっている、そんな気持ちが溢れて止まらない。
「あ、ああ……」
なんだろう、傷が痛くて、熱い。
このぐらいの怪我など、自己治癒力でいくらでも治せるはずだ。だが、その力はわずかに働くばかりで、じわじわと心魂を削られていく。
「これは……毒……」
胸に下がった聖印を掴み、毒消しの祈りを上げようとする。
その時、リィルは気が付いた。
自分は勇者ほどでないにしろ、神の加護を受けている。魔法使いなどと違い、詠唱なしである程度の防御が可能であり、こんな金属の鏃すら付いていない武器に傷つけられるはずが無いのだ。
つまり、今の襲撃者は、それを貫くだけの力を持っているということになる。
「ゆ、ゆう……しゃ、さま……」
薄れていく意識の中で、リィルは始めて、勇者の先にかかる暗雲を見た気がした。
「畜生! どこのどいつだ! とっとと降りて来い!」
剣を構えて威嚇するが、相手は姿を見せなかった。両脇にいる二人の仲間も、茂みを見つめて身動き一つしない。
「出てこないなら森ごとぶっ飛ばすぞ!」
「やめときな。相手がどんな奴だか分からないんだ。うかつなことをするんじゃない」
「しかし、これ以上にらみ合ってもまずい。いっそ仕掛けるか?」
「俺が行く」
進み出た浩二の前に、二人が立ちはだかった。こちらを見る顔には、今までに無い感情が見える。ただ、それが何であるかを読み取ることができない。
「こいつは今までの敵とは違う。あんたは下がっておきな」
「でも、俺なら大丈夫で」
「たまには従者らしいことの一つもさせてください」
やけに強硬な態度と言葉に、思いがけない苛立ちがこみ上げる。
「ふざけんなよ! 仲間を傷つけられて怒ってんのはお前らだけじゃないんだぞ!? ここは俺が」
「そういうことを言っているのではないのだ!」
怒号が、浩二の耳を打った。
今までに聴いたことも無い声、両親からも、兄からも受けたことの無いような、まじりっけなしの叱責に、思わず腰が引ける。
「ア、アクスル?」
「ちょっと、あたしらはアンタを甘やかしすぎちまったみたいだね。これが終わったら色々言わせて貰うよ。とはいえ、今はこいつを何とかするのが先だけどな」
「エルカ?」
二人が何を言っているのかが分からない。明らかに自分は二人よりも強いはずで、自分が前に出れば話が済むはずだ、なのに。
「怖いな」
森の奥から声がする。子供のものにも聞こえる、少し高い声。
「お前達、勇者頼み、する思ってた」
「舐められたもんだね。あたしらはこいつのお飾りってか」
姿を現したそいつに、浩二はあっけに取られた。
何かの動物の皮で作った衣服を身につけ、短弓を携えて出てきたのは、あの時砦で倒しそこなったコボルト。
「違う。お前達、頭良い。勘働く。だから怖い、そう思う」
「そなたか。勇者殿が言っておられた、妹神の従者とは」
軽やかな身のこなしで飛び降りると、小さな魔物は弓を構えた。
「名はなんと言う」
「……シェート」
一切の怯えも無く、こちらを見据える瞳。
まるで別の生き物だった。あの時、愕然とした顔でこちらを見つめ、震えるだけだった存在とは。
だが、所詮はコボルトだ。にらみ合う二人の間に入り込み、声を掛ける。
「お前、他に仲間は?」
「いない。お前が殺した」
「ほらみろ。俺がやれば済むことだろ」
場にいた全ての者の視線が、いきなり浩二に集中する。
敵も味方も無く、そこには等しく一つの感情がこもっていた。
場違いな人間の愚かさを哀れむ目。
「お前、邪魔。下がれ」
「……はぁ!? 何言ってんだ、この」
「お下がりください。こやつは我らが止めます」
「ア、アクスル!」
「いい加減に気が付きなよ。愛しのお姫様が、死にそうな顔でぶっ倒れてること」
指摘を受けて思わず振り返る。地面に突っ伏したリィルは、ピクリとも動いていない。
「リ……」
がきゅんっ!
不快な音が後頭部に突き刺さった。
無防備に晒した頭に向けて、シェートと名乗るコボルトの放った矢が、障壁によって受け止められ、地面に転がる。
「俺、さっきの矢、毒仕込んだ」
「なんだと!?」
「早く助けないと、女、死ぬぞ」
次の矢を番え、魔物が告げる。
その姿をけん制しながら、二人は背中で指示を飛ばした。
「リィルの右の鞍袋に、赤い小袋が入ってる。その中身を酒に混ぜて口に流し込みな」
「矢傷はそのままに、平らな場所に寝かせ、できれば毛布で包んでください」
あまりに急な展開に、脳が付いていかない。それでも、浩二はリィルに向かって走るしかなかった。
「リィルが何とかなったらすぐ来るからな! えっと、だから……」
何を言えばいい?
相手はたかが一匹のコボルトで、にもかかわらず二人はいつに無く真剣で。
「がんばれ!」
ひどく間抜けな言葉に、それでも二人は笑って頷く。
「何なんだよ、一体……」
奇妙な無力感を感じながら、勇者は倒れ付す僧侶に駆け寄った。
『案外こやつらも、バカではなかったということか』
「そうだ。こいつら、強い」
サリアは意外だったようだが、シェートにしてみれば何の不思議も無い。
襲撃のチャンスを覗った瞬間から、二人はずっとこちらを探り当てようとしていた。必死に気配を消し、存在を悟られないよう、内心冷や冷やしていたほどだ。
「そういうアンタも、ただのコボルトとは訳が違うんだろ? 神器とかいうのも、持ってるんじゃないのかい」
「持ってない。俺、弱い魔物、それだけ」
「やめてくれよ。そんなおっそろしい目で睨みすえて、謙遜だなんて」
「け、けん?」
『けんそん。実力を隠して、自分を低く言うことだ……』
人間のめんどくさい言葉にうんざりしながら、それでも矢を番えたまま二人を睨む。
"味方"が彼等に接するまで、距離にすれば二十歩足らず、それまで釘付けにする。
馬上の存在は、乗らないものに対して圧倒的に有利だが、こちらは射程こそ短いものの弓がある。
「槍でも持ってくるのであったな。そうすれば一突きであったろうに」
「無いものねだってもしょうがないさ。仕掛けはあんたに任せる」
「心得た」
「サリア」
『了解だ』
騎士が馬の腹を蹴り、軽やかな駆けで突進。馬手側の剣が無造作に下げられ、
「ふんっ!」
軽やかな刺突が襲い掛かる。
地に伏せやり過ごしたシェートの上を銀光がかすめ、はらりと毛が飛び散った。
素早く起き上がり、飛び下がると、いつの間にか騎士と魔法使いが、自分を挟み込む形で位置していた。
山道は広いが、そこを馬を横にする形で壁を作り、行くことも戻ることも出来ないように陣形を組む。
「アンタはここで殺すよ。感じるんだ、不吉なもんを」
素早く弓を魔術師に向けるが、絶妙に間合いを外し、弓の射程を狂わせる。
「もう少し我らと遊んでもらおう。リィルの手当てさえ終われば、勇者殿も加勢に現れようからな。さすればそなたは終わりだ」
逆に騎士はじりじりとこちらとの間合いを詰める。馬には軍衣と腹の辺りを帷子によって守り、魔術師の馬も厚手の皮で防護を施してある。
だがあと十歩。仕掛けを悟られないよう、シェートは声を上げた。
「俺、殺したいの勇者だけ! お前ら関係ない! どけ!」
「はいそうですかって、退くわけ無いだろ」
「目的がそれである以上、余計通すわけには行かぬな」
言うなり、騎士の鐙にぐっと力が入る。同時にシェートの矢が面当て向かって飛んだ。
「うぬっ!」
恐ろしい速さで持ち上げられた楯が矢を弾き、
『シェート、雲雀が鳴くぞ!』
女神の警戒にコボルトの体が流れるように反転、矢番え、魔法使いへと放たれた。
「"戒めの鎖よ西風の――"ちぃっ!」
いつの間にか印相を組んでいた魔術師が慌てて体をそらし、手綱を握りなおす。
構え続けていた手が痛む。それ以上に張り詰めた神経が、今すぐにここから逃げ出したいと悲鳴を上げていた。鎧騎士に、いつ魔法を打つか分からない魔術師、サリアの「目」がなければ、とても同時には捌ききれない。
だが、援軍の影は、すぐそこにある。
あとは、それに出来るだけ気づかせないようにすること。
「お前達、なんで勇者、一緒に居る」
近づこうとした騎士に、鏃を合わせ動きを鈍らせる。
「知れたこと、共に魔王を倒し、世界に平和を求める」
「俺たち殺してか」
「……そうだな」
体はそのままに、顔をわずかに傾けて、魔術師を見る。その目が自分に集中し、こちらの動きを盗もうと躍起になる光が輝いた。
「殺し殺されはこの世の理さ。アンタだって魔物だろう? そのお約束の上で生きている以上、勇者に恨み言を言うのは筋違いってもんじゃないのかい」
手綱と言葉に意識が集中している。自分の言葉が魔術以上に、目の前の魔物を拘束できると、できていると信じている。
その上で、騎士に隙を与えて勝つ、勝利の構想。
それこそが隙だと、気が付いていない。
「俺たち、別に人、殺す思わない! 魔王、魔物の軍、知ったことか! 俺たち弱い! 静かに暮らす! 欲しいのそれだけ!」
「それを許さぬ世界が在る。そなたもその苦界の一員、願いがどうあれ、魔物で在る以上看過はできぬのだ」
「なら、お前達殺して、みんな守る!」
じんと脳が痺れる。血液に凶暴が駆け巡り、信じられない言葉が口をついた。
「そのためなら、勇者も魔王も、神も殺す! みんな殺す!」
「は……こいつはまた」
「恐ろしき決意よな」
二人は苦笑いし、一瞬だけ場の空気に『間』が入りこむ。長く続いた緊張を、わずかばかりこじ開けて、意識を緩ませる楔。
「殺す気がないといったり、仲間のためにみんな殺すといったり、アンタ思考が矛盾してるよ」
「そんな言葉知らない! 俺、自分のやること、やる!」
「それならば、私も己のなすべきことを、むうっ!?」
するり、と伸びた触手が、騎士の剣に絡みつく。
騎士の乗る軍馬が、現れたおぞましいそれに悲鳴を上げ、前足を高々と空に向けた。
「むおおおおおおおおおおっ!」
「な!? そいつは……」
それでも瞬時に状況を判断し、印相を組んで魔法を放とうとする魔術師。
「"刹火灼熱、彼の肉を撃――"」
「させない!」
一気に走りこみ、シェートの弓が黒々と輝く木矢を放つ。
「――て!"」
小さな火がシェートの目の前で破裂、魔術師の馬がいなないて仰け反る。
「くそっ!」
「な、なんだこいつはっ!」
絶え間ない馬の悲鳴と、絡みつくそれに必死に応戦する騎士。だが、明らかに劣勢なのは鎧を着けた偉丈夫。一太刀ごとに剣の色が赤く変わり、鎧も軍馬の鎖帷子も、あっという間に劣化していく。
「さ、錆喰いが何でこんなところに……まさか!」
安堵と作戦成功の喜びに、シェートは口を歪めた。
「あいつ、樽詰めるの苦労した。気づかれなくする、大変だった」
「汚物で錆臭いのを消して、あいつが近づいて馬が興奮するのも隠したってのかい!」
印を組んで術を発動させようとする魔術師に、弓を突きつける。
「お前、魔法打て。錆喰い死んであいつ助かる。その代わりお前死ぬ」
「冗談。錆喰いは生き物を殺さない。あんたに魔法を使えばいいだけさ」
「そうか。それなら」
毒矢を番えると、シェートはサリアを思った。その意識によって、矢の先に光の祝福が宿り、腐りかけた鎧などやすやすと貫く、無防備な騎士を殺す一撃に変わる。
「それは!?」
「騎士が矢で死ぬ」
「や、やめ――」
冷静なはずの魔法使いが、思考を手放した一瞬、シェートの矢は正確に彼女の肩を撃ち砕いていた。
『うあああああああああっ!』
鮮血が娘の肩から飛び散り、その光景に神々のほとんどが感嘆の声を上げた。
ただ一人を除いて。
「馬鹿者がぁっ! そのような手に引っかかりおって、この愚物めが!!」
怒りと憤りで今にも周囲のものを砕いて回りそうな顔で、兄が叫ぶ。その姿に哀れみと滑稽さを感じつつ、サリアは平然と声を掛けた。
「お座りを、兄上」
「うるさい黙れ! なんだあのジメジメとした嫌らしい戦いは! 汚物で道を塞いで下劣な魔物をけしかけ、その上毒だと!?」
「だが、こんな謂もあるぞ? "兵は詭道なり"。配下は寡兵で弱卒、将も新米だが、よくやっているではないか」
手元のタブレットに目を落としつつ、さも興味なさそうに解説を入れる竜神。その態度にいらだちつつも、憮然と座り込んだ。
「認めん! 認めんからな! こんな卑怯臭いやり方!」
「兄上のお気には召さないでしょうが、これも格下の戦い方ゆえ、許されよ。シェート」
『なんだ』
水鏡の向こう、コボルトは油断なく矢傷を受けた魔法使いを見つめている。
「そろそろ熊が起きる、気を抜くな」
『わかった。雲雀の見張り、任せた』
「うむ、安心して狩りに励んでくれ、ガナリよ」
『やっぱり、ガナリ言われるの、照れる』
容赦なく弓が弦を鳴らし、矢を避けた魔法使いがふらつきながら後ろに下がる。シェートの背後からは猛然と半透明な魔物と組み合う騎士の絶望的な声。
「良いではないか。この狩りはお前のもの、我を率いて存分にやれ」
『分った。お前いいナガユビ』
そのやり取りに周囲の神々が怪訝な顔で囁きあい、幾人かが竜に視線を流す。
「ガナリというのはあの地方のコボルトどもの方言でな。狩りの統率者、時には群れの長を指すこともある。ナガユビというのは、狩りの雑用を行う下っ端のことだ」
「では、このたびのサリアーシェ殿は、あのコボルトの指示で動いた、と?」
名も知らぬ小神の言葉に、目の前の兄が柳眉を逆立てる。威圧だけで周囲は沈黙したがサリアは笑顔のまま頷いた。
「私も軍略にはわずかばかりの見識がございますが、狩りは無作法ゆえ。経験豊かなものを頂いたまでのこと」
「貴様は! どこまでそのようなことを! よりによって神が最下級の魔物の、文字通り走狗と成り果てるか!」
実際にはどちらが上で下という区別は無い。作戦立脚は自分だが、それを狩りという形に翻訳し、罠を仕掛けたのはシェート。どちらが欠けても成り立たない一策。
「問題は手段ではなく結果、でございますれば。そもそも御身の盤面には、未だ最強の駒が残っておられましょう」
指摘に合わせるように、少し離れた場所で治療らしきものを施していた勇者が、こちらへ駆けて来るのが見えた。
「来たぞ、熊だ」
『分った』
自分の勇者を熊呼ばわりされ、怒りながらも兄は水鏡に眼を向ける。
サリアも同様に、盤面へと意識を戻した。
遠くから走ってくる蒼い鎧姿を見て、さすがにシェートの胃がきゅっと縮こまる。尻尾が震えて股の間にもぐりこみ、今すぐ走り去りたい気持ちが湧き上がった。
『落ちつけ。状況を確認せよ。今、騎士はどうなっている?』
魔術師から目を離さず、顔だけを傾ける。いつ間にか地上に降りていた騎士が、半ばその中に飲み込まれながら、必死にぶよぶよとした生物を振りほどこうともがいている。剣は体内に取り込まれて消化され続け、鎧も半分以上が赤錆びていた。
少し離れた場所に捨てられた楯は錆びかかっていたが、まだ原型を保っていた。
「武器、ぼろぼろ。多分戦えない」
『目の前の魔術師はどうだ』
必死に体勢を立て直しこちらを睨みすえているが、毒の影響が見る見る強まって、まともに動けないのは明らかだ。
「目、曇ってる。魔法使うの、難しい、思う」
『すでに作戦の半分は終わったも同然だ。冷静に、心を乱すな』
「ん」
「アクスル! エルカ!」
駆け寄ってきた勇者は、状況を見て顔を青ざめさせた。
「い、一体、どうなってんだ!?」
「ドジこいたよ。大見得切っといて、すまない」
「そんなことより、あのスライムみたいなのはなんだ!? それに、お前……その肩」
「話は後だ! あんたの力で二匹ともぶっ飛ばしてくれ!」
「え、そんなこと言ってもアクスルが」
素早く弓を収め、腰を落とす。こちらの反応に歯噛みをした魔術師は、それでも冷静に勇者を叱咤した。
「"凍月箭"だよ! もたもたするな!」
「そ、そうか!『貫け、ゼーファント』!」
腕輪への命令が完成する寸前、シェートは一気に騎士へ向かって走った。
勇者の頭上で光が破裂し、小さな魔物に追いすがる。
「そこ、どけええええええっ!」
「な、何!?」
立ちふさがる騎士を押しのけ走りこんだ先は、錆喰いの柔らかな体内。
『ヴギュウウウウウウッ』
放たれた魔法の威力が水のような肉体に殺到、刺し貫き、沸騰させる。だが、錆喰いの肉体が完全消失した後に残ったのは、いくらかの余波があったものの、致命的な傷一つ無いシェートの体。
「嘘だろ!?」
「あんな方法で……」
「なんて、出鱈目だよ……」
「ぶあっ……はあっ……くはあっ!」
息継ぎしながらシェートは腰に手を伸ばし、ぶら下がった山刀の感触を確かめる。
「……良かった、錆びてない」
『勇者の魔法が早かったおかげだ。消化もされずに済んだようだな』
矢を番えなおし、驚きの眼差しで見つめる勇者達に、照準を合わせる。
「これで、お前の魔法、後二回」
「てめぇっ!」
「あ……焦るんじゃない……もう一度……」
その言葉を最後に、魔術師の娘が馬にぐったりともたれかかった。
「エルカ!」
「エルカ殿!」
「動くな」
シェートは静かに告げた。動こうとした丸腰同然の騎士と、倒れた娘を気遣いながら、それでもこちらから目を逸らせない勇者。
「そいつにも、さっきのと同じ毒、使った」
「ど、毒消しとかはあんのかよ!」
「普通の毒。多分、魔術師、薬知ってる」
こちらの言葉に一瞬ほっとする勇者。だが、言葉の罠は緩める気はない。
「でも、薬使う、遅くなれば、死ぬ」
「ああ。そうかよ! お前を殺してすぐ治療してやる!」
「じゃあ俺、その騎士、魔術師、道連れする」
名指しされた騎士が身構え、同時に丸腰の自分を見て、僅かにおののく。魔術師の娘も虚ろになりかける意思の中、体をゆすったようだった。
同時にシェートは、別のものを見ていた。地面に転がる、この後で起こるはずの事態に対処できるものを。
「お前達、毒消す時、神の下っ端、使う。でもそいつ今、死に掛け」
「く……」
「後一本、この毒矢、魔術師刺せば、死ぬ、早くなる。騎士に刺せば、お前以外、みんな倒れる」
蒼い鎧の勇者は、唐突に突きつけられた選択肢に顔を白くさせていた。
「勇者、お前毒消しできない。違うか」
「それは……」
「聞く必要などありませぬ! こやつの毒は確かに強い、それでも私ならいくらかは耐えられましょう! 今すぐ魔法で止めを!」
「それに、魔術師、苦しんでる」
馬の上で必死に体勢を立て直しながら、それでも今にもずり落ちそうな姿。
「薬、飲ませなくていいのか」
「魔法はまだあるでしょう! さっきの化物は死にました! もうこやつを守るものは何も無いのです!」
「俺、ただのコボルト。死んでも悲しむ奴、いない」
木の矢に光が灯る。その先を、ぴたりと魔術師の娘に合わせる。
「だから、死ぬ、怖くない。その代わり、お前の仲間、道連れ」
「や、やめろ!」
「勇者殿! あんなものははったりです! 耳を貸さず魔法を!」
そうだ。こんな局面で迷う必要など無い。どんなに弱いコボルトでも、目の前の危難をより分けて、少しでも生存する方を考え行動できる。
だが、目の前の勇者を名乗る人間は、迷っていた。
いきなり仲間を傷つけられ、その死を意識させられて。
今まで考えたことも無い選択肢を突きつけられた思考が、完全に停止している。
勇者の足は止まった。この場で動くものがいるとすれば。
「勇者殿!」
巨大な岩のような体が、こちらに襲い掛かる。分厚い肉でよろわれた、それ自体が鎧のような騎士の体躯。
猪のような突進、あっという間に距離が詰まり腕が伸ばされる、回避が間に合わない。
「今ですっ!」
激突する寸前、シェートは真後ろへ倒れた。
つま先で自分の体を押し、弓を構えたまま。自分の上に騎士が覆いかぶさる動きが、急にゆっくりと動いて見える。
つかみ掛かった手が目標を見失い、交差するように伸ばされたシェートの手が、冷静に弓弦を解き放つ。
「うぐおおおおおおおおおおっ!」
深々と左目に矢が突き刺さり、痛みで巨体が仰け反った。同時にシェートの背中を襲う地面からの打撃。
「ぐはあっ!」
「畜生っ! 『貫け」
分っている、あの魔法の対処法は『壁』だ。砦で射掛けられた時も、自分の腕が楯になったから死なずに済んだ。
『凍月箭は魔法の力で生み出した矢を、術者が認識した『敵』へ自動で追尾させる術だ。味方を射抜かず、遮蔽物をある程度超えるため、乱戦で重宝する』
サリアの言葉が蘇る。
騎士は楯にならない、勇者が味方と認識せず、自分を守れる大きな『楯』がいる。
「ゼーファント』!」
光が集まり、弾ける。恐ろしい威力の魔法の乱舞。騎士の楯は転がっているが、今からでは間に合わない距離の物。
その時、脇をすり抜ける形で倒れこむ騎士の背中に、シェートの視線が吸い込まれた。
「死ねこのクソモンスター!」
絶叫を追うように流星が殺到、甲高い金属音がいくつも炸裂した。
「……え?」
コボルトは、山の崖にぴったりと体をくっつけ、守りの『楯』を構えていた。
比較的錆の被害を受けていない、騎士鎧の背当ての部分を。
「な……あ! ああ……!」
「ぶはぁっ!」
魔法で焼けた背当てを腕から引き剥がし、勇者に向き直る。痛みにのた打ち回る騎士を横目で確認しつつ。
「な、なんで、なんで死なないんだ! この魔法は」
「普通の鎧、楯、ぶち抜く。そんなの知ってる」
「じゃあ何で!」
「俺、女神の守りある。それと、武器強くする力、楯に使った」
二つの力で必死に支えた結果、背当てはその原型をとどめ、シェートにも傷一つ無い。
「これで、あと、一発」
「く……くそおおっ!」
勇者の視線が周囲をさまよう。馬にもたれかかる魔術師、捨て身で襲い掛かり、手傷を負った丸腰の騎士。少し離れたところで意識を失う僧侶。
「あ……か、カミサマ! 来てくれ! 早く!」
シェートの眉間に皺が寄り、事態に備えるように身構える。
「仲間が! 毒で! とにかく早く!」
その絶叫が、はるか空の彼方にこだました。
「馬鹿者おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
羞恥、激憤、赫怒、その全てで顔を紅潮させたゼーファレス、美しき神が絶叫する。
「何を腑抜けたことをやっているのだ! そのようなことで、だらしなく取り乱すなこの馬鹿者! 迂闊者! 慮外者! 恥を知れ恥をををををををををっ!」
対面の妹は静かな顔で、こちらを見つめる。こうなった以上、事態は忌々しいあの女の思惑通りに動いていると言って過言ではない。
「サリアーシェェェェェェェ!」
「何でございましょう、兄上」
「貴様、貴様という奴はああああっ!」
『おいカミサマ! 聞いてるんだろ!? 大変なんだよ! 女神とかナンパしてる場合じゃないんだっての!』
勇者の一言に、耐え切れなくなった神々が爆笑した。
「わ、笑うなああああああっ!」
だが、いくらかのさざめきは失せたものの、大笑いは中々消えない。その一団に混じる竜神は、大きな顎をぱくりと開けて遠慮の無い破顔を見せていた。
「ふあははははははは、これは愉快な、ははははは!」
「何がおかしいっ」
「お仕着せのおもちゃを与えて何をしているのかと思えば、そなた、勇者ではなく道化を育てていたと見える」
『畜生っ、使えねぇっ! クソネトゲのカスタマーレベルかよ!』
「おうおう。あの勇者も色々と苦労しておるようだな。そういえば、儂の方もメンテ時間がそろそろ終わるころか」
妙な親近感を覚えたらしい竜神は、手元の板切れ相手に何かをし始める。
完全にバカにされている。皆で自分を晒し者にし、その醜態を笑おうという魂胆だ。
「こ……これで満足か、我が不貞の妹よ」
「はて、何のことでございましょうか」
「私を笑いものにして、満足かと言ったのだ! ならばこの座興、今すぐに閉じよ!」
「何か、お心得違いをなさっておられるようですね」
それまで晴れやかな笑顔を浮かべていた妹は、その顔を凪いだ無表情に変えた。
「私は兄上を笑いものや晒し者にするために、この場を設けたわけではありませぬ」
「ではなんだというのだ! こんなものが我らが婚約の儀だとでも!?」
「今、我々は何をしているのでしょうか。確かに、おわします神々には、単なる座興でありましょう。ですが」
睨むでなく、見つめるでなく、ちらりとだけ。
サリアはこちらに視線を投げた。
「我らが行いしは決闘。己の世界と、命をやり取りする場、そうではありませぬか?」
「まさか……そなた、そなたは……」
本気で自分に勝つ気でいるのか。
「バカな、そんな……」
愕然とするゼーファレスの目に、地上の姿が映る。狼狽した勇者は、それでも剣を引き抜き、コボルトとの間合いを詰めようとしていた。
「そ、そうだ! そのような魔物! 早く斬れ! 斬り殺せ!」
だが、声は届かない。
約定という縛りは、水鏡の向こうへの干渉を完全にさえぎっていた。
浩二はもう一度、状況を反芻していた。
目の前にいるのはコボルト、この世界でも最弱に位置する、ゲームで良く見るモンスターだ。弓を武器に相手を毒状態にする攻撃と、武器と防具の力を上げる特殊能力を使う。
こんなに簡単にまとまる話だ、ゲームであっても序盤で苦戦する程度の強さ。それが、いつの間にか仲間達がやられ、自分ひとりになっていた。
「ま、まさか、負けイベントとか、そういうんじゃないよな」
それは二重の意味で考えにくい。目の前にいるのは女神の配下だというし、あの見栄っ張りのカミサマがそんなイベントを飲むはずが無かった。
「どうした勇者、俺、怖いか」
「そんなわけあるか!」
とはいえ、侮れない相手ではある。さっきの戦法を維持するために、コボルトは崖から離れず、足元に鎧の背当てを置いている。
「なら早く掛かって来い。でないと、仲間死ぬ」
「く……」
これが普通のゲームなら、他のパーティメンバーが死んでもリスポーンで済む。しかしカミサマは言っていた。仲間の補充など、いくらでもできると。
「俺の弓、遠くまで届く。騎士、魔術師、あと一発で死ぬか」
コボルトの一言に、浩二はようやく悟った。相手が自分を脅迫していることを。
「お、お前の狙いは俺だけだろ! なら、俺を撃て」
「嫌だ。お前に俺の弓、効かない。その代わり、お前の仲間、殺す」
「こ、この……!」
相手の物言いに、怒りがこみ上げる。自分に敵わないからといって、他のメンバーを執拗に攻撃し、殺しに掛かってくるなんて。
それまで、魔物を倒すのはただの仕事だと思っていた。
だが、こんな風に人の命を奪おうとする卑怯な存在が魔物だというなら、絶対に許すことはできない。
「なんか、今更だけど、お前らを倒さなきゃいけないって訳が、わかった気がするぜ」
剣を構えなおし、間合いを詰める。
魔法はこの状態では避けられる、となれば剣で斬るか。
だが、魔物は弓も構えてこちらを警戒する。
「あれ、やってみるか」
剣を構え、腰を落とす。一応練習だけはしてきたが、実戦で使うのはこれが最初だ。
コボルトは剣に集中している、この前の砦の時と同じ方法で避けるつもりに違いない。
これが決まれば一撃で終わる。
「いくぜ!」
勇者は走り出した。
その視界になぜか弓をしまうコボルトの姿。
何かがおかしい、だが止めようと思った足は急には止まらない。
その時にはもう、相手が投げつけた何かが、自分の壁に激しくぶち当たっていた。
障壁に当たった袋が、ばふっと音を立てて中身を飛び散らせる。もうもうと上がる白い煙の中で、勇者は激しく咳き込んでいた。
「がはっ! げへっ、な、なんだこれ……ぶはあっ!」
「それ小麦粉。毒違う、お前の壁、さえぎらない!」
「く、くそっ、目潰しかよ!」
小麦粉の霧はあっという間に晴れる。だが、その時には、シェートは崖の上に登りきっていた。
「勇者、おまえよわっちい! 怖がって損した!」
「なにぃ!?」
「俺、お前の仲間苦しめた。お前、自分の仲間守れない、弱い勇者、殺す価値ない!」
「て、てめぇっ! 『貫け、ゼーファント』!」
怒り狂った勇者が魔法を放つ。それにあわせて大木を背に、楯を構えた。
再び金属音が木霊し、魔法が完全にさえぎられる。
「そ、それはっ」
「騎士の楯。錆びてる、けど使えた」
とはいえ、外張りのかなりが錆落ち、内側の木もずたずたに裂けている。ガラクタを放り出すと、シェートはぺろりと舌を出した。
「悔しい思うなら、追って来い、間抜け勇者」
背を向けると茂みに身を隠す。その下で、完全に頭にきたらしい勇者の絶叫が辺りを震わせた。
「ぶっ殺してやる! 待ちやがれこのクソモンスター!」
『昇ってくるぞ』
サリアの声に頷き、耳を澄ませる。
下から崖をよじ登る音、それが次第に近づいてくる。ゆっくりと後ずさり、いつでも逃げられる構えを取った。
「どこ行った!?」
「ここだ! インチキ勇者!」
わざと全身を見せ、それから斜面を走り出す。すでに魔法は打ち止めになった、剣の間合いにさえ入らなければ、攻撃を喰らう心配は無い。
「くそっ! 待ちやがれ!」
斜面をジグザグに動きながら、勇者を引き離さないよう速度を落として走る。殺気立った目で追う蒼い鎧は、まっすぐ最短距離を通って追ってくる。
その様子に、シェートは心から安堵した。
「サリア、これでわかった。あいつ、山知らない」
『ならば、計画通りにできるな』
山を知っているものなら、目的地を目指して一直線に昇ったりはしない。体力の損耗が激しく、長時間獲物を追うのには向かないからだ。
一番の心配事だった『勇者の素質』も、これで見極めた。コボルトは確信を胸に、木々の合間を抜けて岩を駆け上る。
後を追う勇者もかなりの速度で追ってくるが、息を切らし、疲労の色を濃くしている。
尾根を回り、斜面を登り、森の下生えを抜ける。
街道が遠ざかる、勇者が仲間から遠ざかる。
そして、シェートは足を止めた。
「はぁ、はぁ……どうした、鬼ごっこはもうおしまいか!」
汗びっしょりの顔で、それでも剣を引き抜いて威嚇する。対してこちらは軽く息継ぎをすると、いつもと変わらない調子になり、向き直った。
「ああ。おにごっこ、もうおしまい」
「なら観念しやがれ。この剣でお前をばらばらに切り刻んでやる」
「その前、一つ言いたいこと、ある」
「死ぬ前に念仏でも唱えたいのか?」
相変わらず勇者の言うことは訳が分からない。とはいえ、自分は自分のやるべきことをするだけだ。
シェートは、教えられた言葉を間違いなく復唱した。
「『女神サリアーシェ、の、名に、おいて、お前に、決闘、申し込む』」
「お、おまえ、なに言って……」
たどたどしい発音。だが効果は発揮された。
全身の毛が総毛立つような、巨大な力が世界を覆っていく。枝に止まった鳥達が一斉に飛び立ち、どこかで地の獣が異常に鳴き声を上げる。
同時に世界にまばゆい光が降り注いだ。それは白く輝く光の壁になって、日暮れかけた山々を駆け抜けていく。壁は見える限りの全てを、ぐるりと囲んだ。
そしてシェートは感じた。自分と勇者が、異質な世界に放り込まれたことを。
『良くやった。これで檻は完成したぞ』
サリアの言葉は力強い。
彼女の後押しに頷き、最弱の魔物は最強の勇者に言い放った。
「俺、これからお前、狩る」