15、予兆
竜神からの返信は、スレッド落ちギリギリに間に合っていた。
978:名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/07/15(水) 23:25:22.01 ID:tnahc/8v
>>814
連絡遅杉
お返しは下のアドレスな
こちらが掲示板に書き込んだ直後から、色々と準備していたらしい。情報提供のお返しに送られてきたデータは、意外なほど大きかった。
デスクトップに落とされた圧縮ファイルを眺め、執事に問いかける。
「通信回線とか、こっちから切るのはできるかな」
「では物理的に遮断してしまいましょう」
デスクトップからケーブルが引き抜かれると、フィーは解凍を行った。
中身は、スマホ用のアプリが二つと、指示書と書かれたテキストデータが一つ。指示書のスクロールバーは、かなり長いものだった。
『フィアクゥルへ
そちらから送られたデータ、非常に有意義だった。
協力者の執事殿にも礼を言っておいてくれ。
早速だが、そなたには端的に指示を送る。
大至急、シェートの身柄を確保し、魔王の影響下から離せ。
長時間の接触によって、彼の精神が変容をきたし、歪みを生じている可能性がある』
「な……なんだ……これ」
文面から伝わる切実さに、息が詰まる。
精神の変容とはどういうことだろう、魔法的なものか、それとも拷問か。
不安に駆られながら続きを見ると、竜神の逼迫した気配は、更に強まっていった。
『また、出来うる限り魔王城内のマップを調査し、輪郭を描いてきてもらいたい。
そちらから送られた情報を見る限り、その城にはまだ数多くの秘密が隠されている。
今後の冒険に、いや、神々の遊戯自体に、多大な影響を及ぼしかねない物がな』
こちらから送ったのは、城内の通路やこの館の景色の画像、それに"ただたかくん"で作成したダンジョンマップだ。
そういえば、作成されたマップでは十数階がカウントされていたが、大抵は階段やエレベーターの位置のみで、何が置かれているか分からないフロアが大半だった。
しかも、全ての施設が中心から遠ざけられ、その部分だけ真っ黒になっている。
「つったって、他にはトラップ地帯とか、敵がいっぱいのエリアぐらいしか、無いと思うけど……」
フィーは視線を上げて、黙って立ち尽くす執事を見た。
「さすがに、この城の構造とかは、教えてくれないよな?」
「申し訳ございません。そのような行為は、職分を超えますもので。お断りさせていただいております」
「分かった。ありがと」
『一応、儂の予測を伝えておく。
城の上層部に魔王の研究所やプライベートエリアが集中している以上、
生活物資や発電施設、情報管制室などは中央の未踏査部分に隔離されておるはずだ。
そして、通常の迷宮からでは進入できないような構造をしているだろう。
裏口や隠し扉、特定の鍵を持つものだけに許された場所だ。』
「そんなもん、どうやって進入すりゃいいんだよ……」
『ぼやくな、ここからが本題だ。同梱したアプリを確認してみろ』
まるでこちらのリアクションを図ったような文面。苦笑しつつ、フォルダの中のアイコンを確認する。
『一つは、あらゆる電子機器に干渉・操作を可能とするハッキングアプリ、
"盗賊の七つ道具"
もう一つは、他人のスマートフォンに偽装できる、スプーフィングアプリ、
"多相偽称"
どちらも、城内の行動で役立つはずだ。』
文章に添付された参考リンクをクリックすると、アプリのマニュアルが起動する。
ハッキングツールは、パソコンやスマホだけでなく、入出力装置のあるデバイス、たとえば電子ロックや赤外線で作動するスイッチなども、短時間なら制御できるらしい。
成りすましのほうは、未使用のスマホならあたかも本人が使っているように使用ができると書いてある。ただし、シムカードの個体情報が無ければだめなようだが。
「なにこれ怖い」
現実に流通したら、犯罪行為がまかり通りそうな代物だが、竜神特製のスマホとプログラム技術の為せる奇跡なので、あまり心配することもないだろう。
『重要施設になればなるほど、電子的なロックが使われる可能性が高い。
シムカードの情報については、"七つ道具"の機能で直接盗むことも可能だ。
情報が集まり次第、こちらからも転送する。』
まるで、電子ロックが当たり前のような解説に疑問が沸く。こういう世界なら、魔法で施錠したり、封印したりするほうが一般的なはず。
「いや……そっか。この世界じゃ、逆がいいのか」
魔法によるロックなら、この世界の技術でも解ける。しかし、電子的な鍵では、この世界の住人には手も足も出ない。しかも魔法を解さない仕掛けだから、感知することさえできないのだ。
『"盗賊の七つ道具"は"ただたかくん"とリンクしている。
マップ上の電子ロックや隠し扉が表示されるようになっているはずだ、うまく使え。』
アプリの機能が分かってくるにしたがって、フィーは気分が高揚するのを感じた。
今までは闇雲に逃げるだけだったが、このアプリがあれば行動範囲も広がるし、敵を出し抜くこともできる。
『最後に、
現地時間○五○○を以って、魔王城内の情報施設に対し電子戦を仕掛ける。
それにあわせ、そなたも行動を開始せよ。
行動の優先順位は以下の通り。
1、サリアーシェの勇者、シェートの身柄確保
2、魔王城内の軍事、戦略情報の奪取
3、城外への脱出法の入手、および脱出
4、星狼グートの身柄確保
※1を最優先事項とし、2、4、については状況に応じて可否を判断せよ。
ミッション達成後、3を最優先に再設定すること。
1が達成困難と判断された場合、速やかに3を実行すること。
ミッションコードは【Operation Day Break】とする。
そなたの働きに期待する。』
文章を読み終えると、フィーは頭の中で内容を思い描いた。
もちろん完璧に思い出せたが、納得がいかない部分もある。グートの優先順位が低くなっているのは、いざと言うときは見捨てて逃げろ、という無言の命令だ。
最悪の事態はシェートが「救えない」場合だが、そんなことは考えたくも無い。
「分かってるよ。それも含めて、俺が判断しろってんだよな」
残ったデータを完全に消去し、セーフモードに切り替える。
時刻はすでに十二時を回っていた、作戦開始まで時間が無い。
「執事さん、色々ありがとな。俺、用事ができたから、朝早く出るよ」
「承知いたしました。大したおもてなしもできなかったこと、非常に名残惜しゅうございますが、いたし方ございません」
「なに言ってんだか」
"盗賊の七つ道具"を起動させると、現在操作可能な機器の一覧が表示された。
パソコンを指定し、電源を切るように命令を送る。
操作通りに目の前の機械が沈黙すると、フィーは納得して背筋を伸ばした。
「お疲れのようですが、飲み物とお夜食でもご用意いたしましょうか」
「んー、そだな。仮眠も取っときたいけど、少し腹が減ったし。お願いするよ」
間をおかず、メイドたちがワゴンを押して中に入ってくる。
銀色のポットに手回しのコーヒーミル、どうやら今度は淹れたてのコーヒーを飲ませてくれるらしい。
豆を挽きながら、執事は物柔らかく話を始めた。
「少々、お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「なに?」
「早朝にお立ちになる、と仰られていましたが、その後、どうなされるのですか?」
ハンドルが回るたびに、ことこととミルが呟き続ける。丁寧に砕かれていく豆から漂う香ばしい匂いが、静かな夜に広がっていく。
「とりあえず、シェートを助けに行くよ。魔王と一緒に居るらしいから、出し抜くのは大変だろうけどな」
「詳しくは申せませんが、大変困難な道のりであることは確かでございます。おそらく、休息も休憩もままならない事態であると、お考えください」
「だよな……」
うまい具合にこの館に逃げ込めればいいが、そんなことを魔王が許すはずが無い。
シェートとグートを助けて、一気に脱出する方法を見つけたほうがいい。
「コーヒー入れるのって、そんなに手間が掛かるんだな」
執事は銀色のポットを手にして、サイフォンの中に納まった豆にお湯をかけていく。
表面に細かな泡が立ち、何度もお湯を染み込ませていた。
「ドリップ方式は、主に香りを楽しむための飲み方でございます。反対に、サイフォンは豆自体の風味を抽出し、味を楽しむために用います」
ぽたぽたと落ちていく漆黒の液体が、下のデカンタにたまっていく。その香りを嗅いでいるだけで、疲れていた脳の働きが癒されていくように思えた。
「少々、夜半に頂くには香気が強いかと存じますが、今後のことも含め、英気を養っていただければと」
「眠気覚ましにはちょうどいいかもな、って、これなんだ?」
コーヒーと共に目の前へ出された皿には、薄く焼かれた生地に、具を包んだもが載せられていた。
四角く折りたたみ、中央の開いたところから、チーズやハムが顔をのぞかせている。
「ガレットです。クレープの一種と考えていただければと。ただ、生地は小麦ではなく蕎麦を使用しておりますが」
「はぁー」
添えられた銀器で切り分けながら、湯気の立つそれを口に運ぶ。
トマトソースとそば粉、熱々のチーズと噛むほどに味が染み出るハム、そしてかすかにピリッとする味を感じた。
「コショウじゃないな、なんかちっちゃい種みたいなもんが」
「隠し味にフェンネルシードを少々。消化を助ける作用があるとされ、古来から用いられた香辛料の一つでございます」
「そっか……」
おそらく夜食と言うことで、胃に優しいものをと考えた結果だろう。細やかな気遣いに感謝すると共に、自身の新たな変化を、フィーは明確に意識していた。
「ここの料理食ってて思ったんだけどさ、俺、味に敏感になってるみたい」
「竜種の知覚力は、地上のあらゆる生き物を凌ぐと言われております。それは幼生のドラゴンであろうとも同様なのでしょう」
執事の指摘に、仔竜はあることを思い出していた。
「五感っていえばさ、執事さん、これどういう意味か分かる?」
"ステータスチェッカー"を起動させ、実績画面を表示すると、例の不思議な表示の部分に、新しい実績が解除されていた。
「ほら、ここんとこに、似たようなのが並んでるじゃん。今、舌なんとかってやつも解除されてんだけど」
「拝見します。ほお……これは……なるほど」
内容を確かめた執事は、空になったガレットの皿を下げつつ、解説をしてくれた。
「それは"耳識""鼻識""舌識"と読みます。本来は仏教用語で、人間の持つ感覚を指すのに用いられる言葉です」
「ぶ、仏教?」
「はい。感覚と申しましても、西欧科学文明で言うところの、肉体に備わった感覚器、神経組織を指すのではなく、人間の魂に影響を与える機能という意味を持ちます」
魔王の城の中、羊の姿をした執事が語るには、あまりに異様過ぎる話題。
それでもフィーは、真剣に"角"を傾ける。
「人間の本質である魂には、六つの感覚が備わっているとされます。それが"眼識""耳識""鼻識""舌識""身識""意識"の六識です」
「意識って、あの意識?」
「フィアクゥル様の仰る「意識」は、人間の情動が連続して、世界を感覚し続けるという意味の外来語に"訳語"として当てられたものです。本来的には少々意味が異なります」
「おおう……」
いくらドラゴンの肉体をもらったとはいえ、元は勉強も苦手な高校生にとって、宗教関連は難しすぎる。
そんなこちらに気が付いたのか、執事は部屋の隅から大きめのスケッチブックを取り出してきて、図解を書き始めた。
「人間の魂とは、外部の刺激を受け、世界と自分自身を区別していきます。そして、その刺激によって魂の、心の在りようが変わる。ここまではよろしいですか?」
「それなら、なんか分かる気がする。俺もここ最近、感覚が変わったせいか、色々見えたもんもあったし」
「仏教の一派において、そうした識の本質を六根と称し、それぞれの根を清浄にすることで悟りの境涯を求める、という理念があります」
スケッチブックには人型が描かれ、目、耳、鼻、口、触覚といった五感が書き加えられていく。
「フィアクゥル様の考えておられる"意識"は、身識に当たります。自分が触れるもの、あるいは自分に触れてくるもの、暑熱寒冷、乾湿、疼痛、そうした刺激による、外部から触発されたものです」
「じゃあ、本来の意識ってのは、どういう意味なんだ?」
「仏教においては、法を求める精神、正道を歩もうと希求する自発的な情動、とでも言うべきものを指すのです」
フィーは手元のスマホを眺めた。
いったいどんな理由で、おっさんはこんな実績を設定したんだろう。
「これ、どういう意味があると思う?」
「さあ……わたくしには何とも。ただし、このまま六識が開かれていくなら、フィアクゥル様にも何らかの変化がある、と思われます」
「やっぱ、そうなるよな」
悟りを開くために必要なものというなら、そういう結論に達するしかない。
「でも、執事さんの説明通りだったら、"意識"なんて絶対開放できないよ」
「それは、どういうことでしょうか」
「俺、仏教なんて、ばぁちゃんの葬式の時、うろ覚えにお経唱えたぐらい……っ!?」
うっかり、素の自分が出ていた。
あわてて口元を押さえるが、執事は驚きに目を見開き、納得したような顔をした。
「ご安心ください。この場において話されたことは、わたくしの胸の内に、すべて留め置きますので」
「う、うん……そうしてくれると、助かる」
「なるほど。それで得心が行きました。フィアクゥル様は、竜種と言われる割には、少々以上に人がましいと、お見受けしておりましたので」
「そ、そういう執事さんこそ、良く仏教とか知ってるよな」
動揺を隠すように軽口を叩くと、黒い手が書棚の中にある本を指し示した。
「お客様をおもてなしさせていただくにあたり、肉体的なケアだけでなく、精神的な救難に関しても、見識を広めさせていただいておりますもので。仏教はもとより、さまざまな宗派習俗、精神医学なども修め、心の平安にもお役に立てればと、学び続けております」
「いくらなんでも万能すぎだろー、執事最強か」
新しいコーヒーを入れなおしながら、彼は笑顔で首を振った。
「わたくしも、まだまだ精進の途上でございます。そうそう、フィアクゥル様は、悟りなど縁遠いと仰られましたが、そうとも申せません」
「……なんでさ?」
「悟りとは、小さな気づきの延長にある、とも言われております」
今度はミルクと砂糖の入った、甘めの一杯が出された。
「先ほども仰られていたはずです。感覚が鋭くなり、色々分かるようになったと」
「それが、悟りなのか?」
「眼、耳、鼻、舌、身の五識がよく働けば、そこから新たな知恵が積み重なり、物事の理を解しやすくなります。そして、"意識"が揺り動かされ、世界のありようを感得できるようになる、とも言われております」
確かに、自分はここに来るまで、たくさんの経験をしてきた。鋭くなった感覚に助けられたことは、一度や二度ではない。
「もしかして、悟りって、そんなことでいいのか?」
「そのご質問に、肯定を差し上げることはできかねます。六根清浄、という言葉を示唆するのみに留めさせていただきましょう」
「……難しく考える必要は無いけど、ちゃんと考えろってことかな」
満面の笑みで頷いた執事に、フィーはもう一度、実績画面を見直した。
すでに三つの識が解放されてるが、『意』はともかく、いまだに『眼』と『身』が開放されていない。
「俺、結構目も使ってきたし、皮膚の感覚だって鋭くなってきてるんだけど、なんで開放されないんだろう」
「……おそらく、その二つの識は、意識との断裂が起こりやすいためでしょう」
もこもこした自分の身体から、一筋の毛を抜き取ると、執事はそれをフィーの目の前に突き出した。
「失礼して、わたくしの毛で示させていただきます」
「これが、何だって?」
「フィアクゥル様、右手をご覧ください」
気が付くと、そこには一本の毛が置かれていた。執事の手の中には、まだ羊毛が残っている。手先に気を取られている隙に、別の毛を乗せたのだろう。
「いつの間に……」
「では、目を閉じていただけますか」
言われたとおりに視界を塞ぐ。同時に、角や鼻、皮膚の感覚が明確になっていく。
物音はしない、衣擦れさえ感じ取れないほどのささやかな動き。
だが、青い仔竜の肌は敏感に、一筋の毛が虚空を漂い、手に触れたのを感じていた。
「今……一本、追加したよね」
「ご明察です。そして、それが身識を働かせることと、その難しさを現しています。最も強い"目"の働きを抑制することで、ようやく一つの識としての理解が及ぶのです。では、目を開いてください」
指示通りにすると、そこには真っ白な毛並みの羊が立っていた。
服装は似ているがさっきと別人、いや別羊に見えた。
「え、っと……執事さん、だよね?」
「はい。色が違えども、わたくしはあなたがご存知の執事です。ですが、フィアクゥル様の『目』は、それを瞬時に見定めることができなかった」
そのまま色が元に戻り、黒い羊は自分の眼を指し示す。
「視覚の恩恵を受ける生物は、それを絶対のものと、疑わずに生きております。しかしながら、目はたやすく欺かれ、物の本質を映すとは限らない。ただ使うだけでは"眼識"には至らないのです」
「つまり、身識も眼識も、特別に意識しないとだめってことか」
「そのようなことであると思われます。おそらく、眼、身、意の三つの識は、ほぼ同時に開眼なさるでしょう」
説明は理解したが、いまいちピンと来ない。もう少し調べておきたいところだが、今日明日に解除できる見込みはなさそうだ。
「とりあえず、参考になったよ。ありがとな」
「それでは、厨房係に明日の朝食と、弁当を命じてまいりますので、席を外させていただきます」
「うん。俺はこのまま寝ちゃうから、後よろしくね」
「かしこまりました」
すでに時間は一時を回ってる、作戦開始まで時間が無い。
そのまま書斎を出ると、フィーは自分の部屋に戻り、ベッドの上で丸くなった。
夜気が薄れ行こうとする刻限に、仔竜は自然と目を覚ました。
一分前に迫ったアラームを解除し、部屋をでる。外ではメイドを従えた執事が、静かに待っていた。
「もしかして、寝ずに作業してたの?」
「少々、休憩を取らせていただいたので問題ございません。それより、すぐに厨房へご案内いたします」
廊下を歩きながら、黒い手の中にあった鞄が差し出される。
「中にはいくつかの道具と水筒、サンドイッチが入っております。液漏れが無いよう、具材はチェダーとパストラミ、フライドベーコンとオニオンの二種類で作らせていただきました。水筒の中身はコーヒーですので、お飲みになられる際、やけどにお気をつけて」
弁当以外にも小さなナイフやロープ、医療キットなどが几帳面に入れられている。ちょっとしたサバイバルキットだ。
そして、厨房の作業台には、三角に握られたおにぎりが、湯気の立つ湯のみと一緒に置かれていた。
「え、おにぎり? マジで?」
「具は鮭と昆布に梅干。頭のところに小さく具を載せてありますので、苦手なものがおありでしたら、そこでご判断ください」
海苔の香りを漂わせた、作りたてのそれを両手で持つと、一気にかぶりつく。
ぱりぱりという音と共に、じんわりとあったかい米が舌に感じられ、甘すっぱい梅干の味が、じわじわと唾を湧かせた。
「はぁー、マジで感謝だよ。やっぱ、敏感になっても俺、こういう単純な味のほうが好きみてぇ……」
「わたくしも、今日まで身につけてきた知識と技術を、十二分に使う機会をおあたえくださったこと、心より感謝申し上げます」
脂の乗った塩鮭をむさぼり、昆布の甘みをしめに、全てのおにぎりを平らげると、お茶をすすって一息つく。
「ほんと、うまかったよ。ありがとう」
「わたくしは己の職分を全うしたに過ぎません。ですが、そう言っていただけたことは、生涯の誇りとさせていただきます」
執事は厨房奥のエレベーター歩み寄り、ドアを開けた。
「館からの出口は、そのまま迷宮の入り口でございます。急を要する作戦とあれば、そのような回り道は、取るに値せぬはず」
「いいのかよ。荷物搬入エレベータ、なんだろ?」
「館の差配はわたくしに一任されております。今回限りの特例、ということで」
エレベータ前に置いてくれた脚立を上がり、カーゴスペースに入ると、鞄を体にくくりつける。作戦開始までは、あと十分ぐらいだ。
「おそらく、わたくしの行動を予測し、厨房には番兵が置かれているでしょう。その対処については、フィアクゥル様にお任せします」
「分かった。後はちょうど五時一分前に、上に着くように動かしてくれ」
「かしこまりました」
ほんのわずかな猶予が、沈黙になって厨房に満ちる。執事は懐中時計で時間を計り、何気ない調子で呟いた。
「それにしましても、そのアプリをお作りになった方は、ずいぶん諧謔がお好きとお見受けしました」
「これ? うん、変な竜神のおっちゃんでさ。って、かいぎゃく?」
「ユーモアのセンスがおありになる、と申し上げましょうか。少々、自虐を含んでおられますが」
「なんで、自虐なんだ?」
手元の時計を見つめ、それから執事はそっと笑った。
「仏教において、竜とは『悟り得ざるもの』を意味するからです」
「な……なんで?」
「その身に備わる通力、優れた知恵が、悟りを得るために最も必要な"謙虚"を遠ざけるためと言われております。驕り昂ぶるがゆえに、大悟に至らぬ者。道を説かれ、教えを授けられたとて、決して真理には到達しえぬ者であると」
羊の顔はわずかな不安と、祈るような表情に満たされた。
「いずれ、フィアクゥル様は、【竜の六識】を開かれるでしょう。願わくば、それらの識が、あなたにとって最良の道を示すことを、お祈りしております」
羊の手がドアに掛かり、静かに下ろされる。
『最後に無粋を申し上げました。もしお許しいただけるなら、再びこの館にお出でになられた折、十全の歓待をお約束いたしますことを、お詫びと代えさせていただきたく』
この館に来てはじめて聞いた、執事のすまなさそうな声。
何か言おうと口を開きかけたとき、フィーは唐突に、竜神の言葉を思い出していた。
『それを知るために儂は、永き時を生きる現し身を捨て、神座へと昇ったのだ。あらゆるものを見尽くすべく、あらゆる場所に立つために』
「だ……大丈夫だ!」
かちり、とスイッチが入り、エレベーターが静かに作動する。モーター音が響く中、上に気づかれるのを承知で、フィーは叫んだ。
「おっさんも、そんなこと知ってんだよ! それでもずっと探してるって、言ってたんだから!」
『ゆえに、神々は儂をこう呼ぶのさ。"斯界の彷徨者"にして"万涯の瞥見者"とな』
そして、もうひとつ気が付いたことがある。
自分もまた、彼と同じように「探す者」となっていたことを。
先の見えない状況で、己が納得するための答えを探しているのだと。
「俺は、"斯界の彷徨者"で"万涯の瞥見者"の竜神が生んだ仔竜だ! だから、俺も、ちゃんと探すから! 心配すんなよな!」
聞こえただろうか、それとも距離の隔たりにかき消されただろうか。
心残りを覚えつつ、それでもフィーは、しっかりと前を見据える。
カーゴが止まり、ドアの向こうに群がる気配を感じる。
スマホの時刻表示が静かに秒を刻み、
「いくぜ、おっさん!」
青い仔竜は勢い良く、外へ飛び出した。




