12、知られざる楽園
フィーが通された客間は、驚くほど豪華だった。
起毛の施された絨毯に、ふかふかのソファー。レンガ造りの暖炉と、緑の庭が見える大窓が設けられている。
低いテーブルにはガラスの灰皿と、つぶれた円筒形の物体が並んで置かれている。少し考えて、それが卓上ライターであることに思い当たった。
壁紙はクリーム色で、薄い銀色で絡み合うつたや植物の葉がデザイン化されたものが描かれている。落ち着いた雰囲気で、いかにもどこかのお屋敷、という感じだ。
「そちらにお掛けください。ただいま、飲み物をお持ちいたしますので」
「あ、ど、ども」
執事と名乗った羊は、物腰も丁寧で害意を全く感じなかった。運搬用エレベーターから脚立を使って下に降りると、彼はそのまま客間に案内してくれていた。
「そういえば、まだお名前をお伺いしておりませんでした。ご尊名を頂戴させていただければ、この上ない光栄と存じますが」
「そ、そんなたいしたもんじゃないよ。えっと、フィアクゥル、です」
「フィアクゥル様、ですか。まさしく雷名、と言った所ですね」
「へ?」
執事は、失礼と断りながら、深みのある声で説明してくれた。
「あなた様のお名前は、竜語で"雷"あるいは"雷霆"を意味するのです。そして、誉れと共にその名を語られることを"雷名轟く"、などと表しますもので」
「あ、ああ。雷名と名前が雷で掛かってんのか……でも、おっさんはなんか"空を統べる者"とか言ってたけど」
「それは物事を形容する際の使い方でございます。多義語の種類が豊富であるのも竜語の特徴ですので」
そういうのも説明してくれれば良かったのに。そんなことを考えている間に、ドアがノックされ、黒い衣装を身にまとったメイドが入ってきた。
「あ、あれ? ゴブリンじゃ、ない? 人間、か?」
「いいえ。当館には、魔物も人も雇い入れておりません。彼女たちは自動人形です」
卵形の整った顔で、柔らかく微笑みながら、メイドたちはお茶の準備を始める。
動きは滑らかで、無駄な物音を一切立てることが無い。ポットに帽子のような布をかぶせ、小さな砂時計を置き、白地に青で彩色されたカップを丁寧に並べた。
「お客様がお出でになられると心得ていれば、ハイティーの準備などさせていただいたのですが、あいにく厨房の火を落としておりまして、まことに申し訳ございません」
すまなさそうに、羊の執事が頭を下げた。
この城は、本当にどうかしている。
空に巨岩を浮かべた、いかにもファンタジーな代物の中に、近代的な図書室やパソコンルーム、社員食堂まで造っていた。
その上、豪華な屋敷に執事だって?
「てか、あんたって、もろに駄洒落じゃん!」
もこもこで、二足歩行で、羊で、執事で。
そして黒かった。
「ふふ。お分かりになられますか」
なぜかうれしそうに、執事は笑った。
「以前、魔王様はこう仰られておりました。"いずれ、ここに勇者が来たあかつきには、お前の容姿と存在に、こぞってツッコミを入れるであろう"と」
「織り込み済みかよ! てか、そういう笑いを取りに来るのかよ、あいつは!」
いろんな意味で人を食った性格だ。分かってはいたが、こういう風にからかわれると、無性に腹が立ってくる。
だが、執事の言葉に妙なものを覚え、フィーは問いかけた。
「いずれ勇者が来たときに、って、ここに来ること前提なのか?」
「この城の構造として、そのようになっております。いかなる侵入経路であろうとも、この"セーブポイント"を通過するよう、設計されておりますもので」
「セ……ッ」
あんぐりと口をあけるフィーの目の前で、執事はポットから帽子を外し、笑った。
「程よく蒸れたようですが、フィアクゥル様、紅茶はどのように召し上がられますか?」
豪華な屋敷、躾の良い執事、湯気の立つ紅茶。
その一切を見つめ、仔竜は絶叫した。
「なんでセーブポイントがあるんだよおおおおおっ!」
真紅の液体に舌をつけ、フィーはぼやいた。
「ぜってー、驚かないって言ってたんだけどなぁ……」
執事は礼儀正しく、こちらから少し距離を置いて立っている。話しかけられなければ、自分からは口を出さないように言われているんだろう。
「あのさ、ほんとにここ、セーブできるの?」
「申し訳ございませんが、当館にそのような機能は備わっておりません。"セーブポイント"とは、あくまで勇者様方に馴染みがおありになる概念に則って、名付けたられたものでございます」
「あ……ああ、そうか。あれだ、ラスボスのダンジョンとか、途中に宿屋とか物売ってくれたりとかする人がいる奴だ」
執事はにこにこと頷いてくれる。まさかこんなものまで再現しているとは、魔王の研究ぶりは笑ってしまうほどに正確だった。
「ってことは、ここに来るまでに、ものすごいトラップとか、めっちゃ強い中ボスとか、わんさといるわけだ」
「然様でございます。当館では、そうした戦いで損耗された勇者様方に、地上の商品レートを参照に、日用品や食料品などをご購入いただけるよう、日々、整備管理を抜かりなく行わせていただいております」
上のゴブリンの仕事ぶりを考えれば、執事の言葉も本当だと理解できる。
とはいえ、その奇妙さは、一層フィーに苦笑いを浮かべさせた。
「至れり尽くせりだなぁ。でも、考えてみりゃ、ゲームのほうがおかしいんだよな。ラスダンに回復ポイントとかあるって、なんで敵がそんなの許してんだよ」
「僭越ながら、それはゲームというものに対する思考や、一般的に求められるもが変化してきた、という点に集約されるものと、愚考いたします」
「……楽して、必ず勝てるようにして欲しい、ってことか」
口にする推論は、自然と苦いものになった。
ゲーム内の障害は、プレイヤーを楽しませるためにある、それが常識だ。
おそらく大抵の勇者は、この奇妙な施設を、疑いながらも受け入れてしまうだろう。
神の勇者がやっているのは、あくまでゲームの延長なのだから。
「ゲームというものは、基本的には慰撫が目的とされます。すなわち"暇つぶし"あるいは"快感を得るためもの"。その要諦が"難題を克服する"から"一定の流れを楽しむ"に移っただけのことです」
「でも、この世界は、現実なんだ。ゲームじゃない」
羊の表情が、驚きに変わった。それから、ゆっくりと頷いた。
「フィアクゥル様、あなたは、どうしてこの城にお出でになられたのですか?」
「それは、その、シェートと一緒に、魔王に連れさられて……」
そこでカップを一口すすり、その深みのある味わいに、そっとため息をついた。
紅茶なんて、安物のティーバッグか、ペットボトルのものしか飲んだことが無かった。
しかしこれは、そのどれとも違う。
抽出された茶葉の滋味が、真紅の液体に満ちている。茶の葉特有の渋みと、発酵させることで生まれる香り、喉を過ぎると同時に、舌の上で甘みにも似た味わいが広がった。
「紅茶って、もっと水っぽいもんだと思ってたよ」
「それは抽出が甘いか、お湯が適正な温度でなかったか、あるいは本当に薄めているか、そのいずれかだったのでしょう」
空になったカップに、新しい香りが注がれる。液体は濃い真紅から、くすんだ夕暮れの色合いに変わっている。
「少々、抽出が進んでしまったようです。ここからはミルクなど入れて、別の味わいをお楽しみいただいてはいかがでしょうか」
「あ……はい」
気が付けば、湯煎された小さな器からミルクが注がれていた。カップはキャラメルのような色合いに変わり、本当に甘い香りが立ち上ってきていた。
「紅茶に含まれるタンニンは、香りや味わいに重要な役割を果たしますが、過ぎれば舌に不快な痺れを残し、心地よさを損なう場合がございます。一般的には、アッサムやキームン、ヌワラエリヤなどがミルクティーに適すると評されますが、濃く出してしまったダージリンなどを用いるのも、楽しみ方のひとつとして、ご提案させていただきます」
「はあ……」
促されるまま、ミルクティーを口に運ぶ。
その味はやわらかく、茶葉の渋みがうまく隠れて、別の面白い香りに変わっていた。
「今まで、飲むんならコーヒーかと思ってたけど、こういうお茶なら、毎日飲んでも良いかもな」
「お褒めいただき、光栄の至りです。この世界の産ではありますが、本場の三大茶園にも伍するものをと、研鑽を重ねております」
「いや、これ、ホントにうまいよ。ってか、この世界はこの世界なんだから、別にあっちが本場とか、関係ないでしょ」
執事の顔はさっきよりも深い笑みになった、ように見えた。
羊の表情なんて、じっくり研究したこともないから、分からないが。
「卒時ながら、フィアクゥル様は、とても感性が鋭い方とお見受けしました」
「そっか? 俺って、結構鈍感とか、抜けてるとか言われてんだけどな」
「然様でございましたか。申し訳ございません。竜種の何を以って、優れたるかを推し量るなど、不遜でございました。未だ至らぬ身ゆえの言上、どうかご容赦ください」
本当に、礼儀が服を着て歩いているような存在だ。
とはいえ、毎度こんな風にかしこまられては、こっちが窮屈になる。
「あのさ、あんまり礼儀とか、こだわんなくていいよ。そんなに下手に出られると、かえって話しづらいって」
「……分別過ぐれば愚に返り、礼過ぐれば諂いとなる。心に留め置きます」
なにか勝手に納得すると、執事はそっと頭を下げた。
「それは良いんだけどさ、なんで俺の感性が鋭いとか思ったわけ?」
「フィアクゥル様は、この世界における勇者のありように、疑問をお持ちであると、お見受けいたしましたので」
「それだけで?」
「その後、わたくしが供させていただいた紅茶を、"この世界のもの"として、評価をくださいました」
あっという間に空になったカップを、オートマタが静かに運び出していく。その動きを眺めやりながら、執事は続けた。
「勇者を知りながら、その存在を無条件に称揚せず、わたくしどもの、行いそのものを褒めてくださった。そうしたご芳情と理解の深さを、鋭いと評させていただいたのです」
「俺って、ちょっと訳ありでさ。あんまり勇者とか、納得してないんだ。それと、この紅茶がうまいのは事実だから、変に比べんのもやだったし」
「恐悦、至極にございます」
そこで話題を切ると、執事は少し熱意をこめた目で、フィーを見つめた。
「ところで、今宵はどちらかにご逗留の予定がおありでしょうか?」
「とうりゅう、って、ああ、泊まるとこ? そんなもん、あるわけ無いじゃん。上から逃げてきてたんだし」
「でしたら、ぜひ当館に、今宵の宿を、お求めくださいませ」
さっきまでの冷静さは鳴りを潜め、捨てられた子犬が擦り寄ってくるような、必死のアピールが全身からあふれてだしている。
たぶん悪い奴ではないだろう、そう判断すると、フィーは頷いた。
「分かった。それじゃ……今日はお世話になるよ」
「ありがとうございます。でしたら、今宵の晩餐はいかがいたしましょうか。腕によりをかけ、ご用意させていただきます。和、洋、中は言うに及ばず、イタリアンやスペインのタパス、トルコ料理もお出しできます。ご用命いただければ、東南アジア諸邦のエスニックも対応が可能です。北米や中米の肉料理などは、ボリュームの点で他の追随を許さないでしょう。または、ケイジャンやテクス・メクスなども目先が変わってよろしいかと存じます。これら以外にも、当館では季節や習俗の是非を問わず、あらゆる美味佳肴を――」
思わぬハイテンションぶりに、フィーは理解した。
こいつは勇者が来るのを、ずっと待ってたんだろうな、と。
「あー、いろいろ上げてもらって、悪いんだけどさ」
「……これは失礼を。そういえば、アレルギーや苦手なものは、ございますでしょうか」
「それは大丈夫。んで、さ」
たぶん、執事が例に挙げてくれた料理は、どれもきっとうまいんだろう。
それでも自分は、今強烈に、あれが食べたいと思っていた。
「カレー……って、できる?」
「カレー……で、ございますか」
「だめ、かな?」
満面の笑顔で、執事は頷いた。
「確かに承りました。最高の一品をご用意させていただきます」
「おお~!」
「ところで、フィアクゥル様に、お伺いしたいのですが」
そして、笑顔のまま、尋ねてきた。
「どの国のカレーを、ご所望でしょうか」
夕飯ができるまで、フィーはあてがわれた一室の中で過ごしていた。
窓から見える景色は、夕暮れの庭園だった。きれいな芝生や緑の木々や、岩天井に投影された仮想の空のおかげで、外にいるのと変わらない。
自分がいる部屋も、かなり豪華な調度で飾られていた。
天蓋つきのベッド、彫刻が施されたナイトテーブル、客と談笑する時に使われる丸テーブルと椅子、壁には美術の教科書で見た覚えのある、有名画家の絵画が掛けられていた。
「これが勇者用の部屋、ねぇ」
このエリアには、魔王は絶対に入ってこないらしい。セーブポイントは基本的に不可侵であり、全ては執事の権限に任されると。
晩餐の注文を聞き届け、使用人達に命令を飛ばす執事の姿はとてもうれしそうで、邪気など微塵も感じられなかった。
普通に考えれば信じられない話だが、資料室での追いかけっこを経験した後では、ごく当たり前の事実だと思えた。勇者がゲーム的にこの世界を見るなら、魔王もそう心得て対応する、ということなのだろう。
魔王の凝り性は正直、頭がおかしいレベルだ。
「じゃあ、あいつは、本気でゲームの魔王になろうとしてるってことなのか?」
もちろん、そんなことは無いだろう。
そうでなければ、ゴブリン達をあんな風に教育する意味が無い。このセーブポイントにも、隠された意味があるはずだ。
「そういやベーデ……どうしてっかな……」
魔王に連れて行かれたゴブリンの牢番を思い出す。初めは利用するだけのつもりだったが、なんだかんだで情が移ってしまった。
「ごめんな……」
連れて行かれる前、取調べを受けさせると魔王が言っていたから、命まではとられていないと思うが、確実に処罰は受けるだろう。
いや、こんなことで悩んでたら、脱出なんてできなかったわけで。
「フィアクゥル様」
そんな物思いは、ノックで脇にのけられた。
執事の声が、ドアの外から響く。
「晩餐が整いました。食堂にご案内させていただきますが、よろしいでしょうか」
「あ、うん。ありがとう」
いそいそと外に出ると、執事は頭を下げ、手にしたランタンで行く先を照らした。
「真に申し訳ございません。当館は電気の使用を制限しておりますもので、このような心許ない火明かりではございますが、ご容赦を」
「上はあんなにがっつり使ってんのに、なんか理由があんの?」
「雰囲気造りのため、緊急時以外は使ってはならぬ、と、魔王様からご下命を頂戴しております」
「なんつう今更感」
とはいえ、廊下の端では蝋燭の火が揺らめき、執事の明かりのせいもあって、割と不便は無い。そもそも竜の目は、多少の暗がりなど問題にしなかった。
やがて、大きなドアの前にたどり着いたフィーは、そのまま中に招き入れられた。
「うわ、でけぇ……」
思ったよりも巨大な食堂だった。
天井には巨大なシャンデリアが吊り下げられ、中にすえられた蝋燭の明かりが、複雑な反射を経て部屋全体を照らしている。
屋敷の外に面した庭ではかがり火がたかれ、思ったよりも光源が確保されていた。
こうした食堂ではおなじみの、長い長いテーブルと、その脇にすえられた椅子の群れ。
その一番端、主賓格の座る場所に、フィーの晩餐の席が設けられていた。
「カ……カレー食うのに、こんな大げさな準備、いらねーだろ」
「そうとも申せません。元々、日本にカレーというものが紹介された折は、西洋の高級な料理という位置づけでしたので。このような召し上がり方も、十分"あり"ということでございます」
「いや、俺は、現代じ――現代のカレーしか知らないから」
すでに準備はできているらしく、部屋のどこかから芳しい香りが漂ってくる。喉を鳴らすと、フィーは席に飛び乗った。
「で……一応、日本風でお任せしちゃったんだけど、大丈夫なんかな?」
「わたくしどもは最善を尽くさせていただきました。後は、お客様であるフィアクゥル様の、お口に合われるか否かでございます」
「そっか。んじゃ、お願いします」
フィーはぺこりと頭を下げ、食卓を確認した。
目の前には白いお皿とナプキン、両脇にスプーンとフォークが一本づつ置いてある。
テーブルマナーはあまり気にしなくてもよさそうだった。
「それでは、始めさせていただきます。まずは前菜をご賞味ください」
「カレー食うのに前菜があんのかよ!?」
オートマタが白い皿の上に乗せたのは、少し黄色みがかったスープのような液体。
「あ、カレー粉だ」
「ジャガイモの冷製スープを、カレーパウダーで味付けしたものです。辛味は抑えてありますが、ターメリックの香りは、健胃や食欲増進に役立ちます」
ためしにすすってみると、ジャガイモと甘い生クリームの香りと一緒に、よく知っているカレーの香りが口に広がる。程よい塩味とつめたい喉越しに、気が付けばスープをすっかり飲み干してしまっていた。
「これ、えっと、コンソメ、だっけ?」
「正確にはブイヨンでございます。ブイヨンは、いわば出汁に当たり、動物の肉や骨、各種の香味野菜を煮込んで作られます。コンソメはブイヨンを加工、精製したもので、製作に半日を要するものもございます」
「ほんと、手間掛かるんだな。そういえば、これにはどんな材料使ってるの?」
執事はいたずらっぽい笑みを浮かべ、問いかけてきた。
「さて、どのような材料を用いたのか、お分かりになられますか?」
そんなの、分かるわけが無い。元々自分は料理に興味はなかったし、特別敏感な舌を持っているわけでも――。
「いや……これ……多分、食べたことある。牛の骨……かな」
ベースになった肉の味は、おそらく牛だろう。そういえば昔、牛骨を使ったラーメンを食べさせてもらった覚えがある。
「それと、にんじん、だよな……あとセロリと……たまねぎ……後は、食ったことが無い野菜が、二……三種類入ってる」
思い浮かんだ味を口にしていくと、味蕾に触れた食材の風味が、急にくっきりイメージされていく。
「うわー、なんだこれ……どうやったらこんな味に……ジャガイモ、すごく滑らかになってて……バターもクリームも、すげーいい奴だよな、これ」
なぜそう思うのかは分からないが、舌に心地よく触れる味の全てが、今まで知らなかった秘密を囁きかけてくれるように感じる。
うまさで軽く混乱したフィーの前に、別の料理が現れた。
今度は魚のフライと、軽く酢のにおいを漂わせた、色とりどりの野菜だ。
「こちらもカレー粉を使ったフリットです。ソースは付けなくとも召し上がれますが、ご用命がございましたら、なんなりと。付け合せはピーマン、パプリカ、エシャロットのピクルスです」
「んじゃ……中濃ソースください」
フォークでフライを突き刺し、まずは一息にかぶりつく。
さくり、と軽快な音が口内に響いた。
同時にじわっと、白身魚の脂が染み出してくる。
噛むことでほぐれた身は暖かく、弾力があり、薄い塩味を感じる肉と、衣にまぶした辛味のあるカレー粉が、口の中で溶け合う。
「んむ……っ、んぐっ……これ、ご飯欲しいかも……」
細切りにされた野菜は、軽く酢に漬けてあるらしく、甘酸っぱい味わいが、脂でこってりした口に心地よかった。
「なんだっけ、これ、南蛮漬け、みたいな感じだ」
「調理法自体はフレンチですが、味の組み合わせは南蛮漬けをお手本にしております」
「俺、すっぱいのって苦手なんだけど、あんまりきつくなくて、うまい……んぐっ」
いつの間にか注がれていた炭酸水で口を洗うと、フィーは思わず口元を緩めた。
「なんか、ソースなしでもうまかったなー。頼んでたのに使わなくてゴメン」
「お気になさいませんよう。それでは、メインディッシュをお出しいたしましょう」
銀色のふたをかぶせられた容器が、フィーの目の前に現れる。
いったい中身は何なのか、そんな期待に答えるように、執事はふたを開けた。
「お……おお……」
平たい皿の上に乗せられていたのは、暗い茶色をたたえたソースが掛かった、本物のビーフカレーだった。
ふたを取り除かれたとたん、まろやかなバターと、鼻の奥にピリッとしみる黒胡椒の香りを感じた。
「なんか、大げさに出てきた割には、意外にふつーだな」
「では、そのごく普通のカレーを、ご堪能ください」
変えのスプーンを受け取ると、そのままカレーを掬い取り、口の中に入れる。
「お……っ」
それはまるで、肉そのものがカレーになったような、濃厚な味わいだった。
甘みさえ感じる液体が、舌を通って喉へたどり着く。辛味は控えめで、むしろ牛肉のうまさを引き立てるように調整されている。
「あ、牛筋、かぁ。それと、骨髄だな。これ、肉と骨と、たまねぎと……にんにくだけしか使ってない?」
「バターや塩などを除けば、ほぼそれだけで作られております。肉のうまみを最大限に引き出した、ビーフカレーでございます」
よく煮込まれたすね肉は、歯ごたえと形がぎりぎり残る段階まで調理され、噛むほどに味が染み出る。
やわらかく炊かれたご飯も濃厚なカレーと絡み合って、調度いい味の濃さで食べることができた。
とてもカレーとは思えない、高級な一品。食べ終えると、フィーは口元をナプキンでぬぐって、頷いた。
「……うん。うまかったよ」
「なにか、ご不満な点でもございましたか?」
「え? あ……うーん」
確かに、このカレーはおいしかった。
が、何かが違う。
「ぶっちゃけ、量が少ない、って言うのかなぁ、うまいんだけど、物足りないんだ」
「その言葉を、お待ちしておりました」
執事がメイドに片手を挙げると、今度は鍋の乗った大きなワゴンが運ばれてくる。
「本日の二皿目、おそらく、フィアクゥル様は、こちらもご所望かと思われましたので」
そして、目の前に、ご飯の盛られた楕円の皿が置かれ、
「家庭料理の定番、ポークカレーです」
そこにどろっと、懐かしい色合いのカレーが、たっぷりとかけられる。
「おっ! おおおおおおおっ!」
にんじんやジャガイモ、豚肉の塊が入ったおなじみのカレーが、そこにあった。
「付け合せはご入用でしょうか」
「ふ、福神漬け、お願いしますっ!」
ほかほかのご飯に、明るい茶色のカレー、そして福神漬け。
「お……おおっ」
スプーンですくい、口の中に入れる。
その途端、フィーの心は一瞬で、過去に立ち返っていた。家で食べたカレーの味や、田舎のばあちゃんのところで食べたときの思い出。
少し粉っぽかったり、水が多くて薄くなったり、それでも自分にとってはうれしい記憶の源になってきた料理だ。
そして、このカレーも本当にうまかった。
豚肉の脂、野菜のうまみとが、舌にびりっと来る辛さと一緒に押し寄せてくる。
「お、おかわりっ!」
思わず突き出した皿に、メイドは新しいご飯をよそい、カレーを掛けてくれる。
気が付けば夢中で、出されるままに平らげてしまっていた。
「あ、あのさ……ひとつ、すっげー失礼な質問するんだけど、良いかな?」
「はい。何なりと」
軽く膨れ上がったお腹をさすりつつ、フィーは思い浮かんだ可能性を口にした。
「もしかしてこれ、市販のカレールー、使ってない?」
確かにカレーはうまかった。しかしそれは、ビーフカレーの時とは違う意味でだ。
馴染みのある味、自分がよく知っていて、食べつけていたから感じた"うまさ"だった。
「ご明察です」
怒りもせず、にこやかな顔で、執事は頷いた。
「それは以前、魔王様に願い出て、勇者様たちの世界から、ご購入いただいたものを使っております」
「な、なんでさ?」
「わたくしの使命は、お出でになられる勇者様を、おもてなしすることでございます」
満腹感と当惑で、フィーは深々とため息を吐いた。
「そのためだけに、わざわざ地球からカレー粉買ってくるのかよ……」
「おもてなしというものは、なにも高級なものをお出しすることだけではございません。お客様の願うもの、お求めになったものを、時に応じて提供させていただくことです」
本当に、プロの執事なんだ、こいつは。
彼だけじゃない、この城にいる連中はみんなそうなんだろう。
「……ありがとな、執事さん。うまかったよ」
「ご満足いただけて、何よりでございます。ところで、お口直しにヨーグルトシャーベットなどはいかがでしょうか?」
「え、マジで!? 食べる食べる!」
手早く目の前が片付けられ、かわいらしい器に乗ったシャーベットと、濃いブラックコーヒーが供されると、フィーはゆったりした気分で、執事に問いかけた。
「こんな風にサービスされたら、ずっとここにいたいって奴も、出るんじゃねーかな」
「魔王様からも、"そのような勇者が出たら、骨抜きになるまで歓待せよ"と仰せつかっております」
「マジでかー! 最低だなあいつ、ってか、この料理、変なもの入ってないよな?」
もちろん、竜の鼻と舌をごまかせる毒は無いだろうが、冗談めかして尋ねてみる。
執事は首を振ると、まじめくさって答えを返した。
「わたくしはあくまでおもてなしを命ぜられたものです。独自の権限を与えられ、この屋敷の中にも兵士を入れぬよう、厳命が下されております」
「そっか。んじゃ、シェートを助けたら、また寄らせてもらうかもな」
偶然とはいえ、こうして安全地帯を確保できたのはありがたい。こちらの身勝手な申し出にも、執事は笑顔で頷いていた。
「あとさー、ここで一人、ゴブリンとか雇ってもらえないかなー」
「……唐突なお申し出ですね。お知り合いですか?」
「そいつ、ベーデって言うんだけど、俺が逃げ出すときに、利用しちゃってさ……」
後悔を含ませながら、フィーは今までの顛末を語った。
あのままでは、ベーデの先行きも良くないものになるだろう。兵士は無理だと言うが、ここでは働くなら問題は無いかもしれない。
だが、フィーの告白を聞いた彼は、幾分か厳しい顔になっていた。
「僭越ながら、少々諌め事を申させていただきます」
「え?」
「その牢番が処罰されるのは、己の職分を全うできなかった故のことでございます。それを、わたくしの元に引き取らせ、罰も与えずに放免するなどということは、この城の、ひいては牢番の責務を、ないがしろにする行為」
優しげだった羊の顔は、責任者の威厳に満ちていた。
「フィアクゥル様の心中、お察しいたしますが、そのような誤った憐憫は、常に戒められますよう、お願い申し上げます」
「ご……ごめん……」
「それに、その牢番も、命を落とすようなことにはなりますまい。失態が続けば、致命的な処罰もありえますが、魔王様は寛大なお方。懲戒の上降格、と言ったところで、落とし所を設けられると思われますよ」
自分の発言に恥ずかしい思いをしながら、それでもベーデの身が安全だと知って、気持ちが安らぐ。
それに、自分がアップした動画はベーデのパソコンの中にある、あれを差し出せば多少は刑も軽く――。
「し……執事さん! この屋敷に、パソコンとか置いてないかな!?」
「はあ。一応、故郷の様子を確認されたいという方のために、回線の通ったものが一台ございますが」
腹も一杯になり、安全地帯も確保した。
後は連絡を取って、今後の対策を練るだけだ。
「悪いけど、それ貸してくれ。今すぐに」