霧の平壤
※本作は明治〜大正期文学を意識し、歴史的仮名遣い・旧字体風表記を用いています。
『霧の平壤』
序
人間が他人を愛するといふことは、畢竟、自己の寂寥を他人の寂寥へ投げかけることに過ぎぬのではないか。
私は近頃、折に觸れてさうしたことを考へる。
無論、人間は一人では生きて行かれぬ。
然し二人で居たところで、結局人間は各々《おのおの》孤獨である。
私はこの稿を書かうとして幾度も机へ向つた。然し筆を執る度に、胸の奧に何か冷たいものが湧き上つて來て、私は知らず知らず筆を置いてしまふのである。
平壤――。
私はあの町の名を思ひ浮べるだけで、今でも妙に胸苦しい。
あの灰色の空。
濕つた石畳。
春雪に濡れた瓦。
病者の咳。
遠く南山の鐘の音。
それ等は既に過ぎ去つた歲月の殘響に過ぎぬ。
然し、人間の情ばかりは、時代が移り變らうとも、少しも變りはせぬものらしい。
愛すること。
失ふこと。
孤獨であること。
其等は昔も今も、恐らく同じ痛みを人間へ與へるのであらう。
槇村小三郎といふ一人の青年と、おとよといふ少女との短い歲月も、亦その痛みの一つであつた。
私は今、既に遠くなつた明治の末の記憶を辿りながら、靜かに此物語を書き始めようと思ふ。
第一章 南門外の春雨
明治三十八年四月の末であつた。
京城發平壤行の汽車は、夕刻近くになつて漸く大同江鐵橋を渡つた。
窓外には鉛色の空が低く垂れ、川の水は濁つた光を鈍く返してゐた。
岸には藁屋根の家々が肩を寄せ合ふやうに並び、其間を白衣の朝鮮人が默々《もくもく》と歩いてゐた。
槇村小三郎は窓硝子へ額を寄せたまゝ、ぼんやり其風景を眺めてゐた。
車室には日本人商人らしい男が二三人居り、朝鮮煙管の匂ひを漂はせてゐた。
彼等は露西亞との戰後貿易の話や、大阪商船の景氣のことを大聲で話してゐたが、小三郎は殆んど耳を貸さなかつた。
彼は唯、曇つた窓の向うを流れてゆく異國めいた景色ばかりを眺めてゐたのである。
京都帝國大學文科大學哲學科に籍を置く彼は、其頃、人生といふものを餘りに觀念的に考へ過ぎてゐた。
友人達と徹夜で人生論を語り、自我とか自由とかいふ言葉を、半ば宗教のやうに口にしてゐた。
人間は如何に生くべきか。
個性とは何か。
戀愛は人間を救ふか。
彼等はそんな議論を繰返し、さうして其議論に醉つてゐたのである。
然し其實、小三郎自身はまだ一人の人間をも深く愛したことがなかつた。
許婚――。
父からその話を聞かされた時、彼は激しい反撥を感じた。
家と家との結び付き。
商賣上の都合。
さうしたものゝ爲に、一人の人間の一生が定められるといふことが、彼には甚く野蠻なことに思はれたのである。
殊に相手の杉浦家が北前船で財を成した豪商であると聞いてからは、彼は益々《ますます》反抗的になつた。
『金持同士が勝手に決めた縁談だ。』
彼は京都で友人達にさう云つた。
『僕は愛情のない結婚など信用しない。』
友人達は笑つた。
『槇村、お前は白樺を讀み過ぎる。』
然し小三郎自身、その言葉を半ば誇りに思つてゐた。
其頃の青年は、誰しも多少さうした理想思想に醉はされてゐたのかも知れぬ。
汽車が平壤驛へ滑り込んだ時、空には細かい雨が降つてゐた。
停車場には憲兵の姿も見え、露店の燈火が濡れた石畳へ滲んでゐた。
小三郎は外套の襟を立て、鞄を抱へて改札を出た。
すると、人混みの向うに、一人の少女が靜かに立つてゐるのが見えた。
鼠色の袴。
紫紺の肩掛。
細い指先に蛇の目傘。
少女は春雨の中へ、妙に靜かな姿で立つてゐた。
小三郎はその姿を見た瞬間、不思議な心持になつた。
其處には華やかな美しさはなかつた。
然し何處か、人を默らせるやうな、寂しい清潔さがあつたのである。
少女は小さく會釋した。
『槇村樣でいらつしやいますか。』
聲は驚くほど落着いてゐた。
『杉浦とよでございます。』
小三郎は一瞬返事を忘れた。
停車場の屋根を叩く雨音ばかりが細かく續いてゐた。
彼はやがてぎこちなく頭を下げた。
『……初めまして。』
少女は微かに笑つた。
『父から、氣難しい學生樣だと伺つてをりました。』
『多分、誤解です。』
『では安心いたしました。』
その笑ひ方は妙に柔かで、小三郎は急に言葉を失つた。
彼は其時、自分が今まで勝手に作り上げてゐた「商家の娘」といふ像が、音もなく崩れてゆくのを感じたのである。
停車場を出ると、平壤の町には春寒い霧が漂つてゐた。
遠くで教會の鐘が鳴つた。
露店では朝鮮人の老婆が白磁の鉢を賣つてゐた。
其等の光景を眺めながら、小三郎はふと、自分が今まで知らなかつた世界へ踏み込んだやうな氣がしたのである。
さうして其世界は、彼が今まで頭の中だけで考へてゐた人生よりも、餘程濕つて、暗く、又人間臭いもののやうに思はれた。
第二章 白磁の茶碗
杉浦家の屋敷は大同江に近い一角にあつた。
北前船で財を成した商家らしく、庭には老松が植ゑられ、座敷には蒔繪の箪笥や唐木の机が置かれてゐた。然し廊下を渡る風には朝鮮特有の冷たさがあり、障子の向うからは時折異國語の響きが聞えて來た。
夕餉の後、小三郎とおとよは縁側へ並んで坐つた。
雨は既に止み、濕つた庭には白い月光が落ちてゐた。
『京都帝大は、どのやうな處でございますか。』
『自由な場所です。少なくとも私にはさう思へます。』
『自由……。』
おとよはその言葉を靜かに繰返した。
『女學校では、餘り聞かぬ言葉でございます。』
『あなたは違ふのですか。』
『私も、本ばかり讀んでゐる變り者でございます。』
さう云つて彼女は微かに笑つた。
其笑ひ方には、何處か人を寂しくさせるものがあつた。
机の上には『文學界』や『新聲』の古雜誌が積まれてゐた。
與謝野晶子の歌集は幾度も讀返されたらしく、頁の端が柔かく擦れてゐた。
小三郎はそれを見て、少し驚いた。
地方の商家の娘に過ぎぬと思つてゐた少女の内部に、自分と似た孤獨が靜かに潜んでゐるやうな氣がしたのである。
彼は妙に胸苦しかつた。
人間は、自分と似た寂しさを持つ者に出會ふと、何故か急に相手から眼を離せなくなるものらしい。
小三郎は其夜、縁側へ落ちる月の光を見詰めながら、長い間默つてゐた。
第三章 南山の月
六月の平壤には、妙に人間の情を不安にさせるやうな濕つた風が吹いてゐた。
晝の町は埃と熱氣に滿ちてゐるのであるが、夕方になると大同江の方から冷たい空氣が流れて來て、瓦屋根や石畳の色までも急に沈んで見えた。
小三郎は次第に平壤の町へ馴れて行つた。
南門外の市場に漂ふ胡麻油の匂ひ。
朝鮮人の荷擔人夫の掛聲。
夕暮になると何處からともなく聞えて來る伽倻琴の低い音。
彼は最初、それ等の總てを異樣なものとして眺めてゐた。然し日が經つにつれて、其異國めいた空氣の中へ、自分の感情が少しづゝ溶け込んでゆくのを感じ始めたのである。
或夕方、おとよは小三郎を南山へ誘つた。
『月が綺麗だから、御覽になりませんか。』
二人は石段の多い坂道を默つて登つた。
山の中腹には古い城壁が殘つてゐた。
石は長い歲月に磨り減り、其隙間には細い草が生えてゐた。
頂へ出ると、町の燈火が遠く霧のやうに滲んで見えた。
大同江には淡い月光が落ち、水面が靜かに鈍く光つてゐた。
『平壤は、お嫌ひですか。』
おとよが不意に訊いた。
小三郎は少し考へてから答へた。
『最初は嫌ひでした。』
『今は。』
『今は、何だか妙に離れ難い氣がします。』
おとよは默つて微かに笑つた。
その笑ひ方には、何處か言葉に出來ぬ悲しさが含まれてゐた。
小三郎は其時、この少女の内部にも、自分の知らぬ孤獨が深く沈んでゐるやうな氣がした。
彼は京都では絶えず人生を論じてゐた。
自由。
自我。
理想。
個性。
然し此處では、さうした言葉が急に空疎なものに思はれた。
月の下でおとよと並んでゐる時だけ、彼は妙に安らかな心持になれたのである。
然し同時に、幸福といふものは、斯うして意識した瞬間から既に崩れ始めるものではないかといふ、不吉な感覺も胸の底に生れた。
其夜、平壤の月は異樣に白かつた。
第四章 大同江の夏
明治三十九年の夏、平壤は濕氣の多い暑さに包まれてゐた。
大同江の河岸には荷船が幾艘も並び、日本人商人や朝鮮人の人夫達が汗だくで荷を運んでゐた。
米俵。
乾魚。
木綿。
石油罐。
其等の匂ひが、夏の熱氣の中に混ざり合つてゐた。
小三郎は其時初めて、商賣といふものが無數の勞働の上に成り立つてゐることを知つた。
夜になると、おとよは團扇を持つて縁側へ出た。
『平壤の夏はお嫌ひですか。』
『いえ、嫌ひではありません。然し暑過ぎます。』
『京都の方が暑いと聞きました。』
『京都の暑さは、何處か理屈つぽいのです。』
おとよは聲を立てゝ笑つた。
『暑さに理屈があるのですか。』
『えゝ。京都には妙な窮屈さがあります。』
彼女は笑ひながら、小さく咳きをした。
其時小三郎は、何故だか妙な胸騷ぎを覺えた。
然し彼は其理由を、自分でも説明することが出來なかつた。
第五章 秋燈
秋になると平壤の空は高く澄み、南門外の楊柳も薄く色づき始めた。
小三郎は京都へ戻る日を幾度も延ばしてゐた。
彼は其理由を、自分でも明瞭に説明することが出來なかつた。
然し、おとよと話してゐる時だけ、自分が少し素直な人間になれるやうな氣がしたのである。
其夜、二人は書庫で夏目漱石の『草枕』を讀んでゐた。
『智に働けば角が立つ。』
おとよが靜かに讀んだ。
『情に棹させば流される。』
油燈の火は時折青く搖れ、窓外には蟲の音が續いてゐた。
『槇村樣は、幸福《かうふく》になれますか。』
不意におとよが訊いた。
『どうしてです。』
『槇村樣は、餘りに色々なことを考へ過ぎていらつしやるから。』
小三郎は少し笑つた。
『幸福など、僕にはよく分りません。』
『私は時々怖くなります。』
『何がです。』
『幸福といふものは、餘り長く人間の處へ留まらぬやうな氣が致します。』
小三郎は默つてゐた。
彼も亦、其言葉を否定することが出來なかつたのである。
第六章 咳
明治四十二年の冬は殊の外寒かつた。
平壤の空には鉛色の雲が居座り、大同江の水面には薄い氷が浮いてゐた。
おとよが初めて血を吐いたのは、その年の十二月であつた。
彼女は最初、それを家族へ隱してゐた。
然し咳は次第に深くなり、夜毎、細い肩を震はせるやうになつた。
小三郎は京都から急ぎ平壤へ戻つた。
病室へ入ると、おとよは白い寝臺の上に横たはつてゐた。
顔色は透けるやうに青白く、以前の快活さは既に失はれてゐた。
『大袈裟ですわ。』
おとよは笑はうとした。
『少し風邪を引いただけでございます。』
然し其聲は餘りにも弱々しかつた。
醫師は肺病であると告げた。
肺病――。
當時、それは殆ど死を意味した。
青年達は理想を語り、文明を論じ、自由戀愛を唱へた。
然し、一片の喀血の前では、其等は餘りにも脆弱であつた。
第七章 療養地
山莊は平壤郊外の松林の奧にあつた。
冬になると、風は絶えず松葉を鳴らし、病室の障子には淡い日が差した。
おとよは以前よりも餘程痩せてゐた。
然し彼女は病人らしい愁ひを餘り見せなかつた。
『私は、病人らしく見えますか。』
『少しも。』
『それなら宜しい。』
彼女は白い指先で毛布の端を撫でた。
『私は、人から可哀相だと思はれるのが嫌ひです。』
小三郎は返事をすることが出來なかつた。
彼は初めて、人間の誇りといふものを此少女から學んだやうな氣がしたのである。
第八章 雪曇り
明治四十二年の末、平壤には早い雪が降つた。
小三郎は京都と平壤とを何度も往復してゐた。
其度に、おとよは少しづゝ衰へて行つた。
彼は時々、自分が何か大きな流れに押し流されてゐるやうな氣がした。
人間は、自分の意志だけでは生きられぬ。
病。
死。
別離。
其等は皆、突然人間の前へ現はれる。
其事を考へると、小三郎は暗い疲勞を感じた。
或晩、おとよは窗の外を見ながら云つた。
『雪は、何だか靜かで好きです。』
『えゝ。』
『世界が少し遠くなるやうな氣が致します。』
小三郎は默つて彼女の横顏を見てゐた。
其頰は既に透けるほど白かつた。
第九章 春を待つ
翌年の二月になると、おとよは殆んど起き上がれなくなつた。
小三郎は講義を棄てゝ平壤へ留まつた。
友人達は彼を心配した。
『槇村、お前は自分まで病むぞ。』
然し彼は耳を貸さなかつた。
彼にとつて、今や世界は山莊の病室だけになつてゐたのである。
午後になると、彼は窓を少し開け、春の匂ひを病室へ入れた。
おとよは薄く目を開けた。
『春は來ますか。』
『えゝ、もう直です。』
『櫻を見たいですね。』
彼女はさう云つて微かに笑つた。
小三郎は胸の奧で、何か長い間支へてゐたものが、靜かに崩れてゆくやうな氣がした。
第十章 霧の朝
明治四十三年三月。
おとよは十六歳で死んだ。
その朝、山莊の窓の外には深い霧が立ち込めてゐた。
小三郎が駈け附けた時、彼女は既に殆ど聲を失つてゐた。
『槇村樣。』
彼女は細い指で彼の袖を掴んだ。
『春になりますね。』
小三郎は頷いた。
『えゝ、もう直櫻が咲きます。』
『見たかつた……。』
其處で言葉は途切れた。
小三郎は彼女の手を握り續けた。
やがて霧の中で鳥が鳴いた。
其時、おとよの指先から、靜かに力が拔けて行つた。
第十一章 遺稿
葬儀の後、小三郎は杉浦家の離れへ一人で籠つてゐた。
机の上には、おとよの使つてゐた文箱が置かれてゐた。
中には讀みかけの『白樺』や、幾枚かの半紙が殘されてゐた。
其一枚に、おとよの細い文字で斯う書かれてゐた。
『人間は、誰でも淋しいものだと思ひます。けれど、二人で居る時だけは、その淋しさを忘れられるやうな氣が致します。』
小三郎は長い間、その文字を見詰めてゐた。
夕暮になると、遠くで汽笛が鳴つた。
平壤の町は以前と變らず動いてゐた。
然し彼の内部では、何かが完全に終つてゐたのである。
第十二章 春雪
おとよが病み始めてから、小三郎は以前のやうに人生を語らなくなつた。
彼は京都へ戻つても友人達の議論に加はらず、下宿で一人ぼんやり煙草ばかり喫んでゐた。
以前なら激しく語つた筈の自由戀愛も、個人主義も、人道主義も、今では何處か遠い空論のやうに思はれた。
病氣は餘りにも實際的であつた。
一片の喀血。
夜半の咳。
衰へてゆく指先。
さうしたものゝ前では、青年達の理想など餘りにも脆弱であつた。
然し小三郎は、だからと云つて冷笑家になることも出來なかつた。
彼は唯、人間が幸福になるといふことの困難さを、初めて身體で知つたのである。
明治四十三年三月、平壤には珍しく遲い雪が降つた。
山莊の庭木にも白い雪が積り、病室の障子には淡い光が差してゐた。
おとよは枕元で靜かに目を閉ぢてゐた。
呼吸は既に弱く、胸の上下も殆ど見えなかつた。
小三郎は其傍に坐り、一晩中彼女の手を握つてゐた。
夜明近く、おとよはふと眼を開けた。
『槇村樣。』
『何です。』
『春になりますね。』
小三郎は窓の外を見た。
雪は止みかけてゐた。
『えゝ。もう直、櫻が咲きます。』
おとよは微かに笑つた。
『見たかつた……。』
其處で言葉は途切れた。
小三郎は何か云はうとした。然し聲が出なかつた。
やがて、彼女の細い指から靜かに力が拔けて行つた。
外では鳥が鳴いてゐた。
雪解の雫が軒先から落ちてゐた。
その朝、平壤の空は妙に白かつた。
終章
小三郎が死んだのは、その年の初夏であつた。
友人達は、彼が深い喪失の中にあつたと語つた。
然し彼が最期に何を思つたのかを知る者は居ない。
唯、彼の遺した手帳には短い文章が記されてゐた。
『人間は、愛する者を失つた時、初めて本當に獨りになる。』
平壤の町は今も昔と變らず存在してゐる。
市場には人々が集まり、春になれば雨が降る。
然し、あの時代に生きた一人の青年と一人の少女は、既に何處にも居ない。
私は唯、彼等の短い歲月を思ふ時、霧の中から微かに春の匂ひが漂つて來るやうな氣がするのである。
さうして人間の一生といふものも、結局は春の霧のやうに、淡く、掴み難く、又何處か淋しいものではないかと思はれるのである。




