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第1話:青に触れる

秋の放課後。


図書室の窓から差し込む西日は、

埃の粒子をキラキラと反射させて、

まるで時間の流れを止めているようだった。

私は図書室の片隅、一番奥の席で、

祈るようにスケッチブックを広げていた。


一ヶ月前、私は住み慣れた街と、

両親との思い出が詰まった家を離れた。

交通事故というあまりにあっけない別れの後、

私を引き取った母方の叔母一家の表情には、

隠しきれない「困惑」が滲んでいた。

「大変ね」「可哀想に」という言葉の裏側に透け

て見える、生活が変わることへの拒絶反応。


「邪魔者にならないように、息を潜めて生きる」


それが、私の新しい日常の、

唯一のルールになった。



転校して、今日で一ヶ月。

新しい学校の制服はようやく肌に馴染み始めたけれど、代わりに周囲との壁は厚くなる一方だった。

長く伸びた前髪で顔を隠し、猫背で視線を落として歩く私の姿は、この一ヶ月で格好の標的になった。


「おい、貞子。こっち見んなよ、呪われる」


背後でクスクスと響く嘲笑。

私にとって「他人の視線」は、自分を傷つけるための凶器でしかなかった。

転校初日に勇気を出して訪ねた美術室。

けれど、扉の隙間から見えたのは、完成された「輪」の中で笑い合う部員たちの姿だった。

入部届を握りしめたまま、私の足はすくんだ。


あの中に入る勇気なんて、

今の私には一欠片もない。


結局、届けを出せないまま、私は誰もいないこの図書室を「仮の美術室」に決めた。


私は誰とも関わりたくない。


ただ、この真っ白な紙の上でだけは、

私は自由になれる。


コピックのペン先が紙に触れる。

じわり、と滲むのは、

母が愛したブルースターの青。


五枚の花弁、星の形。この青を描いている時だけは、胸の奥で渦巻く「灰色」が、静かに凪いでいく。


「……あー、まじでかったりぃ」


静寂を切り裂くような声と、

乱暴に椅子を引く音。

跳ね上がる心臓を抑え、

私は前髪をさらに深く下ろした。


斜め前の席に座ったのは、

一人の男子生徒だった。


彼は腕に抱えた数学や英語の教材を、

机の上に「死体」を並べるみたいに無造作に放り出した。


(……誰……?)


整った顔立ちをこれ以上ないほど不機嫌に歪め、

不本意そうに教科書を睨みつける彼に、私は圧倒された。


集中できない。逃げたい。


でも、ここで立ち上がったら

彼と目が合ってしまう。


私は気配を殺し、ただ必死に、

震える手で色を塗り重ねた。


「……すげぇな、これ」


不意に、感嘆の入り混じった独り言がした。

見上げなくてもわかる。彼が、

私の聖域を覗き込んでいる。

体中の血が引いていく。まただ。


不気味な絵を描く「貞子」だと笑われる。


「……な、んですか。勝手に、見ないでください」


私は精一杯の虚勢を吐き捨て、

震える手でスケッチブックを閉じようとした。


早く、別の場所へ。誰もいない、暗い場所へ。


「あ! ちょ、待てって! 勝手に覗いて悪かった!」


慌てた彼が、大きな手を差し出してきた。

私は反射的に身を強ばらせ、椅子をガタガタと鳴らして後ずさる。

その私の怯えきった反応に、彼は一瞬だけ呆然としたが、すぐに気まずそうに手を引っ込めた。


「……ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ。ただ、その……」


彼から飛んできたのは石礫ではなく、

思いもよらない言葉だった。


「今の花……ブルースターだろ?」


動きが、止まった。


……今、なんて言ったの?


私のことなんて、誰も知らないはずなのに。

まして、私の描く花が何かなんて。


「……どうして、それを」


「ん? ああ。……死んだお袋が、好きだった花なんだ。……その影響で、自然と覚えちゃったんだよ」


彼は、少し遠くを見るような目で、

静かに笑った。

屈託のない笑顔。

陽だまりのような、何の裏表もない瞳。


(……同じ……?)


胸の奥に、冷たい水が流れ込んだような感覚。

事故で亡くなった私の母も、

あの庭に咲くブルースターを、一番大切にしていた。


「……ごめんなさい。そうとは知らずに……」


絞り出すような私の謝罪に、

彼は「いいよいいよ、気にしてねぇし」と手を振った。


「ブルースター、久しぶりに見れて嬉しかった。……ありがとうな」


ありがとう。


私に。私の、この絵に。


その時、「おい、あきらー!」と図書室のドアが乱暴に開いた。

部活仲間らしい男子生徒が、彼を呼び立てる。

「おー! 今行く!」と、彼は手付かずの教科書をひっ掴んで立ち上がった。

そして去り際、私の方を向いて、輝くような笑顔で手を振った。


「じゃあ、また明日な!

……俺、お前の描く絵、好きだわ」


嵐のような熱量が去り、

図書室に再び静寂が戻る。


けれど、さっきまでの

冷たい静寂とは違っていた。


『お前の描く絵、好きだわ』


生まれて初めて、私の「内側」を

真っ直ぐに肯定された。


私は呆然と、描きかけの青い花を見つめる。


(……また明日、って……何?)


前髪の隙間から、涙がこぼれそうになるのを堪えて、私は今日、初めて深呼吸をした。

秋の冷たい空気が、少しだけ甘い匂いに変わった気がした。






第二話へ続く___

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