10、ガナリとナガユビ
思ったとおり、兄の顔は毒虫でも見るような顔で自分を出迎えた。もちろん、そんなことはどうでもいい。
「……一体、何をしに出てきた」
「兄上の、お赦しを頂きに参上仕りました」
「赦し、だと!?」
つかつかとこちらに歩み寄る影。うつむいているこちらには見えないが、鬼神も逃げ出すような形相をしているに違いない。
「今更どの面を下げてそのようなことを!」
「はい。その通りでございます。全く、愚劣極まりなきことをしたと、心より恥じ入るばかりでございます」
「口先だけならいくらでも述べられようぞ! それでは今すぐ遊戯を退き、我と他の神々に謝罪をするがよい!」
「仰せのままに」
そっけない返答に、相手の怒りが瞬間消え去る。そのタイミングを見計らい、サリアは顔を上げた。
「……お赦しください! 兄上!」
溢れる涙が頬を伝い、その足に取りすがる。今までに無い展開に兄も、周囲も凝然とこちらを見つめていた。
「私は、愚かでした。自らの世界を失い、その悲しみと悔しさゆえに、正しきものを見誤り、世界を呪っておりました。あのような魔物に心を動かしたのも、ひとえに我が心と不徳のいたすところと……」
「ま……まぁ、分ったのであれば、よい」
若干居心地の悪そうな顔をしていた兄は、それでも思う以上の上機嫌でこちらの手を取った。
「わかってくれるのなら、それでよいのだ。……そうだな、このままでは遊戯の約定により、そなたは世界から消失してしまう。どうだろう、サリアよ」
まるで、この世の全てが自分に賛同してくれる、そういわんばかりの倣岸な笑顔で、ゼーファレスは妹である自分を見つめてきた。
「そなたを我が半神に迎え、夫婦として新たな神性を得るというのは? 見目も麗しく、心根も優しいそなただ。兄妹神が新たなる創生の神となる世界も少なくないのだし」
「……もったいない、お言葉、ありがとう、ございます」
顔を伏せ、肩を震わせて、サリアは答えた。
内心を表に出さぬまま。
「そうと決まればイェスタ!」
「すでにここに」
いつの間にか背後に立っていた審判の女神に、さすがの兄も色を失っていた。
「ええい! 少しは間というものを考えよ!」
「ですが、お二方の寿ぎには、何をおいてもはせ参じませぬと考えた故」
「んっ、よ、よき心がけであるな。ではイェスタよ、サリアの遊戯参加を取り消し、代わって我が伴侶と為す儀式を」
「ああ。その前に、一つお願いしたきことが」
伏せていた顔を挙げ、輝くような笑顔で、サリアは兄にしなだれかかった。その仕草に上機嫌の神は、妹を抱きとめる。
「なんだ? 早速婚前のねだりごとか?」
「はい。例の、汚らわしい魔物のことでございます」
「ふん?」
「あの者を、我らの婚前の出し物に、屠っていただきたいのです」
こちらの言葉を受けて兄は、大きな笑い声を上げた。
「一体どうしたのだ! あれほどの大見得を切って守ろうとしたというに!」
「私の不明でございました。もう少し骨のあるものと思いましたが、兄上の勇者を見て、敵わぬ相手と戦うなど愚の骨頂と、私に三行半を突きつけようとしたのです」
「なるほど。最後の立ち回りには見るべきところもあるようだったが、所詮はゴミか」
「その姿を見たゆえ、私は、心を決めたのです」
サリアは、兄の顔を見つめた。
愉悦に溢れ、我が世の春を謳歌する、喜色満面の、傲慢な神を。
「そこで、兄上。御身の勇者と彼の魔物とで、決闘を行っていただけないでしょうか」
「なぜ……そのような真似をせねばならん?」
兄の顔は、笑っていた。
ただその目は、探るような鋭い視線で、こちらを見据えている。
「ただ屠るのであれば、汝の加護を断つだけでよいではないか?」
そうだ、彼もまた神。
こんな美人局のような手で騙し果せるようなら、苦労は無い。
サリアは、それまでの華やかな顔を、峻厳に引き締めた。
「……兄上、私は、ただ御身を飾る花になるつもりは無いのでございます」
「ふむ?」
「偉大なる御方、諸世界に美しき軍神ありと語られ、美なるものの判断者、勇ましき者の庇護者たる兄上の妻であるならば、私はまず、自らを鍛えねばなりませぬ」
その腰に吊られた細剣を手に取ると、素早く引き抜いた。
「何の真似だ」
「これは決意でございます」
切っ先を喉元に突きつけ、兄を見据える。対する兄は無言で、こちらを睨んでいた。
「愚かなこととはいえ、私は自らの意思で戦を始めました。いわば一軍の将、その将が命惜しさに敵軍に尾を振りたてるなど、あってよいものでしょうか? ましてや、それが軍神の妻となるものの在り様でございましょうか?」
「つまり、我に死に水を取れと?」
「ただの敗北、死ではなく、栄光在る御身の刃に掛かり、愚かな生を終える。それこそ我らが婚儀の祝いにふさわしい宴かと」
再び跪き、剣を捧げる。まるで、騎士の叙勲を待つもののように。
「愚かな私の過去と未練を、兄上のお慈悲で、断ち切っていただきたいのです。せめて、自らの意思で戦ったという証を、くださいませ」
「天晴れな決意である。だが、彼の魔物はどう言うであろうな」
「所詮は我が力で命を永らえた塵芥。命を返せと脅せば、たやすく泣きつく事でしょう。その上で、一太刀でも勇者に傷を負わせれば、放免するとでも言えば」
兄は、沈黙した。
じりじりとした時が過ぎる。神となったものが、普段は意識することの無い刹那とも言うべき時が。
「……よかろう」
言葉と共に、剣は受け取られた。
一瞬、喉から安堵がこぼれそうになる。それを必死に押しとどめ、代わりに、新たな涙と嗚咽を漏らしてやる。
「あ……ありがとう、ございます……」
「では、善は急げだ。早速……」
「その前に、皆様の前でお誓いくださいませ。兄上の勇者と、我が魔物との決闘を約定すると。兄上の勝利の暁には、わが身を妻に娶られことを」
こちらの一言で、兄は自分の性急さを恥じ入るように、一つ咳払いをした。
「では……我はここに宣言しよう。これより、我が妹、サリアーシェの魔物と、我が勇者との決闘を行う儀を結ぶ! 我が勝ちし時には、妹を我が妻とする!」
その場に居た、全ての神々が湧き上がった。広間の輝きはさらに増して、目も眩むような情景に変わって行く。
「これでよかろうな?」
「ありがとうございます。兄上」
「お待ちください、ゼーファレス様」
喜びに溢れた兄に水を差したのは、黒いスーツの女神。その杖で廻り踊る時計に目をやりつつ、笑顔を向ける。
「天秤には片方の重みしか乗っておりませぬ」
「そなたは何を言っておるのだ? 決闘の宣言は済ませたではないか」
「決闘を宣した以上、サリアーシェ様が勝たれました時の約定をお決めくださらないと」
「馬鹿馬鹿しい。あのような魔物に我が勇者が負ける道理が無い」
「そうですよ、イェスタ。兄上を困らせないように」
あえて、サリアは審判の女神をたしなめる。イェスタの顔は、嬉しくてたまらない、とでもいうような笑顔をしていた。
「それではだめなのです。私は公平なる審判を任された身。天秤のもう片方にも、同じく重みを掛けなければ」
「面倒な……。ならば、我が負けた暁には、普段の取り決めどおり、我が勇者に掛けた対価の全てをサリアーシェに引き渡そう、これでよいか?」
「ありがとうございます。お手間をとらせまして」
きりきりとネジが巻き上がり、はと時計がやかましく時を刻む。騒々しい音と共に、イェスタが下がると、サリアは最後の言葉を切り出した。
「ところで兄上、あまりに一方的では勝負は面白くない、そう思われませぬか?」
「私はそのような戦が好きだがな」
「まぁ、そのようなことを!」
鈴を転がすような声で笑うというのは昔から苦手だった。そういうのは、強い男神の側で侍ることしか興味のない、鳴き鳥のような能無しがやればいいのだ。
そんな苦い気分を押し隠し、いかにも頭が悪そうに聞こえるように、笑ってみせた。
「これは余興、ここにおわします神々の目を楽しませるものでございますのに! 勇ましき者の戦を、その働きを、思う存分見ていただこうではありませんか!」
「その相手があの犬っころか?」
「ですので、駒落ちなどされてはいかがでしょう」
盤面を戦場に見立てる遊戯で良くあるハンデ戦。その提案を受けると、兄はむっとした顔をして見せた。
「神器を封ぜよと?」
「いいえ滅相な。あれを使わずして勇者の美々しさは成り立ちませぬ」
「仲間を下げよと?」
「友との絆は勇者の華。それを下げるなど、お話にもならぬかと」
「では、何を落とす?」
「御身を」
呆けたような顔をした兄は、気の抜けた顔で言葉を吐き出した。
「私をか?」
「はい。この時より、我が配下との決闘についての情報提供、決闘の間の助言、さらに新たな神力の付与、一切を封じていただきたい」
「は……」
口を開け、兄はこちらを見つめた。
驚きから苦笑、失笑へと表情が変わっていく。
「は……ははは! まさか、サリアよ! 我さえ封じれば、彼の勇者にあの魔物が勝ちうるなどと、考えておるのではあるまいな!」
だが、その顔は本人が言うほど、確信には満ちていない。
軍神としての面が、彼に何かの不安を告げたのだろう。
「少し考えさせよ。座興なのだ、我にも何事か提案を」
「考えることなどありますまい! 兄上の仕込んだ勇者殿なのです。お言葉が無くとも必ずやあの程度の魔物を討ち果たせるはず。そう思われませぬか? "万緑の貴人"よ」
それまで面白そうに事態を見つめていたエルフが、ぎょっとした顔で体を浮かせた。
「あ、ああ、その通りですとも。ゼーファレス様の勇者殿ですからな、は、はは」
その顔が見る見るうちに蒼白になる。自分の背後に『余計なことを言いやがって』と睨みつける顔の兄でも見出したのだろう。
「皆様もそう思われましょう!? 我が兄は見事な勇者を仕上げられ、その御言葉無くとも、試練を果たされる力を持っておられると!」
サリアの言葉に、神々が胡乱な顔で賛同の声を上げる。
これは一体どんな茶番なのか、誰も理解できていないといった風情で。
その賛同に、同じく気の抜けた笑みで片手を挙げる兄。だが、こちらの意見を翻すつもりは無いのは明らかだった。
もし、ここで不満でも述べようものなら、まるでサリアの配下、最弱の魔物に臆したように見えてしまう。見栄っ張りの兄には、その一言は切り出せない。
「では兄上、誓いを」
「う、うむ。我はこの時より、勇者に対する力の行使、助言をサリアーシェの魔物との決闘の間、封じる」
どこかで時計杖が新たな時を刻み、約定が絶対的な掟となって世界に満ちた。
「……ふうっ」
女神は美しい金髪を掻き揚げ、安堵の息を漏らす。
そして、兄の側からつかつかと離れ去った。
「お、おい、サリア?」
「気安く話しかけられますな、兄上」
そして広間の中央、石造りの東屋にしつられられた石の一つに、どっかと腰を下ろす。
「今より御身と我は敵同士なれば。さぁ、対手として腰掛けられよ」
驚き、疑念、かすかな苛立ちを浮かべながら、石の座卓を前に、対面に座る兄。
そしてサリアは、片手を掲げて水鏡を浮かび上がらせた。
「聞こえておるか、シェート」
『……うまくいったか?』
「ああ。獲物はまんまと罠に掛かったぞ」
ざわつく周囲と、怒りをあらわにした兄を完全に無視し、女神は森の中を進む小さな、しかし恐るべき魔物を見た。
「"ナガユビ"は立派に勤めを果たした。あとは任せたぞ"ガナリ"よ!」
『まかせろ!』