「愛があれば領地は回る」と息子が言うので、私は侯爵家の仕事を辞めました
「愛があれば領地は回る」と息子が言うので、私は侯爵家の仕事を辞めました
カイルがアメリアとの婚約を破棄したのは、領地の納税期限を三日後に控えた夜だった。
「僕は真実の愛を見つけた。冷徹な君とは結婚できない」
夜会の広間で、息子は下級貴族の娘を腕に抱き寄せた。アメリアは返事をしなかった。彼女の手には、翌朝私と確認するはずだった領地の支出一覧が入った書類袋がある。夜会へ来る直前まで、仕事をしていたのだ。
夫は息子を止めるどころか、感心したように頷いた。
「若いうちは情熱に従うべきだ。アメリア嬢も分かってくれるだろう」
「分かりました」
先に答えてしまったのは私だった。何が分かったというのか、自分でも説明できなかった。夫の袖を掴んで広間から引きずり出したいのに、足が動かない。
アメリアは書類袋を胸に抱え直した。その指先が震えているのを見て、私はようやく息子の前へ出た。
「カイル。アメリアに渡す言葉は、それで全部?」
「母上まで反対するのですか。アメリアの持参金がなくても、愛があれば領地は回ります」
「そう」
私は息子の顔を見た。小さいころ、帳簿を閉じて迎えに行くと、必ず私の手を引いて庭を走った子だ。今、その手は別の娘の腰に回り、三年間侯爵家の仕事を手伝ってきたアメリアを指さしている。
「なら、領地のことはあなたに任せます」
翌朝、アメリアを王都のホテルへ呼んだ。秋晴れのテラス席には日が差し、運ばれてきたスコーンからまだ湯気が立っていた。私はクロテッドクリームの器を彼女の方へ寄せたが、アメリアは手を伸ばさない。
「お義母様。昨夜、屋敷を出るように言われました」
「聞いているわ。荷物は伯爵家へ届けさせる手配をしたけれど、行き先を決めたのは私よ。あなたが望まないなら、止める」
「実家へ帰ります」
アメリアはそれだけ言い、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。私はスコーンを割った。断面から立つ湯気を見ているうちに、昨夜から何も食べていなかったことに気づく。
「私も、侯爵家の仕事を辞めるつもり」
「領地の帳簿は、どうなるのですか」
「まず、その心配をするのね」
「納税まで三日ですから」
アメリアは書類袋を膝へ引き寄せた。昨日、広間で持っていたものだ。私は袋の口を押さえた。
「中の資料は侯爵家のもの。必要なら返していい。でも、続きをあなたが仕上げる必要はないわ」
「私が途中までやった仕事です」
「ええ。だからこそ、ここまでの分は記録に残しましょう。あなたの名前も、働いた日数も」
アメリアは袋から手を離さなかった。息子への未練ではないだろう。数字を合わせてきた三年間を、途中で放り出したくないのだと思う。私にも、その気持ちは分かった。
「最後の確認だけ、私にさせてください」と彼女は言った。「納税額が確定したところで、書類を引き渡します。その先は、もう引き受けません」
「分かった。一緒に確認しましょう」
私たちはスコーンを食べてからホテルの小部屋を借りた。茶会へ行くために磨いた靴のまま、机の下へ足を入れ、夕方まで帳簿を見た。数字が一つ合わず、アメリアが顔をしかめたので、私が先月の伝票を取りに屋敷へ戻った。
書斎には夫がいた。私の机の上にある帳簿を、一冊も開いていない。
「アメリア嬢はどこだ」
「ホテルよ。明日、納税額の確認を終えたら書類を返すわ」
「なら、早く戻せ。カイルも言い過ぎたと――」
「婚約は解消するのね」
「ああ。だが、仕事まで投げ出すことはないだろう。君もアメリア嬢も、感情的になっている」
私は伝票を探す手を止めた。昨夜は情熱に従えと言い、今は感情を持ち込むなと言う。そのとき必要な言葉を選べる夫が、少し羨ましかった。私は二十年、言いたいことを飲み込んでから口を開いてきたのだから。
「婚約がなくなる以上、アメリアが侯爵家の仕事を続ける理由もないわ。私は今月末で、領地の実務から退く」
「勝手なことを言うな。誰が引き継ぐ」
「あなたとカイルよ。執事長たちにも仕事はある。でも、最終的に決めるのは侯爵家の当主と跡取りでしょう」
夫は返事をしなかった。私は伝票を見つけ、書斎を出た。階段を下りる途中で膝に力が入らなくなり、手すりを掴んだ。離れると言えたからといって、明日から平気でいられるわけではなかった。
翌日、納税額が確定した。アメリアは作業の記録を添えて帳簿を返し、伯爵家へ帰った。彼女の実家が侯爵領へ出していた投資金については、契約に定められた期限に従い、更新しない旨の通知が届いた。私も執事長へ、今月末までに担当していた仕事の一覧を渡した。
夫とカイルは初めて、翌月に必要な支払いと、手元の金額を同じ紙の上で見た。王都で予定していた大きな祝宴は取りやめになった。カイルが税務官を迎えに行き、夫が銀行へ返済計画の相談に出たと、執事長から聞いた。
「母上が一言言ってくだされば、こんな騒ぎには」
屋敷で鉢合わせたカイルが言った。私は足を止めた。
「毎月、帳簿を見せていたわ」
「細かい数字ばかりで、意味が分からなかったんです」
「分からないと聞かれたことは、一度もなかった」
カイルは口を閉じた。私は彼の顔を見たまま、昨夜、広間で聞いた言葉を返した。
「愛があれば領地は回ると言ったでしょう。今度はあなたが、帳簿を開いて確かめなさい」
私はその横を通り過ぎた。振り向けば、また私の方から説明を始めてしまいそうだった。
月末、私は実家から引き継いだ王都の小さな家へ移った。夫との別居と財産については、互いの代理人を通して話を進めている。結婚を二十年続けたのだ。書類一枚で済むとは思っていない。それでも、侯爵家の机に戻って数字を合わせることだけは、もうしないと決めた。
引っ越しの翌日、アメリアが訪ねてきた。持ってきたのは伯爵家の庭で採れた林檎と、帳簿ではなく、彼女が書いた短い手紙だった。
『次は、自分が働きたい場所を探します』
「もう、お義母様とお呼びしてはいけませんよね」
「好きに呼んで。あなたが決めていいのよ」
「では、エレノア様。今日はお茶だけ、いただいてもよろしいですか」
私は台所から湯を運んだ。アメリアが林檎を切り、私が茶葉を量る。二人とも、次に何をするか決めなくてよい午後だった。
窓際の小さな卓に皿を並べると、アメリアが先に一切れ取った。私も林檎を口に運んだ。甘みのあとに少し酸味が残る。彼女がスコーンに手を伸ばせなかった朝から、ひと月がたっていた。




