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かみがみ〜最も弱き反逆者〜  作者: 真上犬太
かみがみ~archenemy編~
104/256

11、悪意ある助言

 柔らかい寝具に体を預け、シェートは天蓋をぼんやりと眺めていた。

 部屋の窓からは日の光が差し込み、すでに昼近いことに気づく。

 扉が軽く打ち鳴らされ、薄布の向こうに参謀の整った姿が現れた。

「朝食のお時間です」

「分かった」

 せかされる前に床に降り立ち、無言で手渡された服に着替えていく。それを手伝う女はわずかに不審を浮かべたが、こちらの動きに従った。

「こちら、魔王様から、シェート様にとのことです」

 様付けで呼ばれたことに居心地の悪さを感じつつ、手渡された紙片を確認する。

 自分が寝泊りしている部屋と、周囲の地図が描かれていた。いくつかの通路には色がつけられていて、各部屋にはそこに設置された器物の絵が描かれている。

「赤で塗られた場所は罠が起動していますので、進入はお控えください。地図外の部分に移動すると衛視が誰何すいかしますので。資料室は午後十七時以降閉鎖です、尋ねるならお早めに」

「お、おう……」

「それでは、ご案内いたします」

 やけに親身になっているような気がするが、その顔は鉄のように固く、冷たいままだ。

 おそらく、態度を軟化させるように、魔王が命令したのだろう。昨日の事を考えればありえる話だ。

 その日の朝食は中庭に設けられていた。すでに魔王は食卓に着き、やってくるシェートを穏やかに眺めている。

「体調は問題ないか?」

「ああ」

 昨日の自分を思い出し、思わず視線をそらす。

 気恥ずかしくて、まともに青年の顔を見ることができない。倒すと息巻いていた相手に助けられる、魔将のときから数えればいったい何度目だろう。

「気にするな。お前を助けたのはあくまで俺の都合、気にせず悪態でもついて、今までどおりに接するがいい」

「お前……っ」

 余裕の笑みで眺める魔王に、歯を食いしばりながら席に着く。

 こうやって相手をからかう態度は、ベルガンダそっくりだ。むしろ、魔将のほうが魔王をまねたのだろうか。

「今日は少し趣向を変えた物を出す。無理には勧めんから、遠慮なく言うがいい」

 そう言う魔王の背後から、給仕のゴブリンたちが現れる。

 これまでの黒いものではなく、前あわせにした暗い青の衣服と、白い前掛け姿だ。

「和食」

 給仕たちはてきぱきと、長い皿や小さな丸皿、蓋のついた赤い椀や、白地の椀を並べて行く。塩気の混じった魚を焼く煙が漂い、鍋の中からは嗅いだことのない汁の匂いが湯気と共に立ち昇った。

「大半の勇者が郷土とする、日本の料理だ。その特徴は、たんぱく質ではなく炭水化物を主食として扱うところが大きい」

 長皿の上に焼けたばかりの魚の切り身が供せられている。鱗目からすれば鮭らしいが、こんな風に薄く切っては、食べ応えも何もあったものじゃない。

 そのほかにも、なにやら黒いひげの様なものや、野菜を細かく切ったものがちまちまと盛られていく。

「勇者、こんなみみっちく、食うか」

「そう言ってやるな。狭い国土に住まうもの達の、知恵と工夫の産物だぞ」

 魔王の白い椀に湯気の立つ塊が盛られ、シェートにも同じ物が出される。

「麦……じゃない。なんだこれ」

「米だ。イネ科の植物、主に温暖湿潤な地域で育つ。でんぷん質は麦より柔らかく、煮たり蒸したりする料理に向く。だが、その真価は炊くことで引き出される」

 二本の棒を片手に、魔王は米を口に運んで行く。

 切り身を割き分け、野菜をつまみ、汁の端に添えて具を掬いだす。まるで曲芸でもやりながら食べる姿に、シェートは呆然と見とれた。

「お前はスプーンを使え。箸はまだ早い」

「お、おう」

 湯気を立てる白い米。その匂いは甘く、かすかに乳を思い出させる香りがある。さじですくうと、そのまま口に入れた。

 熱く、かすかに甘さを感じるそれが、喉を通り抜けて行く。味はないに等しいが、食べられないわけではない。

 そのまま魚の切り身を手でつまみ、ひょいと口に入れた。

「んっぐっ!? しょっぱっ!」

「塩鮭だからな。塩抜きはしてあるが、お前はあまり体験したことの無い味だろう」

 魔王の方は切り身をさらに切り分け、小さくしたものを米と一緒に食べている。味のないものに、味をつけて食べるための献立なのだと気が付いた。

「海洋に囲まれた地理と、宗教習俗の慣習から、魚を多く食し、醗酵させた穀物や豆類を調味料として扱う文化が育まれたのだ。もっとも、最近は諸外国の料理が混在し、その輪郭は崩れかけているがな」

 慣れない食事に気をそがれて、シェートは椅子に背中を預けた。

 その動きを見たゴブリンたちが、目の前の料理をきれいに取り去り、代わりに蜂蜜入りの粥と紅茶を置いていく。

 少し気はひけたが、そのまま芳しい真紅に舌をつけた。

「こういうの、全部調べる。お前、どうやった?」

「大枠は書物だが、魔王になる少し前、勇者達の世界に出向いて研究した」

「勇者の世界、魔王行く、大丈夫か?」

「当時はまだ候補でしかなかったし、派手な動きさえしなければ問題はなかった。連中の通う"学校"にも在籍したことがある」

「がっこう、知ってる。前、フィーに話、聞いた」

 勇者達はその大半が学生という存在らしく、色々な知識を学ぶために学校という施設に行くということだった。

「そこで俺も、学生という身分を実際にやってみた。知識の収集に腐心したのと、こちらの背後を探られても面倒なので、友人はほとんど作らなかったがな」

「……勇者の世界、どんなだ」

 質問は自然と生まれていた。

 取り立てて興味があるわけではないが、先を促すべきだと感じたからだ。

「面白い世界だったな。見るべきものも、知るべきことも多すぎた。匂いを嫌がる奴もいたが、魔界の瘴気に比べれば、高山の大気に等しい清浄さだ」

「勇者の世界、臭いか?」

「物を燃やして走る乗り物があるのだ。それから出る煤煙が原因でな。そうした問題を除けば、なかなか過ごしやすかったぞ」

「それも……勇者殺す、必要、だから?」

 魔王の言葉を聞くごとに、募っていく疑問がある。

 この男は、まるで勇者の世界に愛着を持ってさえいるようなそぶりで、さまざまな事柄を語っていた。

「それ以外にどんな理由がある」

「そう、なのか」

「なるほど。お前の言いたいことは分かった」

 円筒型の器から、湯気の立つ飲み物をすすりながら、魔王は笑みを浮かべた。

「倒すべき相手の全てを知りながら、敵としてみなすことが出来るのはなぜか、ということだな」

「お前、勇者達、気に入ってる、見える」

「無論だとも。俺は、連中が大好きだ」

 器を置き、椅子に背をくつろげながら、青年は嗤った。

「夢物語に踊らされ、神から授かった神秘を振りかざし、見知らぬ他人の世界を土足で踏みにじり、恥じることなく振舞うその蒙昧もうまいを、俺は愛する」

 歌うように、囁くように、その言葉全てに愛と毒とをない交ぜにして、魔王は濃く深い魔界の瘴気にも似た言葉を吐いた。

「浅ましく、愚かで、間抜けで、世間知らずで、元の世界では取るに足らない、ゴミのような一般人を気取っていた、本当はゴミ以下の連中を、心の底から、愛しているのだ」

「お前……」

 なんと言っていいのか、分からなかった。

 目の前に座る青年は、シェートには決して想像することも出来ない、己だけにしか分からない考えで動いている。

 殺すべき相手を愛しながら、憎しみを絶やさずに生きる。

 そんな気持ちが分かることは、永久にないだろう。

「今日は気晴らしでもしよう」

 勇者の話題を脇に置くと、何気ない調子で提案が投げられた。

「これまで、慣れない学問の話ばかりで、お前もだいぶ疲れたろうからな。少し体を動かすといい」

「俺、なに、させる?」

「ただの軍事教練だ。この城は文ばかりでなく武も重んじているところを、見せてやる」

 魔王は、涼やかな顔で頷いた。

「いやなら見学していてもかまわんぞ。俺の兵がどう動くのか、それを偵察するのも悪くなかろう」

「いい、のか? 俺、お前の……敵、だぞ」

「王から下賜されたものは、素直に受け取っておけ。断るなど、不敬のきわみだぞ?」

 青年の朗らかな笑いに、シェートの胸が疼きを覚えた。

 これと同じ思いをしたことがある。

 魔将と過ごした数ヶ月、その中で育まれた友情と、その終わりに。

「では、行くか」

 返事も待たずに歩み去る背中に、自然とシェートは追従していた。

 同時に、うずきが切なさへと変わっていく。

 考えるな。

 シェートは胸元の石を、ぎゅっと握り締めた。



 練兵場は、研究所の前をから右に行った先にあった。

 巨大な土の広場は石壁で囲われ、屋根はなかった。隅のほうに木の人形や、弓の的が置かれている。中央では槍を構えたゴブリンの一団が、号令とともに素振りをする様子が見えた。

「俺の城を警護する者たちは、ここで鍛えられる。デスクワークについた者でも、週に一度は、ここで教練するよう命じているのだ」

 槍兵の動きは統制が取れていて、見事だった。その姿に、ベルガンダの砦で行われた練兵の様子を思い出す。

「兵長!」

「はい、魔王様」

 号令をかけていた軽鎧のホブゴブリンがこちらに走りより、すばやくひざまずく。楽にするように命じると、魔王はシェートを見た。

「この練兵場を預かる兵長だ。シェート、こいつと戦って勝てると思うか?」

「え?」

 唐突な問いかけに、シェートは兵長と呼ばれた存在を見た。

 硬い皮鎧と手足の装甲、油断なくこちらを見つめ、腰に差した小剣を意識しながらも、自然体に構えている。胸板も厚く、腕にも程よく緊張した筋肉が備わっていた。

「わからない。こいつ、強い」

「なるほどな」

 魔王は感心したように頷き、目の前のホブゴブリンも、なぜか目じりを緩めていた。

「兵長、お前はシェートをどう見る」

手練てだれです。私に間合いを計らせません。魔王様、これは本当にコボルトですか?」

「では、試してみようか。三名選べ、兵長」

 黙って頷くと、兵長は並んで待機していたゴブリン達から、三人を選んで戻ってくる。

「シェート、こいつらと試合を行え」

「な、なんで、そんな」

「逃げ出すときに必要だろう? この城の兵士が、どの程度強いのかを知るのは」

 魔王の言葉に、胸が痛んだ。

 まるで、逃げ出すという行為が、悪いことのように思えてしまう。

 そんなこちらの気持ちを気遣うこともなく、兵長は魔王から指示を受け、模擬戦用の武器をいくつかシェートの目の前に並べた。

「二刀使いと聞いた。刀身の重量はそろえてある。好きな組み合わせを使え」

 促されるまま、片刃の曲刀を二振り選ぶと、魔王と兵長が後ろに下がる。

「形式はどうなさいますか」

「三対一だ。シェートが逃げ出した、という想定の下で、捕縛を旨とせよ。シェート、お前は目の前の三人を打ち据えれば勝ちだ」

 ゴブリンたちに緊張が走り、目配せをするとこちらを囲むように陣形を組む。それぞれが、切っ先と刃をつぶされた槍を持ち、油断なく身構えていた。

 剣をたらし、軽く腕を緊張させると、シェートは地を蹴って左に飛んだ。

 その後を追って、左後方に位置していたゴブリンが進路をふさぐように槍を突き出す。

 その瞬間、軽い破裂音が、練兵場に響き渡った。

 シェートの左腕が振るわれ、穂先がなぎ払われる。体の半回転と腕の振りによって生み出された力に、ゴブリンの体が軽く揺らぐ。

「なかなか面白い動きだ」

「通常、武技において回転というのは敬遠される行為です」

 視界の端で、兵長が魔王に解説をしているのが見える。そこに割り込むように、別のゴブリンが槍を突き出した。

 今度は右の剣が穂先を吹き飛ばし、たたらを踏んで兵士がよろめいた。

「敵から目線が離れ、背中という弱点をさらしかねないからです」

 こちらの威力を理解した兵士達が、一旦距離をとった。

「ですが、あのコボルトのように"避けながら斬る"に組み込めば、敵の動きに対応した動きとして運用できます」

 互いに目配せをして、それぞれの意思を確認すると、ゴブリン達はさっきよりも低い姿勢で近づいてきた。

 けん制の突きではなく、払いの効かない腰の入った一撃。

 それをほぼ同時に入れてくるつもりだ。

 なら、することは決まっている。

「……しっ!」

 シェートは短く呼気を放ち、目に付いた穂先に一気に踏み込んだ。

 ゴブリンの顔がわずかにうろたえ、ほんの少し動きが鈍る。

 そのためらいを、見逃すつもりはなかった。

 槍があたる寸前、両足の力を解放し、思い切り右斜め後方に飛ぶ。その先には、背後に詰めていた別のゴブリンの姿。

 シェートは知っている。取り囲むというという行為は、先に動いた"誰か"によって、他者の意識が拘束されるという意味でもあると。

 予想外の動きに翻弄された兵士。

 その槍は松脂で固められたように、鈍く、稚拙な動きしかしない。

 槍の柄が叩き落され、転身と共に放たれた剣が、兵士の腕とあばらを粉々に砕く。

「げうっ!」

 短い悲鳴を上げたゴブリンを仲間の方へ蹴りだし、その影を食らうようにコボルトの体が地を疾駆する。

 穂先のはるか下を走る姿に、それでも敵は腰の剣へ手を伸ばし、

「ぎゃああっ!」

 掛けた手が、柄ごとシェートの剣で粉々に砕かれた。

 あっという間に二人が倒れ、呆然となったゴブリンが、苦悶を浮かべて槍を構える。

 敵の上半身が軽い、恐怖に腰が引けている。連続の牽制突きで、こちらを近づけないようにするつもりだろう。


 ――こんなものか。


 シェートは体を軽く保ち、無造作に歩き出した。

 おびえた兵士をひたと見据え、槍と肩の動きだけに注目する。

「う、うわああああああっ!」

 悲鳴を上げたゴブリンが槍を突き出し、

「そこまで!」

 魔王の声がすべてを制したとき、事は終わっていた。

 ややあって、斬り飛ばされた穂先が練兵場の大地に音を立てて転がり、シェートの振りかぶった双剣が、敵の首元寸前で止まっていた。

「見事だ」

 魔王は両手を叩き、笑顔で近づいてくる。その姿にほんの一瞬、殺意がこみ上げる。

 無責任に部下をけしかけ、楽しむ悪趣味に、ベルガンダとの決闘が思い出された。

「こんなの、見事、違う」

「そうか? 複数の者と相対し、苦も無く屠った技前を、褒めぬわけには行くまい」

「違う。だって、あいつら――」

 思わず口を突いた言葉に、シェートは思わず絶句していた。

 自分は今、なんと言うおうとした?

「……あいつら、弱いから、か?」

「そ、それは」

「なぜ、うろたえる必要がある? はっきり言えばいいではないか、あいつらはお前よりも弱いのだ、とな」

 魔王はシェートの肩を抱き、地面に倒れ伏す連中へ顔を向けさせた。

「見ろ、あの情けない顔を。あばらを砕かれて脂汗を流し、手をつぶされて泣きじゃくっている、実に無様ではないか」

「や……やめろ……」

 ゴブリンたちの恨めしげな顔が、シェートを見つめていた。

 彼らは、目の前の異常に、自分を痛めつけたシェートという存在に、怯えていた。

「戦っている時のお前の顔は、実に良かった。初めは緊張し、油断が無かったそれが、次第に冷淡に、つまらなそうな表情に染まっていった」

「嘘だ!」

「ああ。それは嘘だ。だが」

 抱きとめられ、逃げ場を失ったシェートに、魔王は囁いた。

「お前はこう思ったのではないか? なんだこいつらは、この程度か、と」

「う……」

「理解しろ。お前はもう、弱者ではない」

 冷たい賞賛が、耳からしみこんでくる。

「魔物の基本原理は"強さ"だ。強ければ弱者を踏みにじり、その命を左右できる。お前は今、その権利を行使した」

「違う! 俺、そんなの、違う!」

 だが、目の前に転がった現実は消えない。

 弱りきったゴブリンは治療を施され、仲間に運ばれていく。残された兵士達は、魔王ではなく、抱きとめられたコボルトを見つめていた。

「弱者を蹂躙し、その屍の上に己の価値を見出す。それが魔物だ」

「俺……違う」

 苦しみながら否定を搾り出す。

「俺、敵、倒す。仕方ないから。誰か、踏みにじる。そういうの、しない!」

「だが、お前は勇者なのだろう?」

 必死に逃げ出そうと、シェートはもがいた。それでも魔王の抱擁は、恐ろしいぐらいの圧力で全身を縛っていた。

「知っているはずだ。勇者とは、魔物を蹂躙する暴力そのものだと。我らと同じだ。すべては力だ、それ以外の原理は無い」

「やめろ」

「何を怯えることがある? 敵を殺し、奪い取り、蹂躙して快感を得る。そのことを恥じることも、ためらう必要もない!」

「やめろおっ!」

 自分の力は、魔王の言う強さとは違う。

 そのはずなのに。

 魔王の言葉が、シェートの何かを、塗り替えていってしまう。 

「どう言い繕おうと、定めから逃れることはできない」

 シェートを解き放つと、魔王は立ち上がった。

「認めろシェート。お前は、魔物なのだ」

「俺は」

 反論したかった。魔王の言葉はでたらめだと言いたかった。

 しかし、自分が夢中で積み重ねてきたものは、結局、死体の山でしかなかった。

 勇者を殺し、魔物を殺し、犠牲を生み出してきた。

「俺……は……」

「お前は、優しいな」

「何がだ」

 掛けられた言葉が、心に刺さった。

「苦しんでいるのだろう? 自分が犯した殺戮を、その犠牲を悔やんでいる」

「俺……もう、わからない!」

 正しいと、愚直に思っていた。

 自分を、仲間を、愛した人とを踏みにじった"神々の遊戯"を、打ち砕くことを。

 そのために知恵を絞り、力を尽くしたことを。

 だが、それは、自分が新たな暴力者として生きる道でしかなかった。

「俺、ただ、みんな、一緒、いたかった! ルーと、仲間と、母っちゃと、弟たちと、それなのに! 勇者が、お前が!」

「俺だとて、コボルトを搾取し続けたいと考えたわけではない」

「嘘だ!」

 いつの間にか、視界が涙でにじんでいた。そのまま、シェートは魔王を振り返り、その顔をきつくにらんだ。

「父っちゃ、魔王軍、奴隷なった! 俺、魔物、捕まった! コボルト一杯死んだぞ!」

「この城は魔物たちに知恵を授け、教化するための施設でもある」

 魔王の顔は、悲痛さえ感じさせるほどに、真剣だった。

「魔物の知性を磨き、教育を重ねれば、いずれはこの城に詰める者のように、規律に従うようになる。お前も見ただろう、我が魔将の配下達を」

「あ……ああ……」

「そうなれば、コボルトを搾取する必要は無い。お前たちは望むように、平穏で幸せに生きられるようになるだろう」

 魔王の言葉は、本当なのだろうか。

 こいつは、ずっとシェートに見せていた。

 ゴブリンたちの驚くほど抑制された姿を、清潔で整えられた城内を、コボルトたちの穏やかに働く姿も見ることができた。

 そして、ベルガンダと暮らした日々が、思い浮かんだ。

「俺は、お前の強さが欲しいのだ」

 ゆっくりと腰を下ろし、同じ目線にあわせた魔王は、穏やかに言葉を掛けた。

「神に与えられた仮初の手妻てづまではない。お前自身の、根本的な力だ」

「俺、の?」

「暴虐を打ち払い、己を高めんする胆力。魔王である俺に、意見をぶつけた知恵。そして……自らの愚かさを恥じる悟性ごせい

 その眼窩がんかにはまった異眸いぼうが、いたわりに潤って見えた。

「俺の力だけでは、どうすることもできないことがある。コボルトという弱い種族にとって、強者である魔王の言葉は、命令でしかない」

 傷つき、荒れ果てた心に、魔王の言葉が優しく染みていく。

「だが、お前なら、コボルトたちを導くことができる。頼む、シェートよ。この魔王のものに、なってくれないか」

「お……俺は……」

 断らなくてはいけない。

 魔王の言葉に従うわけにはいかない。


 本当に、そうか?


 魔王の願いは、シェートという存在自体だ。コボルトでありながら、強さを身に付けた者を、魔王軍の示しとするために。

 彼は神の勇者を滅ぼし、魔物に知恵を与え、平穏な世界を与えてくれると言った。

 それなら――。

「だ、め……だ」

 ぎこちなく首を振る。

 軋みを上げた頭の奥で明滅する記憶が、シェートを踏みとどまらせていた。

 燃え落ちる村の中、世界を憎んだあの日。

 たった一人だけ、死に掛けのコボルトの聲を、聞き届けた女神。

「俺、契約した。命、救ってもらった」

 魔王の視線が、わずかに険を帯びた。

 ため息を吐くと、諭すように否定を述べる。

「そんなもの、神にとっては児戯にも等しい行為だ。憐憫とは、所詮、持てるものが施しを与えて悦に浸るもの」

「違う。あいつ、そんなの、違う」

「なぜそう言い切れる。お前の神とは、どんな存在なのだ」

 魔王の問いに、シェートは必死で答えを押しとどめた。

 サリアのことを言ってしまえば、きっと魔王は溶かしてしまうだろう。

 自分と女神の絆を、あっという間に消し去ってしまうに違いない。

「忠告しておく」

 立ち上がると、魔王は背を向けた。

「神との契約は、お前にとって苦しみにしかならん」

 冷えた言葉が乾いた空気に広がり、降り注ぐ太陽の光が、白く褪せていく。

「勇者から狙われ、人間から疎まれ、何よりこの俺から、敵として見なされる。望まぬ戦いが、これからも続くだろう」

 言葉の刃は正確に、シェートの胸を刺し貫いていた。

 たった一人であること、その孤独が、実感となって手足を縛り付けていく。

「そんな苦しみだらけの日々に、神はお前の助けにならない。どれほどすがっても、お前を本当の窮地から救うことは、決してない」

 違うと言いたかった。

 しかし、この場において、それは紛れも無い事実だった。

 サリアの声は、届かない。

「なぜなら勇者とは、殺し続けることを強いられる存在だからだ。お前の意思とは関わり無く、神は命ずるだろう、敵をすべて殺せと」

「そんなこと……」

「では、お前は今までの一切を、自分の意思で行ってきたというのか? これまで辿ってきた道のり、意に染まぬことは一度たりともしてこなかったと?」

 そんなわけは無い。

 本当は、誰も殺したくはなかった。最初の勇者でさえ、自分達を見逃していたなら、関わることさえなかったろう。

「お前をそんな苦界に放り込んだのは誰だ」

 魔王の指摘に、シェートはゆっくりと首を振った。

 相手が何を言いたいのかは分かる。それでも、否定する他はなかった。

「お前たち、だ。神、魔王、争うから」

 神だけが悪いのではないと、分かっている。魔王もまた、自分達を苦しめる世界の一端を担っているのだから。

「ならばお前は、どちらも殺すしかない。神と魔、どちらかが残っても、お前の望む未来はやってこない」

 魔王の言葉は淡々と、事実を述べた。

「神が残れば魔物は殲滅され、魔物が残れば力が支配する世となる。遊戯を無くし、コボルトを苦界から救う方法は、他には無い」

「そんなこと、無い! サ――あいつ、俺の願い、コボルト、暮らせる森、手に入る、言った!」

「では、その後はどうする? たとえ一時、お前の願いが叶ったところで、遊戯が続けば別の世界でコボルトが死ぬぞ」

 胸が、締め付けられる思いがした。

 魔王の指摘を、無視することができない。自分と、この世界のコボルトが助かったところで、他の仲間達は死に続ける。

「あ、あいつ、遊戯、なくしたい、言った。だから、きっと……」

「虫唾の走る甘言だ。そんなもの、結局は遊戯が敷衍される前の世界に戻るだけのこと、コボルトは一層、どこかで使い潰される」

 目の前に、真っ暗な穴が開いていた。

 行き止まりの迷宮で見た、あの時の絶望が、ぽっかりと口を開けている。遊戯が続いても、終わっても、コボルトはどこかで殺され続ける。

 どうすればいいのか分からない。今まで、戦うことに夢中で、どうすれば願いに届くかなど、考えたこともなかった。

「どうした、シェート。お前の願いは、本当に神の下で叶うと信じられるのか?」

「う……あ……」

 足元が揺らぎ、膝が震える。

 今まで信じてきたものが、音を立てて崩れて行く。

 その肩を、魔王の両手が抱きとめた。

「俺に付き従え。神と縁を切り、この魔王と共に生きよ」

「でも、お前……魔王……だから」

「案ずるな」

 甘く囁く声が、尖った耳の奥へと入り込む。シェートの心を痺れさせ、溶かしていく。

「天を焼き、神を殺した暁には、魔界の力ある種族も全て弑逆しいぎゃくしてみせよう。その時にはシェート、お前が俺を殺せ」

「な……んで?」

 魔王の声は、どこまでも真摯だった。

 本当に自分を殺せと言っているのが分かる。

 それが、シェートには理解できなかった。

「なんで、そんな」

「それが俺の望みだからだ」

 魔王の顔は、冷たく燃えていた。

 暗い熱情が中天に掛かった太陽を背景に、陰々と照り映えていた。

「俺はな、シェート、全てを殺したいのだ」

 信じられない一言が、耳朶に刺さる。

 それは誓いの言葉。

 遠い日にサリアから告げられた、悲しくも凛とした、切なる願いの言葉。

 それを、目の前の魔王が口にした。

「やめろ……」

「シェート?」

「もう、やめろ……!」

 必死に隠しても、魔王は全て暴き立ててしまう。

 当惑して、魔王がこちらに歩を進める。

 近づく影が、シェートの世界を蚕食する。

「やめろ! お前、俺、近づくな!」

 魔王が恐ろしかった。

 自分が知らなかった側面を暴きたて、隠していたはずの秘密に平然と触れ、シェートという存在を溶かしつくそうとする青年が、怖かった。

「どうした、何をおびえる」

「来るな! お前、いやだ!」

 青年は困ったように笑い、それから頷いた。

「安心しろ。俺は無理強いはしない。言っただろう、気が変わるまで、待ち続けると」

 魔王の口調は、どこまでも優しかった。

 了解以外の返事を許さない、という宣言であるとは、思えないほどに。

 逃げ出したい、逃げ出さなければ。

 でも、どこへ?

「そろそろ、昼食の時刻だな」

 穏やかに告げる声に、震えながら顔を上げる。目の前の青年に、威圧の影はなかった。

「今日はアサードにでもするか。お前も肉料理のほうが食べやすかろうからな」

 拷問が終わりを告げ、青年は振り返りもせずに去っていく。

 シェートは無言で、それに付き従うしかなかった。


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