貴族
「おい、そこの人」
不意に声が飛んできて、ひなたは反射的に振り返った。
声の主は、灰色がかった耳と長い尻尾を持つ狼系の獣人だった。周囲の獣人たちよりも明らかに質のいい服を着ていて、その後ろには護衛らしい者たちが控えている。
さっき中心街へ入ったとき、ちらほら見かけた「お金持ち」どころではない。ひと目で立場の高い者だと分かる佇まいだった。
けれど、その瞬間のひなたの意識は、目の前の貴族よりも、さっきまで隣にいたはずのミルシアへ向いていた。
そう、やつがいないのだ……
ついさっきまで、すぐ横でしょんぼりした顔をしていたのに、気づけば影も形もない。ひなたは慌ててあたりを見回した。
すると少し離れた通りの先に、小さな背中が見えた。
丸くカットしたポンポンみたいな尻尾を上下に揺らしながら、ミルシアが全力で走っている。
しかもその走り方が、妙におもしろかった。まるで、誰かに追われて必死なのに、体の丸さのせいで前へ進むたびに少し跳ねてしまう木の実みたいな走り方だ。足音まで、やけに軽い。
ポッポッポッポッ……
必死さのわりに、そこまで速くない。
(あれ?)
(なんか遅くない?)
ひなたがそう思った直後だった。
ボテッ!
ミルシアは見事なくらい派手に転んだ。そのままぺたりと地面に伏せるように倒れ、数秒ほどぴくりとも動かない。
(ころんだ……)
ひなたが思わず目を見開いていると、転がったままのミルシアが、ぽそっと呟いた。
「あ、やべ」
その呟きだけは妙にはっきり聞こえた。次の瞬間、ミルシアはばっと起き上がり、また同じ足音を立てて駆け出す。
ポッポッポッポッ……
そのまま路地へ飛び込み、壁の陰へぴたりと張りつくように隠れた。頭だけ少し出して、こちらの様子をうかがっている。
(なにしてんのあの子……)
ひなたが内心でそうつぶやいたところで、目の前の狼系の貴族が、やや申し訳なさそうに口を開いた。
「すまない、脅かしてしまったかな」
落ち着いた声だった。高圧的というより、相手を驚かせたことを本気で気にしているような言い方に、ひなたは慌てて背筋を伸ばした。
「いえいえ、お気になさらず」
とっさにそう返しつつも、内心では別の意味で混乱している。まさか異世界で、逃げた同行者のフォローをしながら、身分の高そうな狼系獣人に頭を下げることになるとは思わなかった。
貴族はひなたの返答に小さくうなずくと、路地の方をちらりと見た。
「あの子、綺麗な毛並みをしているな」
「ありがとうございます。ついさっき整えたばかりなんです」
答えた瞬間、貴族の目が少しだけ細くなった。
「なるほど」
そして少し残念そうな顔になる。
「褒めようと思っていたのだが、逃げられてしまってな」
ひなたは思わず路地の方を見た。壁の陰から、ミルシアの耳だけがちょこんと見えている。
「少し悲しかった」
真面目な声音でそう付け足され、ひなたは反射的に頭を下げた。
「すみません、すみません。あの子ちょっと臆病で」
そう言ったあとで、ひなたは心の中で叫んだ。
(嘘でしょ、あんなに臆病なんだ!!しらなかったぁぁー!)
おやつ欲しさに知らない屋台へずかずか行き、銅貨一枚でぷんすかし、さっきまであれだけ堂々と歩いていたのに、貴族が相手になるとここまで見事に逃げるらしい。
ミルシアという子の性格が、ひなたの中でまた一段階、わけのわからない形に更新された。
だが貴族の方は、そんなこちらの事情も気にしていない様子で、軽く首を振った。
「いや、構わぬ。気にしないでくれ」
それから、少し改まった調子で名乗る。
「私はヴォルフラムだ」
名前まで名乗られて、ひなたも慌てて姿勢を正した。
「あっ、瀧野ひなたです」
ヴォルフラムはひなたの顔を見てから、もう一度路地の方へ視線を向けた。
「その毛並みはどこの店だ」
「私の店です」
「ほう」
短い返事だったが、その一言にははっきりと興味がにじんでいた。
「見事な毛並みだった。一度行ってみたいものだ」
その言葉に、ひなたは少しだけ息を止めた。ほんの少し前まで、見学料銀貨十枚の店から銅貨しかなくて追い出されていたのだ。そんな自分の店に、目の前の貴族が興味を示している。その落差に、うまく現実感がついてこない。
けれど、名刺の代わりになるものもないこの世界で、店の名前を伝えない手はなかった。
ちょうどそのとき、後ろの護衛が一歩進み出た。
「ヴォルフラム様、そろそろお時間です」
ヴォルフラムはわずかに顎を引き、そのまま歩き出す。
「あ、店は――」
ひなたは慌てて声を張った。
「もふもふカット専門店です!少し通りの離れた場所にありますー!」
ヴォルフラムは振り返らなかった。ただ、歩きながら片手を軽く上げた。それだけで、聞こえたのだと分かる仕草だった。
護衛たちを連れて去っていく後ろ姿を見送ってから、ひなたはふうっと息を吐いた。
するとその直後、遠くの方から妙な音が聞こえてきた。
ぴー、
びゅー、
ぶー、、、
ひなたは眉をひそめて音の方を見る。すると、路地の陰から、おそるおそるミルシアが出てきた。耳をぴくぴくさせながら、歩きつつまた変な音を鳴らす。
「なにそれ、口笛のつもり?」
ひなたが聞くと、ミルシアはちょっとだけ胸を張った。
「そ、そうだけど何なの?」
「さすがに下手すぎるよ」
そう言われても、ミルシアは諦めず、もう一度吹こうとする。
ぴゅー……ぶー
「下手すぎるってば」
ひなたが呆れ半分に言うと、ミルシアは気まずそうに耳を伏せたあと、こそこそと近づいてきた。
「で、どうだった?」
ひなたは少しだけ口元を緩めた。
「毛並み綺麗だって褒めてたよ」
「え?」
「逃げられて悲しかったって」
「ええ!?」
ミルシアの耳がぺたんと寝る。
ひなたはそこで、少しだけからかうように言った。
「ちゃんと話してたら、おやつもらえてたかもね」
「ええぇぇー!!!!?」
ミルシアは本気で惜しそうな声を出したあと、すぐに顔をしかめた。
「それでもやっぱり貴族は怖いの」
「まあ確かに圧はあったよね」
ひなたも苦笑する。ヴォルフラム自身は丁寧だったが、護衛つきの一団と、中心街の空気を背負ったような雰囲気は、たしかに子どもがびびるには十分だった。
その後、二人はそのまま中心街を歩き回った。さっきのやり取りで緊張した空気が少し和らいだのか、今度は純粋に街歩きらしくなる。
道具屋では、櫛や布、よく分からない小瓶が並んでいるのを眺めた。食べ物屋では、香草の匂いがする串焼きを見て、ミルシアが鼻をひくひくさせた。屋台の前を通るたびに、綺麗な毛並みに目を留められ、声をかけられることも多かった。
「おや、かわいい毛並みだね」
そう言っておやつをもらったかと思えば、次の瞬間には近くの子どもにひょいと取られ、「返してー!」とミルシアが泣きそうな声で追いかける。別の店では、「その毛並みなら無料だ」とご飯を出され、ミルシアが目をきらきらさせながら頬張っていた。
気づけば日が傾いていた。
「調査のつもりが、1日遊んじゃったね」
ひなたが笑い混じりに言うと、ミルシアは得意げに言った。
「ほらね、観光したかっただけじゃん」
二人で顔を見合わせ、思わず苦笑する。
帰り道は、行きよりも少し静かだった。夕方の街はやわらかい色に染まり、屋台の明かりがぽつぽつと灯り始めている。
しばらく歩いてから、ミルシアがぼそっと言った。
「……でもやっぱりおやつほしかったの」
「いっぱいもらってたじゃん」
「違うの!」
ミルシアは足を止めるようにして振り向いた。
「貴族からの!」
そこなのか、とひなたは思わず吹き出しそうになる。けれど、言いたいことも少し分かった。特別な相手から褒められて、何かもらえたかもしれない。その機会を自分で全力で捨ててしまったのだから、惜しくもなるだろう。
二人がそんな話をしているうちに、店が見えてきた。
ひなたは少しだけ歩調を緩める。
「街の感じもだいぶわかったね。毛並みで扱いが変わるのも本当だった」
ミルシアもうなずく。
「うん」
「後は、みんなが平等に整えられる場所を作るだけだね」
そう言いながら店の前まで戻ると、ひなたは看板を見上げた。異世界仕様に変わった店の文字が、夕方の光の中で静かに浮かんで見える。
ひなたは小さく息を吸ってから、はっきり言った。
「じゃあ明日から正式オープンだね!」




