8、忍耐の試練
シェートは再び、右折の道にぶち当たった。
誰もいない空間、どこまでも続く廊下に、視線がさまよう。歩いた距離と方角を総合すれば、このまま進めば。さっきの十字路から続く道と交差するはずだ。
どうやら、こちらはただ広いだけの空間らしい。無駄に歩いて、腹を減らしただけだ。
「まったく……」
こんなことを話したら、きっと魔王は笑うだろう。無駄なことをしたと、指をさしてからかうに違いない。
どこまでも人を食ったような男だ。自然とあふれてくる文句を、胸のうちで繰り返しながら、シェートは歩いた。
そして、長く続いた道は、再び右に折れる角に差し掛かった。
「え?」
歩いてきた距離と方角を考えれば、間違いなくさっきの十字路とすれ違ってもおかしくないはずだ。それなのに、ここにあるのは右折の角だけ。
驚いて、背後を振り返る。先の見えない長い一本道が、どこまでも続いている。わき道などは一本もない。
必死に辺りを見回すが、おかしなところは何一つない。
赤い敷物の道、白い壁の装飾、等間隔に並んだ扉、どこまで行っても何も変わらない光景が、来た道にも行く先にも、延々と続いている。
床の布には足跡が残らない、匂いと呼べるものは自分の体臭ぐらいで、驚くほどに大気は無機質だ。
太陽も星も、木も草も、動物や植物の持つ独特の香りも、一切無い。
目印になるものがなにも無い。その事実に、シェートの心がたじろいだ。
周囲の景色は代わり映えが無く、自分のいる場所がはじめて通るところなのかさえも、見当がつかなかった。
「……っ」
右手に"スコル"の刃を取り出すと、シェートは壁の一部に刻み目を入れた。後で何を言われるかはわからないが、こうして目印をつけなければ、探索もままならない。
刻み目の正面には、どこかに通じる扉がある。扉と刻み目、二つを目印にすれば間違うことは無いはずだ。
慎重に目印を振り返り、通路を進む。やがて右に曲がる角が現れ、道なりに進んだ。
そのまままっすぐに進むと、また回廊は右折を示した。
さらに進み、再び右折が現れる。
「あ……あれ?」
そんな馬鹿な。
いつの間にか通路が完全に閉じている。移動した方向と右折の回数を考えれば、十字路から伸びる通路と交差してもおかしくないはず。
そんなはすは無い、これは何かの間違いだ。
やがて、曲がり角が右に折れているのを見て、シェートは立ちすくんだ。
「閉じ込め、られた?」
さっき壁に傷をつけたことで、何かの罠が作動したんだろうか。それとも、もっと以前からすでに自分は迷っていたのか。
それでも、通路が閉じてしまったのなら仕方が無い。シェートは観念し、刻み目をつけた壁の前に戻った。
はずだった。
「え……?」
確実に自分は円を描くようにして、閉じられた回廊を歩いていたはずだ。歩幅による計測も、すべての通路が等間隔であったと示している。
それなのに、
「傷……ない」
壁は、それまでとなんら変わりなく、元通りだった。
修復の痕跡もまったく無い、無垢なままの状態で、そこにあった。
「く……!」
今度は兄弟剣を手に、十字の痕跡を深々と刻み込む。細かな破片が散って、美麗な模様が色の砂になって床に散らばった。
わき目も振らず、シェートはそのまま回廊を走り、角を曲がった。
そして、再び壁の前に着いたとき、壁は元通りになっていた。
おそらく破壊に対して、自動で修復する魔法がかかっている。自分の破術は物にかけられた魔法を完全に解くことは出来ない。
「それなら……っ!」
扉を壊して、別の場所に出るしかない。
弓を呼び出し、思い切り弦を引き絞る。金と銀の矢が絡み合い、破壊と破術の力を纏った矢が番えられる。
閃光と破壊音が響き、扉が粉々に砕け散った。
こうなったら、部屋を通り抜けて逃げ出してやる。
意を決すると、シェートはただ真っ直ぐに、進行を開始した。
緊張した面持ちで、パソコンの前に座る部下に、魔王は指示を飛ばした。
「始めろ」
「は、はいっ」
緊張で声を上ずらせながら、ゴブリンはモニター上に映像を表示する。軽装の鎧を身にまとった少女が魔物たちと相対している姿、過去の遊戯の一場面だ。
他の連中にとっては、苦い敗北を思わせる種でしかないが、自分にとっては値千金の情報となる。己の失態が未来の警句となると信じ、こうした資料を残した魔王が少なくなかったことは、僥倖だった。
「三十五回目の遊戯で勝利を得た、二ミリ・ルェイの勇者、陣野鈴音。についての、分析ですが」
解説の言葉がつっかえがちなのは、上司である魔王の手前だろう。ここで心象を悪くするわけには行かない、そんな必死さが、むしろ愛おしくさえある。
「この勇者の特徴は、呪歌を用いてさまざまな能力を発揮することです。守護神である二ミリ・ルェイは技芸や音楽を司り、その神官たちも舞踊や唱歌による奇跡を用います」
「珍しいタイプの神だ。この女神が従属する神が、闘魔将とその軍十万を屠った勇者、三条日美香を使役する、"愛乱の君"マクマトゥーナだ」
「そ……そうなのですか?」
驚いたゴブリンに、諭すような首を振る。
「未だにその神器、神規の全容は不明だ。今回の勇者は、いつにもまして面倒が多くてな……話の腰を折ってしまったか、続けろ」
「は、はい。この勇者は歌唱の力を自らの力に変えるだけでなく、身につけた神器の起動や強化に使うのが特徴です」
モニターの中で再現された映像には、歌いながら舞うように戦う少女の姿が映し出される。その身に付けた鎧が神威を浴びて変形し、敵を貫く槍に変わると、魔王は失笑した。
「歌いながら戦うというのは、こうしてみると、存外間抜けな姿だ。そう思わないか」
「はい、ですが……」
その一撃が巨大なドラゴンの腹に風穴を開け、押し寄せる魔物の大群を光と共になぎ倒して行く姿を見て、部下はこちらを見上げ、苦笑いを浮かべた。
「でたらめな力です。これを生み出す対価としては、軽いぐらいに思えます」
「歌唱を使う勇者は、精神の高揚を力としている。圧倒的な危機に陥ったとしても、歌い続けられる限り、その動きを止めることはできない」
こんなバカげた発想は、勇者たちの世界でなければ生まれない。
魔法を使う世界では、短縮詠唱や無詠唱魔法という"唱えない様式"に傾倒するのが常であるのに、歌いながら戦うという気の狂ったアイデアを押し通してしまう。
そして、結果を出してしまう。
「六十五回、ラ・ディ・サーザの勇者の映像を流せ」
さっきの勇者とは別の存在が映し出される。今度は二つのネックを持つ、ギターを抱えた青年の姿だ。
その背後には燃え盛る炎の化身が浮かび、荒々しい曲と共に火炎の矢が撃ち出された。
敵が燃え散り、無人の野を踏みしめながら、勇者は凱歌を響かせる。
「"使役型"の音楽系勇者ですね。神威を音に乗せ、精霊やその土地の土着神、動物や魔法生物、ゴーレムなどを支配し、使役します」
「よかろう。よく学んでいるな」
こうした抜き打ちに対処できるなら、こいつの知識は本物だろう。
では、実践はどうか。
「お前ならこの勇者、どう攻略する?」
「"使役型"に限らず、神器中心の勇者はそれを奪われると弱体化します。また、能力の制約が楽器演奏ですので、天候変化や結界による音波遮断、周波数を合わせての干渉消音などで、発動対策を行います」
「二ミリ・ルェイの勇者については?」
畳み掛けるように、女勇者への対抗策を問いかける。
「歌唱系の"覚醒型"勇者は、精神攻撃を主とした戦略が有効です」
わざわざ作成していたのか、図解や作戦指示書のようなものを表示し、部下は誇らしげに解説を始めた。
「精神の高揚を阻害するため、勇者自身ではなく、その周囲にいる仲間や協力者を攻め、生かさず殺さずの状態で、安否を不透明にします。また、攻撃手段を再生型の魔法生物やアンデッドによる波状攻撃に限定、徒労感を与えて、精神を磨耗させます」
「かくて麗しきカナリアは、戦場の毒を吸い込み、歌を忘れて地に落ちる、か」
脳内で吟味すると、魔王は部下に向かって頷いた。
「計画の骨子としては申し分ない。よくやった」
「あ、ありがとうございます!」
「だが、この手の勇者は悩みを吹っ切ると力を増すタイプが多い。そうした不測の事態への対処はどうする?」
そう、これではまだ半分の正解と言ったところだ。部下の成長は喜ばしいが、課題は常に与え続けなければならない。
「次に私が来るまで、そのことについて研究しておけ。手に余るようなら、プロジェクトチームを立ち上げても構わんぞ」
「は、はいっ!」
指示を終え、魔王はふと、視線を上げた。
ここから少し離れたところにある視聴覚ブース、そこから一人のゴブリンが資料室へと歩いていった。
それだけなら、何も問題はない。
ただ、その顔には見覚えがあった。そいつが今、何の仕事に従事しているのかを思い出したとき、口元が自然に緩んでいた。
「魔王様?」
「気にせず作業を続けろ。俺は少々、用事ができた」
こんな時間帯に、いるはずのない牢番の男。一体何のために、ここへやってきたのか。
いぶかしげな部下を残し、資料室へと歩き出す。
単なる気のせいならばよし、もしも自分の想像通りなら、中々面白いことになる。
「頼むぞ、仔竜よ」
魔王は瞳を輝かせて、獲物の後を追った。
「俺を失望させるな」
薄暗い袋の中で、フィーはこちらに近づいてくる光点を凝視した。
魔王のアイコンが、まっしぐらに資料室へ向かって歩いてきていた。まるで自分がいることを察知したように。
「ベーデッ、ま、魔王がこっち来たぞっ」
「え! う、そ、そんな」
「視界には入ってないから、そのまま、その先の角を左に曲がれっ」
声が大きくなるのも構わずに、必死でゴブリンにささやきかける。ベーデは本棚の間を横切り、ジグザグの進路を取りながら、魔王から距離を取る。
受付で少し止まった魔王は、そのまま資料室の中に踏み込んできた。
「ど、どうする、どうするんだ!?」
「見つからなかったら叱りようがないだろ。とにかく顔を見られないように、俺の指示通りに動け!」
資料室に入った魔王は、何かを探すように歩調を緩めたようだった。自分達との距離は本棚三つ分、横移動に気をつければ見つけるのは難しいだろう。
「魔王は今、入り口辺りだ。そのまま棚の影に隠れて、何か読んでるふりしてろ」
「お……おう」
ぎこちない動きで、ベーデは本棚から何かを取り出し、律儀に読むふりを始めた。魔王の光点は、ゆったりと散策をするように、棚の間を歩いている。
「もしかして、お前、姿見られたんじゃ?」
「わ、分からない。でも、見つかったら、魔王様、俺、罰与える」
「だから、見つからなきゃ大丈夫……ベーデッ」
歩調が急に早足になり、紫の光点が本棚一つ分の距離まで近づいてくる。確実にこちらを捉えるための動きだ。
今から動いても間に合わない。逃げるために透明化を使えば、魔力の動きでばれてしまうかもしれない。
「今すぐ袋を床に置けっ」
「な、なに?」
「早くっ!」
荒っぽい動きで袋が床に落とされ、体が叩きつけられた。背中と翼の痛みに息を詰らせながら、必死に指示をしぼり出す。
「魔王に何か聞かれたら、俺が本を読みたがったから取りに来たって言え」
「へ!?」
「分かったな!」
そう言うのと同時に、フィーは袋から飛び出し、本棚に潜り込んだ。
「そこで何をしている……ベーデ」
ゴブリンがぎくりと身を引きつらせたのと、フィーが重い辞書と棚板の隙間から、内側に潜り込んだのが、ほぼ同時。
ありがたいことに、みっしりと詰まった百科辞典らしい本は、完璧に青い姿を隠せるだけの背丈と、身を潜める空間を生み出してくれていた。
「まっ、ま、ま、魔王、さ、ま」
「お前には、牢番の役目を言い渡しているはずだが」
凍てつくような声に、ゴブリンは完全に飲み込まれていた。膝が震え、歯をがちがちと鳴らしている。
「おっ、お、おお、俺っ、俺は、はっ、は、ああ……」
「それほど、牢番の仕事は退屈か?」
「いっ! いいえっ! そ、そんな、こと、な、ないっ、ですっ!」
考えてみれば、ゴブリンのような下っ端の存在が、魔王と渡り合って、自分の悪巧みを進めるような度胸なんて、持っているわけがない。
たぶん、ベーデは口を割るだろう。そうなれば、全ては終わりだ。
いっその事、透明化して逃げるか。
フィーは全てを覚悟し、コマンドを唱えようとした。
「そ、そのっ! 俺、べ、勉強の本、取り、きてましたっ!」
「……ほう?」
魔王の声が、心持ち緩んだように思えた。そんなことに気づくこともなく、ベーデの苦し紛れが続く。
「おっ、俺、次の、昇格試験、合格したい。だから、勉強、ずっとしてましたっ!」
「そのための本を借りに来た……そう言いたいのか?」
「はっ、はいっ! あとっ、読んでた本、貸し出し期限、過ぎてて、だ、だからっ」
「く……っ」
喉の奥で、押し殺した笑いが漏れた。
「ふ……く……くくっ、そ、そうか……ふはっ!」
「魔王、様?」
「ほ、本をっ、か……借りにな、ふっ、くく、くふふふっ」
口元を押さえ、必死に大笑いするのをこらえている。図書館の中では騒がないこと、そんな注意書きをふっと思い出した。
「それで……どんな本を借りるつもりだったのだ? この辺りは地理や歴史学に関する資料のエリアだぞ」
真意を問いただす言葉は容赦なく、鎖のようにゴブリンを縛る。それでもベーデは、自分の内側から答をひねり出した。
「俺っ、勇者の研究、したいです! 牢番、より、そっちやりたい!」
「……なるほど。それがお前の本心か」
「でも、この前、試験、歴史、ダメだった。だから……そういうの、参考になるやつ、探してた……ましたっ」
「そう、か……」
魔王の声は急に真面目なものになり、つかつかと本棚を歩き回りだした。
「この前の試験で失敗したところはどこだ。西洋史か、それとも日本史か?」
「に、日本、戦国……えっと、外国、攻めたやつ」
「朝鮮ノ役か。また面倒なところを。試験はふるい落とすのではなく、能力を測定できるようにするものだと、試験係にも言っておいたはずなのだがな」
魔王の足がフィーの真正面に立ち、その上の本棚に手を伸ばす。生きた心地がしないまま、それでも彼の言葉に、自然と聞き入っていた。
「朝鮮ノ役について学ぶなら、豊臣家没落の契機となった戦役そのものを、時系列順に調べる方法と、そこで活躍した武将から逆引きする方法の二つがある」
解説は丁寧で、どんな資料を当たればいいのかを、分かりやすく説明していった。最初は緊張していたベーデも、引き込まれるように説明に聞き入っていく。
「――島津家の特異性は、戦場における働きだけでなく、戦国時代における覇者、豊臣・徳川の両家を向こうに回して、外交の面でも驚くべき成果を残したことにある。その足跡をまずたどり、その後、実際の事件を追うと、理解が深まるだろう」
「あ、ありがと、ございます」
「そういえば、ちょうどいい資料になる漫画が、あっちの棚にあったはずだ」
魔王はベーデを伴って、別の棚に移っていく。少し声は遠くなったが、静かな資料室でなら、入り口辺りの会話でも聞き取るのは可能だ。
それにしても、どうして魔王は急に態度を改めたんだろう。
途中までは確実に、ベーデを疑っていたはずだ。それが、試験の話になった途端、がらりと変わった。
「もしかして、あいつの言葉がマジだったから、なのか?」
門番のところでも試験がどうとか言われていたし、ベーデも本気で、勇者研究の部門に回りたがっているのかもしれない。
つまり、態度自体は怪しいが、言っていることは本当だから、親身になったということなんだろうか。
「漫画を使った学習というのは、中々侮れん。苦い薬を甘くして飲ませるようなものだ」
「ありがと、ございます。俺、試験、ちゃんと合格、します」
遠くから聞こえる魔王とベーデの会話は、どこか楽しそうだった。まるで先生と生徒みたいだ、とさえ思った。
その一言が混ざりこむまでは。
「ところで、例の仔竜は今、どこにいる」
緩んでいた空気が、軋みをあげて凍りつく。それまで饒舌だったベーデの声が、ぴたりと止まった。
「まさかとは思うが、その袋に詰めて、ここまでやってきたのではあるまいな」
フィーは恐怖と安堵を、同時に感じていた。
魔王の言葉は確信に近い疑惑で満ちている。こちらが資料室に入るのを見て追ってきたのも、俺がベーデをそそのかした可能性を考慮してのことだろう。
もし、あのまま袋の中にいたら、一巻の終わりだった。
「ちゃんと、牢、います。おとなしく、してる」
「おとなしく、だと? あれがそんなタマとは思えんが」
「い、いつも、スマホいじってる。話しかけてきたけど、ちゃんとマニュアル通り、無視した、です」
「なるほど……な」
魔王の一言が漏れた瞬間、フィーは背骨の中に氷水を注がれたような、凍りつく痛みを感じた。何かがまずい、全身が危険を感じ、鼓動が早まっていく。
ぎゅっと翼をたたむと、仔竜は本と棚の隙間から飛び出し、走り幅跳びの要領で別の本棚の影へ転がり込んだ。
「さっき貴様は、この辺りでうずくまっていたな」
わずか数秒の差、魔王はそれまでこっちが隠れていた棚の前に、戻ってきた。
「例えばここで"荷物"を下ろし、この本の裏に、隠していたりしてな」
魔王の手が数冊の本をつかみ、引き抜く音が聞こえる。息を殺し、尻尾を片手で持ち上げて、フィーはそろそろと体を動かした。
「……いない、か」
「お、俺、ちゃんと見張ってた。鍵も、持ってきてる。それに、まだ来て、そんな時間、経ってない。あいつ、絶対逃げ出せない、です」
「そうか……確かにその通りだな」
声が笑っている。
魔王の声が、楽しそうに笑っている、そう聞こえた。
「では、ベーデ。これから一緒に、あの仔竜を尋問しよう」
心底楽しそうに、魔王は言い放った。
「お前も良くがんばっているしな。褒美といっては何だが、特別授業を授けてやる」
「そ……そんな……い、いい……です」
「遠慮するな。捕虜からいかに情報を聞き出すか、実地で教えてやる。きっと楽しいぞ? なぁ、ベーデよ」
フィーの心の中に、ねっとりした悪意が染み渡った。
同時に理解する、魔王はここに自分がいるのを、確信していると。
魔法を使えば一瞬で探知できるだろう、外の人員を使えば、この部屋の捜索なんてあっという間に終わる。
それをしないのは、遊んでいるからだ。目の前のゴブリンが、どこまで嘘を通し続けられるか。そして、俺がいつまで隠れ続けられるかを、楽しんでいるんだ。
「ちく……しょうっ」
おそらく、ベーデはもう持たない。呼吸は荒く、確実に疲れ切っているのが分かる。
こうなったら一思いに逃げるしかない。仔竜は身を縮めて、走り出そうとした。
「魔王様」
出口から新たに入ってくる姿に足が止まる。フィーが手近な本棚に隠れると、軽い足取りと刻むような歩調が、魔王に近づいた。
「こちらにお出ででしたか」
「どうした、珍しく慌てているようだが」
「例のコボルトが、行方をくらませました」
報告に、場が一瞬で凍りついた。
魔王の周囲から楽しそうな気配が失せ、さっきの寒気が辺りに充満する。
「参謀、番衛視ベーデの身柄を拘束し、牢につなげ。他の牢番に命じて、今すぐ仔竜の牢獄を確認させろ」
「ま、魔王様っ!? お、俺っ!」
「それと、現在このフロアにいる全ての職員に伝達だ」
ベーデの弁明を全く無視して、青年は冷たい命令を口にした。
「資料室内をくまなく捜索し、脱走した青い仔竜、フィアクゥルを捕獲せよ、とな」
甘さの消え去った言葉に、フィーの視界が暗くなる。
魔王はこの場を部下に任せて、シェートの捕獲に向かうつもりだろう。せっかく向こうも脱出したというのに、このままでは共倒れになる。
全て、ここで終わりなのか。
「……と、いうことだ。聞いているのだろう、仔竜よ」
どこまでも事務的で、淡々とした声が、皮膚に突き刺さる。
「少々、状況が変わったのでな、お前とのゲームはいったんお開きとする。なかなか楽しめたぞ」
「……待てよ」
本棚から這い出すと、フィーは魔王の目の前に姿を現した。背後のガラス壁の辺りに、命令を聞いた職員が、続々と集まってくる気配を感じた。
「勝手に終わりにすんな。俺のターンは、まだ終わってないぜ」
「ほう? では、どうするつもりだ?」
背後に集まった魔物たちのざわめきが、次第に近づいてくる。
仔竜は魔王を見上げ、決心を絞り出した。
「"透解"!」
そして、わき目も振らず、魔物の集団へ突進する。
「なるほど、次のゲームは鬼ごっこか」
魔王の声が嬉しさに潤い、矢のようにフィーに浴びせられた。
「いいだろう! 今しばらく、楽しませてもらおうか!」